鳳家略系図 鳳家武将列伝
鳳氏
長居家の隆盛期を築き上げた第12代長居頼護の次子長頼を開祖とする長居氏族中、外執事として最も実力を保ちつづけてきた名家。中原の重要拠点である蒔枝(まきえだ)城を本拠とし、蒔枝氏とも称する。
第3代長通の時世から主家である長居宗家は当主の夭折が相次ぎ、内執事八朶氏と並び、長居家において事実上権力は鳳・八朶に移行していった。
それでも8代長貞(ながさだ)までは長居家重臣として幼主を補佐し、主家のために尽力する忠臣として仕えてきたが、長居教家・教親兄弟の家督争いで、12代義長(宗瑞)は兄教家側についた八朶綱致と袂を分かち、一族をして弟教親を擁立。激戦の末に教家軍を破り、長居家中の権力を絶対的なものにする。
長居兄弟の乱に勝利したことで、事実上鳳氏は長居家に代わって領土を納め、大国にのし上がる。これに不満を抱いた長居家当主政護は、義長と和睦した八朶晴国追放を画策し挙兵するが、義長は逆に政護を破り追放。主家を滅亡させ、鳳氏隆盛の基礎を造り上げた。
鳳氏が最も栄華を築き上げたのは鳳典膳の名で知られる13代長綱(ながつな・典膳)であり、極北の雄紅井・保坂、そして弟長晴が養子となった八朶氏を盟主となし、天下統一の勢いで諸群雄を平定していったが、突然の弟長晴(冥鬼)の謀反で長綱は戦死。蒔枝鳳氏は一旦滅亡。
しかし、長綱の遺児であり、驍(たける)の名で知られる輝綱が生き残り、臥薪嘗胆の末に長晴を討ち滅ぼし、その後の苦難を乗り切り天下を統一。鳳国を創設した。
一時期、冠達武頼という男に鳳国は乗っ取られたが、輝綱の遺児タケルがこれを討ち滅ぼし、鳳家を再興させた。
鳳武将列伝
巽凱(1545?~1612.?.?)
鳳家書伝によると、諱は輝尚。鳳長綱に見出され、断絶していた巽家の姓を譲られたとある。『千人力の武神』と賞讃された、天下無双の猛将。また、相当な美丈夫でもあった。鳳驍に生涯の忠誠を誓い、常に傍らにあって驍を守り、支えてきた。その武勇伝と伝説は語るに尽きない。
冠達武頼の謀反によって、鳳驍一族が抹殺されると、遺児タケルをして武頼打倒の先駆を成し、旧鳳家臣団からも厚い信頼を得て心の拠り所となった。
百鬼暗黒の謀略に自ら進んではまり、戒名峠の古城にてその波乱に満ちた生涯に幕を閉じる。
後年、「聖一位大勲等・護国大神忠烈公」を追贈され、一兵士にしては極めて異例に、その遺骨は王家の陵墓、鳳詩織と共に埋葬。御神体は白砂宮・初国神殿に合祀された。
鳳詩織との悲恋は聞く者に涙を誘い、巽姓を譲られた猟火を始め、鳳家武臣たちの鑑として、その名は永遠に伝えられた。
甲斐流輝(?.?.?~1628.?.?)
火薬師。須玉晴久(甚儡吾堂)の家臣として兵器としての火薬の開発に尽力していたが、主君・晴久に急襲されて妻子を失う。以後、仇敵晴久を討つことを念頭に流浪。鳳驍の心根に惚れ込み、驍の尽力もあって晴久を討った。
以後も驍の盟友として鳳家に身を置き、八朶冥鬼追討にその火薬術を用いて貢献度は計り知れない。面部隊を悉く火薬で粉砕してゆく流輝の存在を怖れた冥鬼によって謀略をかけられ引き離されたところを刺傷。一命は取り留め、白砂領・九尾村で静養生活を余儀なくされる。
渡割雷甲の謀略で替え玉にされた驍の言動に不信を募らせ、九尾城を本拠とする山賊の頭目となるが、巽凱らの尽力で再び、鳳家に合流。タケルと共に冠達武頼の討伐に名を馳せた。
武頼滅亡後、再び流浪の旅に出、妻子の菩提を弔いつつ、1628年にいずこかで静かに没したと伝えられた。
仁紗辰人(1538.9.10北領~1579.3.14不夜谷)
諱は慶直。鳳氏一門・仁紗慶宗の子で、北領の太守を務める。剛毅木訥な武将で、勇武の才は巽凱・堤障らに劣らない。蒔枝鳳家が滅亡すると、北領守護の辰人はいち早く極北守護紅井氏を説得し鳳家支援(中立)を取り付けるなど、外交手腕でも戦国武将の信任を得ていた。鳳驍に従い、北領を統治。紅井・保坂両氏が終始一貫して鳳氏支援に回ったのはひとえに辰人あったればこそと言えた。
八朶冥鬼との会戦に参陣。不夜谷において面部隊の弱点を看破し、危機に瀕した驍を身を持って盾となる。黒騎兵団と共に壮絶な最期を遂げた。享年40
堤障(1551.?.?~1594.?.?)
鳳家書記によると諱は知瑛。その武勇は巽凱・仁紗辰人に劣らない。幼い頃に巽凱同様、鳳典膳に見出されて仕官した。
鳳家第十一番隊隊長として、極北地方の警備に当たっていた。蒔枝鳳家が滅亡すると保坂氏の名垣において流浪していたが驍と合流、その臣下となる。天下統一までの武勇伝は語るに尽くせず、仁紗辰人戦死後は、その誠実温厚な性格が驍の絶大な信頼を受け、特に兵卒統率に本領。鳳国建国後は近衛隊長として活躍した。
1594年の武頼クーデターでは武頼私設の赤かぶと隊に果敢に対抗。鳳家書記には戦死したとあるが、事実その後の消息は不明である。
鷹士重政(1565.?.?北領~1594.7.12蒔枝)
『たかつかさ・しげまさ』と読む。通称「藤太」。後年、葵炎丞より葵姓も許される。北領の農民藤吉綱重の長男として生まれる。鷹士氏は元々士族で、鳳家と同じ長居家の庶流である嵯峨野江頼清を祖とする名族であったが、先祖が罪を得て帰農していたという。
幼少時から聡明利発な才を発揮し、父が探し求めていた水脈を、落ち延びてきていた、鳳家領主・鳳驍と共に発見し、干魃にあえいでいた北領を救う。
鳳驍の旗下に、弟・矩重(藤次)・親友ゲン(天崎長秀)らと共に集い、その奇抜な知略と才気を持って初期鳳軍の知の要として重要な役割を担った。
葵炎丞に師事し八朶冥鬼追討には副軍師として活躍。天下統一戦では、病床の炎丞に代わって鳳軍総軍師として西陵戦や蛮夷戦に大功を挙げた。
冠達武頼が謀反を起こし鳳驍らを駆逐した時は、公務で外洋に出ていたが他将より一足早く朝廷に帰還する。これが運命の分かれ目であった。武頼に導かれるまま、蒔枝城内の御座所前の廊下にて武頼兵の手にかかり斬殺された。享年28。後に「光一位勲英位・鎮軍将軍」を追贈された。
鷹士矩重(1566.?.?北領~1594.7.10蒔枝)
通称「藤次」。藤太重政の弟。幼い頃に養子に出されたまま孤児となっていたが、兄と共に北領に逃れていた鳳驍の計らいで実家に戻り、そのまま驍の旗下に加わる。尖刀の使い手で気性沈勇。兄の右腕的存在として各地で奮戦。八朶冥鬼との合戦では、黒騎兵・地破人を斬るなど、武勲は堤障に次ぐ名声を得ていた。
天下統一の鳳・西陵戦争では、軍船を率いて西陵軍の並みいる武将艦隊を撃沈、将軍としての才能に秀でた部分を見せた。しかし、黒神国討伐時に降服した冠達武頼を、一貫して忌み嫌ったため、鳳狩りでは真っ先にその標的とされ、家宅を夜襲され、一家ことごとく惨殺された。
鷹士輝重(1589.6.1蒔枝~1651.11.20北領)
通称「藤一郎」。藤太重政の嫡男、母はサエ。両親が鳳狩りに受難した時、輝重は家人に匿われて脱出。各地を流浪し、極北公・紅井輝行の基に身を寄せ、雫村などに潜み好機を窺う。
タケル決起に際してその傘下に加わり、老将・巽凱の指揮の下で鳳浪人・反無頼一揆衆の統率に尽力。猟火とも仲が良かった。戦後、父の故郷・北領に戻り帰農した。
鷹士綱重(1542.?.?北領~1576.6.16北領)
通称「藤吉」。藤七元重の子。学者肌で、北領の地質を研究していた。干魃が続き、凶作続きだった北領の岩盤に水脈があることを発表。しかし、荒唐無稽な話であると誰からも相手にされず、病弱だった妻を放り岩盤調査などに没頭していたことから誹謗の的とされ、不遇のうちに早世した。水脈は長男の藤太重政と、鳳驍によって発見され、藤吉の名誉は挽回された。
また、藤太が鳳家家臣に列したことから、鷹士姓を復し、代々に諱を追贈。藤吉も綱重の名を贈られ士族の遇を受けた。
天崎長秀(1560.12.24北領~1613.10.17国陽関)
通称「ゲン」。北領農民の出身。藤太の幼なじみで幼い頃から人心掌握に優れ、武勇の才があった。水脈を巡る騒動で、鳳驍と藤太の気概に感銘し、その旗下に進んで参加する。仁紗辰人・巽凱らの副将的存在として、将兵の訓練に当たる。その類い希なる訓練術の素質は、他者の追随を許さなかった。
渡割雷甲滅亡後の天下統一戦では、蒔枝城にあって将兵の士気高揚を担当。冠達武頼の謀反の際は運良く外洋に出航していたため難を逃れ、紅井輝行の庇護の下、雫村にて旧鳳家臣団を取りまとめ、来るべき鳳家復興に備えた。
その素朴な人柄がタケルに信頼され、『叔父御』と呼ばれ慕われた。
1613年10月17日、武頼との最後の野戦・国陽関の合戦で致命傷を負い、武頼軍師・葵四迷の巨身兵の策を破るために、自ら火薬を提げて突進、壮絶な自爆を遂げた。後年、光一位大殊等忠武公・鎮東大将軍を追贈、白砂初国神殿に合祀された。
天崎輝秀(1591.4.2蒔枝~1648.3.17蒔枝)
長秀の子。勇猛な気性で刺突剣を得手とした。鳳驍を第二の父親と崇敬する、熱烈な鳳信奉者。鳳驍の遺児・タケルが素性を疑われると、輝秀はいきなりタケルに斬りかかり、ひと太刀合わせただけで、鳳驍の子であることを確信したという。以後、反乱軍の中核に位置して軍卒の指揮に貢献した。
戦後、近衛軍司令官にまで昇進。帰農した同胞・鷹士輝重とは違い、武官として生涯を終えた。
八朶輝経(1637.8.24蒔枝~1698.9.1東川)
輝秀の子、ゲン長秀の孫。八朶晴国の養嗣子として、約80年ぶりに名族・八朶家の名跡を継ぐ。当初、冥鬼の汚名から八朶氏再興については群臣領民の猛反発を受けたが、冥鬼が刻んだ蹂躙の記憶を胸に刻み、晴国治世の善政をもって旧領民の安寧を得るべきと言うタケルの意向をもって、性温厚・名士の誉れ高い輝経が八朶氏を継承した。「我が身もて八朶の汚名雪ぐまじ」と、輝経は砕身して領土安泰と八朶氏名誉の回復に務めた。
加賀持之(1542.12.30蒔枝~1594.1.4蒔枝)
鳳家重臣・長居家庶流。持平の子。文官肌だったが、典膳の股肱の臣として高品長佐に並ぶ重臣。蒔枝陥落後は自壊した長佐と袂を分かち、驍に付き従う。驍らが合戦に出陣している時は領国にあって常に内政の安定と対外交渉に務め、目立たぬながらもその実直さと表裏ない性格が驍の絶大な信頼を得ていた。1593年末、外洋から帰還後、間もなく病没。奇しくも武頼の鳳狩りの凶刃に倒れることはなかった。
加賀持祐(1565.5.18蒔枝~1637.2.9蒔枝)
鳳家重臣。持之の子。鳳驍の幼なじみとして、巽凱に並称されるほどの信頼を得た知嚢。驍が出す軍略・作戦では、常に持祐の意見を聞いたとも言われている。驍が武頼に討たれると、女官・沙夜と共に遺児タケルを護り雫村へ落ち延びる。天崎長秀と共に鳳家再興のために身を削った忠臣。
夏西 祐(?.?.?~?.?.?)
「タスク」。外国出身で、頭巾を外すと見事な金色の髪を持つ美丈夫。駿足を活かした諜報員(乱波)として、豊上の豪商・夢屋蛮代の臣として大陸の情勢を探索していた。
鳳驍の招聘を受けて鳳家の諜報部隊長として活躍。戦時に置いても、攪乱部隊の指揮伝達を担当するなど、家中でも重要な地位にあった。竜河村の領主・我離王を巡る逸話は、鳳家書記の感動的な物語として知られている。冠達武頼の鳳狩りに遭って処刑されたと言われているが、父と共に故郷に帰ったなど諸説は多く、詳細は不明である。
陸野久道(?.?.?~1579.11.11陸野)
長居家庶流・紅井氏の一族。須玉晴久(甚儡吾堂)に屈していた、極北六郡の一、陸野(おかの)領主。須玉氏が鳳驍に滅ぼされると鳳家に帰順。戸数1万2千、2万石を領した。
静賀根通綱(?.?.?~1578.?.?静賀根)
長居家庶流。須玉晴久(甚儡吾堂)に屈していた、極北六郡の一、静賀根(しずがね)領主。須玉氏が鳳驍に滅ぼされると鳳家に帰順。戸数1万4千、2万5千石を領した。
静賀根直綱(?.?.?~1594.?.?)
通綱の子。武勇に秀で、鳳軍四番騎馬隊として天下統一戦に参戦、鷹士矩重の信頼を得て戦功著しかった。その武勇を怖れた武頼によって、鳳狩りに受難する。
静賀根興綱(?.?.?~1619.3.2静賀根)
通綱の庶子。宇佐氏を称す。本家直綱が武頼の鳳狩りに遭い滅亡すると、タケルによって興綱が静賀根家を継承した。
三宅広継(?.?.?~?.?.?)
須玉晴久(甚儡吾堂)に屈していた、極北六郡の一、三宅領主。須玉氏が鳳驍に滅ぼされると鳳家に帰順。戸数9千、1万3千石を領した。
筑井元継(1529.?.?~?.?.?)
長居家庶流・紅井氏の一族。筑井元脩の孫。須玉晴久(甚儡吾堂)に屈していた、極北六郡の一、筑井領主。須玉氏が鳳驍に滅ぼされると鳳家に帰順。戸数1万9千、3万石を領し、佐久間氏に次いで極北六郡二位の領土を支配した。
佐久間盛稙(1538.?.?極北・佐久間~1592.2.24極北・佐久間)
鳳氏の親戚筋にあたる。極北六郡・佐久間の領主を務めてきた。当初、須玉晴久(甚儡吾堂)に屈していたが、須玉氏が鳳驍に滅ぼされると鳳家に帰順。戸数2万、4万石を領した。
佐久間盛常(?.?.?~?.?.?)
盛稙の子、通称「源次」。八朶冥鬼討伐戦に参戦。仁紗辰人に従って奮戦、「疾風の源次」の異名を取る、勇将であったという。
佐久間忠稙(?.?.?~1594.?.?)
盛稙の子。北領佐久間領主。鳳驍の天下統一戦では、北領の治安を全面的に任せられる程の内政家。冠達武頼の鳳狩りに受難。
佐久間輝稙(1578.4.14佐久間~1650.2.11佐久間)
忠稙の嫡男。冠達武頼の鳳狩りでは難を逃れ、天崎長秀の雫村へ逃れる。後に鳳家遺児・タケルの決起に従って無頼討伐に貢献。北領佐久間の旧領を回復した。
高品長佐(1519.3.31蒔枝~1577.9.20蒔枝)
またの名を吉長。鳳家一門。鳳宗瑞義長、典膳長綱、驍の鳳氏三代に仕える宿老。驍の守り役。
知勇に優れた武将で、鳳家の北部統一戦における武勲は甚大なるものがあった。しかし、八朶冥鬼の突然の裏切りで典膳が呆気なく討たれると、長佐は発狂し、驍を殺して冥鬼に投降しようとする。だが、驍がかわいがっていた狼・スバルに襲われ、喉を噛み砕かれ、スバルもろとも断崖から転落死したという。
高品政長(1555.10.14蒔枝~1617.2.8蒔枝)
長佐の子。蒔枝鳳家の滅亡時、鳳家家臣京石忠綱と共に殿軍として奮戦していたために、父の不慮の死に遭遇することはなかった。北領において父の所業を知った政長は責を負って自刃しようとするが驍に止められる。仁紗辰人の元で領国治安・対外内政交渉に尽力、父同様、鳳家の実質家老職を引き継いだ。冠達武頼の血の粛清では、勅命で外洋に出ていたために幸いにも難を逃れる。
安亭村に隠棲していたが、タケルの決起に呼応し馳参。武頼滅亡後、内務卿に任じられた。
草間輝貞(1558.?.?大壌村~1583.8.17西陵・阿澄山)
通称「雄馬」。極北の大壌村農民の出。大国陵に仕官して兵卒となる。実母の病を知り、薬湯を持って軍律の厳しい陵を脱走。途中鳳領内で捕らえられるが、事情を知った鳳驍によって、五日間の約束で雄馬を解放。それを怒った陵王虎は軍勢を鳳領に差し向ける。驍が身代わりとなって人質となる。雄馬は王虎が差し向けた刺客を薙ぎ払い、五日目の夕刻帰参を果たした。その義侠心と信頼で結ばれた男同士の姿に、涙を流さぬ者はいなかったという。陵の結束を重んじた王虎によって雄馬は追放処分となり、そのまま鳳家に仕官。奇しくも第一次鳳・西陵戦争で、阿澄山の戦いに先鋒として出陣。旧主王虎と一騎打ちを演じ、華々しく戦死した。
草間貞綱(1580.6.14大壌村~1636.11.24邑南)
通称「祥鬼」。雄馬輝貞の子。戦死した父の後を受けて鳳家に仕官。冠達武頼の血の粛清においては極北大守護・紅井輝行の庇護を受けたため、難を逃れる。その際、輝行の陪臣として武頼の暗殺使節団を殲滅せしめるほど、勇武の才に長けていた。驍の遺児タケルの決起に際しては極北を立ち離散していた鳳恩顧の勢力を集めることに尽力。巽凱・天崎長秀らのもとに馳参した。武頼追討後、陸南の旧陵領・邑南城守護に就任、陸南地方の治安に貢献した。
仁紗沖人(1580.9.9白砂~1641.1.28北領)
諱は輝慶。辰人慶直の子。母は厩舎賄いの七重。辰人戦死後に生まれる。「容貌父に似てなお武勇父に優る」と言われた勇将。1594年の鳳狩りに際しては有志と共に難を逃れ、極北公紅井輝行や長楽深羊洞の長楽輝氏らの匿いを得、雌伏する。
タケルの決起に際しては草間貞綱、堤知彪らとともに馳せ参じた。戦後、父の故郷・北領に帰し、父の後継となる。
堤大吾(1584.8.30蒔枝~1650.8.2蒔枝)
諱は知彪。武才は父に劣らず、敬愛する巽凱に師事した。鳳狩りにおいては極北公紅井輝行の元に匿われ、再決起の好機を窺っていた。タケルの決起に応じて白砂に参陣。父が剣の名手ならば、息子は槍を取り、「槍大吾」と異名を取った。戦後、鳳国の近衛大将となる。
夢屋蛮代(1529.7.7~1594.9.2豊上)
諱を元宣(もとなり)。旅商人・夢屋蛮一基幾の子。夢屋氏は元々長居家出入りの豪商・泉井家の庶流と言われ、行商を兼ねた隠密活動を生業としていたという説がある。蛮代も父の跡を継いで行商を主とし、八朶冥鬼とも親交があった。しかし、金山発掘の後は片腕を切り落とされて放逐。豊上に落ち着き、金山を開拓、西方列国との交易を大成し、随一の豪商となった。
鳳驍の器量に惚れ、軍資金を調達。事実上、鳳氏の財務担当として経済面において全面支援。鳳氏の天下統一に莫大な貢献を成した。しかし、1594年、冠達武頼の籠絡に乗らず鳳狩りに遭遇。豊上を守るために自ら断頭台に昇り果てたと言う。
夢屋蛮丈(1583.2.27豊上~1662.3.20豊上)
諱は元秋(もととき)。大志を胸に秘めた豪傑。父蛮代の惨死後は、ひたすら暗愚を装い武頼の油断を誘い、陰で鳳再興のための軍資金を貯めていた。巽凱・岐勢貞忠(正吉)らが援助を乞うために豊上に訪れた際も、横柄な態度で凱ら反乱軍を試す。鳳驍が残した武器弾薬を売りに来たことで大志を識り、二十万貫(約三〇〇億円相当)を反乱軍に譲渡。そのまま反乱軍に身を投じ、財務を担当。戦後は通商経済相を歴任。引退後は豊上に戻り、静かな余生を送った。
岐勢貞忠(1588.?.?蕗瀬村~1643.7.8蒔枝)
通称「正吉」。鳳国蕗瀬村の出身。冠達武頼の子・由来の侵略に遭い恋人の実世を拉致される。言われるがままにタケルを殺害しようとするが果たせず、逆にタケルに叱咤され、村人と共に由来軍壊滅に決起した。その後、義勇軍を組織し、弟仁吉とともにタケルの旗下に集う。
葵四迷の指揮下、遊撃部隊隊長として武才に目覚め、国陽関では武頼本陣に奇襲をかけ、武頼敗走の突破口を作った。戦後、鳳驍の威光公布の一環として、鳳長貞時代以来途絶えていた、鳳家家臣の名門・岐勢氏の名跡を継ぎ、貞忠と改名。農務巡検使として荒野の開拓に尽力した。
岐勢貞通(1589.?.?蕗瀬村~1641.6.14蒔枝)
通称「仁吉」。正吉貞忠の弟。性剛勇にして負けず嫌い。兄と共に武頼の子息由来の侵略に抗する。正吉の遊撃部隊に参加、武頼本陣の奇襲に貢献、弓が上手く、武頼親衛隊の勇卒八名を射殺。狩猟で鍛えた天職が活かされたと絶賛された。戦後、兄が岐勢氏を継いだのに倣い、名を貞通と称し、国軍弓術師範として活躍した。
葵炎丞(1531.?.?~1587.1.17墨海城)
鳳義長の庶子で、八朶冥鬼長晴の双子の弟。通称「白離」、諱は俊長。不吉の兆しとして生後まもなく命を絶たれそうになるが、女官が密かに救い出し、学僧・藜瑞炎迄に預け出家したという。炎迄のもとで兵学を学び、底知れぬ知謀を得、実兄・八朶冥鬼に仕官。黒騎兵を編成し、火焔牛車を開発。隙のない八朶軍を創設し西方列強を屈服させていった。
しかし才子多病のたとえ通り、結核にかかり吐血。八朶家を追放され、白砂・雁来山の山庵に隠遁。白砂広親・瑠璃香らの招聘にも応じず、時をむなしく過ごす。鳳驍の命がけの招聘に重い腰を上げ、鳳軍の高志と驍の仁徳に心酔。八朶氏討伐、天下統一戦に大軍師として出征。黒神国戡定後、降服した冠達武頼を国害の種として処刑を勧めたが驍は聞き入れなかった。これが後に大きな禍となる。炎丞は竜陀国追討の軍師の任を鷹士重政に託し、旧西陵の墨海城の静養所で逝去した。享年55。鳳家再建後、武侯を追謚された。
麻間義章(1588.?.?~1665.11.14蒔枝)
通称「若基」。鳳家家臣・麻間義基の子。父義基は鷹士重政の盟友として軍略起草や国政処断に参画した知謀の士であった。その父の元に師事し、武頼政権の英知として綺良黎と机を並べた。しかし両親が綺良の謀略により殺害されると、義章も両目を膠で固められ失明。天界城から脱走し、武頼打倒と綺良黎誅殺を念頭に逃亡の旅をする。失明の代価とばかりに五感が異常に発達。些細な気の流れを瞬時に把握する力を得、雫村では鳳驍の子と偽って反乱軍に荷担した。
タケルによって許され、そのまま作戦起案などの軍略の要として奇しくも武頼時代に得た知略が功を奏す。戦後、内相を務めたが数年で辞任。故郷に戻り、静かに生活する道を選ぶ。後年、一子義直を出仕させ、義直は内相として鳳国の治安に貢献した。