第3章 カレギアの謝肉祭(三)

リンドブロム家王陵

 追尊・麗愍女王。アガーテの諡号(おくりな)である
『麗しく儚い、その運命を哀れむ――――』
 アガーテがカレギア国王として資質があったのかどうか。ヒューマの娘たちを悉く連行したのが、ジルバが廻らせていた奸計のひとつであったとしても、アガーテの女王としての名誉は失墜したままであった。
 王国解体後にミルハウストが求めていたアガーテへの嚆矢は、何よりも彼女の国王としての名誉回復であった。
 ミルハウストは、北都ノルゼン、東都キョグエン、西都ベルサス、中都ペトナジャンカ、少都サニイタウン、南都バビログラードのカレギア六都の神職に諮り、更には末端の区長、連行された娘たちの肉親などにも事細かに会見していった。
 三年が経ち、民衆はようやく、アガーテを赦し始めたと言っても良いだろう。『愍れみ』に『麗し』と。アガーテはその諡号をして女王として認められ、民に偲ばれるまでに、その名誉は回復していったと言っても過言ではなかった。
 やっと、メンヒルに刻まれる諡号を見つめながら、ミルハウストは思いを巡らせていた。
「これで我が想い、晴れたとは……」
 思わず呟く言葉に、側らに控えていたガジュマの壮士がはっと声を上げる。
「大将軍――――」
 何かを諭し止めるかのような声に、ミルハウストははっとなる。
「いや、聞き漏らしてくれワルトゥ殿。ただの……戯れ言だ」
 声を潜めがちにして寂しそうな微笑みを向けるミルハウスト。
「……大将軍のお気持ち、痛いほどよくわかります。私とて、末端ながら公室の禄に与りし身。陛下御生害は腸を断ち、眼(まなこ)から光を失うに等しきこと。されど、今日この日は、その陛下こそ強く望まれていたものでありましょう。大将軍の強き想いがあればこそ、隊長……いえ、中将軍を始め、我らも共に――――」
「ワルトゥ殿」
「ははっ――――」
「……私は、カレギアを導くつもりはない」
「!」
「カレギア民主共和国は、新たな指導者をヒューマとガジュマ、それぞれの民が心を一にして戴ければいい。旧制の政権にあった者が枢機にあれば、必ずや夥しい障害があるだろう。時代は進んでいるのだ。全ての民が心から一統するためにも、それは避けられない」
「民が大将軍を望まれても……ですか」
「辞退しよう」
「大将軍――――」
「ワルトゥ殿。私がユージーン殿と共にラドラス王、そしてアガーテ女王の遺詔を基に創り上げた大憲章には、共和国への願いが込められているのだ」
 ミルハウストは、ゆっくりと瞼を閉じメンヒルに拝礼する。そして、ワルトゥに向かい、寂しげに微笑んだ。
「多くは語るまい。……まあ、その願いが叶った時には、国民は私を必要とはしないだろう」
「…………」
 ミルハウストの言葉を咀嚼するワルトゥ。その前に、ミルハウストは苦笑を湛えながら身を翻した。
「しかしワルトゥ殿には人心の平安と秩序の維持という大役がある。公安府の重責を担えるのは、貴殿をおいて他にはないと思ったからだ」
「身に余る光栄――――」
 ミルハウストは唇をきゅっと窄めると小さく瞼で頷き、王陵を後にした。
(大将軍――――哀しいほどに『私』をお捨てになっている――――)
 銘碑に添えられた、スターチス・ミスティブルーを見つめながら、ワルトゥはそう思った。

バルカ総政庁(旧カレギア城)

 カレギア城は王政の象徴でもあり、その荘厳で白堊の外観は、カレギアの民の誇りでもあった。
 哀賢・麗愍両帝期、すなわちラドラスの落日からアガーテの生害によってリンドブロム王家嫡流が断絶した後も、幾千の歳月を見つめてきた由緒ある姿なのである。
『ラドラスの落日』に対して、『バルカの暁鐘』と呼ばれる、アガーテが崩じてすぐに朝廷高官らが招集した大会議。それは言うまでもない、カレギアの未来を決する、運命の選択でもあった。
 遺詔公布、大憲章草案など十日終日に及ぶ論議の末に、ミルハウスト、ユージーンを始めとする王国遺臣の総意によって、玉座以外を民主共和国中央政庁として機能させてゆくということとなり、それまでは一般国民の往来が禁じられていたのを改め、原則国民の出入りも自由とさせた。
 今ではそこはかとなくピリピリとしていた、かつての王宮の姿はなく、近衛も庶民も和合した雰囲気の中にあり、笑い声が絶えない様相だ。
 謝肉祭が迫り、カレギア城も例外なく殷賑の波に覆われている。給仕たちも普段の二割増に腕を揮い、祭典のためのメニューを誂え、皆慌ただしく廊下を駆け回り、或いは怒鳴り声やら歓声がさんざめく。
「おーい、こっちにも人手回してくれよ。あ、いたいた!」
 調味料や食用油などでシミを付けた前掛けを身につけた厨房詰めのガジュマの男性が、ティーセットを載せたトレイを抱えすれ違った、ヒューマの若い女性を指さし、呼び止める。
「は、はい!」
 少女は少し驚いた様子で振り返る。跳ねた栗色の毛先が印象深い、華奢な身体に程良く膨らんだ胸が目を引く。青白橡色の澄んだ大きな瞳で見つめられると、心を捉えて放さない。
「おう、アニーちゃん……って、今もしかしなくてもご多忙だよね」
 アニーと呼ばれた美少女は困惑したように細い眉をぴくつかせ、自分も縋るような眼差しを男性に向ける。
「ああ、大将軍のところかい。相変わらず精が出るね」
「うぅ……本当に、ごめんなさい」
「良いって事よ。……んー、でもあの方も少しは……って、まあそれは言いっこなしだな。ゴメンよアニーちゃん、引き止めたな」
 ぺこりと頭を下げるアニー。男性は「たまにはこっちも手伝ってくれよ」と笑って返すと、いそいそと踵を返した。
 アニーはわずかにため息をつき、肩を竦めると再び歩を進めた。
「ミルハウストさん、失礼します」
 扉に向かうアニー。中からの返事を待たず、慣れた様子で右手をトレイから離し、ノブに手をかける。
 扉が開くと、大窓から差し込む昼の光が執務室を遍く照らしていた。
 壁際にはぎっしりと書物が収められた書棚。簡素な机に木製のテーブル、ソファ。
 書斎を改良したと思われるその部屋が、実質カレギア民主共和国を指導する一人、ミルハウストの執務室である。
 ゆっくりと確かめるように見廻すも、椅子にもソファにもミルハウストの姿はない。しかし部屋は暖められている。人はいる気配だった。
 ゆっくりとトレイをテーブルに置き、そのまま別室に続くドアの前に近づくと、徐にノックする。
(…………)
「ミルハウストさん、お休みですか」
 アニーがそっとドアを開けると、ふわりと少しだけ冷めた空気が立ちこめる。
 仮眠室と言うのが正しいか否か。ミルハウストがバルカに在すれば、ここで身体を休める。言わずもがな、そこは事実上のミルハウストの邸宅のようなものだった。
 王家の財を大幅に整理したとはいえ、一国の指導者には似つかわしくない程の質素な寝台。その側にある木製の簡単なロッキングチェアに凭れる壮士。
 ミルハウストはアニーの気配に気がつくと、ゆっくりと頭を上げ、膝に載せていた古書をたたむ。
「君か……。今、どの時だ」
 微睡みから覚めたばかりの淡い意識の中で、ミルハウストは微笑みを作る。
「もうすぐ、夕食の下拵えに入る頃合です。……それよりも、お疲れのようですね」
「寝るつもりはなかったが、無意識のうちにここに来ていたようだ。どうやら、身体は寝台を欲しているようだな」
 苦笑するミルハウストに、アニーは小さく肩を竦める。
「ここのところ、特に働きづめでしたからね。……ほどほどのところで身体を休めないと、本当に倒れられてしまいます……って、何度も言ってますけど」
「ああ、そうだった。いや、すまない」
 咎めるような視線に、ミルハウストは少しだけ眼を細めると、ゆっくりと腰を上げる。
「今日はいつもより濃いめに淹れておきました。ターリンは先にお飲み下さいね」
「それはありがたい。気が利くね」
 その言葉にアニーはため息をつく。
「今は大事な時です。ミルハウストさんに倒れられては、全ての努力が水の泡。あまり周りの人たちに心配をかけさせないで下さい」
「心得ている。君には済まないことだな」
「その言葉、二千二百五十回は聞きました」
「数えていたのか」
 煎じた薬草を囓りながら、ミルハウストが目配せすると、アニーはぽっと頬を染めて俯く。
「…………適当でした………」
 笑い。
「もう、茶化すなんて非道いです! そ、それほど心配しているって事ですから―――――」
「いや、ははは。すまない、すまない」
 アニーが淹れた珈琲を口に含める。
 口と気管を通して鼻腔を刺激する程良い苦さに、ミルハウストの眠気も一気に吹き飛ぶ。
「それにしてもこの様なこと、給仕に任せればよいのに」
「何を言っているんですか。根を詰めすぎだってユージーンが心配しているんですよ。『放っておけばいつかあやつの身体を壊しかねない。アニーが気遣ってやってくれ』って、深く釘を刺されているんですから。少しはこっちの身にも――――」
 声が荒ぶアニー。
「はははは。いやいや、君にも、ユージーン殿にも深く感謝しているよ」
 穏やかな笑顔でフォローするミルハウスト。しかし、愛らしい頬をわずかに膨らませるアニー。
「ところで、君も謝肉祭には参加するのだろう」
 話の腰を折るミルハウスト。一瞬、きょとんとするアニーだったが、当然とばかりに瞳を見開いて頷く。
「それは重畳。ヴェイグたちもバルカに来るそうだ。君も募る話はあるだろうからな。謝肉祭の間は公務を忘れ、存分に楽しめばいい――――」
「……っ、ヴェイグさんが――――?」
 思わず息を呑むアニー。狼狽したせいか、思わず足踏みをしてしまう。明らかに動揺していた。
「何だ、知らなかったのか。私はてっきり周知のことだと思っていたぞ」
 しかし、ミルハウストは直後、アニーの微妙な変化に気が向く。
「……………………てません」
「ん?」
「ユー………ら……いてません…………」
 心なしかアニーの肩が戦慄いているように見えた。目を瞠るミルハウストに、アニーは青白橡の瞳をきっと、ミルハウストに突き刺した。
「ユージーンからは何も聞いてません!」
 あからさまに不服とばかりに眉を顰めてアニーは怒鳴る。唖然とするミルハウスト。
「ひど……非道い。ヴェイグさんが――――ヴェイグさんが来るなら……そう言って――――」
 何故か泣き声になり、瞼を押さえるアニー。
「アニーどの……いかがなされた」
 きょとんとするミルハウストに対し、アニーは少し肩を震わせると、沸々と毒気付き、すっと伸びた眉を逆立ててミルハウストを睨みつけた。
「ミルハウストさん……、知ってましたね」
「ん? 何がだろう」
「……………………」
 じっと責めるような眼差しを突き刺すアニー。ミルハウストは思いを巡らせ、彼女の瞳が語るものを感じ取った。そして、軽快に笑う。
「な、何がおかしいんですかっ!」
 両腕を真っ直ぐ地面に突き立てるように伸ばし、拳を握りしめてアニーは声を張り上げる。
「いやいや。ユージーン殿は何も秘密裏にしていたわけではないと思うよ。謝肉祭への招待だ。別に緊急を要する事でもない。彼らがバルカに来れば、いつでもゆとりを持って会うことが出来るだろう。違うかい?」
 諭すように、ミルハウストが言うと、アニーは少しだけ俯く。
「そ、それは……そうなんですけど――――」
 すうっと、毒気が抜いてゆく。そんな少女の表情の変化を、ミルハウストは生暖かい目で見ていた。
「大丈夫。素のままでも充分、彼の目に留まるよ」
「……なっ……」
 見透かされたかのようなミルハウストの言葉に、アニーの顔がぼっと赤くなる。
「か……からかわないでください!」
 声を裏返しながら、アニーは顔を隠すように駆け出してしまった。
「珈琲、ありがとう」
 廊下に出てその背中に呼びかけると、遠くから「ご自分で片づけて下さいね」という言葉が返ってきた。ミルハウストは苦笑しながら頭を掻き、部屋に戻っていった。

 かつて王家の健康管理を司ったカレギア城典薬府。アニーの父・バース典医が在していたその場所も、今はカレギア民主共和国保健省としての土台固めに忙しい。『医者の卵』アニーがいずれ父の跡を継ぐためにも、日々精進は怠ることは出来ない。
 アニーも気がつけば政庁の人員として、あたら十代の華やかな時を世界再編のためにと私を省みずに過ごしていた。
 硝子や磨かれた柱などを見るたびに、アニーは立ち止まり、周囲を確かめながら自分の顔を映し込む。
(素のままでも充分、彼の目に留まるよ)
 ミルハウストの言葉が妙に脳裏に焼き付いていた。 映す角度を変え、唇を指でなぞり、髪の毛先を指で弄ったりしながら、アニーはじっと自分の顔を見て思う。
(あの頃よりは……大人になったわよね……)
 自分で見てもわからない。しかし、あの当時と較べて、自分でも確実にわかる部分はあった。
 アニーはゆっくりと視線を自らの胸元に落とす。程良い大きさの膨らみ、あの頃を思えば、まるで別人のようだ。

「アニー」

「ひゃあっ!」
 不意に声を掛けられ、アニーはまるで不意打ちを食らった猫のように飛び上がってしまった。
「おお、すまない。驚かせてしまったか」
 低音で良く透る美声に、アニーはきっと眉を吊り上げて振り向いた。

「ゆぅ~~じぃぃぃいいんんん――――――――」

 跳ねた髪の毛先が峙ち、ヒルダも驚くばかりにばちばちと静電気が立ちのぼる。
「んん、どうしたのだアニー。何やら不機嫌なようだが」
 飄然とした様子で、ユージーンは揺らめく炎を奥に秘めた少女の瞳をのぞき込む。
「不機嫌にもなります……隠し事なんかして」
「ん、隠し事……。私が、アニーにか?」
 全く身に覚えのない疑いに、ガジュマの豪傑は困惑したように首を傾げる。
 アニーは『とぼけないで』と言わんばかりに眉間に皺を寄せてきっとユージーンの目を睨みつける。
「…………」
 百人並の胆力を持つさしものユージーンも、まるで娘のようなこの少女の眼力にだけは気圧される。
「バルカの謝肉祭」
「ん――――おお。謝肉祭が……どうかしたのか」
「……に」
「に?」
「謝肉祭に……そ、その……ヴ……ヴェイグさんが――――」
 言葉が詰まってしまうアニー。ユージーンは一瞬考え、何かに閃いたかのように両手を打ち鳴らし、笑顔を浮かべる。
「そうだった。アニー、喜んでくれ。今年の謝肉祭には、ヴェイグたちもバルカに来てくれるぞ。ああ、もちろんティトレイもだ。久しぶりに仲間たちが全員、揃い踏みと言うわけだ。いやあ、彼奴らと共に酒を酌み交わせると思うと本当に……」
 あの時に思いを馳せるユージーン。胸が熱くなる。辛く、長い旅ではあったが、ヴェイグたちといると、大切な何かを得る日々であったような気がした。
 しかし、ユージーンに感傷に浸る暇を与えない若者の熱気というのだろうか、独特のビート感というのだろうか。アニーは怒りの表情でユージーンの両の手首を掴むと、力一杯ぶんぶんと振った。
「その事ですッ。どうして私に教えてくれなかったので・す・か・ッ!」
 ユージーンにとってはアニーの力など蚊に刺された痛みにも遠く及ばなかったが、何故か身体がガクガクと振動する。
「? ? ? ……何の話だ?」
 本気で首を傾げるユージーン。しかし、アニーの顔は怒りと恥ずかしさが混淆したように朱に染まっている。
「だからっ、ヴェイグさんたちが――――って、えっ…………?」
 不意に、アニーは言葉に違和感を感じ、ぴたりと止まった。毒気が完全に抜けてしまう。
「……アニー、どうした?」
 きょとんとなるユージーン。呆然と虚空を見つめる少女の瞳を、斜めからのぞき込む。
 しばらく凝り固まったかのように身じろぎしなかったアニーが、突然電源が入った機械のように素早くユージーンから身を離し、上体を突き出す。
「ヴェイグさんたち……? ヴェイグさん“たち”……って、どういうこと?」
 鬼気迫ったアニーの凄みに、思わずユージーンはまるで蛇に睨まれた蛙のようにその耳を折りたたみ、肩を竦めた。
「どういうこと……。んー……ヴェイグとクレアさんが――――と、言うことだが……それがどうかしたのか」
「クレアさ……っ!」
 アニーの胸の鼓動が無意識に瞬発的に大きく波打った。
「アニー?」
「え? あ……ううん――――そ、そう。クレアさんも一緒に――――」
 無理矢理作り笑いをするアニー。元来、彼女は根が素直で優しい分、自分の感情を押し殺すと言うことがとかく苦手な性格だ。言葉で繕っても、表情で本音がわかる。旅の中、ユージーンは無数にアニーのそんな表情が辛かった。
「クレアさんが来ると、何かまずいことでもあるのか?」
 ユージーンの問いに、アニーは大慌てで強く否定する。
「そ、そんなことありませんっ。ただ……」
「ただ?」
 更に突っ込むユージーンに、アニーは頭の中で必至に言い訳の数式を並べ立てる。
「ほ、ほらっ。ヴェイグさんとクレアさん、スールズからバルカまで、そ、その……ふ、ふ、二人きりで旅をする訳でしょう? だ、だとすれば――――そ、その……やっぱり……で……―――――」
 トーンが急速に落ち、最後がうやむやになってしまう。
「うむ……」
 ユージーンは軽く瞼を閉じ、腕を組み、顎を撫でる。かたやアニーは脳内で展開される想像に更に顔を紅潮させ、それを打ち消すかのように小刻みに首を横に振る。
「アニー……」
 真顔でユージーンが見つめてくる。
「は、はいっ」
 一喝された兵士のように、びくんと背筋が伸び、身体を硬直させ、文字通り直立不動でユージーンを見るアニー。
「大丈夫だ。ヴェイグならばバイラスなど一人でも充分。クレアさんは、髪の毛一本も失わないだろう」
 そう言って、頤を外す。中将軍ユージーン・ガラルド、真っ白な歯が眩しい、根っからの忠烈漢、そして何よりも男女関係にはとくと疎い“無骨者”であった……。

『今日は散会して下さい。薬草鹿尾菜の件についてはベルサスのマウロさんに一任しています。気分が優れません、すみません――――』

 典薬府の定例会をそう言って早々に切り上げたアニー。情緒不安定気味な彼女の様子を心配しないものは一人としていなかったという。
 バルカ東区の一角に、アニーもまた、ヒルダやミリッツァと同じく居を得ていた。
 ユリスを滅ぼした時はまだ十六歳に届いたばかり。父・バースの伝手を辿って独居を望んだが、ウォンティガの聖殿での和解の後、事実上の父娘関係にあったユージーンの強い勧めでその保護の下にあり、十八の誕生日をきっかけに、渋るユージーンを押して東区の一角に独立した。
 しかし、悪い虫が付いてはバースに申し開きが立たぬと、毎日のようにユージーンが様子を見に来ているらしい。アニーはそれを一度だけ咎めたことがあるが、それでも密かに“娘”の身を案じる屈強な漢がいるのだという。
「はぁ――――……」
 本祭を間近にしたバルカの夜は、既に各々で祭り気分の様相だ。或いは酒に酔い、或いは路肩で歌い踊り、或いは我が家に親類縁者を招き、食事会などと洒落込む。夜にも絶えぬ首都の殷賑。窓から眺めるその街灯りに、止めどなく溢れるため息が吸い込まれてゆく。
「ヴェイグさん“たち”が……」
 嬉しさと、戸惑い。思えば思うほど、ため息をつけばつくほど、アニーの中でそんな異なる感情が入り乱れてゆくようなもやもやが広がってゆく。
「ああっ、もう寝るわ。そう、そうよ。今日は気分が優れないの。明日になればきっと良くなるから……」
 誰に言うわけではない。アニーは自分にそう言い聞かせて強引に納得すると、カーテンを閉じ、乱暴に洋燈を吹き消すとそのまま寝台に身を投げ、シーツを身体に巻き付けた。