白砂王家略系図 白砂家名士抄伝
白砂王家
創世主と言われ敬われている天足彦帝(あまのたるひこのみかど)の子孫と称した初代・広頼王(こうらいおう・ひろよりおう))が、武神スガタ・イギョウの降臨を天意として白砂国を建国。国都・白砂に王宮を築き、大陸の全ての万民諸侯から神の住む都として繁栄を築き上げて行く。
白砂氏は第4代広時(ひろとき)の時に白砂神殿の宮司職も兼ね、神威を背景に絶対的不可侵の思想権威を万全のものにした。
11代広国(ひろくに)の長子広重(ひろしげ)は白砂宗家を継いだが病弱であったため、弟経広(つねひろ)が政務を担当していた。
経広は【白堂院(はくどういん)統】という派閥を形成。14代広胤(ひろたね)夭折後、自ら王位を継ぎ、宗家の王座継承権を白堂院統に移すことに成功する。
白堂院統の17代広成(ひろなり)は失政が目立ち、広胤の嫡子頼宣(よりのり)が好機として宗家の王座継承権を回復したが、間もなく亡くなり、広成の長子豊広(とよひろ)が再び継承権を奪回した。
白堂院統の23代建広(たてひろ)には嗣子なく、死後専横を極めた白堂院統は衰退。頼宣の子・24代尚広(ひさひろ)が約六十年ぶりに宗家の権威を復活させた。
32代広親(ひろちか)には女子である瑠璃香しか子がなく、瑠璃香死後白砂家は断絶。鳳国3代国王・タケルの次男で、瑠璃香の孫に当たる輝広(てるひろ)が第34代宗家を継承するのは、瑠璃香死後実に五十年も後である。
広頼の第二子盛頼(もりより)の子義頼(よしより)は、眞仙領主となり、白砂氏初の分家を創設。眞仙白砂家は、神職の一門にあって武官肌と家業とし、東方国境の守護を任されるほどに有能な武将を排出し、主家に忠義を家訓とする。12代政頼(まさより)の時に隆盛。20代嘉頼(よしより)は若くして戦死し、白堂院蘂斎(ずいさい)の子・広宗を嗣子に迎えたが、冠達武頼の鳳狩りに遭い殺害され一旦断絶するが、後年、鳳驍の子・鳳国第3代国王タケルの第3子恵頼(よしより)に眞仙家を継がせ再興させた。
白砂氏8代広恒(ひろつね)の次子以降三人は、阿角(あすみ)・実来(みく)・長楽(ちょうらく)の分家を興し、白砂家の発展に大きく貢献。
高名なのは長楽氏であり、長楽冬頼(ふゆより)は、商都豊上の西、長楽島主として赴任。6代正頼(まさより)は、無法者道塵によって殺されたが、道塵死後、その嫡子氏頼(うじより)が長楽島の復権を果たした。
一方、鳳驍の参謀として名を馳せた『風来坊』こと叶九庵は、長楽冬頼の弟・叶時綱(かのう・ときつな)の子孫であり、“いみな”を行経(ゆきつね)と言う。
白砂名士抄伝
石見 信 (1556.6.12白砂・阿墨~1579.3.14不夜谷)
諱は輝実。白砂王室外交官・石見重実の長子。幼少の頃より、王女瑠璃香に仕え、瑠璃香の身を第一に思い守る忠勇の士。
白砂屈指の知勇兼備の名将・眞仙嘉頼に憧れてその薫陶を受け、嘉頼陣没後は、眞仙領主となった白砂広宗と共に、白砂の両翼と呼ばれた。
白砂家が鳳驍の庇護を受け、八朶冥鬼の侵攻に抗すると、信は驍の右腕的存在として著しい戦功を重ねる。しかしその傍らには、常に思い慕う瑠璃香の身を案じていた。軍師となった葵炎丞の策にも進んで身を捧げ、火牛の計における牛の腹にしがみつくことも厭わず、白砂軍を取りまとめる中心的存在として、またその優しい性格から全将兵に慕われた。
新生鳳軍では特殊遊撃部隊を編成し、八朶軍攪乱に一役を買う。しかし、不夜谷の戦いで八朶軍に捕らえられ、面部隊の犠牲となり鳳軍を襲うが、奇跡的に意識を回復した信は驍に瑠璃香のことを託すと、壮絶な自刃を遂げた。
長楽 正頼(1512.9.17長楽~1577.?.?長楽)
白砂領自治都市長楽島の第11代領主。長楽氏は白砂家庶流。白砂広恒の末子泰広を祖とする。長楽泰広が長楽を歓楽街として不可侵権を認めたために、実質長楽氏は警察・裁判権のみを行使する立場にあった。
正頼は家臣・叶九庵が開発した長楽島生産の麻薬草の根絶を推進し、八朶冥鬼の圧力にも屈しない姿勢を見せ、剣士・紫蘭を長楽警備隊長に抜擢、鳳典膳や紅井氏にも気脈を通じ長楽の安定を図ったため、無法者の野心家・道塵の謀略にかけられてだまし討ちにされてしまった。叶九庵も受難し、烙印を押されている。
長楽 氏頼(1540.1.30長楽~1594.?.?白砂)
正頼の嫡男。当初は長楽の風土に慣れ親しみ、放蕩三昧の生活を送っていたが、父が道塵に殺害されると、叶九庵の手回しで脱出した。その後改心し、密かに道塵追討の機を窺う。氏頼は身分を隠し、一部の島民を引率する区長的な役割を担い、長楽の人民の暴走を抑えることに尽力。
叶九庵の懇願を受けて渡島した鳳驍が道塵を滅ぼすと、氏頼は叶九庵によって新領主の座に着いたが、氏頼はすぐに全権を九庵に委譲。象徴的領主として長楽の安定に貢献した。
鳳8年、冠達武頼の鳳狩りに巻き込まれ、叶九庵・紫蘭らとともに白砂宮におびき出され、惨殺された。
長楽 輝氏(1577.2.8長楽~1635.6.10長楽)
氏頼の嫡男。鳳狩りの難を逃れ、有志と共に、長楽島の鍾乳洞・深羊洞に20年近くも潜伏を余儀なくされた。奥深い鍾乳洞は格好の受難者の隠れ場所であったため、仁紗辰人の子沖人。叶九庵・紫蘭の子陽蘭などのお尋ね者を輝氏は進んで匿った。冠達武頼滅亡後、タケルに招聘され長楽領主となり、自由都市長楽の再建に貢献した。
眞仙 頼国(1507.11.11白砂・眞仙~1572.9.20白砂・眞仙)
白砂眞仙家第19代当主。眞仙家は白砂王家祖・広頼王の孫・義頼を祖とし、神職文官肌の白砂王国にあって、代々王家守護の下、武勇をもって国家鎮護に務めてきた武門の名家である。
頼国が当主を継承した時期は、長居家の内紛の飛び火を受けるなど政情は不安定であり、外敵侵入の脅威に脅かされる日々であったという。敗将・長居教家の白砂永預けには頼国はただひとり反対したと伝えられる。
六十四歳で嫡男・嘉頼に家督を譲り、二年後、八朶冥鬼の国境侵犯には高齢を押して出陣。黒騎兵団を破り健在ぶりを誇示したが、流れ矢に当たって没した。後に、光三位陽徳公・護国大将軍を追贈された。
眞仙 嘉頼(1555.9.21白砂・眞仙~1576.11.18白砂・眞仙)
白砂眞仙家第20代当主。頼国の嫡男。幼少の頃から博学多才で武勇に優れた才能を発揮。白砂王家・眞仙家歴代の中で随一と言わしめた名将中の名将。若干十六歳で家督を譲られる。眉目秀麗な美男子でもあり、後年、巽凱とも並称された。
戦国147年、八朶氏の脅威に白砂家が瀕する事態に陥ると、自ら陣頭に立って八朶の黒騎兵団と戦い、これを打ち破った。以後、数度と八朶軍との衝突が起こったが、眞仙の天険と嘉頼の類い希な戦術と人心収攬術によってすべて撃退した。『嘉頼ある限り白砂は攻めれぬ』と、冥鬼をして言わせている。
しかし、戦国151年、八朶冥鬼は鳳領総攻撃の足掛かりとして白砂への枷を外すために、黒騎兵壊人率いる23万の大軍が眞仙を攻撃。
嘉頼はわずか1万足らずの兵でこれを翻弄したが衆寡敵せず。壊人と相討ちとなって戦死した。享年21。八朶軍は最終兵力5万以下という大損害を被り撤退。冥鬼は白砂を力で討つことをひとまず断念せざるを得なかった。鳳驍も、後に嘉頼の早世を深く悼んでいる。
眞仙 広宗(1551.2.1白砂~1594.?.?眞仙)
白砂家一族・白堂院蘂斎(はくどういん・ずいさい)の子。一度没落した白堂院統だったが、広宗は「過去にとらわれていては明日は見えない」と言って白砂宗家への因縁を全て水に流したという。しかし片面で文官肌の宗家に随従することを潔しとせず、自らは武芸に勤しんだ。
それが運命を吉としたのか、眞仙嘉頼が八朶冥鬼との戦いで陣没すると、瑠璃香姫・石見信らの強い勧めもあって眞仙領主へのオファーがかかる。広宗はこれを承け、嘉頼の養嗣子として眞仙白砂家第21代を継承。石見信と共に、白砂の両翼的存在として鳳驍に従い、眞仙を守備。
天下統一後、白砂国一門の最重鎮として、国政・軍事に多大な貢献をしたが、冠達武頼の鳳狩りにあってだまし討ちにあって殺された。享年42。これによって白砂国は武頼の蹂躙にあって滅亡する。
白砂 輝広(1619.1.2蒔枝~1696.4.9白砂)
タケルの第二子。瑠璃香の孫。白砂家第34代国主。1643年(鳳歴56年)、夢屋蛮丈の支援の下に瑠璃香死後に断絶、滅亡していた白砂宮の復興を成し遂げ、父タケルの恩情を持って、瑠璃香の後継として白砂宮に登極、白砂大宮司職を兼任し白砂家を再興させた。清廉無欲な人柄で贅沢を好まず、日がな一日を国民と語り合うことを趣味とする王であったという。晩年は祖母の菩提を弔う暮らしをした。
紫蘭(1554.?.?~1594.?.?白砂)
字は光理。長楽領主・長楽正頼の陪臣。絶世の美女で、鞭剣を自在に操る万夫不当の勇を誇り、『天下広しといえども紫蘭の剣の右には立てず。武勇百人に優る女傑』と言われ、巽凱と打ち合って互角の腕を持つ。道塵追討の計画を立てる鳳驍・叶九庵に参画を勧められるが、自らの勇才におごり、鳳驍から「世間知らずはあなたの方だ」と、逆に謗議される。夜盗の頭目仁破の謀略にかかり殺されかけるが、驍らに救われる。自らの不明を恥じ、道塵を討伐。長楽を復興し、後に鳳驍の天下統一戦に従軍。統一後、驍の仲介で叶九庵と結婚、一子・陽蘭をもうける。1594年、冠達武頼の鳳狩りに遭い、夫と共に白砂宮におびき出され、受難した。享年39。
叶九庵(1549.7.18長楽~1594.?.?白砂)
白砂家一門・叶時綱の子孫。諱は行経。初名は長藤。長楽正頼の家臣で、天才的知略の持ち主。麻薬草を発見し、調合法を開発したことから無法者・道塵に狙われ、一族悉く殺戮される。白砂に逃れ、『風来坊』と変名を使い、仇敵追討の好機を窺う。
白砂家王女・瑠璃香と陵王虎との政略結婚を阻止しようと単身乗り込んできた鳳驍を見込む。王虎らの仕掛けた謀略を次々と見破り、瑠璃香と驍の窮地を救う。驍・紫蘭とともに仇敵道塵を射殺、長楽氏頼を擁し、長楽の再建を成し遂げる。
後に渡割雷甲の謀略にかかった驍の救援に紫蘭と共に向かい、蛇谷の漠陀羅軍10万を知略を持って寝返らせ、驍大勝利の立て役者となる。後の天下統一戦にも参加。驍の仲介で紫蘭と結婚、陽蘭を儲けたが、1594年の冠達武頼の鳳狩りで、白砂におびき出されて受難。享年44。
叶陽蘭(1589.?.?長楽~1646.12.10長楽)
字は薫理。叶九庵・紫蘭の娘。両親が鳳狩りで受難すると、有志と共に難を逃れて脱出。紅井輝行や長楽輝氏の庇護を受け、旧鳳勢力の決起をうかがい雌伏した。鞭剣を使い、父譲りの知略も備えた、才色兼備の女傑。タケル決起に伴い、その旗下に馳参。著しい戦功を挙げた。
タケルを巡る沙亜羅との駆け引きは、覇王伝のエピソードのひとつとして名高い。