あまたの犠牲と悲しみをまき散らした、英雄戦争は終結した。
復活したガーネフ・メディウスは完全に闇の彼方へ消え去り、世界は正真正銘、平和への道を歩み始めた。
アカネイア歴六一〇年初秋――――聖都アカネイア・パレスにて、終戦後最大の儀式が催されようとしていた。
アカネイア神聖王国・前王妃ニーナが、アリティア太子マルスに対し、大陸の全統治権を譲るため、十諸国の重鎮百官を招へいし、荘厳な禅譲の大礼を執り行うことになったのである。
神聖王国の後継者のみに許される金冠と竜衣を纏ったアリティアの太子マルスは、姉であるエリス王女、そして婚約者であるタリス王女シーダと共に、千人の近衛兵を伴って聖都パレスへと入国した。
パレスの民たちは、沿道をうめつくし、英雄の再来を驚喜した。マルスもまた、後ろに馬を並べるシーダ王女とともに、手を振って歓声に答える。
そして、後ろに連なる近衛兵団の列最前に、マリクの姿はあった。
終戦後、彼は一度カダインに帰し、大師ウェンデルに代わりカダイン魔道総督に就任したエルレーンの引き継ぎ補佐を半年ほど行った後、旧友マルスに招へいされてアリティアに仕えていたのである。
賞讃の嵐がマルスに浴びせられているのを、彼は微笑みを浮かべながら聞いている。そして、何気なしに、沿道を一瞥した。
その沿道の野次馬たちの一角に、リンダの姿はあった。
白いワンピース型の準司祭服を身に纏い、亜麻色の髪はいつものように頭の後ろで結ばれ、行軍時の面影そのままであった。
彼女の目の前を白馬に跨った英雄王が通り過ぎる。観衆の視線がその白馬を追うのに対し、彼女だけは後方につづく近衛兵たちの方に向けられている。両手が無意識のうちに胸のあたりで組まれる。
(・・・・・・)
視界を遮る観衆。彼女はつま先に力を込めて背伸びをする。
もともとそれほど背の低くなかった彼女は、背伸びをすると簡単に視界が開けた。顎をそらし、目を細めたりしながら、近づいてくる近衛兵の列に必死に視線を送っている。
「あっ・・・・・・」
一時的に視力が上がった彼女の瞳に、その姿は鮮明に映った。そして、思わず声を上げる。
マリクもまた、何気なしに一瞥した沿道に、偶然とでも言うのか、亜麻色の髪の女性を、くっきりと捉えた。思わず瞠目して、彼女を見る。
「リンダ・・・」
パレスに来れば、彼女のみならず、懐かしき戦友たちに再会できることは至極当然のことである。
しかし、なぜか沿道に立つ彼女の姿を見た瞬間、彼の心臓は一瞬、一際大きく脈打った。
それは三〇秒程度の場面だった。列は進み、彼女の姿は後方に消えた。
彼女は確信した。彼は自分に気がついている。そして、少しの時間だったが、彼の表情の変化を、確実にくみ取ることが出来た。そして、彼は近衛兵の列に隠されていった。
「いけない・・・戻らないと・・・」
彼女は慌てて野次馬たちをかき分けて雑踏を抜け出した。禅譲式で、神器である玉璽と錫杖を神の御前に捧げ、大陸の平穏無事を祈るという、大役があったことをすっかり忘れていたのだ。
暗黒戦争から英雄戦争までをともに戦ってきた戦友たちがいた。だが、その多くは戦死、あるいは戦後に表舞台から姿を消していった。
マケドニアの王女ミネルバは、乱世の悲劇を憂いて妹マリアとともに王族を退き、修道院に去った。
流浪の剣士ナバールは、また忽然とその消息を絶った。
火竜族の最後の末裔バヌトゥは、神竜族の王女チキをパレスの戦友に託して、姿を消した。
オレルアンの戦友・ウルフ、ザガロ、ビラクは主君への忠節を枉げずに、アドリア峠に散った。
悲劇のグラ王女シーマは、勇者サムソンとともに隠棲の道を選んだ。
マルスの良き理解者であった、騎士団隊長アランは病に勝てず、戦後間もなく亡くなった。
股肱の臣であったアベルは、消息を絶った恋人エストを追い、去った。
――――かつて、大陸再建を旗印に集った仲間たちは、平和という目的にたどり着いたとき、役割を終えたかのように、自然に、あるいは運命をたどるまま、消えた。
それは、新たな世界の出発でもあった。
そして、ここにまた一人、歴史の表舞台から幕を引く、一人の女性がいた。
ボア大司教の読み上げる、禅譲のみことのりを、じっと瞳を閉じて聞いている、前王妃・ニーナ。
愛する男の面影を断ち切れず、ハーディンを追いつめたのは自分の責任だとし、戦後その後始末を自らの意志で行い、後事を英雄マルスに委ねて、王位を退く決意をした。
金冠竜衣を纏ったマルスが、一万諸侯が見つめる大宮殿の階をゆっくりと昇殿する。
階上に整然と立つニーナ。マルスが階上に到達すると、二度、三度とニーナに拝礼する。
そして、銀糸の司祭服を纏ったリンダが、玉璽と錫杖が載せられている金の装飾に彩られた台を捧げながら一歩一歩、ニーナの前にそれを差し出し、跪く。
ニーナが恭しくその台を手に受け取り、マルスを見る。
「アカネイアを――――頼みます――――」
ニーナから台を受け取ったマルスが、儀礼にのっとって答える。
「神聖なる高祖高宗のご意志を継ぎ、蒼氓(そうぼう)を安んじ、有能なる臣下を用い、今在りし勇傑たち、そして志半ばに倒れし有志とともに、大陸の平穏を築き上げてゆきます……」
そして、ニーナとマルスがゆっくりと入れ替わる。
マルスが台を拝し、同時にニーナがマルスに対して深く拝礼すると、階下の臣民たちから万歳三唱が怒濤のごとくわき起こる。
誰しもがアカネイアの英雄王マルスの誕生を祝福していた。
と、同時にアカネイア神聖王国を建国した、太祖アドラー1世の皇統は、二十四代をもって事実上、断絶を見ることになった。
高らかと歓喜の声に応える、新王マルス。ニーナはどこか淋しさと安堵感を漂わせながら、歓喜の中、階をゆっくりと降りて行く。
リンダはその様子を階上の端から見つめていた。新時代の幕開けを、生々しく目の当たりにするようだった。
彼女にとっては、新王となったマルスよりも、幼少から亡父とともに敬慕しつづけたニーナが、パレスから去って行くという現実に、言い様のない哀しみに襲われていた。
それは、ニーナとともに、亡父の面影も去ってゆくと言うことでもある。ニーナに仕えていたことで、彼女の心の中に、父は生きていたからだ。
だが、彼女は王位を退くニーナに仕えることを許されなかった。他ならぬニーナが彼女に言った。
(私は暗い時代の象徴でした。今は世界も平和になり、私ではなく、新らしく、若い力が必要なのです。あなたはその中の一人として、アカネイア・・・いいえ、この大陸の明日を築き上げてゆかねばなりません。古きしがらみを捨てて、新しい人々とともに、明日を築いてゆきなさい――――)
階下の席で、歓喜に応えるマルスを眩しそうに見守っているマリクがいた。
愛するエリスを救い、ひとつの悲願に手を取り合いながら、暗黒・英雄両戦争を戦い抜き、悲願は成就した。後はエリスとともに、英雄王マルスを支えながら、平穏に過ごしてゆけばいいと思った。
だが、そう決意を見せる彼の心にも、一抹の不安はあった。
マルスとハーディンを比する訳ではない。だが、人間というものは弱いもので、権力を手にすると変わってしまうものだ。
マルスが必ずしも豹変するという事ではない。だが、小さな頃から知っていて、両戦争を共にした、あのマルスのままではなくなるだろうと言うことであった。
英雄戦争後、マルスは国土の復興に心血を注ぎ、タリス王女シーダとの華燭の典はまだであった。
だが、ニーナから禅譲のみことのりがもたらされると、マルスは大いに喜んだ。
アカネイアを統べる英雄王として、禅譲を受けた後で、シーダ王女と華燭の典を挙げることを決意した。
家臣たちは讃美し、度重なる朗報に、驚喜する者、感涙にむせぶ者様々だった。
そんな中で、彼はいったいマルスに何を期待しているのだろう。皆と共に喜びを分かち合ったことは確かだった。だが、その奥でこれから先の不安というものが、考えもつかない推察を生み出す。
マルスのもとに、禅譲の詔勅が下されたとき、彼はマルスに言った。
「ニーナ様は臣民の信頼厚く、主上国をよく治めております。戦争が終わって一年足らず。民心の安定が完全ではないこの時期に、禅譲のみことのりを発せられるのはおかしいです。ここは一度辞退されるのがよろしいでしょう」
しかし、マルスは笑いながら返す。
「考えすぎだよマリク。ニーナ様はニーナ様のお考えがあって決断したことだと思う。王位を譲るなんて、そんなに簡単に決められることじゃないってことは、私にだって判っている。だから、ここでもし断ったりしたら、ニーナ様は今まで以上に苦しむことになるよ。私は至上の位なんていらない。でも、ニーナ様を苦しめるようなことはしたくないんだ」
マルスの婚約者であるシーダも、老臣ジェイガンも、禅譲の詔勅を受けることには大賛成であった。ゆえに、彼もそのときはマルスの意向を素直に受け止めることができた。
しかし、やはりどうしても彼には、マルスが変貌したのではないかという不安の方が強かった。
以前のマルスならば、ニーナが望もうが、アカネイアの至上位を継ぐなどと言うことは考えもしなかったはずである。
そのような思惑は、ただの考えすぎなのか。とにかく、エリス王女を迎えることになり、彼自身の目的は達成されたのだ。そんな安心感と、心の余裕が引き起こす他愛のない杞憂にすぎないのだろうか。
禅譲の大礼は厳粛なまま終わった。
マルスは正式に第二十五代アカネイア至上位を継承し、ニーナは尊妃の名誉称号を与えられた。
マルスの意向で、国号はそのままアカネイア神聖王国となり、自身はアリティアに帰還する運びとなった。パレスの玉座に腰を据えることを望まなかったマルスに、マリクは心の底で安心感を抱いていた。
ニーナは数人の近従とともにパレスを去っていった。
アカネイア正統皇族最後の当主の後ろ姿は、満身が寂寥感に包まれていた。
見送りはニーナを幼少の頃から養育してきたボア大司教とリンダ、そして、ジョルジュ、ミディア、アストリアらアカネイア恩顧の忠臣たち。しかし、そこに新王マルスの姿はなかった。
ニーナを支えつづけた忠臣たちは別れを惜しみ、涙する。そして彼女も泣いた。
「自分の信じた道を、進みなさい」 ニーナはそう言い残していった。大事をやり遂げたかのように、すがすがしい微笑みを残して、悲運の女性は、過ぎていった。
彼女には、その言葉が自分に対する激励のように感じてやまなかった。心なしか、ニーナの視線が自分に向けられているような感じにとれたからだ。
「ニーナ様…………どうか、どうかいつまでもお元気で」
ニーナの姿が完全に消えても、彼女はいつまでもその場に立ち、とめどなく流れ落ちる涙を拭おうとはしなかった。
「やあ、久しぶりだね」 城下の酒場で軽くアルコールを含んでいたリンダの背中に声をかける男。
彼女が驚いて思わず振り返ると、見慣れぬだぶだぶの服に頭巾のような帽子をかぶった、怪しげな若い男が、にやにやしながら彼女を見ている。
「誰・・・・・・」
本気で顔色が青くなる彼女に、男は慌てて頭巾を外す。
すると、後ろで結ばれた金色の長い髪が、ふさりと背中に落ちる。それでも、まだ誰かが判らない。いや、見たことがあるけど・・・。
「おいおい。私は一年見ないと忘れ去られてしまうほど印象がないかな?」
「えっ・・・?」
男は呆れたようにため息をつくと、仕方なさそうに、わざとらしく名乗る。
「初めまして、美しいお嬢さん。私、エルレーンと申します」
「あっ・・・」
思い出したように彼女の表情がぱっと明るくなる。
「お久しぶりですっ・・・いやだ、エルレーンさんだったんですか?」
「はははは。全然気がつかなかったのかな?」
「もう・・・変わりましたよね。全然、判らなかったです」
英雄戦争終結後、エルレーンはカダインの最高司祭に任命され、またアカネイア王国から魔道総督に封じられたのであった。
魔道の力においては弟弟子マリクには及ばなかったが、統治学、政治学に関して段違いに優れていたエルレーンは、マリクに成り代わって魔道都市カダインの最高位についたのである。
彼は禅譲式の国賓としてやってきていた。戦争時のようにウエーブのかかった美事な長髪はしっかりと束ねられ、以前のような耽美な雰囲気はなく、最高司祭らしい偉容さをかもし出していた。
「リンダ、あなたは変わっていない・・・いや、変わらないが、ますます美しくなったようだ」 きざなせりふを臆面もなく口にし、小さく笑う。
「もう・・・いつからそんなこと言うようになったんですか?」
「私はもともとこういう性格なんですよ」
「うそばっかり・・・」
不思議である。なぜかエルレーンとだったら気兼ねもなく話すことができる。良き友、良き兄といった感じだろうか。
「久しぶりにパレスに呼ばれたかと思うと、禅譲の礼だとは思いもよらなかった。・・・ああ、隣いいかな」 彼女の頷きを確認してからエルレーンは彼女の横の席に腰かけた。そしてオーダーを取ると、疲れたようにため息をついた。
「六〇〇年も続いたアカネイアの正統も、ニーナ様の代で終わりか――――いやあ、時代の流れだね」
「・・・・・・」
ふと漏らしたその言葉に、リンダは悲愴な面もちになる。
「しかし、マルス公も思い切ったことをするようになったものです」
その言葉に、彼女は思わずエルレーンを凝視する。
「禅譲のみことのりはニーナ様の意であったとしても、各国諸侯や臣民をそろえての大礼式を望んだのは、マルス公ご自身の意向であったということですよ」
「? ・・・・・・どういうことですか?」
「要するに、マルス公は多くの人々が見守る中でニーナ様から神璽を譲られることで、権威の継承を誇示したかった・・・というわけだよ。――――ま、これは噂による単なる憶測に過ぎない話だけどね」
エルレーンは出された果実酒をひとあおりする。そして、唖然とする彼女にさらに言った。
「マリクはずっと夢だったエリス王女を迎えることが可能になった。そして、多分これからマルス公を支えて行くことになるだろうが――――しかし、あいつはこの先マルス公に何を期待して行くつもりなのか、私にはよくわからない」 エルレーンの話は彼女に強い衝撃を与えるには十分であった。
マルスが権威誇示のために、ニーナに禅譲の大礼を迫った? あの控えめで、心優しいマルスが?
――――それよりもなお、彼女が心配なことはマリクのことであった。
エルレーンの話が本当だとすると、彼はマルスの変貌についてゆけるのだろうか。
彼はマルスと幼なじみだ。暗黒・英雄両戦争を共に戦ったとき、彼はマルスに小さな頃と変わらない姿を見つづけてきた。
心優しく、どこか無邪気で、気取らない少年の姿を。そして、おそらく今も。
「マルス公もいつまでも子供ではない。禅譲の大礼が悪いと言っているのではない。むしろ至上の位を継ぐ者として、当たり前のことだと思う。しかしなあ――――エリス王女を迎えれば、あいつはマルス公の義兄――――アリティアの外戚となるわけだし・・・何があっても、マルス公について行くという気概が、あいつにはあるだろうか。エリス王女を支えることではない。これからはマルス公・・・いや、このアカネイアを支えてゆかなければならないんだ。そんな二人が、いつまでも昔のような関係でいられると思うか」
「マリクさんは、それはよくわかっていると思います・・・」
「だと、何も問題はないと思うがね」
「・・・・・・」
彼女は不安に満ちた表情を浮かべる。
自分でもわかる。何かを聞くたびに、何かに遭遇するたびに、笑うことのない自分を。彼のことだけを考えていてしまう自分に、うんざりしてしまうこともある。エルレーンは言う。
「あいつのことだから、きっとこれから色々と悩むこともあるだろうけど、エリス様ではなく、誰かでなくては解決できないこともあるんじゃないかなあ」 彼女を一瞥してグラスを一気にあおり、おかわりを注文する。
「エルレーン・・・それって、どういうこと?」
「さあね。それはリンダ、君自身が一番よくわかっているんじゃないかな?」
六一一年初。アリティアに帰還したマルスは、ニーナから禅譲を受け、事実上のアカネイア王となったこと。そして、国土の復興もあらかためどがついたのを契機に、第5代アリティア国王に践祚した。
そして、長年待ちに待った、タリス王女シーダとの華燭の典を、ここに挙げた。苛烈を極めた暗黒・英雄戦争後、マルス、そしてアリティアには吉祥がつづいた。
穏やかな緑の風景が連なる城下町を、マルスらしく質素に、それでいてどこか華やかに新婦と寄り添いながら馬車で沿道の観衆に応える。そんな二人の表情に、マリクは昔と変わらない雰囲気を感じて、顔がほころんだ。
そして、自身にも吉祥はやってきた。エリス王女の降嫁が認められたのである。
とは言っても、まだ正式に婚約という形であったが、彼にとっては何よりの喜びであった。そして、アリティア祭祀の高官である主教に任命され、事実上、アリティアの参政の列に加えられたのである。
しかし、悲しい報せももたらされた。
マリウス・コーネリアス・マルスと、アリティア王家3代にわたって仕えた古参の重臣ジェイガンが亡くなったのである。享年六十八。
コーネリアス前王が非業の死を遂げてから、マルスの父親的存在でもあり、マリクにとっても心から信服し、信頼できた老将軍の死は、またひとつ、人と時代の変遷をかいま見るようであった。
ジェイガンの葬礼が行われる。
国王マルスはその遺影の前に跪き、肩を震わせて慟哭する。マリクも沈痛な面もちで、その魂を見送った。
そして、ジェイガンの死をもって、アリティアはマルスを中心とする若い世代が統べることになった。心のよりどころはないが、互いに支えあいながら信じた道を進む、前途明るい若者の時代が訪れた。
マルスは昔と変わらぬ無邪気をたたえた表情でマリクと談笑する。
幼い頃から共に学び、共に過ごしてきた二人は、やはりそのままだった。少なくとも、彼自身マルスと話をしながらそう思っていた。
彼が自邸に戻ると、エリス王女が笑顔で彼を迎えてくれた。彼もまた、愛する人の笑顔を見ると自然と心が安まる。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
すっかり夫婦のような会話である。エリスは彼と同棲しているわけではないのだが、ほぼ毎日のように彼のもとに足を運んでいる。しかしエリスはまだ婚約者であり、アリティアの王女という立場上、彼はあまり砕けた会話はできない。
「いつも申し訳ありません……」
法衣を外さずに食卓に並べられている料理のもとに足を運ぶ。どこか疲れた様子の彼を見つめながら、エリスは最後に仕上がった料理を彼の前に置き、彼の正面にゆっくりと腰かけた。
「いただきます」
食前の祈りを終え、おもむろに食器を手に取る。
「マリク」
一口口に料理を含んだときに、エリスが不意にマリクの名を呼んだ。
「ねえ、一つだけ聞いてもいいかしら」
「はい」
彼は手を止めてエリスの顔を見る。エリスの端麗な美貌には、どこか寂しそうな色を浮かべ、微笑んではいたが、これから訊く事に対する、隠しきれない不安をにじませていた。
「これから先、あなたは主教としてマルスを支えてゆくことになるわ」
「はい」
「きっといつかは、あなたやマルスの思い通りにならないこともあると思うの」
「ええ」
「お互いに示す道が違って、言い争い、仲違いをすることもきっとあると思う・・・」
「・・・・・・」
「希望もあると思うけど、絶望することもあるわ」
エリスはふと睫毛を伏せる。
「どんな辛いことがあっても、マルスを支えてくれる?」
エリスは彼の答えを待つ。そのとき、彼の脳裏によぎったのは、禅譲のみことのりを意外にも快諾したマルスの笑顔であった。
彼が知るマルスは何事にも常に控えめだった。
英雄戦争後、群臣の薦めにもかかわらず、アリティアの王位を継ぐことさえも渋りつづけていたマルスが、アカネイアの至上位という、いわばアリティア王と比べればはるかに天上の地位を簡単に承けたことが、未だ彼の心の中に不安としてしっかりと息づいていた。
エリスを迎えられると言う心の余裕が生んだ、他愛のない杞憂であったはずが、彼も知らないまま、心の中で不安として増幅していたのだ。
「・・・・・・」
不覚にも、彼はエリスに答える言葉が見つからなかった。「大丈夫です」と、安易に言えなかった。
エリスは沈黙する彼の迷いを確信し、言った。
「わかっているわ。突然、変なこと訊いてごめんなさい。私――――マリク、あなたのことを信じているから。あなたは強い人だから、大丈夫ね。なんて言っても、あなたは私を救ってくれた、世界で一番、頼もしい人ですもの・・・」
それはまるで、エリス自身に言い聞かせるかのようであった。
そして、彼はエリスの言葉が不思議と心に重くのしかかるのを感じていた。フォークを握る手が、いつまでも止まったまま、動かすことができなかった。