乾いた風が吹き抜けてゆく。冷たくて、無情に肌を傷つける風だ。
大人になると言うことは、何か大切なものを犠牲にすることなのだろうと、誰かが言っていた気がする。
でも、僕はその言葉の意味がまだ漠然とした霧の彼方にあるような気がしていた。
そして、もしも僕にとってその大切なものというのが、可憐であるとするならば、きっと……。
「ん――――おいっ!」
背後から怒鳴るように僕を呼ぶ声。振り向くと、スーツ姿の二階堂教行が、愕然とした表情で僕の肩を鷲掴みにする。
「二階堂……おはよう」
「おはようじゃねえだろ。何でお前がいるんだよ」
「何でって……失敬だな。ここはお前や僕が勤める会社だろう」
「そうじゃなくて……、お前今日休みだろ。妹さんと過ごすんじゃなかったのか?」
彼の口調は、疑念と失望に満ちあふれている。そんな彼に、僕は今朝の話をした。
「随分じゃねえか。そんなん、俺ひとりでも午前中だけで片づけられるぜ。馬鹿じゃねえの、宮腰部長(あいつ)」
それが二階堂らしい気遣いであるとするならば、僕は嬉しかった。
「いいよ、二階堂。仕方がないさ――――」
そう――――『仕方がない』。
社会人となって、出会う人たちが何度この言葉を呟き、本当の思いを押し殺してきたのだろうか。
仕方がない……しょうがない……。
実に体の良い逃げ口上だろう。
『勇気』が廃れた上辺だけの社会の流れに、まるで拍車をかけるかのような呪文が、人の心を無気力にさせ、無関心にさせ、不況という困難な時代だからと言う建前をかざし、どんな理不尽な事にも甘んじてしまう。
やがて、人はその言葉を口にするたびに、心の中から少しずつ、大切なものを失ってゆくのだ。
「…………」
二階堂は真顔で僕を見ていた。
思えば、こんな冷たい世間にあって、二階堂のような男もいるのかと、後で僕は感じることになった。
「ちょっと良いか――――?」
僕を手招く二階堂。僕は首を傾げながら近づく。
その瞬間――――
(おめ、そばぁ居たったれ――――)
脳裏に二階堂の訛り言葉と共に、がやがやという雑音が聞こえたと思うと、ふっと一瞬、僕のフィルムが途切れた。
「あっ、お兄ちゃん――――」
そこに可憐がいた。安堵のため息と共に、ぱぁっと笑顔が映えた。
「あれ? ――――ここは……」
「うふふっ、何言ってるの、お兄ちゃん。ここはお兄ちゃんの家です」
わずかに肩を震わせて、可憐が笑う。
「そんなはずは――――僕は今朝会社から呼ばれて……」
時計を見た。短針は“10”と“11”の間で、長針は30のちょっと手前である。
はっと視線を下に落とす。
「……えぇ?」
僕は素っ頓狂な声を張り上げてしまった。
着慣れたパジャマ。しかも、可憐と寄り添い眠った、馴染みの布団であった。
「何で……僕、スーツ着てないし……それに……あっ!」
そうだった。確かに僕は、二階堂が放った痛みを覚えている。じんと、何よりも痛くて、そして何よりも優しい痛み。
「二階堂の奴は……?」
僕が可憐に訊ねると、可憐はきょとんとした顔で僕を見つめる。
「二階堂さん……。お兄ちゃんの友達?」
それは全く知らないという表情だった。それに対し、僕はなぜか言葉がつづかなかった。
「それよりもう起きて、お兄ちゃん。お昼になりますよ」
「あ、ああ……」
僕はのそのそと布団から這い出た。疑問が脳を交錯する。
夢にしてはあまりにもリアル。かといって、自分の状況を見れば頭ごなしに否定する事も出来ない。
しかし、ひとつだけ確かめる手段があった。
(ランチボックス――――)
僕は可憐が精魂込めて誂えた料理が詰められているはずのランチボックスを、キッチンに探した。
しかし、精魂込めたおにぎりどころか、籐製の籠ひとつ見当たらなかった。
「うう……最近、疲れてんのかな――――」
一瞬、目眩がした。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
香ばしい湯気が立つコーヒーカップを僕の目の前に置いて微笑む可憐。
「いや……おかげで失くさずにすみそうだし……」
「…………?」
「あはははっ」
意味不明の言葉に、さすがの可憐もやや呆れた風だった。
「あっ、ごめんなさいお兄ちゃん、ちょっと避けてくれますか」
食器の片づけ、衣類の洗濯、掃除機がけ……。
普段無精な僕が滅多にしない家事をこなす可憐。
不思議なほど、ゆっくりとした時の流れの中に、僕と可憐はいるような気がした。
可憐が掛けたラジオも、一時、掃除機の騒音にかき消されたが、塵ひとつ無くなった床に満悦して活動を終えた掃除機の唸りが収まった後、スピーカからは、いつしか、ゆったりとしたピアノの音色が流れていた。
「アダージョ……」
不意に、可憐が呟いた。
「可憐……好きなの」
一瞬、どきりとする発言だったが、どうやらこのピアノの旋律のことらしい。
「ゆるやかに……って意味なんです」
簡単に説明してくれた。さすがピアノを習っているだけある。
「アンダンテとか、ラルゴとか……色々あるけど……可憐はアダージョのときが一番好き」
専門用語だった。僕には未知の話だ。
「すごく優しくて……心、映すことが出来るから」
可憐はうっとりとした表情でその音質の悪いスピーカから流れてくるピアノの音色に聴き入っているようだった。
僕も可憐に倣うように、聴き入っていた。
不思議だった。可憐が言ったからじゃなく、本当に刺々しい気持ちが和らぎ、そして久しく忘れていた、人に対して優しくなるというような、ちょっとくすぐったいような気持ちになってくる。
「可憐……」
「なぁに、お兄ちゃん」
春。正午近くの、世界が一番美しく陽光に彩られる頃。窓辺から差し込むクリーム色の陽光に僕は誘われていた。
「散歩、行こうか――――」
このまま何もせずに、こんな天気のいい日をやり過ごすこともない。可憐は大きく頷いた。
朝晩はあんなに冷え込むというのに、昼は僅かに汗ばむほど暖かい。
僕はもとより、可憐も厚手のコートを必要としなかった。服装も春近しである。
通い慣れたプラタナスの並木道の周りは町の公園である。
夏になれば、この都会最後の森と言えるほど、鬱蒼とは極端な表現に、緑と木漏れ日に包まれる。
芽吹きかけた木々の枝が、クリーム色の空に描かれ、時折吹き抜ける暖かな微風が、二人の頬を撫でてゆく。
しばらく、あてもなく園内を歩く兄妹。
休日の土曜日に、親子連れや恋人たちの姿も多い。
普段は時間や流行に、ただ流されてゆくだけの人々も、束の間の週末だけは、こうして灰色の都会の片隅に残る自然に、心癒すのだろう。
「可憐……ありがとう――――」
僕はそっと妹の手を握り、そう呟いた。
「え――――」
一瞬、戸惑う可憐。だが、すぐにぽうっと頬を染め、僕の手をそっと握り返す。
「本当は、忘れてしまっていたんだ……」
それは、掛け替えの無いはずの、小さな約束――――。
君にとってはすぐに忘れてしまいそうな、冗談任せの口約束だったとしても、私にとっては、その約束を支えにここまで歩いて来られた、とても小さくて、とても大切な約束……。
『そうだな。可憐が卒業したら、一度僕のところに遊びに来ればいい。可憐と一緒に、散歩でもしような』
多分、話の成り行きでそんなことを言った記憶がある……というか、思い出した。本当に、他愛のない、路傍の石。忘れてしまっても、それが当たり前のような雑談のひとつに、僕にとっては過ぎなかった。
だが、その時の可憐の笑顔は、いつも僕に向けている笑顔とはまた別の幸福を秘めた笑顔だった。
近すぎて気づかないもの。離れて初めて気づくもの。
そして、その気づかせることすら忘れさせてしまう、社会という名の冷たい世界。
可憐は小さく首を横に振ると、僕に身を寄せた。
いつしか社会の習慣や常識に慣れ、妹の抱いていた大切な思いすら忘れてしまっていた不甲斐ないこの兄を、可憐は変わらずに信じて、慕ってくれていた。
僕は可憐の肩を抱きしめながら、啓蟄の公園を並んで歩いた。
傍目から見れば、万が一にも兄妹とは見えない二人だったろう。それほど、僕達はごく自然に寄り添い合いながら、ごく自然に楽しげに語らい、ごく自然に、笑い合っていた。可憐の繰り出す質問に、僕は時に得意げに、時に言葉を詰まらせ、時に強気に、時に冷や汗を流しながら答えてゆく。
実に楽しかった。この街に来てから――――いや、多分、生まれて初めてだったろう。こんな思いを感じたのは。
「お兄ちゃん……最後にひとつだけ、訊いても、いいですか」
そしてふわりと、暖かい風が可憐の三つ編みを揺らした。
「都会(ここ)に来て、良かったって、思ってる――――?」
それはきっと、僕に対する千の質問の中で、可憐自身が一番訊きたかった事だったのかも知れない。
そして、僕自身も、一番答えづらかった質問だった。
「ああ、そうだな――――」
考えた結果出したその答えは、実に曖昧な返事だったかも知れない。
期待と希望に溢れた夢の現実は、そこはかとない辛さと、悲しさに満ちた日々だったかも知れない。
でも、たったひとりの、大切な友に出会えたこと。きっとそれが、この現実を完璧に否定できなかった要素だった。
「良かった。安心」
可憐が小さく息をついた。その意味を確かめる島もなく、可憐が笑顔で、僕を見上げた。
「お兄ちゃん、もうひとつだけ、忘れてる――――」
「え――――?」
可憐はその清楚な美貌にやや小悪魔的な笑みを浮かべると、すっと僕の手を握っていた指を解く。
アダージョ――――ゆるやかに。
ピアノの音色を聴きながら可憐が呟いた言葉。
(ゆっくりでいいよ……)
二階堂だけじゃない。こんな僕を見守ってくれている何かが、僕にかけてくれた、アダージョ。
社会の波に呑まれ、人の心失わないように、聴かせてくれたアダージョ。
「お兄ちゃん――――」
可憐の声、笑顔がクリーム色の景色に溶けてゆき、僕はゆっくりと、可憐の笑顔を目指し、歩き出していた。
THE END Featuring "Adagio" Junichi Inagaki Lyric by Sho-ta Namikawa. Music by Mioko Yamaguchi. Reference CD-Album are Ballade best Collection. |
イメージCV:二階堂 教行 … 鷹嶺 昊 |
シスプリ短編集の創作順序としては、咲耶編4回以来ですかね……実に久しぶりであり、メインヒロイン格の可憐編にチャレンジだったわけですが、ラストが中途半端ですかね。でも、稲垣潤一さんの『Adagio』聴かれれば、自ずと意味がわかってくるんじゃないかと思っていたりするし(逃げ)。てゆうか、何か打ち切り状態?? 言い訳させてもらうと、後半作者かなりカゼ引いてまして頭回らんわ更新遅れるわと七転八倒でした。第2回はもう少しマシな物語書きたいと思います。 |