第9話 Birthday eve(前)

十月三日

 荷嶋音緒は旅立っていった。見送りに来た正午に向ける笑顔には、かつての残り香を感じさせることは寸分もなかった。
 いつしかようやく、正午は音緒にとって、シンやマグローたちと同じ場所に戻ることが出来たのだ。
「またいつか、会えるといいね。てへ♪」
「音緒ちゃんが開いたカフェの、第一の客になることを夢にする」
 そう言って戯けたのはシン。しかしそれは、決して気休めなどではない、彼らの本心だった。
 搭乗ゲートへ向かいながら、音緒は何度も振り向いた。決して会えぬ訳でもないのに名残惜しむのは、やはり遠く離れてしまうと言う現実を実感するからなのだろう。
 すぐ側にいるのに、もう何年と会っていない友人がいても、寂寥感はないものだが、たとえ半年や一年であっても、そう簡単に往来出来ないほどの地に行く人を思えば、心を覆う切なさはその比ではない。思い、思われる心の較差があるというのならば、きっと互いを隔てる距離もまたその一つなのだと思った。
 そして、シンこと稲穂信も、何度目ともなる修行の旅へと行く。インドシナの仙境国ラオス・ビエンチャン。彼の場合はなぜか引き止めるよりも正反対、諸手を挙げて送り出したい。
「何だよ、泣いて引き止めたりとかはねえの?」
 そんなことを言うシンに、ひと言返す。
「泣いて引き止めて欲しいのか」
「ああ、切ないねえ。日本の人情ってのは」
「ラオスはどうなんだろうか」
「少なくても、お前よりは温かそうな気がするぜ」
「ならば、早く行け」
 そう言い合って笑う。そして雑談も尽きた頃、シンがそっと正午の肩を掴んだ。
「ショーゴ。お前の決意に、変わりはねえんだな」
「…………ああ。それが、一番良いと思った」
 正午の答えに、シンはにやりと笑い、二度三度、正午の両肩を叩く。
「大きくなったなあ、お前も」
「どういう意味だよ」
「言葉通りだよ、ハハッ。……ま、達者で暮らせ。また会おうぜ“友”よ」
「あーあ、早く行け。シッ、シッ!」
 正午に追い払われながら、稲穂信もまた、旅立っていった。

 人同士が出会うこと。同じ視線を向け、笑い、悲しみ、愁えること。仲間が集い、それがさり気なくも平和に思え、掛け替えのないものと思えるのは、いつかそこに訪れる別れというものがあるからなのかも知れない。
 機影が蒼い大気の彼方に見えなくなると、正午は徐に携帯電話を取り出す。そして、心なしか憚っていたアドレスを開く。何日ぶりに、掛けただろう。
(も……もしもし……ショーゴ?)
 久しぶりに聴く声は、不安と消沈が吹きつけているかのように小さく思えた。
「仕事、忙しそうだね。元気なら、それで良いんだけど」
(うん――――、ごめんねショーゴ。なかなか連絡、出来なくて)
「構わないよ。……それよりもカナタ、ひとつだけ頼みがあるんだ。加賀正午、一世一代の願い」
(え――――どうしたの、急に)
「二十七日、俺のために時間を作って欲しいんだ」
(に、二十七日って――――平日じゃない)
「わかってる」
(私は――――うーんと……)
「カナタ。お願いだ。この日じゃなきゃ、ダメだから……」
(…………)
 カナタはしばらく言葉を呑み、思いを巡らせた。しかし、それ以前に、正午がこうまで何かを強く求める事は珍しいことだった。
(わかったわ。夏原さんに言って、その日はオフにしてもらうようにするから――――)
「カナタ」
(? ……なに、ショーゴ。どうしたの)
「君は、やっぱり……強いな――――」
(…………!?)
「連絡を取らなくて、ゴメン。……全ては、その日に話すから――――」
(…………ウン…………)
 言葉は少なかった。多くの言葉を思い描きながらそれを呑み込む。
 電話越しではない、直接交わし合う言葉でだけ伝わる想いを信じていた。

 数日後、正午は那由多の知己である宝飾店を訪ねていた。そして、川原で買ったガラス玉を提示する。
「これを――――ネックレスにしてもらえますか」
「かしこまりました。…では、どの様な形に致しましょう――――」
 店員の示す条件と希望。しかし正午はただ一つだけを示した。
“派手ではなく、永く身につけられるようなもの”
 芸術に素晴らしい卓眼を持つ那由多が推すのだから、決して期待は裏切らないと、正午は確信していた。
「では、十日ほどお時間を頂くことになりますが、よろしいでしょうか」
 十日後は二十六日だ。
「お願いします」
「承りました」
 店を出てから正午の胸が無意識に高鳴り、息苦しさを感じて深呼吸をした。

 十月は一年の中でも最も愁雲際立ち、また一番優しさを感じる月ではないだろうか。
 夏が終わり、冬を迎えるまでの小休止。冬から春を待つ直向きな早春とは違う、十月という一つの月が独立した世界を創り上げるのだ。
『重ねて訊ねるぞ。それで、後悔はないのだな?』
「はい――――」
『君の恋人――――黒須教授の娘さんには……』
「俺から、直接伝えます」
『わかった。改めて訊くまでもなかったな』
 十月二十八日は、掛け替えのない日。言うまでもない、カナタの誕生日だ。

 カナタとの連絡は相も変わらず覚束無い。まるで図られているかのようにカナタは忙しく駆け回っているようだった。メディアに見る彼女の姿は、毎日のように新しい表情やポーズに溢れている。米進出の話はどうなったのか。テンチョーの弟とのことはどうなったのか。気にならないと言えば嘘になる。
 しかし、それも含めて皆、彼女の誕生日前日に話そうと思った。

十月二十六日

 昼過ぎに宝飾店から電話が入った。
 正午はゆっくりとした足取りで店に向かう。普段と変わらぬ街並み。愛する者を想えばこそ、優しい日々。
「加賀様、こちらになりますが……」
 おそるおそると店員が差し出した細長いネックレスケース。
「……あ、これは……!」
 正午がゆっくりと蓋を開けた瞬間、眩い輝きが正午の瞳を突き、視界を昏くさせた。そして、色が戻り、完成された宝物を見た正午は、柄にもなく感嘆の声を上げる。
 古代倭国に雰囲気が重なる、髑髏ならぬ巻き貝を連ねたチェーン、その先に革紐でしっかりと巻き付けられた、宝石状に加工されたガラス玉。不思議にも光を通すと青みがかって見える。
「いかがでございましょう。お気に召して頂けると、幸いでございますが――――」
「…………」
 店員の言葉も耳に届かない様子で、正午はネックレスに魅入っていた。
 さすが那由多が推薦するだけの店である。正午の課したノルマを漏れなく達成し、余裕の趣向まで誂えている。
「十分です。どうも、ありがとうございます」
 正午が笑顔を見せると、店員は安堵のため息をつき、笑顔を見せた。
「加賀様のために、当店オリジナルのデザインを施しましたので、お気に召して頂き、本当に嬉しく思います」
「オリジナル……俺のためにですか」
「北原様からもきつく申しつけられておりましたので」
「北原……なゆから?」
「はい。加賀様からのご用命には、決してテンプレートを使わないようにと」
「たは――――っ。気を遣ってもらってありがとうございます」
 正午はまた、那由多にも敵わないと思い知らされたような気がした。そして、この店の事情も、深く追及してはいけないような気がして、一瞬身震いをしてしまった。
 代金の支払いを済ませ、店を出る。プレゼント用に包装されたケースを眺め、思いを廻らす。
(考えてみりゃ、俺って甲斐性ねーよな……はー……)
 カナタは今や知らぬ人ぞなきトップタレント。正午は将来の道を模索し続けている大学生。自ずと食い扶持に与る身はわかる。
 カナタは金銭の価値に関しては無頓着な性格だ。だが、正午自身、やはり男として多少は見栄を張りたい思いはある。 だが時を得て糧を得ず。今の正午ではやはり如何ともし難いものがあった。
 その時、正午のケータイが鳴った。カナタ専用の着信画面。
 こう言う時、お決まりなのは急用が入って明日がダメになったということ。或いは、会うのは構わないが、夜遅くになってしまうと言うこと。いずれにしても、正午は会わなくてはならなかった。会って、話をしなければならなかった。

『明日、朝にキミの家に行く。インタフォン三回まで。寝てたら帰る』

 恋愛の神はそのようなお誂え向きの試練は与えなかった。むしろ、いつもの風、いつもの彼女らしさのままの言葉が、画面の文字に溢れていた。

『8時には寝ることにしよう』

 そう返すと、すぐさまひと言、『ムリ、あははは』と返ってきた。正午はやっと安心した。

十月二十七日

 夜明けが随分と遅くなった気がした。人間、強く念じながら眠りに就くと、目覚まし時計よりも正確に目が覚めることがある。
 瞼を大きく見開いた時、窓は淡紺色を映し、部屋を真っ暗から、薄暗さに変えていた。
 目覚まし時計は五時半を指していた。
「たはぁ……本当に五時半に起きられるんだ」
 かすれ声で瞼を擦る正午。昨夜は八時とはさすがに極端だったが、十一時には寝た。眠かったが、二度寝をする気にはならなかった。自身でもよくわかる緊張感が、正午の眠気を瞬く間に払拭させたのだ。
 完全に明るくならないうちから朝支度をすると言うのも、実に不思議な感覚だった。まるでその一つ一つの瞬間が未知との遭遇、何もかも新しい出来事のように思えてならない。
 カナタとの日々の中で、朝帰りなどはさほど珍しくもなかったが、いつも気怠い気を纏いながら、情事の余韻を冷ます晨風も、独り寝を覚ます新鮮で旨かった。
 窓を開け、背伸びをする。川のせせらぎ、新聞配達や、牛乳配達の自転車、遠い公路を走る車の音もはっきりと聞こえてくる。いつもは気づかないままに過ぎていた早朝の景色。何故かそこはかとなく愛おしい。
 早暁・グレイ色の空。陽も高くなれば、いつしか澄みきった蒼い空になる。その天象の過程を、正午は見つめていた。
 移り変わる空の色、東天を焼く朝陽。
 濁りのない澄みきった朝の気に、靴の音もまた、良く響く。
 正午が段々と近づいてくる靴音の方に振り向く。そして、呆れ半分、驚き半分と言った、複雑な表情で、てくてくと歩いてくるその人物を見下ろしていた。
「カナタ……早い」
 ぴたりと足を止め、見上げたカナタが正午の姿に愕然となる。
「わっ、ショーゴ。どうしたの。病気? なんで? もしかして不眠症? ここひと月睡眠時間三時間保たなかった? 精神疾患、自律神経失調症、胃ガン、肺ガン、脳梗塞? ……ヤバイの?」
「――――生きている方が不思議だぜ。朝から絶好調ですね、カナタさん」
「そう? いやぁ――――はっはっはっは」
 何となく、気が晴れた。

「もしかして、こんな朝早くから待つつもりだったとか」
 正午の淹れたコーヒーを一口含みながらカナタは呆れたように答える。
「君、時間指定してなかったでしょ。…本来ならそんな曖昧な約束は則失効。分刻みの予定をこなす芸能界をナメルナヨ」
「あ、しまった」
 正午の鼻頭を人差し指で突くカナタ。正午は真っ青になった。
「昨夜帰ったの、一時過ぎてた。あ、昨夜通り越して、今日だね」
 やや鼻息を荒くするカナタ。
「もしかして、寝てない?」
「寝てないよ。だってオフの日は夕方までぐうぐう寝てるもん」
 そうか。急に今日を休みにしたから、その分、昨日に今日の分の一部の仕事をこなしたんだ。
「ショーゴのわがままのせいで、黒須カナタ、今日一日お肌を犠牲にします!」
 警官の如き敬礼のポーズを取りながら宣誓し、やがてくすくすと笑い出す。
 正午は眼を細めた。早起きは三文の得という諺の意味を、ようやく実感したような気がした。
 カナタと、一分も長い時を過ごすことが出来ること。カナタが自分と早く会いたいという思い、そんな愛情を実感出来ること。そして、自分も彼女の想いに共鳴して、偶然にも目覚めを早くし、カナタを迎えられたという奇跡。
「明日は、ぼろぼろだな」
 正午がそう言って笑うと、カナタは悲愴な表情を浮かべ、文字通り頭を抱える。
「ま、いっか。寝不足クマくんの黒須カナタもこれまた一興」
「君の支持者10万を離叛させてしまうぞ」
「その損失分、ショーゴに補填してもらおう」
「くくっ……」
 この会話の手応えが心地よかった。
 カナタとの日々の中で、他愛もない陳腐な言葉のやり取りが、こんなにも愛おしく、幸福を実感できる時であったなど、気づきもしなかった。
 そして、間近に見る恋人の素顔。飾り気のない、きっと両親にも見せたことのない、好きな人へだけ見せる表情の片鱗。
「カナタ。キス……してもいい?」
「な……」
 言いながら断る島も与えず重なる唇。僅かに、互いの舌が久しぶりの挨拶を交わす。何とも言えぬ甘美な味。
「……ショーゴのエロオヤジ。端からこれが目的?」
 責めまくるような視線が正午を鋭く漏らさず突き刺している。
「当たり前……って言ったらどうするの?」
「帰る。……帰って寝る。夜までぐっすり寝るよ」
 カナタの言葉に、正午は自嘲するかのように肩を震わせる。
「キスくらいしないと……忘れてしまいそうだから――――よそよそしく……なってしまう」
 正午の言葉に、カナタはぴたりを身動ぎを止めた。
「キス……だけ?」
 カナタはいつものように、抜群のプロポーションをひけらかす服装だった。脱がすのに苦労はない。
「君に……カナタに伝えたいことがあるから……。今は、それだけでいいよ」
「…………」
 カナタは小さく頷いた。

 街が始動する。三百六十五日の中の何でもない一日。それでも、世界は確実に始動し、活動を終える。その繰り返しなのだ。そんな何気ない瞬間を、特別なものに変えることが出来るのは、人間……男女が織り成す、世界でただ一つの特権。
「じゃ、行こう」
 不意に正午がそう言って立ち上がる。
「え……どこに?」
「――――海――――」

 素っ気ない。拈りも何もない。久しぶりのデートをするならもっと気の利いた場所を選ぶべきだろう。それは、事前計画のない、思いつき。七里浜は、正午とカナタが、再び今を、未来に向かって歩き始めたきっかけの場所だ。眩いばかりのカナタの水着姿が、正午の脳裏に焼き付いて離れない。
 しかし、今はもう十月も終わりだ。
 シーズン前だったあの頃とは違う。風も冷たく寂寥とした海岸に、カナタの水着姿は不相応な風景。
 カナタは頷いた。正午のために取った、休日。心の奥底、カナタは正直、『死ね』と言われる以外ならば、何でも正午の冀望に応える覚悟は出来ていた。鬼畜のような行為を求められても、ありのまま受け容れたい。カナタは、正午のストレートな想いを求めていた。

 空いているシカ電。トップタレントが、かつて噂にもなった梅内洋介に遠く及ばぬ冴えない一般貧乏大学生とロマンスを演じるなど思いもせずか、誰も正午の側にいる美女が黒須カナタだとは気づくはずもなく、猩々蠅の如きパパラッチの死角を突くには十分だった。
 深秋を控えた砂浜。一部のサーファーたちの遠影を除けば、無人の海。トラ・エ・モアの曲よろしく、そこは二人を静かに迎えてくれた。
「秋の海ってのも、なかなか乙ね」
 濃紺の沖合に燦めく白の波飛沫を眺めながら、カナタが感心する。
 打ち寄せる冷たい汐に踝を濡らし、はしゃぐ少女。それを愛おしげに見つめている少年……。そんな旧時代の構図ではない。そっと指を絡めて、恋人はあからさまに密着しない程度に並び、延々たる砂浜を、ゆっくりとした足取りで辿る。
 カナタは何も訊ねようとはしない。阿吽の呼吸というのは語弊がある。だが、正午が話の端緒を開くと言うことは、互いに理解し合っていたのだ。
「カナタ、俺さ――――――――」
 言いかけた言葉にも、足を止めない。
「…………」
 無言で聴覚を正午に傾けるカナタ。そして、正午はあまりにもあっさりとした様子で、告げた。

 ――――ルーマニアに、行くよ――――

 ――――――――うん――――――――

 カナタも、淡々とした様子で、頷いた。