その日はなぜか多忙を極めた。この不況にあって仕事の入り具合も浮沈が激しい。最近はヒマな状態が続いて、経営陣も安易にリストラを唱えていると噂に聞く。
だが、今日に限って怒濤のごとき仕事が流れ込み、僕も否応なしにかけずり回された。無論、可憐のことを考えている暇はないほどに……。
「お疲れさん。帰るのか?」
それでも定時までに自分の仕事をこなし終えた僕にこれから残業ですと言わんばかりに余裕綽々な二階堂が話しかけてくる。
「帰るよ。妹、待ってるしね」
「お、妹想いの兄貴ですな。……ま、せっかく兄妹水入らずの時だ。妹さんがいる時くらい、早く帰ってやんな」
二階堂が珍しく殊勝なことを言う。
「何だよ、気持ち悪いなぁ……」
僕が怪訝そうにそう言うと、二階堂は頬を膨らませて拗ねる。
「ん? 何だよぉ、このご時世、同僚のために我が時間を割いて尽くす奴が気持ち悪いだとぅ? わかったわかった。なら明日からせいぜい残業で苦しめ、妹さん見捨ててぇな」
タイミング悪く、ここ数日は我が社の一時特需期間らしかった。僕は即座に謝った。
「ま、黒豚トンカツ定食上で手を打つぜ?」
「安い取引、恩に着ます」
二階堂の心遣いに、僕は素直に感謝する。そして鞄を手にして帰ろうとした時だった。
「……あ、そうそう。お前さ――――」
再び呼び止められ、振り向く。
「昨夜の電話の話、聞かなかったことにしておくぜ」
「…………ああ、サンキュ。じゃあ、お先」
朝ほどではないまでも、家路を急ぐ働き蜂の波に揉まれ、黄昏に映える通い慣れたプラタナスの並木道を見るたびに安心感から来る疲労感が僕を包み込むのだ。
「はぁ――――――――」
無意識に出るため息。人はこうして先行きの見えない、無限回廊のような日々を繰り返しながら老いてゆくのだろうか。そして、僕もまた、その回廊を彷徨う無数の蒼氓のひとりなのだろうか。
肩を落としながらアスファルトの舗道を自宅へと向かう僕に向かって駆けてくる足音が、乾いた音となって聞こえてきた。
「お兄ちゃん――――やっぱりお兄ちゃん――――!」
可憐が嬉々とした表情で僕に抱きついてくる。
「ああ可憐、ただいま――――」
「お帰りなさい、お兄ちゃん。お仕事、お疲れさまです」
可憐の労いの言葉がじんと胸に染みて、幾ばくか疲労感が癒される気がした。
「今日は金曜日だから、お兄ちゃん、明日と明後日はお休みですよね?」
僕ははっとなった。そうか――――今日は金曜日だったのか。
日にちならまだしも、今日が何曜日かすら忘れてしまうとは悲しいものがある。
「なら、明日と明後日、可憐と一緒にいられるわけだ」
「……うん、可憐うれしいな」
僕のその言葉に、可憐は意外にも反応少なし。聞き逃したのかと、その時僕はそう思いこんでいた。
可憐が夕食を作ると言うことで、買い物につき合う。笑い合いながら、二人より沿うようにカートを牽き、食材を選ぶ。まるで新婚カップルのようなシチュエーションに、僕は不思議と心が落ち着いていた。
「今夜はカレーか」
「ごめんなさいお兄ちゃん。可憐、レパートリー少ないから……」
「いや、違うんだ。……随分久しぶりだなぁって、思ったからさ」
思えば、手料理など何日……いや何ヶ月ぶりだろうか。たかが玉葱を手にしただけでじんとこみ上げてくるものがあった。
「そうなの? ……うふふっ、それじゃ可憐、腕によりをかけて作りまーす」
ようやく、妹の表情が晴れた気がした。
本当に美味かった。久しぶりの手料理という事を除いても、一口運ぶだけで脳天から足の爪先まで痺れるような感激が貫く。
「可憐、料理上手になったよな――――」
「本当――――? わぁ、うれしいな」
地元にいた頃、可憐の作った料理は食べたことがある。最初は失敗ばかりで、油まみれの泣き顔をこする可憐を何度も見たものだった。
その時の話を交えながら褒めると、可憐はぽっと頬を染めて恥じらう。
そして、ほとんど使ったことのないキッチンに立ち、洗い物をする妹の背中を見つめながら、僕はぼうっと思考を巡らせていた。
(約束…………)
(可憐との約束…………)
かちゃかちゃという陶器の擦れ合う音が、時を刻むかのように部屋に響いていた。
(本当に行っちゃうの……お兄ちゃん……)
(ああ。ごめんな、可憐)
(ぐすっ……いや……可憐、またお兄ちゃんと離ればなれになっちゃうのはいやっ!)
(可憐……)
――――可憐の心の中に、ずっと、ずっと大切にしている夢があるとするならば、僕にも同じほどの夢があるんだ。
きっと、可憐の夢に負けないくらいのかけがえのない、大切な夢が……。
だから、先にほんのちょっとだけ、僕にその夢の続きを見させてくれないか。
(夢の残り香だ――――)
僕は可憐と、とても大切な約束を交わした。だから可憐は今、ここにいる。
あの時、可憐が喜びを全身で表して抱きついた時のことを、僕との約束を果たすために。
「そうだろう……」
「……なあに? お兄ちゃん」
ぼそりと呟いた僕の目を、可憐は至近距離で見つめていた。
「よおし、可憐。明日は遊園地だ。思いきり遊ぼうな」
突然の提案に可憐は一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉々と頷いた。
どこへ……行くの……
まっすぐに続く道を歩くだけなのに、辛そうだった。
決められた事。示されたものをこなすだけなのに、それを無意味と感じる。そして流され行くまま、いつしか大切なものまで失くしてしまった悔しさ。
そう、それが誰よりも大切な妹との約束すらも例外じゃなかった。
可憐は涙に暮れていた。その意味を僕はまだ知らない。そして、まだ訊かないでいる。
漠然とした霧の中を僕は彷徨っているようだった。可憐もそうなのだろうか……。
ただ、僕の側で安らかな寝息を立てている妹を見つめていると、それだけで、同じくらいの時が取り戻せるような気さえする。
「あ、お兄ちゃん。おはようございます」
朝、目を覚ました僕がキッチンに下りると、カウンターには豪勢なランチボックスが並び、香ばしい匂いをたたえながら、可憐がおかずを詰めていた。
「おはよう……お弁当、作ってるんだ」
寝ぼけ眼をこすりながらも、色とりどりのお弁当に、僕は目を見張る。
朝からあいにくの曇天だったが、遊園地に着く頃には晴れるという予想だった。可憐は張り切りながら、鼻歌を交えて弁当を詰めてゆく。
そんな時だった。
トゥルルルル・・・
無機質な電話の呼び出し音が、冷たく和やかな場を切り裂く。僕は渋々と電話に出た。
「…………え?」
瞬間、僕は茫然となるしかなかった。
それはそうだろう。その電話は会社からで、急に休日出勤してくれとのこと。僕の都合も聞く島もなく切られる。
「お兄ちゃあ――――ん。朝ご飯出来たから、食べて」
無下に断ることも出来ない。こういう時、つくづく電話に出たことを後悔してしまう。
ベーコンエッグと、コーヒー、フレンチトーストを目の前に、僕は慙愧に耐えない表情を浮かべていた。
「……どうしたの、お兄ちゃん?」
クロワッサンを載せた皿を僕の目の前に置いた可憐が、深刻な表情をしている僕の顔を見つめた。
こういう時、他人だったらどうするだろう……。二階堂だったら、どう思うだろうか――――。
僕は会社の理不尽さ以上に、それに抗いきれない自分に頭に来ていた。そして同時に、情けなくさえ感じていた。
「可憐……」
「?」
僕は曇らせた表情のまま、可憐を見つめる。
「今日……無理になってしまった――――」
身を切るような思いとはきっと、この言葉を言った瞬間の事を言うのだろう。
「あ…………そう……なんです……か――――」
隠しようがないほどに、可憐の顔は悲嘆に染まってゆく。
「会社から……出勤してくれって――――ははっ。まったく……バカにしやがって……」
僕は呆れを通り越して笑っていた。可憐もまた、悲嘆を通り越して笑顔を浮かべている。
「お仕事じゃ仕方ないですね。あ……お兄ちゃん、せっかくだから、ランチボックスひとつお昼ご飯に持っていって下さい。可憐、ひとりじゃ食べきれないから……」
僕は力無く頷くしかなかった。
To be continued. Featuring "Adagio" Junichi Inagaki Lyric by Sho-ta Namikawa. Music by Mioko Yamaguchi. Reference CD-Album are Ballade best Collection. |