第8話 決意~恭順と訣別~

 思いでのアリティア。まだ幼少の頃のマルスとマリクは、実の兄弟以上に仲が良く、いつも二人で遊んでいた。汚れを知らない小さな親友同士は、たあいのない悪戯をするたびに、大臣を悩ませ、王を怒らせていた。でも、あの頃は楽しいこと、悲しいことすべてをひっくるめて輝いていた。あの優しいエリスも、どうしようもないくらいやんちゃであった二人とよく遊んでいてくれていた。
 大人になって初めて気がつく、大切なものがある。それは、『必要なもの』、『不必要なもの』を自分なりにはっきりと見定めることが出来るようになったとき。どんなことでもその純粋さゆえに受け容れてきた幼少の頃とは違って、人は無意識のうちにも、必要なものだけを残し、不要なものを削ってゆくものなのだ。
 マルス王は優秀だ。二つの戦争を勝ち抜き、柔弱な心を鍛え上げられ、王となり、アカネイア至上の位を継いだ頃には、歴然とそれを区別することが出来るようになっていた。
 それに比べてマリクはどうか。いつまでも幼少の頃の思いを捨てることが出来ず、変化を恐れていつまでも子供のような感情を抱きつづけている。情けないのか、愚かなのか。
 しかし、ひとつだけ言える。大人になるって言うことは、子供の頃から培ってきた大切なものを、失ってゆくと言うことでもある。大切なもの――――それが具体的に何なのか、それはわからない。でも、マリクは思いつづけていた。

マルス様は、今でもかけがえのない『親友』だ――――

 マルス王が『昔の自分ではない』と明言した。正直、その言葉はショックだった。でも、考えてみればマルス王は何も間違ってはいなかった。王として、いち大人としてそれは当たり前のことである。変わらない、いや、変われないマリク自身の方が間違っているのかも知れない。
マルス王に対する思いは、変わっていない。もしも、かけがえのない親友と言うことが大切なものであるとするならば、マリクはそれを失ってはいない。だが、マルスが失っていったとも言えるわけがない。
 そう、二人とも間違ってはいない。ただ、進むべき道が徐々に違っていった。ただ、それだけなのかも知れない。

それも………しかたがないことかも知れない――――

 今、彼は凍えそうな心をゆっくりと溶かしてくれそうな、あたたかい大海に身を委ねているようだった。震えそうな孤独の闇に光を求めて、たどり着いた仄かに明るい場所。
 堅苦しい礼式も、窮屈な朝衣もかなぐり捨て、思いのままに、心身共に解放しよう。ありのままの自分を、少年のままの思いをさらけ出そう。ひとときでもかまわない。今、自分を包んでくれている暖かく、柔らかな海に沈みながら、ずっとこのままでいたい。漂う先に何が待ち受けていようとも、すべてを受け容れよう。私を優しく溺れさせてくれる海。私の心を清めてくれる海。母親のように、心ゆくまで甘えさせてくれる海……

 リンダは今、至福の中にあった。生まれて初めて、こんなに幸せと感じたことはない。その華奢な身体の奥底からわき起こってくる、『愛』という感情。彼を愛するということを、強く、より一層、現実として受けとめている。
 今までは理想だった。理想という道を歩きつづけていた。
 父を謀殺され、その敵討ちを念頭に、ただひたすら、自分に鞭打ちながら突っ走ってきた。光の超魔法オーラを修得し、悲願は果たされるかと思っていた。だが、それらはすべて、彼女自身の頭に描く理想に過ぎなかった。現実は結局、彼女一人では敵を討てず、マリクに支えられて、ようやく悲願は果たされた。一人では何もできなかった。理想と現実の相違をまざまざと見せつけられたのだ。
 そして、彼女は常に自分を支えてくれていた彼に、ごく自然に惹かれていった。自然に……。自分でも気がつかないまま、無意識に想いは募ってゆく。自然に……ごく当たり前の感情。
 初めは彼が『好き』だった。彼との仲はそう、まるで『兄妹』のようだった。それで良かった。
 しかし、時が重なるにつれて、彼女の心に変化が生じた。『妹』という存在に飽き足らなくなっていった。彼を見つめる眼差しが違う。カダインで自棄になった自分を慰め、抱きしめられたとき、彼女は悟ったのだ。

彼を、愛している――――

 心のどこかで、そう感じ取ることを懼れていたのだろう。彼を一人の男性として見るようになったとき、現実は違っていた。
 彼はエリスという女性を慕っている。自分との関係は、『兄妹』のまま。それは、彼女自身も承知している、現実……。しかし、彼を愛しているという気持ちは抑えることが出来ない。誰よりも……エリスよりも自分は彼を想っている。いつかきっと、彼は自分に振り向いてくれる……。理想だった。そんな事はあるはずがない。竜の祭壇で彼はエリスを救った。そして、パレスで別れるとき、見せたあの笑顔。すべて、彼女の理想と反した、まぎれもない現実だった。
 何度諦めようとしただろう。何事も、理想に反する現実を目の当たりにすると、人は意外にあっさりとあきらめもつくものだ。だが、彼女は違っていた。恋という理想は、そんな思いに反するものかも知れない。彼を諦めようと思えば思うほど、彼を忘れようとすればするほど、逆に彼の存在が大きくなってゆく。日増しに重なりゆく慕情は、彼女の細い身体を甘く、切なく蝕んでいった。
 そして、時に邪な感情さえ芽生える。エリスから彼を奪いたい。エリスの身に不幸が起きればいい……。そのたびに、彼女はパレスの礼拝堂で一人懺悔をした。パレスを飛び出し、彼のもとに走りたい。何度考えたことだろう。だが、彼を思えばそれは出来なかった。出来ることと言えば、このまま時が経ち、自然に彼への熱が冷めてゆくのを待つことくらいだ……と。
 そんなひたむきで一途な彼女に、神は奇跡を起こしてくれた。彼が自ら、逢いに来てくれたのだ。
 夢かと思った。春の遠雷が聖都を通り抜け、孤独な心を癒してくれそうな雨が窓越しの景色をグレイに染める。
 そこへ映える、ひとつの人影。すぐにわかった。茫漠とした、さも夢中の光景に、忘られぬ容姿。自分を見つめる、愛おしい人……。
 まさかと思った。こんな幸福が現実な訳がない。今、こうして彼を感じ、彼の思いを一身に受けている自分が、自分じゃないような気がする。なぜか涙があふれてくる。哀しみじゃない、幸せの涙……。そして、涙は渇いた心を潤す海となり、愛おしさが波となって彼女の身体を包んでゆく。いつまでも……いつまでも…………

 夜更けには雨も上がった。雲が切れ、隙間からは星が煌めいている。
 薄暗い一室。マリクは穏やかな表情で雲間に隠れては姿を現す星を見上げている。
「……」
 リンダがそっと、彼の背中に手を添えて頬を当てる。
「マリクさん……ごめんなさい……私……」
 せつなそうに彼女は震えていた。少しの間の後、彼は小さく微笑んで身体を回し、彼女の背中を包んだ。
「いいんだ……謝ることなんかないよ……僕がこうすることを望んでいたんだ……」
 優しく、いたわるように囁き、彼は腕に力を込める。
「でも……」
 彼女は言いかけた。彼が今まで積み重ねてきた、愛する人への思いと、気遣いを。
「何も言わなくていい……すべてを受け容れるつもりで、ここに来たんだ……。私はやっとわかったよ。私には……私には君が必要だって…ことが……」
 その言葉を聞き、彼女の心に再び熱いものがわき上がってきた。
「マリ…ク…さん……」
 彼の名ををくり返す声が次第に嗚咽へと変わる。腕の中の彼女はあまりにも小さく、悲しくなるほどはかない。これが彼女の本当の姿なのか…。そう思った瞬間、愛おしさが再燃する。これから彼を待ち受ける辛い現実も今は思わない。何も考えたくはない。ただこうして、本当に必要な女性と少しの間だけでも過ごすことだけを考えたい。
 揺れ動く淡い灯火に映る二つの影が、また、落ちる……。

「待っていて。私は必ず、ここに来るから……」
 翌朝、彼は聖都を発つとき、彼女にそう告げた。微笑んでいた。彼女も寂しさをにじませてはいたが、微笑んでいた。以前のような、素顔を押し込めたような笑顔じゃない。心からの笑顔とまでは言い切れなかったが、打ち沈んだ悲しい表情ではなくなってきた。少なくとも、二人は忘れかけた笑顔を取り戻しつつある。彼にとってはあの二つの戦争以前にマルスと交わした心からの笑顔。彼女にとっては、亡父と過ごし、魔道の勤勉に勉めていた頃の、純粋な笑顔。もしかすると、それ以上のものを得ることが出来そうな、そんな気がした。まだ、先はわからない暗澹としたものに違いはなかったが、行く先に輝かしい光が待っている。そう、二人は意識の奥で信じるようになった。
 彼はアリティアに入国しても、国都へは帰らなかった。カダイン魔道自治区との国境付近の町テルアに入り、教会の聖堂に座した。自ら勅使職務違反の責を取り、蟄居謹慎の意を表したのである。重ねてアリティア主教位の辞任を記した書簡を町長に託し、国主マルスの元に届けさせた。
政府、そしてマルス王の自分に対する処罰を見越しての自責。それよりも『親友』であるマルスの口からそのような言葉を聞くことが、何よりも恐かったのかも知れない。
 マルスからの沙汰はない。無論、エリスとの面会は許されるはずもなく、日がな一日、彼はじっと、聖堂に座し、瞑想に耽った。時が過ぎてゆく。三日経ち、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎた。彼は湯浴みもせず、ひげも剃らず、ただじっと何かを神に祈りつづけていた。
 やがて春は過ぎ、蝉がさんざめく真夏となる。ステンドグラス越しの陽光以外は薄暗い大聖堂に今日も座すマリクの顔は、ざんばらに伸びた煤けた緑色の髪と、無精髭に覆われ、朽ちた肌。一見まるで老人のようだった。
「マリク」
 不意に彼を呼ぶ男の声が入り口の扉の方から聞こえてきた。閉じた瞼をゆっくりと開き、おもむろに振り返る。久しぶりに感じた扉から差し込むまぶしい陽光に目を眩ませながらも、徐々に慣れてきた彼の目に映った人物は、誰であろう、エルレーンであった。
 カダインに在籍していたとき、兄弟子として共に机を並べてきたかけがえのない友。しかし、風の超魔法エクスカリバーの伝承をめぐって対立したときもあった。結局、それはマリクに伝えられたが、自身も恩師の叱咤によって改心し、今はマリクより優れる政才をもってカダイン最高司祭・魔道自治区総督の地位を得た。だが、今もなお、エルレーンにとって彼は永遠のライバルである。
「久しぶりだな、マリク。それにしても、何だその様は」相変わらず突っかかるような言いぐさのエルレーン。マリクは何も答えず、ただ微笑んで旧友を迎える。
「主教としてアカネイア神聖王国至上の勅命を果たさず、おのが情に走ったエリート魔道士のなれの果てか」
 皮肉たらたらにエルレーンは口許に嗤いを浮かべて彼の前に立つ。
「いずれにしろ、お前らしい。お前ならばきっと、そうするだろうと思っていたよ」
 ふっと鼻を鳴らして、エルレーンはなおもにやけた顔を友に向ける。そして、おもむろに告げた。
「マケドニアが、アカネイアの庇護を受けることになった」
 その瞬間、彼の表情が一瞬、こわばる。
「守衛総督のパオラに代わって、内務卿のカチュアにアカネイア平南都督就任の君命が下ったらしい。マルス公が直々にパオラとカチュアを接見して叡慮を下したそうだ」
「……・」
 彼は瞳を伏せた。エルレーンはひとつ長いため息をついて言う。
「カチュアが守衛総督より上の平南都督となったからには、事実上アカネイアの臣下となったことになるからな。マケドニアはマルス公のものになった……と、言うわけだ」
 彼はじっと、瞳を閉じたまま考えていた。王女ミネルバの引退後、後事を託され、守衛総督という重任を得たパオラの解任。しかも、マルスを慕っているという噂のカチュアを臣籍に列するとは…。しかも、シーマに対して王座復位の勅命を発して間もない中の、マケドニア併合の意向。パオラに何の落ち度があったというのだろうか。全く、マルス王の意図が分からない。
 もはや彼の心には、マルス王に対してある程度の『諦め』という観念が生まれていたのかも知れない。それは、ただ単にマケドニアを併合するだけではなく、カチュアを臣籍に置き、時に寵愛するのではないかという邪推さえ容易に考えてしまう。
 しかし、エルレーンはさらにつづけた。
「私もいずれ、魔道総督の地位を退くことになるだろう」
 驚愕する彼に対して、エルレーンは言った。
――――大公殿下(ハーディン)は闇のオーブに囚われたと言っても、内心は武力をもって大陸の支配を目論み、潰えた。だが、マルス公はその人徳をもって大陸の支配を成そうとしている。はた目から見ても、マルス公はニーナ尊妃より徳が高い。至上の禅譲は時代の流れだろう。グラ王に復されることになったシーマ王女も、マケドニア守衛総督となったパオラも、カダイン魔道総督に任命された私も、言葉を悪くすれば、マルス公支配のアカネイアが大陸の人民をあまねく統べるための踏み台にしか過ぎない。他はどう思っているかは知らないが、私は仮初めの魔道総督などという地位に固執はない。地位も名誉も、私にとっては無意味なもの。それはマリク、お前とエクスカリバーをめぐって争った後つくづく感じ入った。ウェンデル大師より引き継いだカダイン最高司祭として、私はこの手でカダインの再建をする。アカネイア、アリティアと訣別しても、私は信じた道を行く。絶対に、後悔はしたくないからな。
 エルレーンは更にこう言った。
「マルス公も、私も、そしてかつての戦友たちも、あの頃のような固い友誼はもはやない。今はそれぞれの道を、歩いているのだ。マリク、今のお前は立ち止まったまま、岐路を遠ざかる友たちを悲しげに見つめているだけだ。歩き出せ、マリク。お前の信じた道を歩き出せ。お前は間違ってはいない。お前を信じ、見つめてくれている人は、お前のそばにいるはずだ。古いしがらみを捨てて、お前を想ってくれている人とともに、歩き出せ」
 エルレーンは、かつての『学友』として、彼への最後の激励と言った。そして、彼に対し、マルス王への『恭順』か、『訣別』かの選択肢を暗に示唆していた。彼にとって、どのような不条理な事を命じられても、エリスの夫、マルス王の義兄として、恭順を貫き通すか。幼少の頃から今まで培ってきた想い出を絶やさないためにも、あえてマルス王と袂を分かつ道を取り、エリスを永遠の思い人とするか。生ぬるい言葉は言わないエルレーン。時に悩める人の核心をつくことを言う。そして、エルレーンはリンダの思いを知っていた。あの頃から、いずれ彼がこのような状況になるということを、ある程度予測していた。蔭ながら、ずっと彼女を支えてきた。そして、今ようやく彼自身に諭すことが出来た。エルレーンが示す道は、言う前から決まっていたのだ。だが、決めるのは彼自身。エルレーンの役目は終わった。真顔で見つめている彼に対し、ふっと不敵な微笑みを送ると、エルレーンは席を立った。
「じゃあな、マリク」
 エルレーンが扉のノブに手をかけた瞬間、がたっと音がした。
「ありがとう、エルレーン。君のおかげで、心が決まった気がするよ。本当に、ありがとう……」
 彼はエルレーンの背中に深く頭を下げた。
「ああ…」
 エルレーンは振り返ることはなく、素っ気ない返事をしたが、表情は安らかに笑っていた。

 それから三ヶ月後、マケドニア守衛総督パオラ、勅命により辞任――――内務卿カチュア、アカネイア平南都督に就任――――。これより約十五年後、マケドニアは前王女ミネルバの逝去に伴い、アカネイアに併合することになる。奴隷から身を興した、高祖アイオテの築きし竜騎士団の軍事強国は、その末裔の死をもって、母なる国アカネイアの元に帰したのだ。
 そして半年後には、カダイン魔道総督エルレーンが自ら辞任――――。アカネイア、そしてマルス王の干渉をその英まいな気質によって拒絶したのだ。その後、エルレーンは最高司祭としてカダインの統治のみに尽力。生涯、ひとときもカダインの地を離れることなく、名司祭として歴史に高名を刻んだ――――
 こうして、仲間たちはまた一人、また一人と去ってゆく。それぞれの道。恭順と訣別。すべては仲間としてではなく、個人として、それぞれが選択した道を歩んでゆく。
 エルレーンと別れ、更にひと月の日が過ぎていった。本当は、まだ『迷い』があった。しかし、このひと月はわずかに揺れる心を決するのには十分な時間だった。そして、彼が蟄居謹慎してから初めて、マルス王の使いがテルアの町に訪れた。
「上意でございます。前主教マリクに、陛下への拝謁を許す。直ちに支度整え、アリティア城に登城されよ――――」