最終話 SMILE AGAIN~君の笑顔を守りたい~

 

アカネイアパレス――――故宮祭祀殿

 

 マリクとの時間を過ごした後のリンダは、それ以来アカネイア神を祀る神殿のもとで、何かをじっと祈りつづけていた。彼がその後、自ら蟄居謹慎したことも、アリティアで何が起きているのかなどという風聞を遮断するかのように、彼女はただ一人でアカネイア創世神を祀る、パレス故宮の神殿に籠もっていた。それは彼との至福のひとときを、世間の冷たい声で壊されるのを忌んでのことなのか、それとも、エリスという婚約者がいるのを知りながら、彼とあのようなことになってしまった不義を懺悔するためなのか、彼女自身判らない。巨大な空間に、ただ一人、無心で汎神の御前に座することで、良くも悪くも、心の動揺を防ぐことが出来そうな、そんな気がした。
 そして、そんな時間が幾日も過ぎたある日、神殿に一人の人物が彼女の身を案じて訪れてきた。
「ミディア様――――」
 彼女がそう呟くと、濃紺の武官衣に身を包んだ、背の高い女性がそっと微笑んだ。
 正統アカネイア王国で、『法制の権威』と言われたディール侯シャロン枢密卿の末裔であり、英雄戦争ではパレスの膝元にあって皇帝に対し果敢に反旗を翻した、知勇兼備の聖騎士・ミディアその人であった。戦後、伴侶であるアストリアと共にジョルジュが総帥となっているアカネイア自由騎士団の将校として活躍している。リンダとは戦後、尊妃ニーナの退位出国を共に見届けて以来、さらに友誼を深めていた。
「リンダさん――――いいかしら?」
「すみません――――」
 淡とした声が空間に反響する。
「彼の事―――――」
 確認を取るような口調でミディアは言った。『彼』とは、マリクのことである。彼女は無言で瞳を伏せる。それは肯定の意。ミディアは二つほど呼吸を置き、まっすぐ彼女の顔を見つめた。
「彼――――自分からアリティア郊外のテルアの町で謹慎し、主教の位を返上したそうよ――――」
「!」
 彼女は愕然となって瞠目した。
「彼の気持ち……言わなくても、わかるわよね――――リンダさん――――」
 その問いかけに彼女は少しの間の後、ゆっくりと瞼を下ろし、小さく頷いた。
「あなたも――――彼の事、世界中の誰よりも愛しているのでしょう?……だから…彼と別れた後――――彼に対する、ぬぐいきれない不安を押し込めるように、ここに来た……」
「はい……」
 その返事には計り知れない安堵の色が凝縮されていた。ミディアは知っていた。彼と彼女のすべてを。そして、彼女が今、どうするべきなのか…いや、するべき事を伝えに来たのだ。
「あなたたちはもう、十分に悩み、涙を流してきたわ。神様もきっと、あなたたちのこと許して下さっていると思う」
 慰めか、励ましか。ミディアの言葉に彼女は糸が切れたように、その澄んだ大きな瞳からぽろぽろと宝石を零す。
「その涙の向こうには……きっと、溢れるほどの幸せがあるわ。そして…とびっきりの笑顔も待ってるはずよ――――」
 ミディアがそっと彼女のそばに歩み寄り、震える肩に手を添えると、彼女は優しい胸に顔を埋めて泣いた。それはもう、哀しみの涙じゃない。ミディアがいたわるように彼女の背中を包みながら、言った。
「今度はあなたが彼のもとに行く番よ……。彼のもとに行って、精いっぱいその思いをぶつけるの。何も考えないで、思いきり甘えなさい――――」
 身を離して、彼女はミディアを見上げ、涙に濡れた顔に笑顔を浮かべた。小さな憂いも、大きな苦悩も、よるべない不安も、全ての哀しみが消えた本当の笑顔。

 (そう――――その笑顔よリンダさん。…あの頃のように二人で交わしていた心からの笑顔――――。見せてあげてね…マリクさんに――――もう一度その笑顔を…)

 ミディアの言葉が頭に回帰する。その時、リンダは走り出していた。住み慣れたパレスの街並みが、背中に遠ざかって行く。

 (あなたの瞳に、私はいた――――。あなたの心には、気づかないうちに、私という存在が大きくなっていったのね…)

 北へ――――世界中の誰よりも愛している人のいる街へ――――。今、彼女は彼と出会った頃の少女に戻る……。

 

アリティア城――――謁見の間

 

「マリクの元に、参ります――――」

 エリスの声が延々と反響する。アリティア王・マルスとの訣別を決意し、マルスの面前で告白したマリクは、エリスの魂の叫びに、心に痛烈な衝撃を受けた。マルスの烈しい叱責を耐え、ひたすら平伏する彼の瞳から、何故か大粒の涙がこぼれ落ちてくる。
「マルス――――お願いですから――――これ以上、彼を責めないでっ!……悪いのは私……私なのですから……」
 嗚咽の中、懸命に言葉を並べるエリス。マルスは唖然とした表情で姉を見つめる。
「何――――どう言うことなのです?姉上。姉上が悪いとは?」
 眉を逆立て、エリスを睨視するマルス。今まで受けたことのない弟の鋭い視線にも、エリスは必死に言葉を発そうとした。
 その時であった。平伏していたマリクが毅然と立ち上がり、右手を強く胸に叩き合わせてマルスを直視した。肩が震えている。涙が頬を伝い、目が腫れている。マルスは怒りの色に満ちた瞳だけを彼に向ける。
「陛下っ……いや、マルス様っ!」
 彼はマルスを名前で呼んだ。アカネイアの至上位を継承して以来、面前で名前を呼んだことは一度たりとてない。いや、生真面目な彼は普段でもマルスを名前で呼ぶようなことはしなかった。『王』、『陛下』それが臣としての当たり前の礼である。それが、今彼は陛下という尊称を訂正し、名前で呼んだ。その響きがマリクの口から発せられたのは、実に二年ぶりのことである。無論、マルスもエリスも愕然となって彼を見つめる。
 彼の唇が開きかけた瞬間、エリスは急激な不安に襲われた。そして、思わず大声を挙げた。
「マリクッ――――やめてっ!」

「私は――――パレスでリンダと会っておりました――――」

 ほぼ、同時だった。彼の声の方が、エリスを超えていた。とうとう、言ってしまった。
「今、何て言った?マリク……今、何て……」
 マルスは怒りに震える低い声で、二度訊いた。
「パレスで……私は……リンダと密会して、おりました……」
 彼は低い声で、一句、一句はっきりと言った。
「…………」
 声を失い、上体を折るエリス。そして、信じられない告白に、怒号さえも忘れてしまった、マルス。
「私は汎神に仕える身でありながら正道を外し、『不義』を犯しました…。もはや、神にも…至上にも顔向けできぬ身。しかし――――エリス様の思い……無下にすることが出来ましょうか―――」
 マルスはしばらく唖然とした顔で彼を見ていた。やがて

「ふっ………ははっ……あはははははははははははっ!」

 突然、おとがいを外し、天を仰いで狂ったように笑い出した。呆気に取られて彼はマルスを見る。まるで憑かれ、常軌を逸したように笑いつづけている。
「そうか……そうだったのか………なるほど。パレスにはリンダがいたのか……気づかなかったよ」
 笑い声の合間に、マルスはそう言う。
「マリク……君ともあろう人間が、そのような裏切りを犯すとはね……想像すらつかなかったよ。いや――――よく考えてみれば、君の行動は理解が出来ると言えるのか」
 人の感情というものは、本当の恐怖、本当の怒りの限界を超えたとき、もはや笑うしかないと言う。英雄戦争後から度重なるマリクの言動に対し、寛容に受けとめてきたはずだったマルスも、蓄積された憤懣がこの告白で一気に降り積もり、限界を超えたのだろうか。もはや怒りを通り越して、薄ら笑いながらかつての親友に侮蔑の言葉を投げつける。
「君は暗黒戦争の時――――パレスでリンダと出会ってから様子が変わったっけ。先の大戦でも、よくよく考えれば君とリンダは妙な雰囲気だったよね。――――私は君たちがまるで兄妹のように仲が良かったのがほほえましかった気がするけど……そうか――――そういう仲だったとはね――――いや、私はてっきり君が姉上のためにあの戦いをくぐり抜けてきたと思っていた――――とんだ画竜点睛、傀儡だよ」
「マルス様っ!」
 彼は思わず声を荒げていた。全てがリンダのための戦いだったと、マルスは言っている。それは違う。今まではずっと、マルスのため、愛するエリスのために心血を注いできた。それだけのために努力を積み重ねて、超魔法エクスカリバーを習得し、戦いに身を投じたのだ。それなのに、そんな気の遠くなるような努力と思いさえ、今のマルスにとっては簡単に捨て去り、貶してしまうほどのものだったのか。
「私は背信の徒―――――どんな非難も甘んじます。あなたが望むのならば、死をも辞さない覚悟。しかし、エリス様…ましてリンダまでを苦しめるお言葉はいかにマルス様でも許せませんっ。リンダと通じている――――私の戦いが、リンダとこうなることのためだったなど……心外ですっ!マルス様、そのお言葉だけ撤回して下さい」
 彼はマルスを睨んでいた。二人の視線が交錯し、火花を散らしている。
「何を怒っているんだ、マリク。私が何か、間違ったことでも言ったのか」
「誰もそのようなことは申しておりません。ただ、エリス様の御前でピエロなどと……過去を貶すことだけは、おやめ下さい」
「姉上という人がおりながら『不義密通』をなした君が、姉上を思いやるというのかい?しかも、不義密通は心外だったって?自分の行動を正当化するのか?ふっ……笑わせないでくれ。姉上は君とリンダに弄ばれた。姉上の優しさにつけ込み、姉上を利用していた――――」
「マルス様っ!」
 彼の叫びを上回る声で、マルスは言った。
「これまでの事は全て茶番劇だったらしいなマリク。大した役者になったものだよ君も。姉上を誑かし、自分から蟄居して同情を買い、君のもとに行くなどと言わせるとは…すべて君のシナリオ通りという訳か?そして、よしんば姉上を擁しリンダと二人でパレスに独立でもしようと言う魂胆があるのだろう」
 彼はあまりのショックに、魂を抜かれたように茫然となった。マルスの言葉とは思えなかった。これは悪しき夢ではないかと思った。そこにいるのは心優しく、人を恨むことを知らない、打倒ドルーアを誓い戦っていた、あの頃のマルスではなかった。時と権威というものは、こうも簡単に純粋で優しい人間を変えてしまうものなのか。もはや二人の決裂は決定的な現実となった。
「カインッ、ルークッ!」
 マルスが大声で二人の将軍の名を叫ぶ。すぐにカインと近衛隊士ルークが謁見の間に駆け込んでくる。マルスは間を置かず、二人に命じるような口調で言った。
「マリクは姉上を愚弄し、その上パレスに在する魔道士リンダと密通し、叛意を抱いている。本来ならば極刑に値するが、今はシーダの事もあるゆえ、死一等は免じる。捕らえて幽閉するんだっ」
「はっ!」
 マルスの剣幕に、カインはためらわず背後から彼を抑えつける。かたやルークは驚きの表情を隠せず、ためらっていたが、カインに怒鳴られ、たどたどしく彼の腕を捉えた。強引に跪かされたマリク、無念に血走った眼をマルスに向け、がくりと頭を垂れる。遠目でもはっきりとわかるほど、彼の身体は震えていた。どのようなことがあっても、マルスの口からは死などという言葉は聞いたことがなかった。しかし、今初めてその口から死という言葉を聞いた。しかもそれが親友であった自分に向けられたのだ。彼の本心と、弁解を聞くこともなく、興奮と怒りがなす悪しき想像で、マルスは彼を殺すことさえ考えた。
 悔しかった。自分は道を外したのだ。ゆえに死など厭わない。しかし、本心も弁解も、聞こうとはしない…いや、言えなかった自分に対して、どうしようもない怒りと悔しさが彼の心を蝕んだ。もはやこれまでか。そのとき、彼は思った。自ら命を絶つことで、自分を戒め、マルスに諫言しよう。自分の精いっぱいの思いを、ずっと慕っていたマルスにぶつけよう…。大袈裟かも知れない。しかし、もはや彼はそこまで追いつめられていた。
「連れて行け!」
 その声と同時に、顔を両手で覆っていたエリスが突然立ち上がり、つかつかとマルスの側に歩み寄ると、間髪いれずにその頬をはげしく打った。
 ぱんっ―――――
 渇いた音が、空間に響きわたる。彼も、彼を抑えつけていたカイン、ルーク、そして衝撃のために顔を横に逸らしたマルス。皆、突然の出来事に呆気に取られたように静まり返る。打たれたマルスの白い頬が、みるみるうちに赤く腫れて行く。
「話を聞きなさいマルスッ!」
 それは、神聖アカネイア至上たるマルス王さえも超えた威圧感のある声。マルスにとって、唯一の肉親である姉・エリスが放った、怒りの声。生まれて初めて殴った、弟――――痛い。途轍もなく、痛い…身体も、心も……。
 さすがのマルスも、実姉の一撃に我に返ったように唖然となる。カインもルークも茫然となって彼を抑えつける事を忘れる。
 僅かな沈黙の後、エリスはいつものように優しい口調に戻り、固まっている弟に囁くように言った。
「マルス――――あなたの怒り、よくわかります……。誰よりも愛し、信頼していたマリクがこの国を……あなたのもとから離れる――――あまりの告白に混乱してしまい、心にもないことを言ってしまったのでしょう――――」
「…………」
「でも――――聞いて、マルス。マリクはリンダさんと不義なんて犯していない……マリクは何も悪くないの。悪いのは私なのよ……彼の気持ちを解ってあげられなかった私が……彼を追いつめてしまったの――――」
 彼は顔を上げてエリスを止めようとした。しかし、エリスの切なげな視線を受け、彼は言葉を割り込ますことが出来なかった。エリスは語る

 マルス――――彼は昔からあなたを慕っていた。私のこと、想いつづけてくれていたの。その気持ちは今までずっと、変わっていなかった……。
 でもね、あなたがアリティアの王になり、アカネイアの至上位を継いで、否応なしに仲間や親友たちの絆よりも、国のことを考えるようになった事が、彼にとってはとても辛いことだったのよ……。
 昔のままでいて欲しい…なんて、子供みたいな事言うなんて、情けないことかも知れない。でも、彼にとってはそれが一番大切なことだったの。
 大陸の平和のために、私情を捨てて行くあなたを見ているのが苦しくて、変われない自分に悩みつづけていた……。
 私は気づいていたわ、彼の気持ちを。でも、私は一番大切な彼のことと、あなたのことを一緒に考えてしまっていた――――。
 私、彼に言ったの。
『何があっても、マルスを支えてくれる――――』って……。
 彼は悩んでいたわ。わかっていたけど、そうとしか言えなかった……。
 彼はずっと、私の言葉だけを守り通そうとした…。自分の心に嘘をついてまで、ひたすらに王のため、私のために自分を変えようとした。
 でも、自分に嘘なんかつけるわけがない。
 彼は本心と現実の相違に悩み苦しんできた。無理に自分を繕ってきても、次第にあなたや臣民は彼の心から疎遠になり、彼は孤独になった……。

 だから――――

 エリスはこみ上げてくる感情を抑え込むかのように唇を噛みしめる。

 任務を果たさないで、リンダさんの元に奔ったのは当然の事なのよ……。
 彼は心も身体も疲れ切っていた。安らぎを求めて……渇ききった大地が水を求めるように、彼は心を潤す水を求めていた……
 たどり着いたところが彼女だった――――
 あの忌まわしい戦争の時からずっと、彼女は彼の心の支えとなってきたのですもの……先行きに悩み、苦しむ彼のそばに、ずっと、いてくれた人――――一番大切な時に、側にいてくれていたのよ……。それに比べて私は彼の気持ちよりも、弟であるマルス、あなたの事を思ってしまったのですから……。

 彼は悪くないわ――――私が――――悪いのよ……

 マルスは茫然と姉を見つめていた。
「……ならば姉上は、マリクを許せと――――おおせられるのですかっ」
「出来ることならば、そうなってもらいたい――――でも、もうマリクはアリティアを離れると決断したのです。彼を引き留めれば、かえって彼を追いつめることになります――――。でも、彼がアリティアを離れるのならば…、私も共に、この国を離れます――――」
「わからない……なぜ姉上が悪いのか。姉上が間違ったことでも言ったのか。なぜ、姉上がこの国を離れなければならないのか――――」
 マルスは無意識のうちに首を横に何度も振り、苦悩の表情を見せる。そんな弟の様子に、エリスは小さな声で言った。
「マルス――――昔を思い出して……私たち三人が一緒に遊んでいた頃……あなたたちが結束していた、戦いの日々を……。わかるはずよ、彼の気持ちが…」
「…………」
 マルスは無言で瞳を閉じた。そして、じっと何かを考え込むようにうつむく。
 エリスがそっとマリクの方に視線を移す。彼もまた、震えながらうつむいている。しかし、きつく閉じられた眦からは、とめどなく涙がこぼれ落ちてくる。むせび声が、かすかながら聞こえてくる。
 マルスは多忙の日々にかすんでいた記憶を辿る。
 やがて、茫漠たる光景が瞼の奥に照らし出された。そこに映ったのは、在りし日の父王コーネリアスに手を引かれた、幼い姉弟。中庭の池の辺で、初めて出合った、同じ年頃のエメラルドグリーンの髪を持つ少年。自然に仲が良くなって、かけっこをしたり、隠れん坊をしながら過ごした、穏やかな日々。屈託のない笑顔を交わしながら、木の枝で剣術のまねごとをするマルスと少年。それを微笑みながら見守る、姉。
 忌まわしきアリティア滅亡。姉は自分たちを救い、敵の手に落ちた。大いなる絶望と、小さな希望。希望を信じ、誓い合った仲間たちと決起した日。オレルアンで、超魔法エクスカリバーを携えて再会した、エメラルドグリーンのかもを持つ少年・マリク……。心から再会を喜び、抱き合いうれし涙さえ流した日。同じ理想と希望に向かい、固い友情に結ばれていた、二人、そして仲間たち。
 時には喧嘩もした。けれど、同じ理想と希望に向かい合う二人にとって、喧嘩の原因など、どれも実に他愛のないものだった。二人同時に謝ろうとして、照れくさくなって笑い、それを隠すかのように互いに肩を組みながら話題を変えてさらに笑い合った。周囲から見ても微笑ましくなるほど、二人は強い絆、本当の親友として結ばれていた。
 語り尽くせない場面が、堰を切ったように、次々とマルスの脳裏を駆け抜ける。

 ――――親友――――

 マルスは無意識のうちに呟いた。何故かその言葉に、強烈な懐かしさを感じていた。そして、忘れていた大切な物を見つけだしたときのような、気持ちの高ぶりを感じる。

 親友――――マリクは……私の親友―――――

 何度も呟きながら、マルスは顔を上げ、項垂れて震えているマリクを見つめる。
 それは実に何気ない、当たり前の答えだった。あの頃、苦悩するマルスを支えてくれていたのは、誰よりも親しい、誰よりも自分をわかってくれていた、『親友』のマリクだった。彼がいなかったら、きっと、今の自分はいなかった。
 英雄戦争が終結し、王としてアリティアを治め、アカネイアの至上を継ぐことになった。無意識のうちに、理想から現実を見るようになったとき、マルスはきっと『大人』になったのだろう。次第に、マリクのことも親友として見、つき合うことを遠ざけていったのだ。
 マリクは私の親友――――
 簡単で、当たり前で、それでいて何よりも大切な気持ちを、マルスは自然に忘れていった。しかし、マリクは忘れないでいた。親友の心からの忠告も、疎遠にしてしまうほど、マルスは『大人』になり、マリクは『少年』のままだった。
 どちらがいいことなのか、どちらが悪いことなのか、それはわからない。現実を生きて行くには、マルスのように『大人』にならなければならない。『少年』のままだと、きっと今を乗り切ることは出来ないだろう。他人か言わせればただの『甘え』に過ぎない。
 しかし、マリクはマルスのことを、『親友』と思いつづけてきた。たとえ、マルス自身が移ろう季節とともに、彼に対する感情が薄れていっても、彼は失くさなかった。
 『親友』という感情が大切なものなのかどうかはわからない。でも、もしもそうだとするならば、大人になるということは、きっと大切なものを失くしてゆくと言うことになる。
 マルスはその時、ようやく彼の気持ちを知った気がした。だから、彼を見つめた。現在の臣下としてではない、かつての親友として、彼を見つめていた。
「マルス――――」
 エリスがそっと囁く。マルスは振り向いた。切なげな姉の表情は、なおも優しい微笑みを絶やさず、慈愛に満ちた眼差しを弟に送っている。
 そして、マルスは思った。姉上も悪くない。そう……きっと、誰も悪くはないのだ。すべては、時の流れの中で、三人がそれぞれの道を進んでいった。正しいこと、間違っていること。そんな分別など、この三人が培ってきた絆にとっては無用なものなのだ。
 マルスは目頭が熱くなるのを感じていた。無性に、涙が溢てくるような感情に驚いた。
「マリク……」
 僅かにうわずりかけた声。マルスはうつむく親友を見つめながら、言った。
「君の所行――――決して許されることじゃない。しかし、姉上のお気持ちを思い、厳刑は免じよう。そのかわり、アリティアの臣籍を返上し、パレスへの追放を命じる――――」
 その言葉に、マリクもエリスも愕然となって、マルスを見た。
 必死であふれ出しそうな涙を怺えて充血した目、かすかに震える唇。
「姉上――――。あなたには、パレス故宮祭祀殿の祭主となっていただきます……十日後、パレスへ下向して下さい……」
 マルスは何度も鼻をすすりながら、そう言った。
「マルス――――」
「マルス……様……」
 二人の熱い視線を避けるように、マルスは顔を逸らして天を仰ぐ。それは、言わずもがな二人の思いを受け容れた言葉だった。マリクに対しては心の枷を取り外し、リンダの元に行けと、そして、エリスにはマリクについていて欲しいと、そう願っていた。アリティア国王として、アカネイア至上として、個人の情を言えない立場であるマルスにとって、その言葉が精いっぱい、二人を気遣う最高の台詞であった。忘れかけていた気持ちを思いだしたマルス王、いや、マルス王子を見つめる二人には、その思いは痛いほど解った。
「ありがとう……ございます……」
 ひれ伏し、なおも涙声でマリクは精いっぱい感謝の気持ちを口にした。
「マルス……わかってくれて……ありがとう……」
 エリスも、弟の気遣いに心から感謝していた。
「今日は……これまで……」
 マルスは二人に応えることなく、そう言って駆け出すようにその場を離れた。応えたくなかったわけじゃない。何かを応えると、自分まで大泣きしてしまいそうな気がした。臣下の前で王が涙を流すことなど出来ない。
 マルスは足早に後宮にある自室へと駆け込むと、たまっていた感情が一気に爆発したように大哭した。自分でも驚くほど、息を詰まらせて泣いていた。昔の日々を懐かしみ、失うものの大きさを悔やみながら……

 謁見の間にピンク色の夕陽が射し込む。そこにはマリクとエリスの二人だけがいた。上座にエリス、下座にマリク。マルスとの謁見時のまま、二人はそのままの状態で、数時を過ごしていた。
 不意にエリスが口を開く。
「つい、勢いで言ってしまったけど――――あなたの本当の気持ち……聞かせて欲しい。気を遣わないで……大丈夫だから――――」
 横から差す夕陽に照らされた彼の表情は、もはや哀しげなものは感じられなかった。泣き腫らした瞳はきらきらと輝き、一字に結ばれた唇には、小さな微笑みが浮かんでいる。
 数秒の間の後、彼はゆっくりと唇を開いて、言った。
「私の想いは――――エリス様……ご随意に……」
「えっ―――――」
 エリスの瞳が思わず見開く。
「これ以上……誰の泣き顔も見たくはございません……。エリス様のお心、誰が無下に出来ましょう――――」
 それは思いもよらない言葉だった。エリスは一瞬、自分の耳を疑った。
「今の私には……リンダが必要です……しかし……今まで培ってきた絆まで断ちきることが出来ましょうか――――」
 静かに、それでも熱く、彼は語った。
「離れていても…マルス様は私の親友です――――エリス様は……私の憧れです……」
「マリク…」
「エリス様のお言葉…心か嬉しく思います……ただ――――私は、今すぐにあなたを妻に迎えることは出来ません――――が、いつかきっと、あなたを妻に迎えられる日が来るものと、そう信じております……」
「……」
 かすかに、エリスの表情が曇ったように見えた。
「形だけ…事実だけ…あなたはそうおっしゃっておられました。…しかし、私はそのような一時の感情であなたを迎える事は出来ません――――あまりにも残酷ですから……」
 エリスは彼の優しい心に感動させられていた。それは、彼の言葉が相手を傷つけまいとして、飾りつけられた上辺のものではない。本心を、ありのままの素直な気持ちを表していた。だから、人は感動する。
「うまく言えないのですが――――私たちはきっと、明日からそれぞれの道を歩むことになるでしょう。その道の先に何が待っているのかは、誰にもわかりません……。でも、私は信じていたいのです。いつかきっと、私たちが昔のように無邪気にはしゃぎ、素顔で笑い合い、戯れる日が来ることを…そんな、絆を……」
 彼は微笑んでいた。彼の脳裏にも、かつての日々の光景が過ぎっているのか。
「きっと……あなたを迎える………いつか私が…あの頃のように、あなたを必要とするときが来たときに……約束します……」
 彼はエリスの瞳をまっすぐに見つめた。澄んだ瞳、一点の曇りもない、決意に満ちた眼差し。
 エリスは嬉しかった。心から、嬉しかった。たとえ今、彼のことを引きとめることなど出来なかったとしても、嬉しかった。先の見えない明日、どうなるかはわからない。でも彼は言ってくれた。
 迎えに行く日が来る、約束する――――。
 本当に愛しているからこそ、信じられる。本気の言葉だからこそ、確信できる――――。だから、最後にこう言えた。

待っているから――――いつまでも――――

 彼が見納めとなるであろうアリティア城下の自邸に戻ったとき、扉の前に立つ一人の女性の姿に愕然となった。
「リ……リンダッ!」
 咄嗟に、彼はそう叫び、彼女の前に駆け寄る。彼女の愛くるしく潤んだ瞳は、ただ一心に彼だけを見つめていた。
「マ…リク……さん……」
 そして、途切れ途切れの声を出し、彼女はしなだれかかるように彼の胸に飛び込んだ。彼もすかさず、両腕で彼女を抱きしめる。
「どうして……君が……」
 瞠目し、ただただ驚く彼。彼女は心の底から叫んだ。
「もう、離ればなれはイヤッ!……マリクさん――――好き……愛してる……お願い、離さないでっ……」
 恥ずかしさからか、彼女の顔は真っ赤に染まっている。それを隠すかのように、彼の胸に顔を埋めている。
「リンダ……」
 たどたどしく、それでも精いっぱいな思いが込められた告白に、彼の心は驚きから強い愛おしさに変わる。
 『待っていてくれ…必ずここに戻るから…』そう、彼は言った。だが、彼女はここにやってきた…。
 彼を想い慕う、純粋で健気な少女リンダ。どんなに飾られた言葉よりも、一時的な感情で走った行動よりも、彼女の気持ちは本物だった。いくつもの痛みや哀しみが彼女をむち打っても、決して壊れない。ミディアが言っていた。彼は密会の後、責を負って自分から謹慎という行動に出た。一日や二日じゃない。季節が移ろい、景色が変わるまで、彼は決意を秘めて謹慎した。それが後悔から来るものではないと言うことを、誰よりも彼女自身、わかっていた。
『リンダのために、アリティアを離れよう――――』
 彼は身をもって、その想いを示してくれたのだ……。
 気がついたときは走り出していた。不思議と、涙は流れなかった。反対に、溢れるばかりの笑顔が生まれていた。自分でも忘れかけていた、ありったけの笑顔……。

『もう、待っているだけじゃいや……マリクさんのそばにいたい……もう、離れたくない……』

 彼自身も、そんな彼女の気持ちは自分のことのように強く感じていた。本当に必要な人。新しい自分、新しい明日を共に歩んで行く、かけがえのない人。だから二人は誰にも憚らずきつく抱擁を交わした。他に何もいらない。それが、互いの心の証であるからだ。
「リンダ……」
 彼は耳元に囁いた。
「もう……何も迷わないよ。……行こう。パレスへ……」
「……マリクさん……」
 彼女は青く澄んだ瞳で、彼の瞳を見つめた。微笑んでいた。屈託なく、彼は微笑んでいた。あの頃のような、純粋で、希望に満ちあふれた、本当の笑顔だ。
「私――――いや、僕には新しい夢が出来たよ。今、やっと生まれた――――」
「夢?」
 彼女はきょとんとしていた。彼はやや照れくさそうにはにかむと、言った。
「パレスに――――学校を作りたいんだ」
 あまりにも唐突で、膨大な話に、彼女は一瞬、呆気に取られた。
「僕は、君のお父さん――――ミロア大司祭のような、立派な魔道の先生になりたい。そして、ミロア大司祭のように、優しく、強く、誰にでも尊敬されるような人間になりたいんだ……もちろん、君のためにもね――――」
 その言葉を聞いた途端、彼女の瞳に大粒の宝玉が浮かんできた。彼は優しく彼女の頬を両手で包み、親指で眦を掬う。
「涙を流さないで、笑ってごらん――――リンダ」
 彼の囁きに、彼女は微笑む。だが、宝玉はゆっくりと彼の親指を伝う。
「素敵だよリンダ。君は笑顔が一番似合うね……」
 やや気障な感じの科白に、彼女ははにかむ。
「マリクさんも……笑っている方がお似合いです…」
 そして、互いに一瞬顔を見合わせると、声をあげて笑った。
 二人、心から笑い合った日はすごく遠い昔のように感じる。だからこそ、この一瞬がとても新鮮に思えた。やがて、再び見つめ合う二人。
「もう一度、笑ってみて――――リンダ」
「マリクさんも――――笑って」
 二度目の笑顔。なぜか素直に笑顔が生まれる。おかしいからじゃない。まるで何も知らない純粋な子供が、どんなことにもはしゃぎ、笑うような…そんな感じだった。これから向かう、新しい明日。未知なるものへの希望。それは子供が抱く、好奇心のような感情。どんな明日が待っていようとも、二人ならば歩いて行けるさ。だから、笑っていようよ――――

『もう一度、笑って――――』

 

612年晩夏――――パレス

 

 じりじりと照りつける陽光が、過ぎて行く夏の名残を感じさせる。古都・アカネイアパレスの緑が、一段と萌ゆる季節。
 ゴードンはあれからすぐにアリティアを去り、アカネイア自由騎士団に参加した。まだ日も浅い新参者なのに、尊敬するジョルジュからも一目置かれるほどの弓騎士に成長しているという。その生真面目な性格からか、時々とちることもあり、そのたびにミディアやアストリアなどから慰められているらしい。どこか少年の面影失わないゴードンの前途は光に満ちているようだ。
 エルレーンは魔道総督辞任に向けて、今後のカダインの行政について色々と模索しているらしい。魔法の技術よりも人並外れた政才に目覚めたエルレーンは、自分の持つ才能を十二分に揮うことにやり甲斐を感じている。カダインの統治。最高司祭として、万民の運命を背負う重任に立ち向かうのに奮起しているようだ。今のところ、エルレーンに恋人が出来たという話は聞かない。
 一年前、グラの王位に復したシーマは再び王位を退いた。そして、サムソンと共に、いずこかに姿を消したという。パレス郊外にあるあばら屋は、彼女たちを崇敬する住民たちによって常に整理され、悲運の王女の帰還を待っている。シーマ、サムソン。二人の歩む道に幸多かれと願う。
 エリス王女――――
 聖アカネイア至上・マルスの叡慮によって、パレス故宮祭祀殿の祭主として下向――――。それがマルスの心遣いであった。愛しい人の言葉を信じ、彼女は今、ひたむきに祭主として、正統アカネイア王家歴代の祭祀を取り仕切っている。
 その日、彼女は祭祀殿尖塔から、晴れわたる穏やかな城下を眺望していた。見た目にもはっきりとわかる陽炎が、家々の屋根から立ち上っている。そして、ふと宮殿のほぼかたわらにある、造りはじめの建物に視線を向けた…。

 二人は寄り添いながら、やっと土台が出来た『夢』の形を見つめている。
 今、改めて思う。二人はそれぞれに大きくも、小さくも、数え切れないほどの傷みや哀しみを負ってきた。理想を欲し、現実に涙し、恋に破れ、恋に苦悩した……。
 運命は激しく流転し、やがて、神は二人を結びつけてくれた。全てをかなぐり捨て、結ばれた。
 だからこの先きっと、今までとは比べものにならないほどの過酷な道が待っているだろう。時に挫折し、絶望もすることもある。
 だが、二人は笑っていた。互いを見つめ合うたびに、自然と笑顔が浮かんだ。まるで、どんなことにも恐れず、立ち向かって行く……そんな決意が満ちあふれているような、屈託のない、澄みわたった笑顔だった。
 かつて二人は誓い合い、終生守りつづけたいと願った言葉がある。

『その笑みを絶やすこと、ないように――――どんなことがあっても――――君の笑顔を守りたい……』

 パレスの空に、二人の笑い声が、ゆっくりと吸い込まれていった……。
  

 パレス魔道学院――――後に初代総統となるマリクが、ミロア大司祭の意志を引き継ぎ、再建――――。それが、彼の親友であるマルス王の蔭ながらの援助によって、かつて数多の学士が学んだ魔道学院に劣らぬほど、見事な繁栄を築き上げて行くのは、これより数年のちの話である。


SMILE AGAIN
~君の笑顔を守りたい~