アカネイア歴六〇九年――――大陸を大乱に陥れたドルーア帝国との大戦は終結した。
アカネイア神聖帝国の皇帝と称したハーディンが倒れ、暗黒竜メディウスと、カダインの大司祭ガーネフの野望は永久に潰え去った。
歴史に暗黒戦争・英雄戦争と記された、約十年あまりに及ぶ戦乱も、数多の英雄の勇敢さと、数え切れないほどの屍を積み重ねて、結果、大陸は永久の平和を築いたのである。そして、戦乱の渦中に、数奇な運命に翻弄された勇者達は、終戦後それぞれの新しい道へと進んで行く。
アカネイアパレスに新設された、パレス魔道学院。創設者であるマリクもまた、二つの戦争を戦い抜いた、勇者たちの一人である――――。
その頃、リンダは複雑な思いに駆られていた。アリティア軍が、ハーディン皇帝指揮するアカネイア軍と遭遇したカシミア大橋の激戦で大敗し、撤退を余儀なくされた後に、漂流した地がカダインであったからだ。
主力を大きく失い、九死に一生を得た諸将たちは疲れ果てて砂に突っ伏し、互いの無事を痛感していたが、彼女からして思えば、この地を踏むことは、あまりにも突然なことであった。
まさか再び、こんなにも早くこの地を踏むことになるとは、考えもしなかった。そして、急激にわき起こる感情。
(会いたいな・・・)
陽炎の彼方に浮かぶカダインの街を見つめながら、彼女は心の中でそう呟いた。
(マリクさん・・・)
そして、彼女の周囲が、三年前のこの場所にフラッシュバックする。
「待つんだ、リンダ」
テントから飛び出したリンダを追い、マリクはその細い腕を掴み、静かに、それでいて厳然な口調で彼女の興奮を制止し、視線を真っ直ぐ彼女の瞳に注ぐ。
「放して・・・放して下さいマリクさん。・・・あいつは・・・あいつだけは私の手で殺さないと、気が済まないんです」
半ば泣きが入った叫びで、彼女は彼の手を必死に振りほどこうと試みるも、彼はしっかりと彼女の腕を掴んでいた。
「落ち着くんだ」
彼は小さくそう叱咤すると、彼女を捉えている腕を引く。すると、彼女の軽い身体はいとも簡単に傾倒し、彼の胸に受け止められた。
「うっ・・・うっ・・・」
電源が落ちたように、彼女は彼の胸に顔を埋めて泣き出した。彼は冷静に、うち震える少女の両肩に手のひらを重ねる。
「君の気持ちは痛いほどよくわかる。・・・でも、あいつには誰も太刀打ちが出来ないんだ。あいつと向き合った途端に、身体が動かなくなる。今日の戦いで、兵士たちは奴にかすり傷ひとつ負わせることも出来ずにやられてしまったんだ。私たちとて同じ目に遭ってしまうことは火を見るよりも明らかだ」
諭すようにゆっくりと語りかけるマリク。
「悔しい・・・・・・。私・・・悔しくて・・・」
彼女の涙が彼の法衣を濡らして行く。彼はまるで幼い妹を慰めるかのように、慈愛と哀憐を込めて彼女の背中を優しく包んだ。
「血気にはやって無駄に命を落としたら、君の父上・・・ミロア大司祭は大いに悲しむ。今は・・・今はじっとこらえて待つんだ。きっと、何かいい手立てはあるはずだからね」
彼女は、そっと身体を離して彼を見上げた。彼はまっすぐに彼女を見つめて、微笑んでいた。
彼女は突然、何か吸い込まれてゆかれそうな感覚にとらわれた。彼の微笑みが、彼女自身の中で時間が止まったように強く残る。
そして、自分でも信じられないくらいに気持ちの高揚が治まっていった。
「大丈夫。私がついている。君に悲しい思いはさせない。だから、そんなに焦らないでくれないか」
彼はごく自然にそんなセリフを口にしていた。
そして、そうするのが当たり前のように、子供をなだめるように結われた亜麻色の長い髪を撫でる。
そして、彼女は憎悪心とは別な感情が沸々と心を占めてゆくのを感じていた。
カダインは制圧したものの、彼女の悲願は叶えられなかった。
だが、彼女は深い失望に落ちることはなかった。気がつけばいつも側にマリクがいて、自分を慰めてくれていた。
マリクに支えられてリンダの悲願は果たされた。テーベの神殿で亡父の仇敵ガーネフは、スターライトを手にしたマリクによって討ち果たされたのである。
彼女はその後、異様な脱力感と、言われぬ虚無感に襲われたが、それでもマリクがいた。
心の透き間を、彼が埋めてくれるということが、彼女にとっては普通のことだった。だが、彼は彼女のことをあくまで世間知らずの妹のようにしか思っていないのだろうか。彼女への接し方は、まるで幼児を相手にしている、優しいお兄さんのようであった。
彼女は日が経つにつれて、それがもどかしく感じるようになった。
(エリス様――――)
マリクは口癖のようによくその名を呟いている。それが彼の思い人であることは、聞かずともわかる。
アリティアの王女。今、解放軍を指揮しているマルス王子の実姉の名。
リンダは顔も知らぬその女性に嫉妬を抱くようになった。
だが、彼女は内心半ば諦めていたのかも知れない。このまま、彼の妹のような存在でもいい。それでも彼とともに戦い、戦後も彼のそばにいることが出来れば、それで満足ではないか、と。
そんな思いが鋭い刃となって彼女の心を引き裂いたのは、ドルーア帝国との最終決戦間近。エリスがマルス王子たちと再会を果たしたときである。リンダは声を失った。見目麗しき、大人の女性がマリクと再会の感動を分かち合っていたからである。
(この女性が・・・エリス王女――――)
リンダはその瞬間、自分の中で勝手に勝負をつけていた。初めて会った瞬間に、自分はエリスに負けた。
前々から、自分とエリスを比べていたのだ。
実際のエリスは、自分よりもはるかに大人で、芯がしっかりとしていた。大人であるマリクが、エリスと比べてはるかに子供である自分に、恋愛感情など抱くはずがなかった。
そして、エリスは表面的な美しさだけではなく、すべてを優しく包み込みそうな雰囲気を兼ね備えていた。
到底、自分はその足下にも及ばない。いや、比べていたこと自体恥ずかしくさえ感じた。
やがてドルーア帝国の崩壊と共に、勇者たちはそれぞれの故郷に帰還して行った。
リンダはマリクのことを諦めるために、父の仕えたアカネイア王国国都パレスに居住し、ニーナ王女に仕え、マリクは更なる魔道研究を重ねるために、カダインへと帰した。エリスはアリティア国の復興のために、弟マルス王子とともに故郷に戻った。今のところ、マリクとの婚礼の話はない。
リンダの心の中に、マリクという存在は消えることはなかったが、ニーナ王女に懸命仕えることで、心の片隅にその思い出を大事にしまっていった。
しかし、時代は大きくうねり、再び悪しき雲が大陸を席巻し始め、人々の運命も流転を見た。
皇帝ハーディンの邪心を察知した皇妃ニーナは、リンダにファイアーエムブレムを託し、先の大戦の英雄マルスにそれを届ける役割を与えた。
彼女は必死になってその命を果たしたが、それよりもなお、彼女の心に、しまわれた思いが蘇ってきた。
(マリク――――)
そのまま反乱軍に身を投じてから、彼女は無意識のうちに彼のことを思っていた。
不謹慎だと思いつつも、このまま戦争が長引けば、いつかは彼と再会できる。そして、エリス王女が何者かに拉致されたと聞いたときは、心のどこかでほっとしていた。そんなことを考えている自分が恐くなった。
そして今、彼女はカダインの街を遠望している。再び逢える。今度こそ――――
マリクは身体中傷だらけで捕縛されていた。漆黒の法衣を纏い、金色の長髪が目立つ優男に散々に痛めつけられたのであろう。憎悪に満ちた目で、優男はマリクをにらみつけていた。
「なぜ貴様ごときに・・・考えただけでも腹が立つっ!」
「エルレーン・・・あなたは間違っている。この様なことをしても、先生は認めてはくれない」
マリクは疲れ果てたように最後の諭しを試みたが、もはや逆恨みの亡者となったエルレーンには、そんな言葉など通用するはずがなかった。
「黙れっ! 今さらエクスカリバーなど欲しいとは思わない。マリクッ、この俺のトロンと貴様のエクスカリバー、どっちが上か今ここで勝負しろ」
「やめるんだエルレーン・・・こんな・・・こんなことは無益だ・・・」
しかし、そんな思いも虚しく、マリクは常軌を失したエルレーンの凶刃にかかろうとしていた。
その時である。
突然、マリクの周囲にまばゆい閃光が発し、マリクやエルレーンの視界をつぶした。やがて残光がおさまり、目が慣れてきたエルレーンは愕然となった。マリクが目の前から忽然と消え失せていたのである。
ユミナが放った、レスキューの杖の効果で、マリクは窮地から救われた。彼の身を案じた親友マルス王子が、いち早く打った方法である。マリクは気を失っていたが、どうにか一命を取りとめた。そして、マルスは深手を負っている彼を、外の本営に運ばせた。
「!」
本営に待機していたリンダは愕然となった。思いがけない再会であった。
互いの無事を確かめ合って喜び合うという、理想的な場面は微塵にも砕け散った。
半昏睡状態でいるマリクの姿に、彼女は悲嘆の声すら上げることが出来なかった。
そして、マルスはリンダとマリーシアにマリクの看病を命じて、カダイン魔道宮の制圧へと向かっていった。
マリーシアの意見を聞かずに、リンダは休む間もなくマリクの看病を続けていた。
その懸命な姿を見たマリーシアは、彼女の気持ちを察し、マリクに対し、ある程度の治療を施すと、休むと言ってその場を離れていった。
「むう・・・・・・」
悪夢でも見ているのだろうか、うなされながら、マリクの額からは脂汗が滴り落ちてくる。
リンダはたえず潤んだ瞳で彼の顔を見つめつづけ、汗を拭い、渇いた唇に水をしみ込ませた綿を当てる。包帯やガーゼを取り替え、身体を拭き、衣類を取り替える。
食も取らず、不眠のまま捨身的な看護をつづけ、三日目の朝方には本人も気がつかないまま深い眠りに落ちていた。彼の腹部を枕にするように、座ったままの体勢で死んだように眠った。
髪に伝わる感触で急激に眠りから覚めた彼女は、反射的に上体を起こした。
すると、身体を起こしたマリクが微笑みながら彼女を見ていた。手のひらがちょうど彼女の頭があった場所で空を撫でている。
「リンダ、ありがとう・・・」
彼が以前と変わらない調子でそう言うと、茫然としていたリンダの瞳が、瞬く間に潤み、無意識のうちに彼に抱きついていた。
「って・・・」
鈍い痛みが彼の上半身に走るが、微かに震える彼女の背中を、包帯で巻かれた両腕でそっと包む。
「久しぶりに会ったのに、情けないところ見せてしまって。君が看病してくれなかったら、どうなっていたことか・・・」
その囁きに彼女は言葉ではなく、頭を横に振ることで答える。
「何よりも、元気そうで良かったよ」
そう言って安堵の息をつくマリク。
すると、彼女は一度身体を離し、無言で彼の瞳を見つめる。
きょとんとする彼が再び口を開こうとしたとき、今度は飛びかかるように彼の首に両腕を絡めた。華奢だが、男らしい肩に顎を乗せてうなじにやわらかな頬を当てる。
「リンダ、ど、どうしたの?」
思いもよらない彼女の行動に、さすがのマリクも顔が赤くなった。
長年音信不通だった兄が、久しぶりに故郷に帰り家族と再会し、妹が感極まって兄に抱きつく。そんな感じに彼は受けとめていたが、いっこうに離れようとしない彼女を受けとめているうちに、妙な気分になってくる。
彼は笑いながら、彼女の肩に手を置いて、そっと身体を離した。
「なんか・・・すごく心配かけてしまったようだね。ごめん・・・」
彼女の涙で腫れた目を見て、はにかみながら謝る。
すると彼女は自分の行動に驚いたように急に顔面を真っ赤にして項垂れてしまった。そして、蚊の鳴くような声を出す。
「ご・・・ごめんなさいマリクさん・・・。その・・・無事で・・・よかった」
「はは・・・」
彼は照れ笑いを浮かべ、人差し指でこめかみを掻いていた。
それから二人の間を沈黙がつづいた。
彼女は少し戸惑っていた。互いの無事を確かめ合い、『久しぶり、元気だった?』などという言葉で再会を喜び合うという理想的な場面こそなかったが、かわりに彼の笑顔を見た瞬間に抱きついてしまった。
言葉を発したのは彼が最初だった。
『ありがとう・・・』その言葉を耳にした瞬間に、彼女は抱きつくという自分でも信じられない行動に走っていた。
そして、『元気そうで良かったよ』と言ってくれた彼にまた同じことをしてしまった。
理想以上の行動を、ごく自然に出たことへの戸惑い。それは決して後悔という念に変わることはなかったが、今になって彼の反応が怖い。いやな気持ちにはならなかっただろうか。
そして、暗黒戦争の時と同じように、一緒にこの戦争を戦い、私のことを守ってはくれないのではないだろうか・・・。
彼は落ち着かないのか、目をきょろきょろさせている。
彼女はかたわらで正座の格好で座り、寂しげにうつむき、肩をすぼめて両腕を股の間に落としている。
彼は彼女を見て思わずどきっとした。横ななめのアングルの彼女は、憂い気で、どこか大人の色気を感じさせていた。彼は無意識のうちにそんな彼女を見つめていた。我に返って軽く頭を左右に振る。
(エリス様・・・)
熱くなった頭を冷やす呪文のように、彼は思い人の名を呟いた。なぜかリンダに聞こえないように、小さく。
そして、再び言葉を放ったのはまたもマリクの方だった。
「リンダ。私もこの戦いに加わるよ。また、一緒に戦おうか」
その言葉で、彼女の不安はいっぺんに吹き飛んだ。
「は・・・はいっ!」
満面に笑みを浮かべて、大きく頷く。
そして、彼女自身気がついていた。暗黒戦争の時よりも、彼を慕う気持ちが、この2年間で抑えてきた思いをかけて、数倍にもふくれあがっていることを。
かたやマリクは心の中で、妹のような存在であったリンダという少女が、いつの間にか別の領域に存在しているという事を、おぼろげながら気がつきはじめていた。