僕は正直、戸惑っていた。今までそれほど意識もしていなかった、本来の『自分』。
それは、故郷に大切に置いていたはずだったもの。
不用意に目の前に現れた、かけがえのない、誰よりも愛おしい妹によって、呼び起こされてしまった、郷愁。
都会の厳しい現実に取り残されまいと、休む間もないほどに、必死に歩きすぎた心。疲れを癒す間もなく、ただ不安の波に呑み込まれぬようにもがき続けた日々にもたらす、癒しの時。
「――――なの。ふふふっ。それでね…………お兄ちゃん?」
可憐の声、笑顔は僕にとって、何よりの癒し、精神安定剤だった。
ぼうっと、妹の無邪気な表情を眺めていると、きょとんとした瞳でそんな僕の目を至近距離で見つめる可憐がいた。
「あ……どうした、可憐?」
はっと我に返り、苦笑いする僕を可憐は怪訝そうに見る。
「……もう、聞いてなかったの、お兄ちゃん」
わずかに頬を膨らませて拗ねる可憐。
「ああ、ごめん。可憐のこと見てたらさ、何かぼーっとしちゃって」
「……可憐のお話、退屈ですか……?」
可憐の表情が、転じて悲しみの色に滲む。昔から、僕はこの表情に弱かった。
「あ、違う違う。誤解しないで可憐。ちょっと考え事してただけだからさ」
「…………」
しかし、そんな一言で不安が払拭する可憐ではないことが、僕が一番よく知っていた。彼女は、誰よりも兄である僕が一番大好きだと公言して憚らないだけに、僕のちょっとした不安や憂いの表情にすら、自責に囚われてしまう部分があった。
そんな、時に煩わしくさえ思えた妹の存在。
だが、離れてみて初めて気づいた、その存在の大きさ……。
「可憐、そろそろ休むか」
僕がそう言うと、可憐は微かに瞼を落とす。全く落ち度のない自分を責めているかのようだ。そんなところは全く変わっていない。
だから、僕は昔、落ち込んだ可憐がいつもせがんでいたことを口にする。
「一緒に寝るか。エアコン止めると、ここ冷えるしさ」
「お兄ちゃん…………うんっ!」
もうすぐ、名実共に成年となる可憐はさすがに恥ずかしがって断るだろうと思っていた。
しかし、僕が知っている妹のままの可憐が断るはずはなかった。至上の幸福を得た時のように、笑顔を湛える。天使かくやとばかりに、妹の純真を表す。
「来るなら来ると言ってくれれば良かったのにさ――――」
天日干しにした記憶が無く、ずっしり重い煎餅のような布団を、妹とは言え女の子に勧めるのはさすがに恥ずかしい。
「ううん、平気。お兄ちゃんと一緒に寝ることが出来るのなら、可憐赤土でもうれしいの」
「あははっ、さすがに赤土ほどじゃないけど、寝づらかったら勘弁な」
僕が先にひやりとした布団に潜り込む。
「電気、消しますね」
「おお」
ぱっと、部屋がオレンジ色のダウンライトに包まれる。
僕はずっと真っ暗にするのが習慣だった。だが、可憐はオレンジ色のスモールを点けたままじゃないと熟睡できないと言う。小さい頃、そんなことで寝る間際までもめた事もあった。
「あ、お兄ちゃん確か――――」
慌てて電気を消そうとする可憐。
「いいよ、大丈夫。それより、早く寝よう」
「はい」
戸惑いながら、僕の傍らに身体を滑り込ませてゆく可憐。
「……狭くないか?」
「うん――――」
「もっと側に寄ってもいいぞ」
僕は身体を外側にずらし、可憐のスペースを広げた。
「……あたたかい……お兄ちゃんのお布団――――」
可憐はすうっと息を吸い込んだ。僕の背中に柔らかい可憐の胸の鼓動が伝わる。
「可憐……?」
「……お兄ちゃん……しばらく……こうしていてもいいですか……」
可憐はそっと僕の背中から腕を回す。それを無言で受け容れる。
どれくらいの時間、そうしていただろう。
カーテン越しの薄明るい都会の街。二十四時間、眠ることのない時の流れ。その無数の一角に、僕の部屋がある。規則正しい息づかいと、僅かに速く拍つ鼓動だけが、この空間の時を緩やかにするようだった。
「……ねえ……お兄ちゃん…………寝た?」
不意に、可憐が口を開く。
「…………ん? 起きてるよ」
元々眠れそうにもなかった僕はそう答える。
「あの……あのね…………」
何かを言いたくて、言葉に出ない様子の可憐。
「どうした? 何かあったのか」
「ううん……あの…………ん、やっぱりいいです。ごめんなさいお兄ちゃん、お休みなさい――――」
ぱっと僕の身体から腕を放してそっぽを向く可憐。そこまで言いかけて止めるほど、後味の悪いことはない。
「何だよ。なにか家であったのか。それとも……僕に言えないことなのかい?」
「ううん、違うの……」
語気強く、可憐は僕の憶測を否定した。
それから少しの間、静寂が戻る。そして、僕は愕然となった。
「ぐすっ……くすん……」
押し殺すような、可憐の嗚咽。
「…………」
何故か僕はそんな妹に掛ける言葉が脳裏に思い浮かばなかった。
(…………忘れてしまったの……お兄ちゃん…………)
翌日、いつものように出勤だった。煩わしくも、慣れたラッシュの海を泳ぎ戦場に行く。
「行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
可憐はまるで若い夫を見送る幼妻のように、笑顔で玄関先で手を振って見送ってくれた。
「行って来ます……」
しかしこの街に来て、初めてその言葉を言った感動も味わえぬわだかまりが、僕の胸中に芽生えていた。
「おはよーっす」
二階堂教行がいつもの元気さを見せつける。この男のどこに、そんな楽観があるのか不思議でしょうがない。
「お、何か今日はいつもより元気そうじゃねー? 何かあった?」
僅かな表情の変化を見抜くとは、やはりこの男はただ者ではない。そう、僕は確信した。
「妹が――――来たんだ」
「お前の妹さん? へー、そいつはまた。お前の妹だったら可愛いんだろうな」
「まぁ……ね。でもお前、紹介しろなんて言うなよ」
一瞬身を退く二階堂。どうやら図星だったらしい。
「あははは。しかしこの時期に上洛ね。こっちで就職するんだ」
「違う――――と、思う」
二階堂の言葉の後、僕は一瞬言葉を詰まらせ、否定した。
「ふーん、と言うこたぁ兄貴の様子を見るために、家族代表として観光ついでに上洛……と。健気な妹さんだねぇ。俺の姉貴なんて弟のことなんか全くぽっちりとも構った事ねーっつーのにさ」
「そうなのかな…………」
僕の中に芽生えたわだかまりは、次第に膨らみ、二階堂の質問攻めによって急速に僕の心をしめつけていった。そしてそれは、僕自身が忘れかけていた大切なものを思い出させるきっかけとなった。
「……それにしても懐かしーな。そう言えば俺、姉貴と賭けしてたんだよ。こっちに来てからもし…………」
二階堂がそう言いかけた瞬間、始業のベルが鳴り、宮腰部長の挨拶で朝礼が始まった。
「…………」
だが、僕は朝礼の事は頭に入らなかった。可憐の嗚咽、言いかけた言葉。二階堂が会話の成り行きで言いかけた言葉。『賭け……約束……』
(約束…………?)
(――――いるよ……)
(本当――――お兄ちゃん……!)
(ああ――――約束だ。僕と、可憐との“約束”だ――――)
ぽかっ!
朝礼が終わったのに気がつかず、ぼうっと突っ立っていた僕に、宮腰部長の持つ書類の束が僕の頭を打った。そして、先日に輪を掛ける嫌みな説教をタラタラと僕に浴びせたのだった。
To be continued. Featuring "Adagio" Junichi Inagaki Lyric by Sho-ta Namikawa. Music by Mioko Yamaguchi. Reference CD-Album are Ballade best Collection. |