シーマは翌日、勅命を謹んで受諾した。
611年、ここにシーマは、グラの王位に復すこととなった。
だが、もとより彼女は王位というものに対して野心も未練もなく、マルスの勅書にあった、『民心の安定』すなわち、グラの民をアリティアに服従させることのみに力を注ぎ、わずか1年で再び王位を退く。そして、今度はサムソンと共にパレスをも去り、その消息は完全に途絶えることになる。
マリクはシーマからの返事を得ると、庶務があるという理由で随従の副官たちにシーマの返書を持たせて先に帰した。勅使の任務は遂行した。無用な滞在は至上のご不興を買うことになる。という副官たちの諫言も聞かず、彼は一人、パレスに残った。後にどんな咎めがあろうとも、今はそんなことは考えなかった。ただ、逢いたい人がいた。
忙しさと、将来への不安感が自分の心をしめつけ、いつしか大切なものを失くしていった彼の心。
『変わらないまま』なんていう理想を抱きつづけ、周りから取り残されていく、どうしようもない不安と孤独感。愛するエリスが側にいても、払いきれない漠然とした虚しさ。
(私は――――ひとりきりになってしまったのだろうか――――)
自分の思いを正しいと思う面と、それがただの虚栄だという自責の念。時が経つにつれて、彼はエリスの前からも笑顔を失っていった。どうしようもない焦りが、ますます彼の表情から微笑みを奪い去ってゆく。
揺れ動く彼の心。そんなときに、彼は戦友シーマへの勅使の任務を与えられた。シーマに接見し、勅命を伝えた後の、静かな会談の中で出た言葉。
(慰めてくれる人がいるってことは、いいものですね――――)
その言葉が、不意に彼の心の片隅を照らす、一条の光となった。失くしたものが急によみがえる。今にして思えば、当たり前のようなことが、何よりもかけがえのないものであった。あの、忌まわしい戦争のさなかで巡り会った、一人の少女。どこか境遇が似ている、哀しくも強い意志にあふれていた、澄んだ眼差し。妹のような存在だった彼女。気がつけば、いつも自分の側にいて、何かしら悩み、落ち込んでいるたびに慰めてくれていた。
あの頃は、それが当たり前のように感じていた。エリスを救うことだけに躍起になっていた自分は、彼女の想いを気づくどころか、くみ取ることが出来なかった。哀しいものだ。今になって、孤独という冷たい風が心を吹き荒ぶ中にあって、ずっと前から、自分を温めてくれていた人の大切さを、ようやく気がつくなんて。
無性に逢いたい。逢いたくて仕方がない――――堰を切ったように押し寄せてくる、烈しい慕情。
先ほどまで晴れわたっていた聖都の空を覆い出す雲。雨が降るのだろうか……。彼は正装を投げ捨て、田園風景の砂利道を、街に向かって走り出していた。
「リンダ……」
「あら――――雨が降り出しそう――――」
パレス城下の小さな教会。リンダは芽吹いたばかりの鉢植えの手入れをしながら、見上げた空を見てそう呟いた。
青空が灰色の厚い雲に覆われて行き、太陽が雲の蔭に隠れてゆくと、辺りは雨を警戒する人々が小走りに行き交う。アカネイア地方特有の、春の夕立。これから、本格的な春の到来を告げる、天の恩恵。
父が私を庇って死んでいったときも、春の夕立だった――――雷鳴とともに、私を抱きしめながら、父は逝ってしまった――――
決して消え失せることのない、生々しい記憶が蘇ってくる。やるせない悲しさが、いまだ彼女の心を覆っている。
彼女はそれからずっと独りだった。強がっていても、明るく振る舞っていても、心の空白は埋まることはなかった。でも、ただ一つだけ、彼女を満たしてくれた人はいた。共に同じ道を歩いていくうちに、いや、初めて逢ったときから、ぽっかり空いた心の隙間を埋めてくれた人。私に向けられた笑顔が、たとえ妹への慈愛の眼差しであったとしても、彼女にとって彼の笑顔が何よりも嬉しかった。彼に対する愛を抑えて、妹のようにいつも彼の側にいた。彼が、愛する人を思い落ち込むたびに、彼を支え、彼女もまた、亡き父と仇敵への憎しみに暗澹たる気持ちに沈むたびに、彼はどん底から救いあげてくれた。
いつしか、彼女にとって彼はかけがえのない存在となっていった。彼を間近で見つづけているうちに、兄を慕う情に似た愛が、一人の男性に対する愛へと変わっていったとき、彼女の心は、共に戦いの日々を過ごした時のまま、止まっていた。
「もう―――――二年なのね――――」
終戦。彼とこの地で別れてから、もう二年が経つ。禅譲の大礼で彼を見かけたのはほんの一瞬だった。逢えないまま、時は過ぎていった。やがて、彼が愛する人と婚約したという話を耳にした。わかっていたことではあったが、やはり哀しみは大きかった。あきらめよう、忘れようとしたが、そうすればそうするほど、彼のことが鮮やかに心に焼きついてゆく。そして、本気で彼を愛していることを痛感したとき、やるせない涙がとめどなく流れ落ちてゆき、枕を濡らす夜がたえなかった。
「…………」
教会の窓越しに、彼女は外を眺める。ぽつ・・・ぽつ・・・と、雨がゆっくりと落ちてゆく。
「春の――――夕立ち――――哀しい・・・・・・雨・・・」
街の風景をグレイに変える、春の雨。次第に強く、教会の屋根を打ちつける。窓越しに雨の聖都を見つめる彼女の瞳には、共に戦場にあったときの、いまだ鮮明な、彼の笑顔が映っていた。
彼のもとにゆきたい。すべてを投げ捨ててでも、彼のそばにいたい。私は妹でもいい。叶わない恋でもいい。ただ、彼を見ていたい。
なぜだろう。今日に限って、そんな感情が強く、彼女の心を捉えていた。彼がこのパレスに来ているから?公用で来ているから、絶対に逢えるはずがないと思っていても、今日はなぜか、気分が高ぶる。
(あのとき――――あの人と別れるとき・・・・・・追いかければよかった・・・・・・。思いのすべてをうち明けて、あの人の胸に飛び込めば・・・・・・)
切ない後悔が、いまだ彼女の心を捉えて離さない。『兄妹』という感覚のまま別れた、2年前の澄みわたった春の日。人の心をゆっくりと変えてゆく時間の清流の中で、彼女はまだ同じ場所の、同じ景色を見つめつづけている。
ゆっくりとよみがえる、静かでとても熱い思い。彼に対する変わらない慕情。かつてエルレーンが言っていた。
『エリス以上に彼を好きになって、彼を振り向かせるようにすればいいんじゃないかな・・・』
それは漠然とした、目的が曖昧な言葉ではあったが、ただ彼女は彼に対する思いが、エリスに勝っているような、そんな気がしていた。それは日が経つにつれて、徐々に強くなっている。離れていれば、離れているほど、彼が届かない所に行けば行くほど、思いは募りゆく。
『他の誰かじゃなくては解決できないこともあるんじゃないかなあ・・・』
その言葉が彼女の支えともなった。彼を解ってあげられるのは自分しかいないなどという過信などではない。だが、彼に惹かれてゆくうちに、無意識に彼の心と自分の心が重なるような、不思議な感覚にとらわれる。彼の側にいなくても、彼の喜怒哀楽が、そのまま伝わってくるような気がするのだ。
そんな想いが脳裏を強く過ぎったとき、空に雷光が閃いた。空気を切り裂く轟音が聖都を一瞬に駆け抜ける。驚きのあまりに思わず目を伏せた彼女が、再び瞼を開き、窓の外を見た。
「!?」
そして、彼女は思わず声を失った。その瞳に映る、一つの影。雨の中、濡れながらぽつりと佇む、親しい人影。それが誰なのか、気づいた瞬間に判る。時間が止まったかのように、彼女は瞬きもせず、その人を見つめている。
何かを求めて走り抜けたかのように、肩で息をしながら教会を見上げている。雨に濡れたエメラルドグリーンの髪を額に張り付け、何か思い詰めたような表情をしている。
「マリ・・・ク・・・さん・・・」
彼女の澄んだ瞳から、なぜか大粒の涙があふれ出してきた。彼の表情を見ているうちに、無意識に流れ落ちてゆく涙。どんなことよりも嬉しいはずなのに、この世で一番会いたい人が今、目の前にいるというのに、涙がぽろぽろと落ちる。雨に濡れながら何かを思うように天を仰ぎながら瞼を伏せるマリク。 追われるように、そして、追いかけるように彼はここに向かって走った。彼の背後に押し寄せてくる黒い不安。そして、彼から遠ざかってゆく、とても大切なもの。彼は黒い不安に巻き込まれないように、大切なものを逃がしてしまわないように、全力で駆けた。そして、この場所にたどり着いたとき、黒い不安はなりを潜めて、彼を襲うのを止めた。遠ざかっていたものも、動きを止めた。
過熱する心を優しく冷ますような春の雨がゆっくりと身体を濡らす。それは心の汚れを洗い流す聖水のようでもある。
それは不思議と彼の心を落ち着かせてくれた。今すぐリンダに会いたいという、ただ逸る気持ちを抑えてくれた。
「リンダ―――――」
瞳を閉じたまま、彼は呟いた。そして、一つ長いため息をつき、ゆっくりと瞼を開ける。
「…………」
「…………」
教会の入り口の扉に眼差しを送る。
透き通る雨越しに、一人の女性と視線が重なり合った。互いの時間が再び、止まる。瀟々と降り注ぐ、雨音が延々とつづく・・・。