“君だったら、きっとそう言うと思ってたよ――――”
横顔、その小振りな頬を隠すほどの髪越しに、カナタは微笑んでいた。
「俺……」
言いかけた正午の前に回り込み、カナタはいきなりその両肩を強く叩く。ぱんっという疳高い音が海岸に吸い込まれてゆく。かたや愕然となる正午。呆けている正午の顔ぎりぎりに近づき、その瞳を直に睨みつけるカナタ。
「私のため――――とか言って、行くのやめた……なんて言ったもんでから、絶交するトコロだったよ。命拾いしたな、ショーゴ」
「そんなんじゃ……」
戯けるカナタの真意、わからいでか。
両肩に置かれた、カナタの細い掌。正午はそっと手を重ね、握りしめる。
「いつから……決めていたの?」
力なく、カナタの掌は握りしめられていた。僅かに項垂れた顔が、彼女の堪えきれず溢れる想いを見る。
それ以上、歩くのも疲れた。二人はその場に腰を下ろす。
打ち寄せる漣、単調に聴こえる海の息吹。
「……多分、この話を聞いた時から――――心の奥では決まっていたのかも知れない」
まるで細微な朿が取れたかのように、心が軽くなったのは隠しようもない事実だった。迷いの原因は、あまりにも見え透いていた。
「きっかけは……私――――なんだよね」
「違う――――と言えば、きっと嘘になる。でも、自分なりに答えを出せたのは、不謹慎だけど……カナタ、君のおかげなんだ」
「……お役に立てて嬉しいと思います」
戯けようとするカナタの髪を、人差し指と中指で軽く梳く正午。すぐに、カナタが素に戻る。
「今まで伝えられなかったこと――――ごめん……」
すると、カナタの指がすっと伸び、正午の唇に触れた。そして、優しげに首を横に振る。
「ショーゴの気持ちは解ってる。……やっぱり、君は優しいんだね――――」
心変わりを危惧した。正午はそれを話すことで、互いの裡なる決意が乱れることを許さなかった。
「嬉しい表情も、悲しい表情も……避けられないと思った。弱いんだな――――たはっ――――」
その瞬間、僅かに見せた正午の素顔を、カナタは見逃さなかった。
そして、ゆっくりと細く長い両の腕を、恋人の背中に廻す。
「よく、ひとりで決意したな。えらいぞショーゴ。ほめてつかわす」
カナタに及ぼす何かの影響も、今は空振りの様相だ。
「……カナタ」
「ん?」
「……君だったら――――」
言いかけて、正午は言葉を呑み込んだ。思わず裡から言葉が溢れかけ、瑣末な問いかけとばかりに、言葉が粉々になった。
「…………」
カナタは問い質そうとはしなかった。全ては、信頼し合える関係だけに与えられる、阿吽の会話。
「私は神でも仏でも……超能力者でもない。ショーゴと同じ、ヒトだよ。……だからきっと、思うことは一緒――――」
そう言った。
砂浜に延々と足跡を刻みながら、互いの息遣いを聴き、言葉のタイミングを計っている。
やがて、一瞬の歩幅のゆるみを捉えて、正午が口を開いた。
「カナタは、どう――――? 君の決意を聞かせて欲しい」
その言葉に、カナタは僅かに瞳を伏せ気味にして微笑んだ。
「ショーゴは、どう思ってるの?」
勿体つける。それもカナタの一面だ。謎解きのように迷い、答える。当たればつまらないとばかりに眉を顰め、外れればしてやったりとばかりに笑うのだ。
「カナタのことだから、やっぱ行くんだろ、アメリカ。……テンチョーのことは、不思議と気が楽に思う」
するとカナタは僅かに肩を震わせて笑った。
「ホントーにショーゴって、私のことなんだと思ってるんだか。へこむことを知らない鉄の心臓持ち、面の皮が厚い、チョトツモーシン女だとでも?」
目が点になる正午。
「あれ、もしかしてフライング……。たはっ、また余計なこと言ったかな、俺……」
カナタに対しては妙に気遣う面がある。それは言わずもがな、カナタを不機嫌にさせると、後に尾を引くからだ。とにもかくにも、禍根を残したまま発つのは気が引けた。
しかし、カナタは実に神妙な面持ちで正午の答えに返す。
「そうありたかった。……でもね、ショーゴ。不正解」
「え――――――――」
正午は思わず息を止めた。振り向いた時、カナタは微笑みを絶やしてはいなかった。
「私は行かないよ」
一瞬、正午は耳を疑った。しかし、カナタははっきりとした声で、もう一度言った。
「アメリカには、行かない」
それで、カナタの決意が解った。
「――――やっぱり、テンチョーの……」
落胆を滲ませた口調で、正午が言いかけると、カナタはゆっくりとそれを否定した。
「そのことで、君にも話しておきたいことがあるの。残念だけど、行かないのは田中健次郎さんのせいではないし、“田中”のせいでもないわ」
正午が耳を傾けるのを待ち、カナタはゆっくりと話し始めた。
その日、事務所に訪れた客人は弁護士の町瀬孝三。田中健次郎の民事訴訟を担当する人物だった。
夏原は当然、緊張に満ちた面持ちでカナタを伴い面会に臨んだ。田中健次郎本人ではない、代理人だから差し障りがないと言うこと、寧ろ、訴状について端的に知っておいた方が良いという計らいもあったのだ。
しかし、町瀬はいわば被告へ宣戦布告をするにしては、あまりにも穏やかな様相で語りかけてくる。しかし、互いに胸襟を開いて和やかに茶飲み話でもない関係だ。夏原はそこそこの雑談も切り上げて、本題を突く。
「カナタへの訴訟、我々としても厳粛に受けとめております」
すると町瀬は、夏原とカナタを見廻し、長い間を開けてから小さく笑った。
「ご心労をお掛けしたようですね」
「……?」
きょとんとする二人に、町瀬は鞄から数種の書類を取り出し、前に広げた。
「田中健次郎氏より、今回の訴訟を取り下げる旨、お伝えに参りました。これが和解示談書です」
「な……なんですって」
愕然となり、慌てて形式張った書類に目を通す夏原。カナタは一瞬唖然として目を見開いた後再び伏し目がちになる。
一通り書類に目を通した夏原。合点がいかない様子で町瀬に問う。
「和解とは渡りに船ですが、なぜこの時に……」
すると町瀬は徐に鞄の中から一冊のノートを取り出した。使い込まれているのだろうか、ずいぶんと廃れている。
「健次郎氏よりお預かりした、田中一太郎さんの雑記帳です。黒須カナタさんにお渡しするようにと託かって参りましたので、お渡し致します」
「……!」
差し出された“テンチョーの日記”を、カナタはまるでこわれ物でも扱うかのように懇切丁寧に受け取る。
「一太郎さんが最後に記したページを、見て欲しいとのことです」
カナタはゆっくりとノートを開く。手書きのそれは、筆圧に歪み、ところどころがさついていた。テンチョーの証を、そんなところに感じてしまう。不思議な感覚だった。
日記は普段のテンチョーらしい煩雑な文字。簡単に言えば、汚い文字だ。筆跡を辿れば、その日の喜怒哀楽をつぶさに感じることが出来る。
その日の出来事、月旦評、雑感、スケジュール……気の向くまま、誰に見せるわけでもないダイアリー。ありのままのテンチョーの姿。
「…………」
その日付は忘れもしない、『あの日』の前日。
テンチョーは比較的綺麗な文字で、淡々とその日の出来事を綴り、雑感を書きつづっていた。いつものようにCubic
cafeの無頼漢たちの他愛もない色恋話。音緒との有意義な確執。変わらない、いつもの楽しい日常だった。
しかし、ただひとつ違っていた点があった。
右半分から真っ白なページが続く、その最後の左半分。ページ越しに、その日の日記は続いていた。
《何となく、風が違う気がする。たまにはこんなざわめきも心地良いものだ。
そう言えば、カナタと気ままな小旅行なんて、今考えてみると滑稽だ。
そう…あれはたとえるならきっと、伝説の鳳凰だ。
今はまだこの町という巣を恋する子雛だろうが、いずれ世界を翔けまわる……いや、言い過ぎか。でもアメリカで活躍できるくらいの器量があるとみていた。
そんな大才が、小さな喫茶店のマスターと日帰り旅行ときたもんだ。スケールに合わないね。笑っちゃうしかない――――》
カナタは何故か、胸の奥がぐっと熱くなるのを感じていた。
《カナタ。黒須カナタ。kanata Kurosu……。貴女は大きくなれ。青年の熱い風を羽に受けて、小さな巣を飛び出し、籠を破って天空に翔ろ! 他人のやっかみは風の塵。いつか俺はきっと、Cubicのラジオから大世界を翔けめぐる貴女の武勇伝を聴いているんだろう。そして……》
――――俺は、大きくなってゆく妹を、生温かく見守る冴えない兄であれ――――
カナタの瞳から、無意識にこぼれ落ちてゆく涙。
そう、テンチョー……『田中』は、いつだって自分にとって“さえない”兄のような存在だった。そんな彼だから、好きだった。
照れくさそうな文字で終わる、テンチョー最後の肉筆。沸々と、カナタの胃が沸きだし、悲痛の思いに反芻しそうになった。
「ご、ごめんなさい……」
カナタはノートをぎゅっと抱きしめたまま、大慌てでトイレに駆け込む。流し台に僅かに胃液を吐き、蛇口を大きく開く。水はまるで滝のように轟音を響かせた。
カナタの瞳から止めどなく落ちる涙。鼻の奥が熱くなり、激しく痛かった。
「うっ……うぇ……えぐっ……」
改めて、テンチョーという存在の大きさが、カナタの身にのしかかり、思い知らされる。
息が苦しくなった。激しく、誰憚ることなく、泣きたかった。
しばらくして、カナタは席に戻る。様子を察して、誰もが気遣ってくれていた。
「実は、今回の訴訟、健次郎氏のご意志と言うよりも、一太郎さんの御両親や親族の方のご意向が強かったみたいですね」
「…………」
誰の意志であろうとも、カナタを恨む気持ちはわかる。恨み、憎むなと言う方が無理というものだ。
「健次郎氏は、一太郎さんが亡くなった直後に、その日記を読まれたのでしょう。……日記から伝わる、カナタさんへの想いと、まるで遺言のような文言……胸打たれるものがあったと、仰有っておりました」
町瀬の言葉に、誰もがしんとなる。いつしか、事務所の喧噪も止み、誰もが三人の会話に耳を傾けていた。
「逸る御両親を説得して、健次郎氏が今回の訴訟の原告となられたのには、理由があるのですよ」
「理由……ですか」
それは、今だから言えることだった。
……健次郎氏は、最初から和解するつもりだったのです――――
「え――――――――」
驚いたのは、夏原だった。町瀬は涼しい微笑みを浮かべて頷く。
「御両親が原告となると、きっと黒須さんを徹底的に追いつめてしまうことになるかも知れない。しかし、それは言い換えれば、一太郎さんのご遺志に背くことになる。……そう、何よりも大切な存在だった、黒須カナタさんの、未来を閉ざしてしまうことになるだろうと……」
カナタは思わず声を荒げた。
「私は……私は“田中”……一太郎さんを殺したんです! それは……それは紛れもない事実……なの」
町瀬は答える。
……事実を伝えるだけの弁護士である私がこう言うのも何ですが――――。カナタさん。……あなたは道義上から見れば、確かに一太郎さんを“殺した”のかも知れません。
あなたの起こした事故は、法的に殺人ではありません。
ですが、道義的な殺人は法的な殺人よりも、加害者・被害者共に激しい苦しみを生むものです。
しかし、考えてみて下さい。
それを、どの様な理由やきっかけがあるにせよ、『赦す』ことは容易ならない決意と精神力が必要ではないでしょうか。
「……!」
「健次郎氏とて、心の奥では、きっとあなたを憎んでいることでしょう。……それを、お兄さんの『遺志』と、『生き方』を尊重して、あなたを“赦す”決断をされた。あなたに贖罪の気持ちがあるならば、この和解、心の底から受け容れ、改めて謝罪するべきではないのですか」
「…………」
カナタはきゅっと瞳を閉じていた。夏原は竦めるカナタの肩をそっと抱く。
「我々の存念、察してもらえれば嬉しく思います」
町瀬の言葉に、皆絶句したままだった。
普通一般論に考えれば、厄介な問題が自動的に片づいた。実に棚ぼた的。ほっとするだろうし、喜ばしいこと。相手方には素直に感謝するだろう。
事務所の誰もが、夏原とカナタの言葉に注目していた。
「町瀬弁護士――――我々としては……」
言いかけた夏原を遮り、毅然とした表情に戻ったカナタが、町瀬に向いた。そして……。
(私はまだまだ、やりたいことがあるんよ)
(君にもまだ宿題があったのか。驚きだね)
(あ、バカにしたな“田中”のくせに。いい? 私は絶対、《ヒノモト》一の芸能人になって、アンタのその鼻っ柱、へし折ってやる)
(あははは。頑張ってー。うん、イイかもそれ。君なら、叶う。絶対イケるよその野望)
(…………)
(その時になったら、色紙一枚くらい描いて欲しいね。うちの店の看板になるから――――)
(ぅう……そ、それと! アンタが歯ぎしりするくらいのいい男、見せつけてやる)
(おーお、ショーゴ君なら大歓迎だ。いつでも見せつけてくれよ、はっはっは)
テンチョーはいつでも素直な気持ちを伝えていた。嫌味など全くない。謹厳で廉直というキャラではないのに、彼の言葉のひとつひとつが、本心であると言うことを、正午もカナタもシンも音緒も理解っていた。だから、誰もが皆、テンチョーを愛し、慕っていたのだ。
「私はまだまだ、“田中”の期待には応えられそうにないなあ」
「カナタ……」
澄みきった表情で空を仰ぐカナタの横顔。
「ねえ、ショーゴ。……今の私たちって……、“田中”から見ればなんて思うのかな」
不意にそんなことを訊ねてくる。
「私たち、少しは成長したのかな――――?」
「…………」
天国のテンチョーが、果たしてカナタの問いかけに答えることはなく、沈黙が包んだ。静かな波の音が、気を紛らわす。いつしか、空は薄い紅色に染まり始めていた。気づかないうちに、時は流れていた。
「カナタ」
自然に、正午はカナタの名を呼んでいた。
「なに、ショーゴ」
普通に、足を止め、振り向く。
「こっちを向いて、カナタ」
正面を向くように促す正午。一瞬、訝しがったカナタだったが、正午の雰囲気に押され、従う。
正午はジャケットのポケットをまさぐり、それをゆっくりと手に取る。
宝石の形が薄紅の陽光を蓄え、煌めいた。
「ショーゴ……?」
それを目にして、愕然となるカナタ。
正午は小さく頷くと、ゆっくりとカナタの細い首筋に両手を廻し、ゆっくりと離した。作り立てのネックレスが、黒須カナタの首もとを飾る。
「…………」
驚きのあまり、声を失ったままのカナタ。正午は爪先から頭の先まで、恋人の姿を見廻すと、大きく目を瞠ったままのカナタの瞳を真っ直ぐに見つめて、微笑んだ。
「ハッピー、バースディ――――――――イブ トゥ……カナタ。とっても、よく似合ってる――――」
波の音が、一際大きく響いた。
我ながら不似合いなシチュエーション。しかし、正午は堪えられた。それが、今どんなものよりも、望み、伝え、叶えたい気持ちであったからだ。
「ショー……ゴ……? これって――――」
嬉しさを通り越して、カナタはそんなことを口にしていた。
正午はひとつ深呼吸をすると、誂えたガラス玉の宝石を見つめて、言う。
「今は、あの日と同じ。これが精いっぱい……。でも、俺は今日を新しい日にしたい。君の誕生日前夜に、俺の気持ちを伝えて……。今日までの君との想い出と、今日から始まる俺たちの日々を確かめてから、行きたいと思ったんだ」
「…………」
カナタはそっと、中指を胸元のガラス玉に触れる。
「帰ってくる時は、きっと、本当の……」
正午の言葉を遮って、カナタが下がり目気味に正午を見る。
「重いよ、これ――――」
「うっ……」
ガラス玉だ。仕方がない。
「たはっ……所詮は安物だし。甲斐性無しの貧乏学生ゆえに……とは言い訳みっともない。だから――――」
その刹那。ふわりと、正午をいい匂いが包み込む。しなやかな恋人の腕が首を絡め、その唇を得も知れない極上の感触が包み込む。そして、視点が定まると、愛おしそうに頬を染め、いたずらっぽくはにかむ恋人の美しい貌が、自分だけを見つめ、身をぴたりと寄せている。
「重いよ……。ショーゴが、ずっと、ずっと私のことを抱いていてくれるみたい……」
「……カナタ……?」
正午が見つめると、カナタは小さく瞳を伏せて頷いた。
「ありがと――――ショーゴ。放さないよ。これは……これはショーゴの分身でしょ? ずっと……ずっと私の傍にいてくれてる証だと思っても、いいよね」
正午は返事代わりに、カナタの髪に指を絡める。
「そっか。分身って、君らしいよ」
「なに。不満? ダメ? いけてない?」
正午を見上げるカナタ。その瞳が突き刺さる。正午は苦笑しながら首を横に振った。
「違うよ。……カナタ。そうじゃない。嬉しいよ。――――今までは、君の誕生日に、ありふれた恋人たちのように、君の喜ぶことを探し続けてきた。でも、今年だけは、君のバースデイイブという今日に、君への想いを確かめておきたかった……」
今までじゃない、新しい加賀正午と、黒須カナタの出発――――
今日の服で、君と明日も過ごしたい……。
明日は一年の中で、最も大切な日だから――――そして、二人の新しい出発だから……。
「ショーゴは……寂しくない?」
濃紺に埋もれてゆく大空、その水平からゆっくりと月が昇る。静寂の海に、皎く淡き輝きが照らす。
「カナタの表情や声に触れることが出来なくなるのは寂しいよそりゃ。……でも、釣り合えるくらい、安心できる気がする」
「ほぉ――――?」
「カナタのことを愛してるって、確信できるから。遠くても、不思議と不安はないんだ」
「わからないよ。遠恋なんて、破れるジンクスがあるんだから」
すると正午はすかさず返す。
「ジンクスを破れるジンクスが、俺たちにはありそうだし」
するとカナタは嬉しそうにはにかんだ。
「言うようになったね、ショーゴ君。うんうん、かなり成長したな。センセイはウレシイよ」
「それもこれも、良いご指導の賜物ですな」
こんなノリだった。それが、根本の二人だった。誰と無く見つめ合い、笑い合う。
「カナタは、頑張れ。君のままで。ありのままで」
「あはは、ちょっとキザだよショーゴ。……でも、ウレシイよ。そう言ってくれて……」
風は冷たい。抜群のスタイルを見せつける服を好むカナタにとって、盛秋の夜の海風はさすがに応える。ぴたりと、正午に寄り添う。恋人の温もりが、一段と愛おしく感じる。心が、やけに昂ぶる。
「行くんだよね……ショーゴ――――」
言いたくはなくても、やはり、言葉にしてしまう。自分の浅ましさを実感する。
正午は小さく笑うと、カナタの肩をぎゅっと抱きしめ、言った。
「『ハレーを、カナタ。君と二人で見よう』って約束。たはっ。なんて言うかな。すっげえ、スケールがでかくてさ。すごく、その約束果たせそうな気がする」
「…………」
「明日とか、土曜日とか、次の休みとか……そんな約束って、絶対的っては言えないよね。急用が入ったりとか、病気や事故に遭う可能性だってある。近い約束なんて、言葉を換えれば、不確かで脆いものだと思う。……でもさ、遠い未来への約束って、漠然としているけど、それに向かって安心して突き進める。絶対、果たせるって、不思議なんだけど、そう思うんだ」
「ショーゴと、ハレー彗星……ろくじゅう年後……おじいちゃんに、おばあちゃん……」
「約束しよう。決して、破れることのない、遠い日の約束……」
「ショーゴって……すごいよ」
二人は見つめ合って、指切りを交わす。そんな子供じみた行為が、そこはかとなく眩い。
「ねえショーゴ……しばらく、逢えないんでしょ。だから……」
カナタの瞳が潤んでいた。誰もいない夜半の海辺。身を寄せ合う二人だけが、ほんのりと熱かった。
「ここじゃ……」
「いいの。歩く時間が惜しいから……」
「…………わかった」
正午が仰向けになり、天を仰いだ。天頂の東寄りに、昴が見えた。星空はすでに冬の気配。
正午だけに向けられるカナタの温もりと声が、秋の夜半、波寄せる海辺に熔けてゆく。全ての愛と絆が一つになる、至福の瞬間。
迫り来る時が、いつになく二人を大きくうねらせていた。
カナタは仕事に向かった。
“ハッピー・バースディ”
恋人が必ず唱う言葉を手向けた正午は、微笑みを絶やさず、恋人を見送った。
「よし……」
いつになく片づいた部屋。正午の傍らには大きくないボストンバッグ。見慣れた部屋も、何故か全てが眩く見える。
「元気でな、オマエら」
語りかけるようにそう呟くと、正午はバッグの取っ手を強く握りしめた。
見送りはしなくて良いと皆に伝えていた。特にかさばるような必要なものは、後から両親に輸送してもらう手はずになっていた。
仰々しい見送りは性に合わない。大体、一生向こうにいるわけではないからだ。いずれは帰ってくる町。いつものようにして欲しかった。
空港のターミナルには両親がいた。気をつけろ、祥彦おじさんに迷惑を掛けるな、しっかり勉強しろ。土産をよろしくは余計だろう。
パリ行きのアナウンスが流れる。搭乗ゲートへ向かう正午はその時、シンの気持ちが少しだけ解るような気がした。母国を離れるという実感が、その一歩、一歩にあるということを。
ドラマなどでは良くある。この場に突然、恋人がやって来て愛を叫び、主人公と相手役が結ばれる。ベタベタのハッピーエンドだ。
しかし、そんなお誂え向きの展開は待っていなかった。無味乾燥なほどに粛々と手続きを済ませて、正午は飛行機に乗る。
正午は、カナタへの想い、カナタへの期待を胸に秘めていた。だから、何も特別なものを得る必要はなかったのだ。
二人が愛しあっていると言う事実。そんなことが、何よりの強さになり得た。
それがあれば、この町と、ルーマニアという遙遠の隔たりも、普通に慣れた。
休憩時間。カナタは撮影所の窓から空を見上げた。機影が見えた。恋人・加賀正午の優しい容姿を乗せて、それは空の彼方へと消えて行った。
「カナタさーん、そろそろ入りますー」
「あ、はーい!」
紙コップを握りつぶし、くずかごに放ると、カナタは仕事場へと戻っていった。
どんなに離れていても、空だけはつながっている。
同じ空の下で、息づいている
そんな恋から、始まったんだよな――――
テーブルに置かれた古ぼけたノートがめくれ、そのページには、手書きの雑な字で、そう書かれていた。