――――約束です。可憐、楽しみだな……。
「はぁ――――」
見慣れた玄関の前で、僕は軽くため息をついた。真っ暗で、冷たい部屋。
間近に迫る春。その頃が一番冷える。季節も、心もだ。
靴を脱ぐと同時に電気のスイッチを入れる。その動作はほぼ条件反射だ。
何げに鞄を乱暴にベッドに放り投げる。
ぼすっ……
しかし、痛くも痒くもないとばかりに、寝起きのままの乱れた寝具に草臥れた鞄が柔らかく包み込まれた。
エアコンを入れ、テレビをつける。コンビニの袋をテーブルに置くと、窮屈なネクタイをぎりぎりと解いた。
『最大手の○×グループが今日、民事再生法の適用を申請し、事実上破たん――――』
『去年起きた大手消費者金融の強盗放火殺人事件の容疑者、逮捕――――』
来る日も来る日も、テレビから流れる話題は暗いものばかり。
そして、僕もまた、その頃先行きの見えない現状に苛立ちを募らせていた。
無機質な量販のコンビニの弁当も手慣れたものだ。ゴミの分別ならば任せておけと胸を張って自慢できる。
食べ終わり、カップのみそ汁を啜り終えた頃、ごおぅという音が響き、エアコンの温風が髪を撫でた。
くだらないドラマに見向きもせず、ふと電話機の方に目を向けた。緑色の光が、周期的に点滅している。
「留守電――――?」
僕は気怠そうに腰を引きずり、留守録のスイッチを切った。録音件数と時刻を読み上げる機械の声の後、メモリーに記録されているメッセージが再生される。
『お兄ちゃん――――可憐です――――』
「可憐……?」
僕は思わず身を乗り出した。今は遠い故郷にいる、僕の妹の名前だ。その声を聴くのは何日……いや、何ヶ月ぶりだろうか。僕は慌てて煩雑なテレビの電源を切る。精錬された鈴の音のような声が、やっと暖まり始めた部屋に優しく響く。
『そろそろお仕事から帰っているかなと思ってお電話しましたけど……まだみたいですね。ごめんなさいお兄ちゃん。また、かけ直します』
3時間前。その時刻は本来ならばとっくに家でくつろいでいるはずだった。しかし、今日はたまたま家にいなかった。
僕が自分の限界を感じた日――――。
トゥルルル・・・・・・
可憐の声の余韻さめやらぬうちに、電子音が響き出す。
可憐ではないかという期待を抱くと、普段ストレスを感じるだけの電子音も、天使の鐘のように聞こえる。
「はい、もしもし……」
(あっ、俺)
期待はものの見事に裏切られた。名乗りもしないで失礼な奴だ。
「イタズラなら切るぞ。今日は少し機嫌が悪いんだ」
本気で怒りがこもった僕の言葉に、電話の相手、同僚の二階堂教行は慌てて謝る。
(悪かったよ。そうだよな――――)
「……で、何だよ」
ぶっきらぼうに訊ねると、今度は二階堂の方がいささか不機嫌気味になる。
(何だよはご挨拶だな。お前のこと心配して電話してやったんだぜ?)
「そら、どうも――――」
僕は再びテレビの電源を入れた。チャンネルを変え、コメディ番組を映す。
(気にしてるのか、昼間のこと)
「別に――――」
(無理もねえよな。宮腰部長も、あんな言い方ないだろうにさ)
「だから別にって――――」
(わかる。わかるよお前の気持ち。ホント、非道い話だよな)
全然人の話を聞いていない。僕が知りうる二階堂の唯一にして最低の欠点だ。
それから一方的な彼の『慰め』がしばらく続いた。僕は7対3で聞き流し、適当に相槌を打つ。そうこうしているうちに、ぼうっと見ていたコメディ番組も終わったので再びテレビの電源を切る。
(……と、言う訳なんだって。だからさ――――)
男同士の長電話というのは、実に虚しいものを感じる。
だが、今日は無性に彼の声が心地よくさえ思えた。
そして、不意に胸の奥から突き上げてきた“ある思い”が、僕の口を使って、二階堂に告げた。
「僕さ――――辞めっかも知れない――――」
電話の向こうで、二階堂が素っ頓狂な声を上げる。
(待て待て待て。そいつは随分飛躍し過ぎた考えだ。落ち着いてようく考えてみろよ……)
「僕は落ち着いているよ。だから、かも知れないって言ってるだろ、かもって」
僕は苦笑した。二階堂は有りとあらゆる弁舌を弄して(?)僕を翻意させようとしている。
「二階堂。お前の言いたいことはわかったよ。そうだな、いちおう心に留め置くよ」
それは本心だった。こういう時、心から信頼がおける友達という存在は実にありがたいものだと思える。
(……いいな、早まるんじゃないぞ。わかったね?)
「はいはい。頼れる同僚の忠告、しかと胸に刻みました」
しかしまだ何かを言いたそうな二階堂を抑えるように電話を切った。その直後から再び、耳にうるさいほどの静寂が包む。
多少なりとも愚痴れた事に、僕は一時の満足感を得ることが出来た。
毎日、人が食事をするようにストレスを溜め、話し相手がいない時は未成年ながら覚えたアルコールで紛らわせ、また翌日に備える。
生きてゆくためとはいえ、どうして人間はこんなつまらない毎日を送ってゆくのだろう。楽しいことを捨ててまで、苦を選ぶ愚かしさ……なんて、そんなことを考える僕は生意気だろうか。
この都会(まち)に出てからもうすぐ二年が経つ。めまぐるしく蠢く都会の時間と、不況の風に怯えた、生気と希望に輝かない、まるで機械のような人々の瞳。一歩踏み出せば、凶悪犯罪と紙一重の街。
ふと、直前まで二階堂と話をしていた電話機に目を向ける。
(可憐――――)
二年前までは無意識なりに毎日、数え切れないほど言っていた妹の名前を呟くと、その名前が無性に胸にじんとしみた。
(可憐――――起きてるかなぁ……)
考える間もなく、僕は受話器を取り上げていた。
トゥルルル・・・トゥルルル・・・
目まぐるしく進歩する通信業界にあって、受話器から聞こえる呼び出し音は不変である。
トゥルルル・・・がちゃ・・・
(はい、もしもし――――)
それは、懐かしさすら覚えるか細くて、彼女の名前のような声だった。
「あっ……もしもし、可憐?」
(……! その声は、お兄ちゃん?)
「はははっ……そう。わかっちゃったか。久しぶりだね、可憐」
別に驚かすつもりはなかった。
僕の声を聴いた瞬間に僕だとわかってしまう可憐を驚かすことは、土台不可能なことだからだ。
(わぁ――――お兄ちゃん……お兄ちゃんの声――――)
浮かれる可憐。その喜びようが、受話器越しに浮かび上がってくるようだった。
「留守電聴いた。ごめんな可憐。今日ちょっと色々あって帰りが遅くなってしまったんだ。……今の時間じゃまずいかな……とは思ったんだけど――――」
(ううん、可憐の方こそごめんなさい。お兄ちゃん……お忙しいのに電話なんかしちゃって……)
「そんなことはないよ。嬉しかった。久しぶりにお前の声が聴けて。うん……なんか、救われるような気がしたよ」
本心だったかも知れない。だが、可憐はそんなことを知る由もなく。
(うふふっ。お兄ちゃん、相変わらず大げさですね――――)
「そ、そうかな……ははっ」
僕は苦笑してごまかした。
可憐は僕のどんな小さな悩みをも見抜いてしまう不思議な(?)才能があった。高校の3年間、時にはうざく感じながらも、今の自分があるのは偏に可憐がいたからと言っても過言ではない。
だから、僕は可憐から離れるために、この都会に出てきた。自分のため、何よりも、可憐のために……。
「ああ、それよりも可憐。僕に何か用事でもあったのか。お兄ちゃん、可憐の頼みだったら何でも聞くぞ。お金の工面以外だったらな」
電話の向こうで、可憐はくつくつと笑う。両親家族と暮らしている可憐が、貧乏ひとり暮らしの駆け出しサラリーマンの兄に金の無心などと実に滑稽な話だ。
笑いが収まると、一転して静寂。妙にしんみりとした空気が受話器越しに伝わってくるようだった。
(はい……あの……)
そして、可憐は何故か戸惑っていた。
「どうしたんだ、可憐」
(…………)
わずかに漏らしたため息が聞こえる。僕は彼女の声を待った。
やがて、可憐は消え入りそうな声で躊躇いがちに話し出す。
(お兄ちゃん……怒らないで聞いてくれますか)
「ん――――どうした?」
(あの…………可憐ね……)
言いかけて可憐は止まる。そんな様子に、何故か僕は無性に不安を覚えた。
「可憐……どうかしたのか? 何か、あったのか」
僕がそう訊くと、電話の向こうで、可憐はわずかにはにかんだ。
そして、可憐は照れくさそうに、そして意を決したように言った。
(今から……お兄ちゃんの家に……行ってもいいですか)
瞬間、僕の思考が止まった。
To be continued. Featuring "Adagio" Junichi Inagaki Lyric by Sho-ta Namikawa. Music by Mioko Yamaguchi. Reference CD-Album are Ballade best Collection. |