この季節特有の西風に舞う粉雪が、白く薄化粧をした景色に舞う。頬をつく風はとても冷たく、今冬一番の厳しい寒さが訪れた。
思えば、ドルーア帝国の侵攻に立ちはだかった前国主・コーネリアスが、グラ国の裏切りによって惨敗を喫し、暗黒司祭ガーネフによって惨殺されてより十年の歳月が過ぎていた。暗黒・英雄戦争の前哨となった故国滅亡から気がつけば十年。月日が流れるのは早いような気がする。
英雄戦争後、アリティア国王となったマルスが宗主国アカネイアの至上を受けてから国土の復興は驚くべき速さで成し遂げられてきている。
人々が得た『平和』。戦争の爪痕からようやくその意識が定着するまでには、数多くの勇士たちの去就があった。
『平和』という理想を目指して過酷な戦いを成し遂げた、数え切れないほどの勇士たち。ある者は功を成して出世し、ある者は役割を終えて表舞台から去った。
今もなお、去る者がいる。マケドニア守衛総督・パオラ。
かつてはマケドニア白騎士団・ペガサス三姉妹の長女として勇名を馳せた武人であり、心優しき女性。英雄戦争後、至上マルス王の意向でミネルバ王女に代わり故国の再建に尽力。そして今、至上の叡慮により平南都督となった妹カチュアに統治権を譲り、事実上の引退。彼女に悔いはない。やるべき事はやった。私情を捨てて、ひたむきに故国の復興を成し遂げた、この女性の表情は晴れやかだったという。
そして、エルレーンも高官の地位を捨てる覚悟でいる。マルス王の施政に敢然と対抗することで、自分の信じた道を貫徹する強い決意をもっていた。エルレーンとはもう二度と逢えないだろう。マリクはそんな親友の思いに底知れぬ畏敬と羨望を抱いていた。
勅使の任務を遂行せず、自らの意志でリンダと密会した彼は、その時点でマルスと袂を分かつこと、そしてエリスとの別離を決断していたのかも知れない。だからこそ、自ら蟄居謹慎し、マルス王に対する恭順の意を示していた。
大聖堂に座し、瞑想に耽っていたこの数ヶ月の間、彼は更に自分に問い質した。エリスを妻とし、自分を封じ込めてマルス王にひたすら恭順するか、自分というものを捨てず、マルスと別れても自分の道を歩んでゆくか。
リンダと愛し合った。それは決してなりゆきじゃない。大人になりきれない、幼稚な自分の心の内をわかってくれた彼女とそういうことになることを、暗に望んでいた。たとえ、エリスを裏切る背徳の徒と罵詈雑言を浴びせられようとも、いっこうに構わない。すべてを甘んじて受け容れるつもりで来たのだ。
数カ月ぶりに湯浴みをし、いつしか胸の後ろまで伸びたエメラルドグリーンのまっすぐな髪につやが戻る。そして、勅使の任にあったときに着用したままの煤けた朝衣を取り替える。もはや主教の位を失った無官の身である。新調されたのは平民が着用するような薄茶色の筒衣。
一度はアリティア王家の祭祀を取り仕切る主教の地位を受けた身である。はた目から見れば何と落ちぶれた姿であろうか。久しぶりに彼を迎えてくれたアリティアの民は、もはや信じられないと言ったように、驚愕と失望の眼差しを彼に突きつける。
かつてはマルスとともに、ドルーアに支配されていたこの地を解放するために奮戦してきた。この地が解放されると、マルスを初めとする勇士たちは、民らから涙の歓迎を受けたほどである。
そんな勇士の一人は今や至上の叡慮に服さない、反逆者なみの対応を受けている。時の流れというものは無情である。人の功績は早きに忘れ去られ、失態は延々と語り継がれる。平和を求める理想は過ぎ去り、それが現実となったとき、人は彷徨う理想のはけ口を求めて他愛もない話さえも大げさに伝い合うようになる。噂がおさまれば、また別の話題を探す……人の欲望や不満は、たとえ恒久の平和が訪れようとも変わらないのだ。
いつもと変わらない宮廷が彼を迎えた。衛士に伴われた彼の横を通り過ぎる廷臣たちは彼を一瞥し、ある者はさけるように瞳を伏せ、ある者は軽蔑するように鼻を鳴らし、立ち止まり、無言でにらむ者もいる。だが、彼はそのようなことなど気にもとめなかった。
カインを始めとする高官たちが列を並べる謁見の間に彼は通される。みな、質素絢爛な朝衣に身を包み、佩剣を帯びてマルス王の登場を待っている。一人平民服の彼が非常に場違いだ。無言の謁見の間。妙な緊張感が覆っている。
「陛下のお成りでございます――――」
衛士の言葉と同時に高官たちは胸に手を当て、軽く頭を下げる拝礼を取る。彼は跪き、視線を床に落とした。
かつ…かつ…と、ゆっくりと靴の音が響き、マルス王が上座に姿を現した。マルスは一度全体を見回した後、言った。
「前主教と二人で話がしたい。皆、下がってよい」
高官たちは深々と頭を下げると、一斉に謁見の間から退出してゆく。そして、広い空間に二人の旧友たちだけになる。
マルスはゆっくりと上座を下り、跪く彼の前に進み、ほっとしたようなため息をついた。
「マリク――――顔を上げてくれないか」
その言葉に彼は恭謙とした返事をし、ゆっくりとうつむいた顔を上げた。マルスは微笑みながら自分もしゃがみ、彼と同じ目の高さに合わせる。こんな間近にマルスの顔を見たのは何年ぶりだろうか。未だ少年の面影を失わない表情。外見は全くと言っていいほど変わっていない、昔のままなのに……。彼はどこか安心したのか、わずかに表情を和らげた。
「中庭に行ってみないか――――」
マルスの提案に、彼は小さく頷く。
二人が幼少の頃からともに遊んだ中庭。ドルーア帝国の蹂躙によって、あの頃のような姿はなかったが、エリスと三人で戯れた池は、唯一想い出を醸し出してくれていた。
毛皮の外套を差し出すマルス。彼は恭しくそれを受け取り、羽織る。
旧友はしばらく無言で池を見つめていた。薄く氷が張った水面。水は季節ごとに表情を変えるが、普遍的な部分は古より変わらない。マルスが生まれたときも、マリクと出会ったときも、些細な喧嘩を交わしたときも、故国奪還の時も、変わらぬ表情で見つめ、記憶を刻んでいるのだ。
「元気そうで、よかったよ――――」
最初にマルスが言葉を発した。
「陛下も――――お変わりなく」
彼がそっと視線を横に向け、マルスの横顔を覗く。わずかに、どこか淋しげな微笑みをたたえながら、水面をまっすぐに見つめている。その瞳の輝きは失われてはいない。
「シーダが、懐妊したんだ…」
やや照れくさそうに、マルスは言った。
「本当ですか?……ああ、それはおめでとうございます」
一瞬、驚いた彼はすぐに満面に穏やかな笑みを浮かべ、王妃の懐妊を祝福した。
「今秋には生まれるって――――」
どうやら、彼が謹慎中にその吉報があったらしい。しかし、彼のもとにはそれさえも伝えられてこなかった。うれしさのかたわら、はげしい寂寥感がのしかかってくる。
「すぐに君に伝えたかったんだけど……」
気遣うような言葉に、彼は小さく首を横に振った。
「そのようなお気遣いは無用です。私は謹慎中の身。いたしかたございません」
彼はひとつの強い決意を抱いて登城してきたはずだ。マルス、そしてエリスとの別離。しかし、なぜかマルスとこうしていると言い出すどころか、そんな固い意志さえも揺らいでしまいそうになる。なぜだろう。まだ自分自身に弱さ、迷いがあるからなのか、わからない。マルスが彼を向き、まっすぐに見つめる。
「君が自分から官位を返上し、謹慎してくれたおかげで、臣民の間に波風が立つことがなかった。ありがとう」
マルスは礼を述べた。厳しい詰問の言葉が発せられるのではないかという憂いは、払拭された。
「この数ヶ月で君の負い目はすべて白紙に戻った。この上は再びアリティア司祭として、私の力になってはくれないか。エリス姉上も強く望んでおられる」
負い目――――か……。自分は塵ひとつも今回の行動を負い目などと感じてはいない。離れていたマルスに、そんな気持ちは推察できないだろうが、負い目に感じているだろうと思っていると言うことは、やはりマルスは自分を臣下という目で見ている。かつてのように肩を並べ合い、余計な敬語を使わないで語り合っても、もう二人は『親友』じゃない。『君臣』なのだ。
親友として諫めたいことはあった。まだ、ほんの少しでも自分を親友として見ていてくれるのならば、かつての戦友たちを大事にして欲しい……大陸のことと同じように、仲間を思ってもらいたい。しかし、そんなささやかな願いさえも、詰問の憂いとともに払拭された。もう、何も申し上げることはない。
「陛下――――」
寂しそうに、彼はマルスを呼んだ。
「ん?」
「お願いしたき事がございます。よろしければお聞き届けいただけませぬでしょうか」
「何だい?」
マルスは微笑んでいた。
「エリス様に、拝謁させていただきたく……」
さすがにそれは断られるに決まっていると思っていた。しかし、マルスの返事は意外だった。
「君の妻になる人じゃないか。いちいち私に断らなくてもいいよ。…ああ、そうだったね。姉上も君の帰りをずっと待っている様子だったよ。君を免じたと言ったら、とても喜んでおられた。早く姉上に会ってあげて欲しい」
彼がエリスに会い、何を告げるのかなどと知る由もなく、マルスは自分からそれを勧めた。微笑むマルスの表情を、彼は心痛な面もちで見つめていた。
「マリク……」
数ヶ月、会うことがなかった許婚に再会したエリスは、満面に涙を浮かべて彼の胸に思わず飛び込んだ。その瞬間、彼の脳裏にリンダが浮かび、エリスに対して慚愧の念に駆られる。
「ああ…よかった……無事で……本当に……よかった……」
むせび泣くエリスの肩を、彼は包むことが出来なかった。項垂れ、彼もまた、泣き出しそうなほど顔がくしゃくしゃになっている。
「あなたのことが心配で心配で……夜も寝られない日が数え切れないくらい……」
エリスは思いの丈を吐き出した。そんな切なく烈しい想いを受けるたびに、彼の心はしめつけられてゆく。もう、取り返しがつかない。エリスの心は離れてはいない。むしろ、ますます彼に惹かれていた。だが、彼はエリスに届かない。手を伸ばせば、すぐに届きそうなほど近くにいるのに、届かない……。
彼は突然、胸に顔を埋めるエリスから離れると、その足下に平伏した。愕然となるエリス。声を失う。
「申し訳――――ございません……」
精いっぱいの謝罪だった。言い訳じみたことも、遠回しな理屈も言う気はなかった。率直に…私と別れて下さい――――そう、言うつもりだ。
「エリス様――――私は――――」
だが、エリスはゆっくりと体勢を下ろし、片膝をつくと彼の手を取って上体を起こさせた。エリスは涙にやや腫れた瞳を彼に向け、小さく微笑んでいる。
「マリク………何も言わなくてもいいのです……あなたの気持ち……わかっていますから……」
エリスは気づいていた。マルスから彼に対する処罰の報告を受けたとき、パレスで何があったのかを。
生贄として竜の祭壇に封じ込められていた自分を、何よりも強い愛の力で解き放ってくれたマリク。小さな頃から、ずっと自分を慕いつづけてくれた、少年。
一生、守りつづける――――
彼はずっと、そう思いつづけてきた。エリスも勇敢な彼に惹かれてゆき、生贄の呪縛から解き放ってくれたときに、初めて彼を誰よりも愛していることを覚った。そして、忌まわしき戦争も終わり、世界は恒久の平和を得た。エリスは彼の思いに応えようと心に誓った。
しかし、どのような事情があれ、エリスは彼のそばにいなかった。それに比べ、今はパレスに在するあの女性は、いつも彼を支え、励まし、慰めてきただろう。自分より彼のそばにいた時間ははるかに長い。しかも、その時間は安寧な日々ではないのだ。生死に関わる戦争の日々。誰しもが心に傷を負いやすい過酷な毎日。純粋な彼は人に増して傷ついただろう。そんな彼のそばにいて、癒してくれた女性。彼が自分を慕っていたとしても、無意識のうちに心がその女性のもとに移っていったとしても、決して不思議な事じゃない。むしろ当然のなりゆきだろう。
エリスは心の奥で後悔していた。
父が死に、故国が滅亡したとき、弟をかばい助け、自分が敵の捕虜になったことを。姉上もともに…と言う弟の言葉を聞かず、自ら敵の捕虜となったことを…。
あのとき、弟の言葉を聞き、ともに戦っていたならば、このような事態を招くこともなかっただろう。愛する彼のそばにいて、お互いに支えあえただろう。
だが、すべては終わったことだ。今更自分に悔いても、もうどうにもならない。
世界に平和が戻り、人々は荒廃した故郷の復興を成し遂げ、それぞれの道を歩んでゆく。エリスもまた、彼のそばにあって、彼についてゆこうと決していた、はずだった。
しかし、その心の中では一人の女性として何があっても彼についてゆくという気概はなかった。アリティア王女として、アカネイア至上の皇姉として、弟に超える愛情を、彼に注ぐことが出来なかった。
『何があっても、マルスを支えてくれる――――?』
本心から出た言葉が、彼に途方もない重圧をかけてしまっていたことを、気づいたときは遅かった。
彼がマルスに対する思いに悩んでいることは知っていた。彼の苦悩を解すためにと思って発した言葉が、逆に彼を苦しめることになってしまった。結局、自分は王女という立場をかなぐり捨てることが出来なかった。マルスとマリク。二人とも誰よりも愛している。どちらかを選ぶことなど出来なかった。彼がマルスのことで悩んでいるというのに、自分はマルスのことを考えてしまったのかも知れない。
『何があっても、あなたについてゆきます――――』
そんな言葉さえ、思いつかなかった。言えていれば、現実は大きく違っていただろう。
優しい彼は、決して自分を責めるような事を言わなかった。ただその言葉を肝に銘じて、押し寄せる葛藤と果てしない戦いをくり返し、疲れ果てた。安らぎを求めて、たどり着いた場所が、パレスに在する女性……。
誰が彼を責められよう。誰がその女性を責められよう。悪いのは自分なのだ。彼だけを見つめてあげることが出来なかった、私が彼を追いつめたのだ……
自責の表情を浮かべ、跪いている彼を見ていると、そんな幼少の頃からの想い出が切なく脳裏を過ぎってゆく。
彼が『別離』を告げると言うことはわかっていた。マルスと相違し、彼が職務違反の責を取って自ら蟄居謹慎という恭順の意を示したときから、一番懼れていたことが現実化したのだ。マルスを助けてゆく自信を失くし、自分の思いに添うことも出来なくなった。すべてを自分自身のせいにして、辛い決断を下したのだ。
「マリク…………私……あなたを愛しているわ……」
思わず、エリスはそう言った。彼の心をつなぎ止めようなどと言う焦燥感から発せられた一時しのぎの言葉じゃない。まぎれもない本心。一縷の希望…私のもとに戻って欲しい。今度は一人の女として言いたい…
『あなたに――――ついてゆきます――――』
しかし、項垂れたままの彼の姿に、そんな小さく、強い思いは無惨に打ち消された。
「ごめんなさい――――私――――あなたの気持ち、解ってあげられなかった――――だから……こんなにもあなたを追いつめ、苦しめているなんて……」
その言葉に、彼はこわばる顔を上げ、充血した眼差しをエリスに向けた。
「エリスさまっ……違います……あなたのせいではないのです……。私が……私が大人になりきれない性根の弱い人間だから……あなたや…マルス様や…みんなに……」
二人とも自分の不甲斐なさを譏る。傷つくだろう互いへの思いやりは果てない。きりがないほどの未練が慚愧の言葉を尽きさせない。
「マリク……やめて……お願いだから謝らないで……あなたが悪いんじゃない……マルスも悪くない……あなた達二人の悩みを解ってあげられなかった…私のせいなのよ……」
すすり泣きが部屋を包んでいる。
エリスはこのまま彼と別れることに強い抵抗があった。彼の事を思えば、二人が別れることは一番いいことだろう。しかし、今までずっと自分を守ってくれた彼に対して、今もその思いを受け容れてしまえば、きっと後悔してしまいそうな気になった。彼を傷つけたままの、無責任な女になってしまいそうで、怖かった。彼を愛している。しかし、その思いばかりでは、かえって彼を追い込むことになりかねない。
今まで彼に守られつづけられてきた分、今度は自分が彼を守ってあげたかった。気持ちは遠のいても、自分が敵の手にあって彼がひたむきに自分を救うため戦ってきたように、今度は自分があの頃の彼になろう……。
「マリク……私を……あなたの……妻にして欲しい…」
その言葉に、彼は愕然となった。なぜそのようなことを言うのだろう。彼はエリスに別れを告げる。エリスもそれを承知している。なのに、なぜ……
「エリス様……」
彼は明らかに困惑していた。無論、可の返事など出来るはずがない。
「わかっています……あなたの答えは……でも、私は後悔したくないの……このままあなたと離れてしまえば、いつかきっと耐えられなくなってあなたのもとに奔ってしまう。そんなことになれば、あなた達や、マルス、そしてアカネイアのすべての人に迷惑をかけてしまうことになるわ」
「……」
彼は一点にエリスの切なげな表情を見つめている。
「自分勝手かも知れない……わがままかも知れない……でも、形だけでもいいの。あなたの妻って言う事実が欲しい」
「……」
エリスの望みは無茶と言われればそうかもしれない。そんなことは自分にとっても、彼にとっても虚しくさせるだけだ。わかっている。けれど、悲しみに打ち沈むほどの後悔だけはしたくない。彼の口から、別離を告げられる現実だけは、どうしても避けたかった。考えた末のエリスの判断。彼に守られつづけた自分の、最後のわがまま。最後の希望。
「すみません……少し、考えさせていただけませんか――――」
もとより、そのつもりで言ったのだ。どちらにせよ、今は彼の口から別離を告げられることはなくなった。エリスの心に、ほんのわずかの安堵感が生まれる。
思いもよらないエリスの言葉だった。考えさせてくれと応えた後、二人はずっと無言だった。彼はいたたまれなくなってエリスの部屋を離れた。そして、マルスに会わずに下城した。
彼の住まいは、勅使の任を拝命した日と変わらなかった。マルスもさすがに家宅まで手を伸ばすようなことはしなかったのだ。
うっすらと家財に埃が積もった居室を目にする。いつもエリスが訪れると、気を利かせて掃除をしてくれていた。だが、この数ヶ月間、エリスは彼の家に足を運んではいないことを物語っている。おそらく、マルスから外出を禁じられていたのだろう。そう、信じたい。
彼はどっと疲れたのか、そのまま寝台に倒れ込むように身を投げ出し、天を仰いだ。静まり返った部屋。薄茶色の天井をぼうっと眺めていると、脳裏に色々なことが入り乱れる。そのまま深い眠りにつくのに、そう時間はかからなかった。
――――トン…トン――――
玄関の扉をノックする音で彼は目覚めた。窓の外は真っ暗だ。もう真夜中なのだろう。静寂が更に深まり、軽いノックの音さえもやけに大きく感じる。そして、扉越しに囁くような声がする。
「マリク――――おりますか――――ゴードンです――――」
「えっ?」
彼は一瞬にして目が冴え、慌てて玄関の扉を開けた。すると、目の前には宮廷武官の正装をした二人の人物が並んで立っていた。彼の髪の色をやや濃くした感じの柔和な青年と、明るい紫色のまっすぐな髪が映える背の高い色白の女性。
「ゴードンさん………それにセシル中佐ではありませんか……」
思いもよらぬ来客に、彼は思わず目を見開いた。ゴードンはアリティア弓士として暗黒戦争時から友誼を交わしてきた。そして、隣に立つセシルは暗黒戦争後、勇名を聞きアリティア宮廷騎士団に志願し、ソシアル部隊部隊長として英雄戦争をともに戦ってきたアリティア軍唯一の女性士官である。ゴードンは今や宮廷騎士団(テンプルナイツ)第二左翼将という、将軍カインに継ぐ地位にある重臣であり、セシルもカイン直属の部下として騎士団第一右軍中佐という部隊副長クラスの地位にある。二人とも今の彼にとっては比べものにならないくらいの高官にある。そんな二人が揃って、しかもこんな夜中に訪れるとはどうしたことなのだろう。
「夜分遅く申し訳ありません――――お休みでしたか――――」
ゴードンは申し訳なさそうにはにかむ。
「すみませんマリク様。左将様がどうしてもあなた様にお話をしたいと言うことで、時をわきまえず参上いたしました」
セシルがゴードンを一瞥しながらため息混じりに言う。二人の謙虚な態度に、彼は一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔になってうれしい客人を迎えた。
「とんでもない。まさか貴方たちが訪れてくるだろうなんて思いもよらなかった。さあ、掃除もしていない汚い家ですが……お上がり下さい」
「では……」
「失礼いたします…」
二人は談笑しながら応接間のソファに並んで腰を下ろした。
「ただいま、紅茶を……」
彼が立ち上がろうとしたとき、セシルが同時に立ち上がる。
「マリク様はお掛けになっていて下さい。私がやりますので」
「いや、客人にそのようなことは…」
しかしセシルは彼の肩を押してソファに座らせ、微笑む。
「左将様とお話ししていて下さいませ。私はただの付き人ですから」
セシルがそう言って応接間を出ると、彼は軽く頭を下げてから正面のゴードンに視線を移す。戦友はなにか清々しい笑顔を浮かべているように見える。何かいいことがあったのだろうか。
「ゴードンさん、それにしてもセシル殿と一緒なんて、珍しい組み合わせですね」
「彼女とは何でもないよ。今日はたまたま彼女と軽く飲んでいてつき合ってくれただけです。まあ、ロディには内緒ですがね」
小声でそう言い笑う。彼もまた微笑む。
「……ところでゴードンさん、私にお話とは…?」
話を来訪の主旨に振ると、ゴードンの表情に僅かな憂い色が浮かぶ。
「何か、良い知らせでもあったのですか?あなたの表情、いつもより清々しく感じます」
彼の言葉に、ゴードンは口許に笑いを浮かべてふうと息をついた。
「そう、見えますか。…そうかも知れませんね……」
意味深に呟くゴードン。彼はきょとんとしてゴードンを見、言葉を待つ。
ゴードンはひとつ大きく深呼吸をすると、身を正して彼をまっすぐ見つめて言った。
「私は……宮廷騎士団を辞することにしました――――」
「――――えっ?」
いきなりの発言に、彼は愕然となった。
「アリティアを離れ、パレスに行くことに決めたんです…。パレスに行き、自由騎士団に参加します――――」
思いもよらない話だった。ゴードンはマルスが十歳で王太子宣下を受けた頃からカイン・アベルらとともに出仕していたマルスの腹心である。両戦争ではアリティア軍弓兵部隊総隊長として数え切れないほどの戦功を挙げてきた。そして、戦後、アベル脱退後の後任として国土復興、マルスのアカネイア至上位継承にも尽力してきた、股肱の臣でもある。
「何故です。あなたは今、陛下の右腕とも言うべき存在。アリティア、アカネイアの発展にはなくてはならない人です。それなのに何故……」
責めるような口調で彼は言った。全く理解が出来なかった。何気ない表情で夜半に訪れ、話した内容は途轍もないほどの重大事である。そして、咄嗟に思ったのは、マルスが次々とかつての仲間達を切って行く様。ついにゴードンまで手が及んだのか。
「かいつまんで言えば……夢をあきらめられないから――――でしょうか」
どこか照れたような口調に、彼の杞憂は過ぎたものだと感じさせられた。
「夢…………ですか?」
そのとき、ドアが開き、セシルがトレーを持って入ってきた。
「お待たせいたしました。お話、盛り上がっています?」
笑いながらセシルは湯気が立つカップをテーブルの上にひとつひとつ置く。
「ありがとう。あなたもお掛け下さい」
「ん――――じゃあ、マリク様の隣に」
明朗で知られるセシルらしく、彼の隣にちょこんと腰を下ろし、トレーを膝の上に置く。
彼とゴードンはセシルが煎れてくれた紅茶を一口口に運ぶ。心地よい熱さが喉元を過ぎて行く。はぁと息をついた後、ゴードンがおもむろに語る。
「暗黒戦争の頃、私はパレスの聖弓士ジョルジュ将軍に出逢い、その卓越した技能に憧れていました。英雄戦争では一度、敵として相まみえましたが、再びともに戦い、憧れは更に募る一方。戦いが終わっても、いつかきっと、ジョルジュ将軍の元で活躍したい――――そう、思いつづけてきたのです」
「左将様ったら、ずうっとそんな話をしていたんですよ」
聞き飽きた…と言わんばかりにセシルがため息をつく。
「しかし、戦後間もなくしてアリティアを発つことは宮廷騎士の端くれとして不義になります。最初は私事よりも公事を優先してきました。ですが、どんなに国事に没頭していても、憧れや夢というものは色褪せないものですね。自分でも不思議なくらい、時が経てば経つほど、自由騎士団への思いは募ってゆくんです」
「あなたのお気持ち、よく解ります――――」
立場は違うとも、彼にはゴードンの思いが我が身のように強く感じる。
「アリティアの再建に精いっぱい力を注ぎ、今の私はカインに継ぐ地位にあります。陛下にはお返しできないくらいのご恩を受けました。…私は陛下や、今のアリティアに何一つ不満はありません。ですが、それと重なって私自身の夢が心を広く覆ってゆくのを感じるようになったんです」
「夢を叶える時期が――――やってきた――――と?」
その尋ねにゴードンはゆっくりと頷く。
「グラの統治はあなたのおかげでシーマ王女が王座に復帰され解決された。グルニアには守護職としてドーガが派遣された。マケドニアは陛下のご意向でカチュア殿が都督として治められることになった。その上、シーダ様がめでたくもご懐妊あそばされた。アリティアの復興は終わり、陛下の憂慮もこれで晴れた。私の役割も、これで一区切りついたというわけです」
「して……あなたが抜けた後、一体誰がアリティアを支えることになるのですか?」
「弟のライアンがおります。弟にこの話をしたらば、自分が兄の分まで働くと言ってくれまして……」
「そうですか――――ライアンならばきっと、期待に背かないでしょう――――」
彼はそれよりもゴードンが言った言葉が強く印象に刻まれた。
憧れや夢というものは色褪せないもの――――
私の役割も、これで一区切りついた――――
ゴードンは羨ましくなるほど潔かった。身の引き際というのか、自分の役割というものをよく弁えていた。自分とは違って、私情と公務を混同せず、夢を叶える時期を待ち、余計なことを考えずにマルスに従ってきた。だからこそ、アリティアを離れるなどという、彼にとっては苦渋に耐えないことをこうも爽やかに決断出来たのだろう。
「マリク――――」
不意にゴードンが彼の名を呼ぶ。その表情が一転して真剣になる。
「私はあなたにこのことを報告するためだけに訪れたわけではありません……」
彼はやや驚いたようにゴードンを見る。ゴードンは真剣に、言った。
「ともに――――パレスへ行くことを勧めに参りました――――」
唐突のセリフに、彼もセシルも驚愕した。
「左将様っ、そんなこと聞いてませんっ!」
セシルははげしく狼狽し、怒鳴るように返す。彼は言葉も出ず、唖然とゴードンを見据えている。ゴードンは険しい表情でセシルを見る。
「私は冗談や酔狂などで言っているのではない。本心から言っているのだ」
どうやらセシルはすでにゴードン脱退の事は知っていたのだろう。酒の席で告白され、その前途を祝して乾杯でもしていたのだ。しかし、彼にアリティア脱退を勧めるなどと言うことは示唆もされなかった。彼がアリティア主教に復し、これから終生マルスを支えて行くのだろうと激励し、彼もゴードンの前途を祝す会話になるのだろうと思っていた。それが共にアリティア離籍とは……。
「セシル、君は将来、アリティア宮廷騎士団の中核たる騎士になるべき人物。その上、女性らしき理解と包容力に長けている。だから、君にだけは聞いてもらいたいと思って呼んだんだ」
昂揚するセシルの心を落ち着かせるように、ゴードンは前置きし、再び彼を見る。
「マリク。あなたが勅使副官を先に帰し、パレスに滞在したことが宮廷で問題にされたとき、カインと少しやり合いましてね。私はあなたを支持したんですが、カインの正論にうち負かされてしまいまして……」
「お気遣い、感謝いたします――――」
「……あなたがどのような理由でパレスに残ったかは解りません。しかし、大任を捨て、重罰を覚悟してまでの仕儀。私はあなたの決意のほどに感服いたしております」
ゴードンは彼がリンダと密会するために大任を捨てたことを知らない。他人からすれば不義のために至上の意に反した叛臣である。それをそこまで誉められるとひどく恥ずかしく感じてしまう。
「余計なことは申しません。それほどまでの決意があるのならば、この機会にパレスへ…」
突然の告白、そして強引な勧誘。本当に突拍子もないことである。何もない、現状に満足している者ならば、たとえそれが自分の人生をさらに切り開くようなものであったとしても、そんな『無茶』な話は有無も言わさず断るだろう。しかし、彼はそうではなかった。葛藤のただ中にあり、良き道を暗中模索しているときに、ゴードンのようにストレートにものを言ってくれる人がいるということは非常に頼もしいものである。
「ですが左将様、マリク様にはエリス様がおられます……。やっぱり無茶です。エリス様に、アリティアを離れろとでもおっしゃられるのですか?」
そしてセシルの言葉ももっともである。彼にとってはそれが一番の問題。よもや彼らの前でエリスとの事を話せるはずはない。自分のことはともかく、エリスを思えば言えようはずがない。
「当然だ。エリス様はマリクの妻となるお方。ご降嫁される以上、マリクについて行かれることが正道。降嫁とは、王族より臣籍となす事にある」
「それは……そうですが……」
セシルが力無く項垂れる。
「マリクが親友の誼を後に、懲罰を承知でパレスに在した決意、エリス様は誰よりも知っているはずです。マリクを思えば自ずから選択の道は見えてくる」
そのとき、彼は思った。ゴードンは知っているのではないだろうか。自分がリンダと密会していたことを。直接見たわけではなく、あの戦争以来、二人の関係を見、至上マルスとの確執を目の当たりにしてきたゴードンならば。
そして、その言葉ひとつひとつが『君はリンダの元に行くべきだ。思いに反してエリスと共にアリティアに残ればきっと後悔する。エリスが望ならば妻となせばいい。でも、君はアリティアに残るべきではない』と暗に示唆しているようだ。
「パレスは自由です。何にも縛られない、新しい明日が待っているような気がするのです。ですから、私は自分の夢を叶えるために、祖国を発ちます。絶対、後悔はしないでしょう。マリク、あなたは私の友。一個の人間として、一個の友であるあなたを誘います」
『友』――――その言葉に彼は心の鐘を打ち鳴らされた。誰もが忘れかけていた美しい言葉。心が満たされる。
「ゴードンさん……あなたのお気持ち、このマリク胸に深く刻みました――――」
恭しく彼が拝礼すると、ゴードンは顔を赤くして照れていた。
エルレーン、そしてゴードン。数多の友が昴星のようにきらめいていた時代。平穏な世になって星たちは散っていくなかで、輝きを保ちつづけている二人。夜空に寥々と輝くマリクという星に、厚い雲が切れて二つの星が蘇った。分かち合える、わかってくれる友がいると言うことは本当に素晴らしいことだと、彼は実感していた。無意識のうちに流れる涙。自分への果てない葛藤に決着をつけるときが来た。
「セシル、君はこれからロディたちとともにアリティアを支えて行くんだ。ライアンのこと頼むよ」
ゴードンが納得できない表情をしているセシルに語りかけると、セシルは下がり目でゴードンを見上げ、唇を突き出して返した。
「あら――――そんな私に押しつけないで下さいな。私だっていつ国軍を辞めるかも知れませんのに」
「脅かさないでくれよ。こう見えても真剣に頼んでんだからさ。君にしか頼めないことなんだ」
困惑するゴードンの言葉にセシルはぷっと笑った。
「冗談ですよ。安心して下さい。私の見立てによれば、ライアンは左将様の何倍もお役に立ちますよ――――」
「相っ変わらずきついなあ、君は」
ゴードンが苦笑いを浮かべて頭を掻くと、その場に和やかな笑いが包んだ。
四日後――――
マリクは王城に昇殿した。マルス王の計らいで無官ながら司祭の朝衣を纏い、静然とマルス王に拝謁する。その傍らに王女エリスがうつむき加減に御座についている。
「マリク、決断してくれたかい……」
「はっ――――」
もはや彼の心の内に迷いはなかった。エリスの思いにも、ひとつの答えを導き出した。その表情は、穏やかながらも、強い意志を秘めた、凛々しい男の表情だった。
マルスは彼が再び力になってくれるだろうと言う確信を持っていた。満面期待感に満ちあふれ、笑顔が絶えない。かたやエリスの方は悲しい表情を隠すかのようにうつむいたままである。
「アリティア王国・前主教マリク、至上陛下に謹んで奏上いたしたてまつります――――」
彼は頭を上げ、マルスをまっすぐ見つめ、ひとつ深呼吸をしてから、告げた。
――――ご叡慮、誠に畏れ多く、身に余る光栄と存じます。……しかし、私はつどに天意に背き、宸襟ならびに臣民に多大なる憂いを与え、廷臣としてあるまじき行跡、いかなることをもっても償い切れません――――。よって、全ての責を謹んでお受けいたし、臣籍を返上たてまつり、君上諸卿の意に報いたいと、ここに申し上げます――――
マルスは愕然となった。当然、自分の思いとは正反対の言葉が発せられたからである。言葉さえ出ない。エリスはきつく目を閉じ、唇を噛みしめた。
「心苦しいことですが――――これも陛下やアリティアのためと思い決意いたしました。どうか、寛大な御心をもってお許し下さい……」
彼は懸命に礼を尽くす。しかし、マルスの表情は次第に険しくなってくる。やがて、マルスの目がかっと見開かれ、彼をにらみつけた瞬間だった。
「マルスッ!」
エリスが突然、悲痛な声を発した。穏やかな王女が珍しく発した甲高い声に、二人は唖然となってエリスに視線を送った。エリスは目に大粒の涙を浮かべ、わなわなと唇を震わせている。
「マルス……陛下……あなたの怒りはよくわかります……でも、マリクはマリクなりに自分の道を決めたのです…。いかにあなたがアリティア王、アカネイア至上とはいえ、人の道を妨げることは出来ません。それはマルス、あなたが一番よくわかっているではありませんか」
エリスの叱咤に、マルスは軽く瞼を下ろし、少しの間無言だった。そして、再びゆっくりと目を開き、姉を見る。
「姉上、私はマリクがアリティアを離れると言うことに対して怒りを募らせているわけではありません。それよりも、姉上を迎えるべき立場のマリクが、そのような無責任なことを言うことに対して、怒っているのです」
低く、静かにマルスは言った。そして、平伏するマリクに眼差しを移すと、突き刺すような口調で言う。
「君がこの国を離れるというのならば止めはしない。だが、仮にも君は私の大切なエリス姉上と婚約をしている。君が臣籍を捨てるからには、姉上との婚約はなかったことにしなければならない。君はともかく、姉上の名に傷をつけた責任、どう取ってくれるのか」
冷たい言葉が次々と彼を襲う。
「国を離れる……それだけでは過ぎないのだ。判っているのかマリク」
マルスの叱責が容赦なく彼に浴びせられる。身体を震わせ、目を閉じながらじっと耐えているようだ。
「今から考えると、君が勅使の任を破棄し、パレスに残った理由を追及しなければならない。事と次第によっては……」
マルスの怒りは頂点に達しかけた。その時である。エリスが再び声を放った。
マリクの元に―――――参ります―――――!
その言葉が延々と、果てしなく響きわたった。
瞬間、場は静寂と化す。マリクをにらみつけたまま固まるマルス。平伏したまま、潤んだ瞳を開くマリク。
「私――――アリティアの王族を捨てます――――私もマリクとともに、この国を離れますっ!」
彼の言葉より先に、エリスは言ってしまった。マリクが一方的に責められている状況に、もはや黙っていることに耐えられなくなったのだ。
急に重苦しい空気が周囲を覆いつくす。声を挙げて泣き出すエリス王女。茫然と開いた口のふさがらないマルス。そして、マリクの決意に爛と輝く瞳から、一粒の滴が毛氈に吸い込まれた……。