アリティアの主教マリクがマルス王の勅使としてアカネイア・パレスに足を踏み入れたのは、禅譲の大礼以来・・・いや、まともにパレスを訪れたのは英雄戦争以来実に二年ぶりのことであった。せせこましい禅譲の大礼式では、聖都の美観を十分に満喫する余裕などなかった。戦友たちとも談笑する時間すらなかった。
勅使はほぼ全権委任である。王の命を果たすためならば、幾日目的地に滞在したとしても構わない。
しかも、今回マルスの君命は、親藩王国グラの王籍を破棄し、この地に隠棲する前王女シーマの復位を勧告するためのものである。
アリティアからの途上、彼の心はどんよりと曇りがちになっていた。
一度王位を捨てた者を再び王座に復すなどと、アカネイア大陸史上、前代未聞の話である。それよりも、シーマ復位が敬服する幼なじみであり、親友でもあり、主君であるマルスの口から発せられたことに、彼のショックは予想以上に大きかったのだ。彼に共をしていた五人の副官たちは、いつもうなだれるようにして馬を進める彼を心配してやまなかった。『大丈夫。心配しないでくれ』と返す彼の微笑みは、完全に繕っていた。
パレスの街を囲む城門をくぐり抜ける頃には、そんな心の迷いを裏打ちするかのように表情がとても険しくなっている。パレスの民たちは、マルス王初の勅使下向の話題に持ちきりで、高司祭が着用する濃紺の戴帽と衣装を纏った彼を、禅譲の大礼に劣らぬほどの観衆が出迎えた。さすがにそのときは笑っていたが、意外なほど自分を歓迎している群衆に戸惑っていた。
彼は観衆にもまれながらも街の中心部を抜け、郊外にある静かな田園地帯へと馬を進めた。畑の中に点在する小さな家の一つに、シーマと勇者サムソンが暮らすところがある。情報はすでに得ているからその家は判っている。
馬をゆっくりと進ませながら、彼は周囲に目を配らせた。農事に勤しむ老人たちの姿がある。見ていると、どこか心地よい。時間がゆっくりと流れるような、優しい雰囲気を醸し出してくれる。本当の『平和』とは、このようなものなのだろうか。宮廷の正装をした自分たちがまるで場違いじゃないか。そんなことを思いながら、のどかな光景にわずかな羨ましさを感じながらも、すぐに現実に引き戻される。やがて、煤けた赤煉瓦造りの家の前に、一行の馬は歩を止めた。
こん・・・こん・・・
木扉の乾いたノック音が響く。彼と副官たちは襟元をただし、戴帽を調整して応答を待つ。
「はい――――」
まるで何かを覚悟しているような、重々しい感じの女性の声とともに、扉は内側から開かれた。彼と副官たちは深々と拝礼して名乗る。
「アリティアの主教マリクにございます。このたび、シーマ殿に対し、我が君より直々勅書を賜れ、僭越ながらこの私が勅使として参上つかまつりました――――」
「そろそろ、お越しになると思っておりました――――どうぞ・・・・・・狭く汚い家ですが――――」
女性はそう言って勅使たちを家に案内した。彼はふと頭を上げてその女性を見る。
ポニーテールにはしてあるが、烏羽色のまっすぐな美しい髪が強い印象を与え、凛々しく端正で、シャープな美貌は並の男よりも威厳に満ちあふれている。この人こそシーマ・グラ前王女だ。英雄戦争時、アカネイア鎮西将軍として、斜陽のグラを統治し、兵卒人民の心の拠り所となった、悲運の王女。戦争末期、彼女は勇者サムソン・グラ兵とともに反乱軍に身を投じた。そのときの雰囲気は少しも変わっていない。隠棲したとはいえ、その気品や威厳は衰えるものではないのだ。ただ、戦友であるマリクとは二年ぶりの再会のはずである。だが、再会を歓喜するような感動的な雰囲気ではない。シーマからすれば、久しぶりの戦友でさえも招かざる客。彼自身も、勅使などという形でシーマに会うことがとてもつらかった。
マリクの足下に跪くシーマ。
「遠路はるばる拙宅へのご下向、心より恐縮いたします――――至上の叡慮、謹んで拝命賜ります―――」
勅使に対する挨拶の儀礼は、シーマ自身グラ統治時代に何度も経験している。感情のこもっていない、マニュアル通りの挨拶。彼は心痛な面もちでマルスから預かった羊皮紙の勅書を取り出す。そして、一呼吸をおいてから、ゆっくりとそれを読み上げる。
「詔―――――グラ前王女シーマ、その意向により王籍を退き、パレスに隠棲するも、故国の蒼氓、いまだそなたへの忠心篤く、この意志変えること困難である。人臣の平穏無事のため心苦しきことなれど、今一度王籍に復し、国家の安寧と万民の拠り所になることを切に望むものである――――」
マルスは詔書だけでシーマを説得できるようにと願ったのか、ぎっしりと細かい字で丁寧に書きつづっていた。彼が読み終えるのに、ゆうに3分はかかった。
「詔、このシーマ、確かに承りましてございます。しかし、私は一度王族を退いた身――――事は重大ですので、返答は後日ということにて、お許し下さい・・・・・・」
元より、彼はそのつもりで勅使の任を引き受けたのだ。マルスも即答など出来ないことを判っていただろう。とにかく、彼は勅使の第一使命を果たし、心のどこかでほっとしていた。
ようやく、改めて二人は戦友同士としての再会の喜びに浸ることが出来た。だが、やはり心から再会を祝すといった感じではなかった。シーマにとってははた迷惑な詔を下され、彼自身も心にもない形で、シーマに対し主君の命を伝えに来たからである。心からの歓喜はなかったが、互いに同情の念があった。安物のワインを酌み交わしながら、シーマは言った。
恋人サムソンは、現在副業の漁のため、外洋に出ている。もう3ヶ月になるのだという。だが、サムソン自身もいつかはシーマに対し、グラの王位に復す時がくるのではないかという覚悟を、ある程度固めていたという。それは、禅譲の大礼をかいま見て、マルスの姿勢の変化を察知したからだと言った。あの大礼式の一連の流れを見て、マルスの変化に気づいていたのは、彼だけではなかったのだ。
「マリク、貴方も色々と苦労されているようですね」
何度人から同じことを言われ、そのたびに数え切れないほどのため息をついただろう。
「いえ……もう、慣れておりますから……」
そうは言っても、表情に悲しみをにじませていると、説得力というものが感じられない。
「・・・何もマリク、貴方がそんなに気に病む必要などないのです。今回のことはどちらにせよ、ずっと考えていて、結果私自身が決めた道です。貴方には何の責任もないのですから」
シーマは彼の悩みをよく解っていた。彼と行動を共にしたのは英雄戦争も末期の頃からであったが、当時は皆、志を一つにして戦いに望んでいたのだ。その中で、互いの悩み、思いというものは理解し、支え合ってきたのだ。今、それぞれに違うのは、あのときのそんな気持ちを、忘れず抱きつづけているか、忘れ、あるいは心の奥に押し込めて過ごしているかの差である。彼とシーマはあのときの気持ちを抱きつづけている。だからこそ、シーマは彼の苦悩を痛いほどよく解る。
「エリス王女はお元気ですか?」
彼が婚約をしていることを知って、シーマは話題を変えた。
「えっ・・・は、はい」
「どうしたのです?」
彼のいささかな混迷の表情を、シーマは見逃さなかった。
「王女とは仲睦まじくしているのでしょう?」
彼は自分自身でなぜ混迷の表情をし、言葉がどもったのか解らなかった。幼い頃からずっと慕いつづけているエリスに対する想いは決して変わってはいない。むしろ、今もエリスに対する慕情は重なりつづけている。混迷の表情など見せれば、まるで二人がさも仲が悪いように見えるじゃないか。
「もちろんです。私はエリス様のために魔道を極め、二戦争を戦ってきたのです。私にはエリス様が必要であり、エリス様も私を必要としています」
まるで自分自身にそう言い聞かせているように聞こえる。
「マリク、水を差すようなことを言うようで申し訳ないのですが、貴方は今、本当に幸せなのですか?」
突然、その質問の言葉が、彼の胸を強く突き刺す。
「私は一度、グラの王籍を捨て、サムソンと共にここに住んでいるので思うことがあるのです。・・・確かに、私は王族という枷を捨て、一人の女としての幸せを選びました。・・・でも、それが本当の幸せかと思うと、疑問が沸いてくるときがあるのです」
「・・・・・・?」
彼はまっすぐシーマを見つめた。穏やかな表情で前王女は語る。
「一人の女になると心に決めても・・・・・・やっぱり――――なんて言うのかしら、王族の血って言うのが身体中に流れているせいかな・・・。サムソンとの日々はすごく幸せです。とてもかけがえのない、楽しい毎日です。・・・でも、ふとグラの民のことを考えてしまう時があるのです。王籍も、国も捨てて、グラのことは忘れないとと思っていても、無意識のうちに考えてしまうときがあります。気づかないうちに気が滅入ってね・・・そのたびに彼によく慰められました。『元気を出せ、私がそばにいるじゃないか』・・・って」
そのとき、彼の脳裏に漠然と浮かび上がる影があった。
「多分、彼自身も、ここでの生活が私達にとって本当の幸せではないってことが解っていたのかも知れません。・・・どんなに自分を変えてみても、私の身体に流れる王室の血は変わらない。誰かに望まれようが望まれまいが、いつかは王籍に帰らなければならない・・・。彼も私も、あの大礼式の後に覚悟は決めましたけど、もしかすると、ずっと前から・・・彼と共にここに移ってきたときから、ある程度構えが出来ていたのかも知れません。だから、彼も私もそんなに深く悩まず、覚悟を決めることが出来た――――」
数秒の間が空いた後、シーマは小さく笑った。
「私は根っからの『王の娘』なのね。・・・父親があれでも、グラ王。そして私はグラ王の娘。無意識のうちに、家臣や民のことを考えてしまうのです。私にとって一番大切なはずのサムソンのことよりも、そっちの方を考えているときの方が多いなんて・・・おかしな話でしょう」
シーマが彼に何を言いたいのか、彼は理解した。シーマが言いたいのは、エリスが純粋に自分のことを愛してくれているのか。一人の女性として、自分を愛してくれているという自信があるのかということであった。
グラの王女シーマと、一勇者サムソンの身分違いの恋愛逸話。それをアリティアの王女エリスと、カダインの一魔道士マリクという身分違いの恋愛に置き換えて、シーマは訊ねている。
あなたたちとは歩んでいる道が違うと言い切れるものならば、シーマの話は第三者の立場で同情して聞ける。しかし、どこか自分と共通する部分があるように思えた。親身になって、彼はシーマの話を聞いていた。
『――――どんな辛いことがあっても、マルスを支えてくれる?――――』
エリスとの食事の時、彼女が話していた内容が脳裏に過ぎる。エリスは彼に対し、アリティアを、そしてマルス王を支えて欲しいと言った。当然のことだ。彼も、エリスのためならば・・・と、自分に言い聞かせた。
しかし、エリスの本心はどうなのだろう。国のこと、弟であるマルス王よりも、自分を愛してくれているのだろうか。王女ではなく、一人の女性として、マリクという一人の男を愛してくれているのだろうか。
あのとき、エリスの言葉が心に重くのしかかるのを感じた。あの言葉は、一人の女性としてではなく、アリティア王女としてのものだったのか――――。
(私は高望みなのか・・・・・・ただのわがままな子供なのか――――)
マルスに対しては昔のままでいて欲しいと願い、そして愛するエリスに対しては、心のどこかで国よりも自分だけを見つめていて欲しいと願っている。マリクはそんな自分勝手な思いに、いらだちを感じていた。
「・・・慰めてくれる人がいるってことは、いいものですね――――」
シーマがふと呟いたとき、マリクの脳裏に現れた影を包む靄が一瞬にして晴れた。
そして、そこにたたずむ人影は――――リンダだった。
(リンダ――――)
頭の中で、彼は一途で純真な少女リンダの前に立っていた。
悲しげに、今にも泣き出しそうな可憐な表情で、少女はまっすぐに彼を見つめていた。
(リンダ――――何故、君が――――)
彼がそう呟くと、少女はまぶしそうに瞳を細め、彼に向かって駆け出した。
きらりと輝く宝石の粒が、宙に舞う。
少女は精いっぱい、彼の胸に飛び込んだ。
彼は自然と、少女の細い身体を受けとめる。
(大丈夫――――私がついている――――君に悲しい思いはさせない――――)
彼は少女の髪をなでながら、囁くように言った。
どこかで聞いたことのある科白。
少女は何も言わず、彼の胸の中で泣く。
砂嵐のような記憶の回想の中で、場面はフラッシュする。
怪我をしている。ああ、エルレーンにやられたときの――――
目を覚ます。微笑んでいる少女が彼を見つめている。
彼も微笑んだ――――
(私が――――私がそばに――――いますから――――)
初めて、少女の言葉が聞こえた。言葉が彼の世界に反響する。
とてももろく、切なく、少女の言葉が優しい針となって彼に突きささる。
彼が返す
(私にとって――――君は大切な人だ――――)
その言葉も、延々と反響する。
(そばに――――いてくれるかい――――)
その言葉がエンドレスとなるのを最後に、数秒間の白昼夢は醒めた。はっとなり、目を見開いてシーマを見る。シーマはきょとんとした表情で彼を見ている。そして、急激に彼の心を捉える、ひとつの感情があった。
どうしたことだろう・・・・・私は・・・私は大切なことを忘れていた・・・。こんなに悩むなんて・・・・・・私には解ってくれる人がいるじゃないか・・・・・・今も変わらずに・・・・・・いてくれるだろうか・・・今も変わらずに・・・僕を待ってくれているだろうか・・・・・・
私は何を望んでいるのだろう・・・。それは、ただの甘えなのだろうか。現実に目を向けない、自分自身の弱さなのだろうか。エリスを迎えて夢を叶え、そしてマルスに仕え、彼と共に歩む。期待の中にある、一点の虚無感。それは見た目は小さく、とてつもなく深い。埋めようにも、自分じゃどうしようもない。日々、広がる不安。安らぎを求めたい。この惰弱な心を、慰めてくれる、ひとときの安らぎが欲しい・・・。シーマが訊ねた、本当に幸せ。解らない。それが何なのか、今の私には解らない。でも、今は無性に叫びたい。虚しさの底から、救いを求めるように、精いっぱい、叫びたい――――
リンダ――――君に――――逢いたい――――