「なに、どういうこと可憐?」
冗談にしては、可憐の口調が妙にしおらしい。家で何かあったのだろうか。
(今――――…………に居るんです……)
「…………」
そこは、今や僕が馴染み深い駅名に他ならなかった。
言葉よりも先に、僕は受話器を放り投げ、家を飛び出していた。
重い雪がちらついていた。吹く風が異様に冷たかった。
午後十時。ラッシュ時ほどではないまでも、人通りはある。ただ、朝の荒涼とした表情の人波とは違って、微酔いの笑い声と千鳥足の面々が続く。昼と夜の表情が違う都会の街。
駅のプラットホーム。数えるほどの疎らな人の中に、ベンチにちょこんと腰掛けている、栗色の長いストレートの髪の少女に僕はすぐに気がついた。
「か、可憐っ!」
怒鳴り気味に僕は妹の名を叫んだ。携帯電話を握りしめながら大きなスポーツバックを見つめていた少女は、はっと気がついて僕に振り向く。そして、ぱあっと可愛らしい笑顔を満面にたたえると、すくと立ち上がった。
僕はつかつかと彼女の前に歩み寄り、きっと睨みつけた。
並ぶと僕の肩ほどしかない可憐。僕は上から見下ろすように睨み、可憐は哀願か、何かに怯えるように頤をそらして僕の目を見つめる。
「可憐。なぜ君がこんなところに……」
遠い故郷に居るはずの妹が泥臭い兄の住まう都会(まち)に居ると言うことに、僕は驚きを通り越して、苛立ちを覚えていた。
「ごめんなさい……お兄ちゃん……」
わずかに瞳を伏せると、可憐はちょんと小さな額を僕の胸に当てた。この場で糾問する訳もいかず、僕は厚手のコート越しに、妹の華奢な背中を抱きしめることしかできなかった。
微酔い気分のサラリーマンたちで賑わう屋台のラーメン屋に、僕達は明らかに浮いた存在に見えた。
勘繰りを入れて興味たらたらに話しかけてくる人たちに、兄妹ですと説明するのは至極疲れるものだった。
「へい、お待ち」
もうもうと湯気の立つどんぶりが可憐の前に置かれる。
「わぁ、おいしそう……。いただきます――――」
ずるずるずる……
余程お腹が空いていたのだろう。可憐のイメージから、ラーメンを啜る姿は実に珍異であったが、鬱陶しげに長い髪を掻き上げながら食するその姿に一抹の大人としての色気みたいなものを感じ、僕は不思議とどきりとなった。
「美味しいです、とっても……」
可愛い少女の見せる笑顔と言葉に、さすがの屋台のおっちゃんも照れ笑いを浮かべた。僕もつられて苦笑いし、自分のどんぶりに箸を付ける。
「さって、そろそろ話、聞かせてくれるよね、可憐」
僕は話を振った。
「いつ、こっちに来たの。あの電話、家からじゃなかったのかい?」
可憐は戸惑い気味に散蓮華を唇につけ、スープを飲むと、ばつが悪そうに表情を曇らせて小さく頷いた。
僕はため息をつく。
「それじゃ、君は三時間もこんなところに?」
「お兄ちゃんに迷惑が掛かるかも知れないから、言いませんでした……」
前触れもなく突然この街にひとりでやって来たこと自体が迷惑なことだと言いかけて、僕は言葉を呑む。
「それにしても、たったひとりでこんな時間に……。可憐。都会は向こうとは違うんだ。色々な危険が潜んでいるんだよ――――」
僕は可憐がこの街に来たことを言わなかったことを軽く責めた。
「心配掛けさせないでくれ。お前に何かあれば、僕は……」
思わず語尾を濁す。気がつけば、僕は顔を赤くしていた。
「お兄ちゃん…………」
可憐もまた、わずかに頬を染めて僕を見つめていた。
「ご馳走様。さ、行くぞ可憐」
話を逸らすように、僕は可憐のスポーツバックを肩に提げ、おっちゃんに代金を渡す。
「まいど。兄ちゃん、妹さんを大切にな」
しかし、屋台のおっちゃんは微笑ましそうにそう言った。
「お邪魔します――――」
可憐は遠慮がちに玄関をくぐる。電気も点けっぱなしで飛び出していったので、ろくに片づいていない部屋だった。
だが、可憐は嬉しそうに靴を脱ぎ、小躍り気味に乱雑の間に立つ。
「あんまりじろじろ見るなよ。汚い部屋だし……」
「そんなことないよ。可憐のお部屋に比べたら――――」
それは見え透きすぎる気遣いというものだぞ可憐。
お前が何よりもきれい好きで、いつも部屋をちりひとつないと思うほどに奇麗にしているのを、僕が知らないとでも言うのか。
可憐はカーペットにちょこんと正座し、両手を膝に乗せると、一通り部屋を見回した。
何故か、まるで生まれて初めてつき合いだした恋人を、初めて自分の部屋に招いたような緊張感が、僕の中にあった。
「か、可憐。ここは風呂が壊れているんだ。すぐ近所に銭湯があるから、行くか」
取りあえず話を振る。風呂は壊れてはいなかったが、どうもいちいち沸かすような気にならなかっただけだった。
「わぁ、本当お兄ちゃん。可憐、一度銭湯という場所へ行ってみたかったんです。嬉しいなぁ」
着替えと洗面用具を手に並んで歩く僕と可憐は、傍目から見れば、実に新婚の若夫婦と言ったように見えるのだろうか。
歩いて一分と満たない小さな銭湯。庶民的な雰囲気のその場所は、もはや廃れてきている、かけがえのない財産のひとつなのかも知れない。
常連客。数人、顔なじみの人も居た。挨拶程度に声を掛け合う。それがやがて世間話に発展し、知り合いから、気さくに物事を相談しあえる友人へと発展してゆくのだろう。
人々の触れあい。それが、ここにはあった。
「はぁ――――楽しかった。銭湯って、いいですね。来て良かった……」
仄かに湯気が立つ洗い髪をタオルで包みながら、可憐が上気した顔に笑顔を浮かべる。
「そら、良かった」
僕はついさっき買った、ビンの牛乳を差し出す。
「?」
きょとんとした顔で、白い液体が詰まったビンを見つめる可憐。
風呂上がりには良く冷えたビンの牛乳――――。僕が銭湯に来るたびの習慣だ。金が無くとも、これだけは欠かせない。
「飲んでみな可憐。風呂上がりの牛乳、最高だよ」
ごくごく……。僕は笑顔で牛乳を呷る。なぜか、今日の牛乳は一段と美味く思えた。そして、可憐も真似た。
「あ、美味しい……」
火照った身体に程良く染み渡る牛乳のまろみが、可憐にも理解できたのだろう。
「お、可憐に白い髭が生えた」
「え……うそ――――!」
僕が可憐の口元についた牛乳を指差して軽く揶揄すると、可憐は大慌てで口元をぬぐう。
くつくつと笑うと、可憐は軽く拗ねて、僕の腕を掴み揺さぶった。戯ける僕自身も、そんなやり取りを楽しんでいた。
それは傍目から見ると、じゃれ合う恋人のように映っていただろう。まばらに行き交う他の客たちは一様に羨ましげに、そして微笑ましい視線を僕達に向けてゆく。
僕はふっと、それを意識して一瞬、表情が素に戻った。
(…………)
それは、この街にやって来てから多分、一度も見せることの無かった、『僕自身』だった。
可憐と共に過ごしていた、遠い故郷の、ありのままの僕の姿だった。
「帰ろう。可憐」
「お兄ちゃん…………?」
急に笑顔が消えた僕を、可憐は茫然と見つめ、そしてすたすたと歩き出した僕の背中を、半ば慌てるように追いかけた。
To be continued. Featuring "Adagio" Junichi Inagaki Lyric by Sho-ta Namikawa. Music by Mioko Yamaguchi. Reference CD-Album are Ballade best Collection. |