「へぇ――――――――」
眼前に並べられた料理の品々に、ティトレイは目を丸くして大袈裟に感嘆する。
「何? 嫌なら食べなくてもいいのよ」
突き放すようなヒルダの口調。ティトレイは瞳を輝かせながら、“料理と料理とヒルダと料理”を交互に見廻す。
「そんな訳あるかっての。てーか、ヒルダが俺のために作ってくれるなんて、ちょっと感動もんじゃねえかってな――――」
主食のボルシチにルギネ・ドゥオナ、馬鈴薯を使ったブルヴィニャイ・ブリーナイ、飲み物にはベルサス産蜂蜜の特製酒ミドゥス。モクラド村のナイラの遺品にあった、来客用レシピ。
「ご期待に添えられず残念ね。ボルシチはミリッツァのお手製よ。私より上手なの。美味しいでしょ?」
なんだかんだ言ってやはり若い男性。美味に与れば食欲は当に火に油。用意された食事を瞬く間に平らげてしまうほどの勢いだった。
「そうなんか。ミリッツァって、すげえ美味いもん作れるんだな。おおっ、うんうん。こいつぁ、四ッ星半だな。ヒルダのよか冗談抜きでうめえ!」
食『欲』に血走った目でがつくティトレイ。
「なんか複雑ねえ……」
「あ……ありがとう」
引きつる苦笑に声が震えるヒルダ。ミリッツァは少し斜を向き、ほとんど目立たぬ頬の赤らみを隠す。
「料理というのは、作った者のありのままが味に出るものなのだよ。ふむふむ。このボルシチ、コクがあるように見えて実にさっぱりとしている。仄かな紅にサワーの白のアクセントは見た目と併せて食べていて本当に飽きがこない。塩コショウ加減は言うに及ばず、羊肉と葫のバランスが最高だね。ほんのりと舌を撫でてゆくような甘みが実に良い。本当なら五ツ星! と行きたいとこだが、そこはあえて四ッ星半というのがグッ」
「…………」
ワンダーシェフも顔負け、どこぞの美食家ばりの高評に、ついにミリッツァが背を向けてしまう。
「あんた、本当に調子が良いわよね。その滑舌の良さ、筋金入り。天下無双よ」
あきれ返るヒルダに、ティトレイは、人間誰しもが美食に与る時だけに見せる、独特な至福の笑顔を向けながら、言った。
「料理は初出が肝心なんだぜ、ヒルダ。人が生きてくために極めてニーズな事項だ。料理の上手下手は、そいつの人格そのものを表していると言っても過言じゃあねえ」
得意気に語るティトレイ。しかし、ヒルダはぼそりと返した。
「そうね。その初出に、ヴェイグたちに毒キノコを食べさせたどこの誰かさん。よーく判る気がするわ」
「うっ…………」
口は禍の元。ヒルダの冷たい眼差しがティトレイの鼻柱を挫く。
「……美味しいです……。ありがとうございます……。ごちそうさまでした……」
するとヒルダは掌を返したように、柔らかな表情に戻った。
「そう。たとえ美味しくなくても、自分をもてなすために作ってくれた料理は、美味しくいただくものでしょ。余計な御託は良いの」
「はい――――」
年上風を吹かせて……などと、今口に出して言うものならば、ヒルダに殺人未遂罪を着せてしまう状況になるだろう。
「もうすぐ謝肉祭が始まるから、食材の買い置きをしておいたのが良かったわね。……ところでティトレイ、あんた何しにバルカへ?」
ずるっと思わずこけてしまいそうな質問。
「おいおい。答えを先に言っておいて質問するなよ」
「なに? まさかあんたも謝肉祭に」
微妙な表情をティトレイに向けるヒルダ。
「ユージーン中将軍閣下よりのご招待、ヴェイグ、クレアに成りかわり恭悦至極――――」
「そう――――ユージーンが……」
微妙な物言いだった。ティトレイは肩を乗り出して、ヒルダの顔を斜からのぞき見る。
「なんだぁ? その、“招かざる客”みたいな表情は――――。あぁ、何かせつねえ……」
「だ、誰もそんなこと言ってないでしょ。……寧ろ、嬉し……」
懸命に顔色を隠しながら呟く。しかし……
「――――ライスの炊き加減、ヒルダらしいぜ。しかしなー、あーと2分35秒くらい我慢して火種を落せば、誰にも負けねえ銀舎利を完璧にマスターできただろうに。そこはやっぱ井戸水の水温が――――うんぬん」
この男はもう既にミリッツァに、炊飯の持論を語っていた。ミリッツァも極めて真面目な瞳でティトレイの蘊蓄に耳を傾けている。
「…………」
ヒルダは、普段あまり相手にされないティトレイの蘊蓄に真剣に耳を傾けているミリッツァを呆れがちに見つめていた。
「あんたたち、明日から“カレギアの栄光”行き」
「え……ヒルダ?」
ぴくりと、ミリッツァはティトレイを止め、ヒルダを見る。
「厨房一人欠員。ルーシーさんに紹介してあげるわティトレイ。衣食住完備住み込みで一日二五〇ガルド。どう、良い条件でしょう?」
「おおう。そりゃあいい。うちの工場より一〇ガルド好待遇だ――――って、おい!」
ノリ突っ込み。かたやミリッツァ、ポーカーフェイスにあたふたした色合いを滲ませて二人を交互に見廻している。
「無断欠勤懲戒解雇なんて烙印を押させる気か。ああ、そんなことより俺は愛郷心の塊だ。たかが一〇ガルドで中都を出奔するつもりはねえぞ!」
眉を逆立て、忠義を示すかのように胸元に拳を当てながら、ティトレイは強い口調で言う。
「そう? でも、もしもあんたが来てくれたら、ルーシーさん、すごく喜ぶでしょうね。……それよりもあんた、あの工場でどこの担当してたわけ?」
「う……そ、それは――――」
何故に言葉がつまるティトレイ。
「セレーナさんが居れば良いんじゃない?」
ティトレイ、一瞬仕事場での存在意義を考えた。そしてすぐに、あまり深く考えないことにした。自衛本能が、そうさせた。
「ヒルダ、女将さんに伝えといてくれないか。ティトレイ・クロウ、傘下にはせ参じること叶わず、断腸の思い一入――――」
こめかみを抱えて片膝を折るティトレイ。失笑するヒルダ。
「仕方がないわね。それじゃせめて明日から、あんたが家の炊事当番。それで示談成立よ。文句ないわよね?」
「俺に出来ることならなんでも……って、ん?」
何となく、会話の前後が把握できなかった。一瞬の動揺か、心の空白か。蒸気機関車が停止するはずの定位置が、機関士一瞬の心の隙で大幅にずれる……。そんなような感覚がした。
「ミリッツァ、助かるわね。ちょうど男手が欲しかったところだったのよ」
「…………ほんとうに……いいのか?」
何故か眼を細めてにやにやしながらティトレイを見るヒルダ。そして、俗事にはてんで無垢で、常に無表情っぽいところが何となく放っておけないミリッツァのやや不安気味な声と瞳に見つめられ、ティトレイは、ただこう答えるしかなかった。
「はい……喜んで」
ちなみに、“カレギアの栄光”の名シェフ・アルビラノフ氏は鼻歌交じりに両手のフライパンを華麗に捌き、最近更に新たなレシピとスパイススキルをマスターしたとか……。
「ふうっ。スージーさん、元気そうで良かったわね」
「ああ……」
微かに潮の香を含んだ風に、その繊細で柔らかな金色の長い髪と、アクセントとして野花の飾りが付いたリボンを靡かせて、クレア・ベネットは陽光に白く華奢で美しい手を翳し、それ越しに長い睫を伏せた。
ぴたりと寄り添うこの美しい女性を、ヴェイグ・リュングベルは生暖かい眼差しで見つめている。
極北の小村・スールズで穏やかに暮らしていた二人を廻る運命は、語るに余りある。それこそ、分厚い豪華装丁の大百科事典全三〇巻分では全く足りぬほどに、波瀾に波瀾、更に波乱を混ぜた冒険譚。
ジルバの奸計を破砕し、聖獣を従えて人心の負の権化を討ち滅ぼす……。何の変哲もない、一介の青年がそんな大事を成し遂げるなど、誰が想像できただろうか。
彼はただ、大切な人を守るため。ただ、愛しい人を救うため。
彼女はただ、希望を懐き絶望を祓い、大切な人を信じ、ただ、愛しい人の一番でありたいと思っただけ。
振り返ればきりがない。省みれば、互いのためだけに突き進んだことが、結果世界の危難を救ったのだ。
あれから三年が経っても、ヴェイグとクレアの中に、いまだ整理がつかない想いがある。何となく、未だあの辛く切ない旅の中に、自分たちがあるような気がしていた。
「ねえ、ヴェイグ?」
不意にクレアが声を上げて、ヴェイグに容を向けた。鼻と鼻がぶつかってしまうかと思うほどに、ヴェイグの視界が、小さなクレアの美貌で覆われる。
優美な眉の線、すっと伸びた鼻、うっすらと紅を差したのか、少し濡れた感じの小ぶりで、見とれてしまうほどに美しい、滑らかな唇。ドキッとなるヴェイグを他所に、クレアは事も無げに、澄んだクリアブルーの大きな瞳をぱちぱちと瞬かせて、ヴェイグを見つめている。
「――――って、いつまで続くのだったかしら」
「え……あ……」
鼓膜への神経伝達が一瞬、シャットダウンされ、代わりに、視神経がよもや人智をはるかに凌ぎ、ぶ厚い鉄板をも透視してしまうかと思うほどに超過活動をしてしまっていた。
「……なんだっけ」
申し訳なさげに睫を伏せるヴェイグ。
「ん……もう、人の話、聞いてる?」
ぷくうと頬を膨らませるクレア。少し怒った表情も、抱きしめたくなるほど、可憐で美しい。
「すまん……」
クレアを前にすると、ほとほと弱くなるヴェイグ。ユリスを滅ぼしてスールズに帰還した後、それが一段と色濃くなっていた。
「カレギアの謝肉祭って、いつもなら七日七晩だったでしょう? でも、今年は共和国宣言の祝賀も兼ねてるから、少し長くなるって聞いたの。いつまで続くのだったかしら……。聞いたような気がしたけど、忘れちゃって……。ヴェイグ、憶えてない?」
「え……と――――いつまでだったか――――うーん……」
正直、ヴェイグにとって謝肉祭など眼中にない。クレアのことだけを想いつづけた旅路、傍目から見ても、ユリス討滅の後、裡に秘めていた感情が膨張し、ますますヴェイグは腑抜けになった感じがする。
「気になるのか」
ヴェイグの問いかけに、クレアはため息まじりに頷く。
「ほら、お父さんたちには一応、三十日くらいって言ってきたけど……もしもそれより長くなるようだと、心配するじゃない?」
しかし、心なしかこの美しい女性は何かを楽しんでいるかのように微笑みを湛えている。
「謝肉祭って、三十日もするのか――――」
ヴェイグの呟きに、クレアが答える。
「ヴェイグ、知らないの? 謝肉祭って、長いところだと四十日、六十日にも及ぶのよ。民族の習慣にもよるらしいんだけど、東都(キョグエン)だと、神農祭といって、百日の間、人々は美食に与るみたいね」
「詳しいんだな、クレア」
「そ、そうかしら」
ぽっと頬を赤らめるクレア。運命の激流に巻き込まれていながらも、しっかりと現実を受けとめ続けてきた、気丈な彼女だからこそ持てる心の余裕というのだろうか。
旅先での風習や歴史などを語らせれば、なまじ浅学の学者など、彼女の足元にも及ばない。
「だが、キョグエンだと、毎日が祭りのようなものだからな……」
「あ、それ、言えてるわね。うふふっ」
悪名が高かったキョグエンの御館・王斤(ワン・ギン)が横死し、その侍臣であった向候(クウ・ホウ)が御館となってからは、彼の地にもようやく真の意味での繁栄が芽生え始めているという。
「うーん……」
白い頬に、ほっそりとした指を押し当てながら、クレアは首を傾げる。
「おじさんたちも、一緒に来れば良かったのにな」
ヴェイグの言葉に、クレアは少しだけ苦笑する。
「本当。お父さんたちったら、変な気を遣っちゃって。そんなに心配なら、一緒にって言ってたのにね、ヴェイグ。私も、ちょっとした家族旅行的な気分を味わえたのに」
「…………」
ヴェイグは何故か、一瞬言葉を詰まらせてしまう。
考えてみれば、ヴェイグが今こうしてバルカに向かう伴侶はクレアただ一人。スールズの人々は、ポプラのピーチパイを嘉肴に五日の慶賀に耽るという。
中央に復したユージーンの招待を受けたヴェイグ。クレアは彼の側にいたいと随従してきた。
今回のバルカ上進について、両親もヴェイグも、あからさまに反対はしなかった。寧ろ、マルコたちの方が、進んでクレアを共にさせたと言った向きがある。
ベルサスへの寄り道は、クレアがスカラベの権勢凋落によって苦悩を背負うスージーを気遣ってのことだった。
久しぶりにクレアと再会を果たしたスージーは脱力したかのように肩を落とし、感情を露わに慟哭に暮れた。
(いつか、君の胸の奥から、アガーテへの恨みがなくなることを願う)
ヴェイグの言葉に、スージーはただ頷く。そして、アガーテの運命に、スージーは同情の色を見せてくれたのだ。
取り繕った感情は、精神を激しく消耗させる。何よりも、ヴェイグがそれを一番良く識っている。だからこそ、スージーの心の奥深くに溜まったままだった黒い泥を洗い落とした。元のように真っ白にはならなくても、限りなく白を求める事が大切だと、クレアも語った。
そんな経緯を見れば、まるで二人は静かな人々の『氷解』への旅にも見える。
氷のフォルスを持ち、水聖獣シャオルーンの加護を得たヴェイグが、文字通り氷解の旅をしているというのは滑稽にも感じた。
「クレアがいれば……それでいいさ」
「え……なあに?」
唐突なヴェイグの言葉に、彼を見つめる澄んだクリアブルーの瞳を瞬かせるクレア。
「身勝手な男に、憧れる――――」
すっと、ヴェイグの指がクレアの御髪に絡まる。くすぐったいのか、クレアが眼を細め、ほんのわずかに肩を竦める。
「ヴェイグ……今まで頑張ったんだもの。力を抜いても、神様はきっと許して下さるわ。うん。きっと、これも神様の思し召しね、くすっ」
ヴェイグの言葉の意味を諭したか、たおやかに左手を口許に当てて笑う。その癖、その表情。
ずっと、守りたかった、その一瞬――――
ヴェイグの指が、クレアの指先に触れる。不思議なほど自然に見つめ合う。指先が繋がり、クレアはそっと頬に当てる。
あれから少しだけ時が過ぎても、クレアは少女のような無邪気さを失わない。そして、慈愛の眼差しで、まっすぐ相手を見つめる。ヴェイグが救われたその全て。
ゆっくりと二人の距離が狭まってゆく。ぎりぎりまで、クレアは瞼を下ろさない。少しだけ、意地悪。
(ヴェイグのこと、見ていたいから) そんな言葉が、過ぎる。でも、ヴェイグは見つめられるわずかな羞恥に臆す。少しだけ、情けない。
ヴェイグの唇に、微かに感じるクレアの息。彼女も少し、緊張しているのだろうか。そう思った刹那、一瞬だけひやりとした、そしてとても滑らかで柔らかで、甘酸っぱい感触が重なった。
すっ――――と、二人の息が融合する。絡めた指に、ほんの少し汗が滲んだ。
「…………」
「…………」
まるで固まったかのように、動かない。聴覚が大きく波打つ。
ひゅう――――――――――――!
ぱちぱちぱちぱち
その一瞬、還ってきた聴覚に届く、甲高い口笛と拍手の音に、二人は瞬く間に自世界からの帰還を余儀なくされた。
「あ――――…………」
「…………」
同極の磁場が突然発生したかのように、思わず身を離す二人。
ベルサス中央広場。二人にとって当に感慨深い、ちょうどその場所で、仄かな想いを交わしていたのだ。
人目を憚らずなどという前に、すっかり二人は話していた場所すら忘れてしまっていたようだった。
表情にあまり出さないヴェイグも、さすがに色だけが真っ赤になる。クレアは背後からヴェイグの袖をそっと摘むと、表情を隠すかのように、彼の陰に立った。
陽が暮れるまでに二人はベルサス港へと戻る。スージーの厚意に甘えてひと晩、邸に泊めてもらったのだが、招待の手前、あまりのんびりもしていられなかった。
「ゆっくり楽しむのは、バルカで皆に会ってからでも遅くはないわ」
クレアの言葉が尤もだった。
バルカに行くにはミナールを経由する。元々、スールズとベルサスは直線距離では極めて近いのだが、東ケケット山地がそれを阻んでいるため、やはりミナールからの定期航路に頼らざるを得ない。それを考えれば、ベルサスに足を運ぶということは、正直なところ二度手間なのである。
(クレアの方が……楽しいのか)
ふと、ヴェイグはそんな漠然とした事を考えた。
「どうしたのヴェイグ、ぼーっとして」
船縁に凭れ、水平線をオレンジ色に染める太陽を眺めながら出航の霧笛を待つヴェイグの背中に、涼やかで凛としたクレアの声。
「きれいな……海だと思ってな……」
そう答えるヴェイグの側に、ゆっくりとクレアが寄りそう。
潮風に靡く金色の髪が、景色に融けた。
「そうね――――。そう言えば、こうしてあなたとゆっくり海を見たことって……少なかったような気がするわ……」
そう言うクレアに瞳を向けると、彼女は少しだけ寂しげな表情で、まっすぐ海に融け始める太陽を見つめていた。
「……これからは、ずっと――――いつでも、お前に見せてやれるんだよな」
こんな時、ティトレイは……他の男だったら、どんな気の利いた言葉を言うのだろう。
「ふふっ。じゃあこれからは時々、ヴェイグに“海に沈む夕陽”を見に、連れてきてもらおうかしら」
クレアは今までと変わらず、何事もなかったように自分に接してくれる。彼女は、どんな言葉を望んでいるのだろう。
「お前が望むなら……いつだって」
「くすっ。うれしいわ、ヴェイグ」
愛おしい微笑みを浮かべながら、そっと肩にもたれ掛かるクレア。安心しきったような、穏やかな表情。
「…………」
それなのに、何故かヴェイグの胸は、ほんの少しだけざわめいていた。それを掻き消すかのように、力強い霧笛が、世界に響いた。