八朶家略系図 八朶家武将列伝

八朶氏

第6代長居元護の腹心として文武両面で活躍した長居国綱を開祖とする士族。陸東の八朶郷を領し、八朶姓を称する。
代々陸南の異民族を牽制する征蛮都督職を継承する家柄で白砂王家からも信任されて来た名族である。
9代師親(もろちか)の時に長居家の内執事をも兼任し、八朶氏隆盛期を迎える。
長居家15代胤護の夭折後から、早世当主たちに代わり家政を遂行。長居家中における権力が自然と強化されてゆくようになる。長居兄弟の乱では兄教家側につき、綱致(つなむね・白砂王広致の子)が戦死し、一時期衰退する。しかし、長居政護の乱後、17代八朶晴国は独立。戦国群雄・八朶家の誕生を見る。
しかし、晴国には子がなく、鳳宗瑞(そうずい・義長)の次男長晴を養子に迎える。この長晴こそ後の冥鬼である。
長晴は鳳家家督を相続できなかったことを恨み、天下を掌中にする野望に燃え、武力と策謀をもって近隣諸国を次々に滅亡に追い込み、実家である鳳家をも急襲しこれを滅ぼし、一時、長居家最隆盛期に領した極北・陸中一帯を支配下に納めることに成功したが、鳳家の遺児驍の執拗な反撃の末、遂に討たれ八朶氏は滅亡。
だが、後年鳳国第3代の座に就いたタケルが八朶の名跡を惜しみ、かつての腹心ゲンの孫・輝経を晴国の養子として八朶家第19代を継がせ再興させた。冥鬼滅亡後実に80年も後の事である。


楠入晴家(1514.?.?~1576.12.10)
八朶家庶流・楠入(くすい)家第15代。八朶国繁・晴国・冥鬼の三代を支えた八朶家宿老。晴家が支えた国繁・晴国治世を「観寧の治」と呼ぶ善政を敷き、戦国乱世において、八朶氏の遼嶮城(不夜城)領内では平穏な日々が続いたという。対外諸国、特に陸南地域の諸豪族・諸国家との外交関係の構築を晴国に提言、友好関係を次々に締結して行った。それが奇しくも後に八朶冥鬼が西方諸豪族や、陸南地域の平定に繋がる結果となり、八朶氏台頭の一因となる。

楠入輝実(1552.3.21楠入~1607.1.28雫村)
初め昭実。晴家の嫡男。八朶楠入氏16代。冥鬼治世下では冷遇されて陸南に追いやられていた。大国・陵(東陵)家との折衝を重ね、鳳驍の不夜城侵攻に際しては、冥鬼の命令で陵景頼(龍道)との不可侵条約を成立させた。冥鬼滅亡後は楠入城に閉門蟄居し、後、驍の招聘を得て漠陀羅国滅亡後の陸南都尉として鳳家の砂漠地域の成敗権を委嘱された。1594年、冠達武頼の鳳狩りが勃発すると、親交のあった留丹沙毘奈らによって匿われた後、天崎長秀の雫村に落ち延びて再起を伺うが、決起の日を見ることなく病没した。享年54。

世辞元熾(1533.8.31相西~1582.9.10)
号は柳蔭斎。八朶氏庶流。綱陸の子。紅井領国境・相西(しょうせい)城城主。八朶冥鬼の臣。紅井秀行の好敵手として名を挙げた知勇の将。冥鬼直属の黒騎兵団も、元熾の前では大礼をもって接したほどである。桿剣の使い手であり、極北の剛勇諸侯にその存在を強く怖れられた。対紅井氏の前線指揮官として活躍。その一方で鳳驍の器量を認めていた。八朶氏滅亡後、紅井秀行から殉死を止められ降伏。剃髪して一線から退いた。

世辞家直(1560.9.9相西~1579.2.8雪瀬石)
元熾の長男。黎八郎。幼い頃から勇武に優れる。八朶冥鬼の恐怖政治に反感を抱きながらも忠義を尽くす。紅井氏を良く牽制し、極北からの危難を抑え16才でその名を知らしめた。戦国154(1579)、黒騎兵団の総領として暗人を副将に総兵力13万の紅井秀行追討を画策。雪瀬石城に迫ったが、紅井氏家臣・神名兼氏の計にはまり壊滅、家直も戦死した。これにより、八朶冥鬼は紅井氏戡定を断念することになる。

八朶綱致(1509.4.3白砂~1530.10.4東井ヶ峰)
白砂広致の子。八朶致経戦死後、八朶宗家を継承した国繁の猶子となる。この時期、長居家の政情不安が群雄諸侯の内戦勃発の危険性も含んでいたため、中立白砂家との関係強化を図った国繁が白砂王広致に綱致の猶子を打診したという。知機に富み、剣もこなす才があり、八朶家の将来を嘱望されたが、長居政護勢力の姓野清長との東井ヶ峰の会戦に初陣として出陣し、夜陰に乗じて奇襲を受けた際に受けた毒矢が元で陣没。享年20。

緒瀬公泰(1537.6.8緒瀬川~1583.2.17緒瀬川)
八朶家一門。泰村の嫡男。八朶泰綱は生来、身体脆弱であり、元服後も素行不良と言われ事実上廃嫡された不遇の人であった。その由縁から八朶領辺境の緒瀬川に土着。緒瀬氏を称する。公泰も本宗家からは冷遇され、鳳領北西部の監視役に止まる。
奇しくも緒瀬川地域は対鳳家との前線死角に位置しているため、幸いにも領内は平穏を保っていた。八朶家滅亡後も鳳驍から所領安泰の沙汰を受け、そのまま領主として安定政治を敷いた。