第6章 東都騒擾

 バルカ総政庁にマオが戻ったのは、それから間もなくだった。久しぶりであるユージーンとの友誼も後回しに、マオは大将軍・ミルハウストの招喚を受けた。
 廊下には城下で賑わう謝肉祭の喧噪がひっきりなしに響く。やはりマオも一介の少年の心を持っている。たがが外れれば、今にでも飛び出し、祭典の輪舞に巻き込まれようと思った。
「ミルハウスト大将軍。マオです」
 大将軍執務室のドアをノックし、マオはほんの少しだけ唇を歪めながら名乗る。
「楽しみのところを申し訳ないね、マオ。どうぞ……」
 ミルハウストの言葉に従い、マオはゆっくりとドアを開けた。騎士の礼に倣い、拝礼をする。
「形式張った振りは要らない。普通にしてくれ、マオ」
 ミルハウストがそう諭すと、マオにとって不相応なほどの肩の竦みが、ゆっくりと紅髪の美少年から消えてゆく。
「良かった――――どうもこういうのって、苦手なんです……」
 深く深呼吸するマオをミルハウストはゆっくりと宥め、緊張をほぐすように簡単な雑談を交える。
「マオ。君が戻って来てくれたのは、まさに神の導きというものです。……早速、東都の様子を伺いたい」
「わかりました――――」
 風雅宮・東都キョグエンをめぐる焦臭さは、ミルハウストらの耳に届いていた。ミルハウストらは、気ままな見聞の旅に出向いているマオに、旅がてら東都の様子を見聞し、書き記してきて欲しいと伝えていた。
「キョグエンは、王斤がバイラスに殺されてから、その配下だった向侯さんが領主になっているわけですけど……その……、なんて言うのか、ミルハウストさんの言うように、何かガサガサしてるって感じで――――」
 その時、執務室のドアがノックされた。
「大将軍、ユージーンです」
 低く良く透る声が、ドア越しに聞こえてくる。心なしか、マオの表情が和らいだ。
「入ってくれユージーン殿。マオもいる」
「失礼」
 ドアが開き、屈強なガジュマの戦士が姿を見せた途端、その表情が綻ぶ。
「元気そうだな、マオ。一年ぶりか」
「やだなユージーンたら。呆けちゃうのは早過ぎる。そうだね……三か月くらいだよ」
「おお、そんなものだったか。随分と長い時を経たような気がしていた」
「息つく暇もない……って感じ?」
 ぽそりとマオが呟くと、ユージーンはため息まじりに微笑んだ。
「そうだな――――それよりもミルハウスト、マオを招喚したのは、やはり――――」
 ミルハウストが頷く。
「それで?」
「ああ、はい。えっと……それで向侯総督は、王斤の金蔵を解放して、民衆に分配するなどして人の心を掴んでいるみたいです。……だけど、何か面白くないって思っている人がいるみたいです」
「うむ……。向侯のような開放施政でも反感する者たちはいるということだろうな。それで、そのリーダーのような人物は、誰かわかるか」
 殆ど期待していなかったミルハウストの質問に、マオは思考を長く巡らせた。
「えっと……確か――――レ……そう、レン・チャンとか聞きました」
 すると、ユージーンが驚いたように目を瞠る。
「何だと。それは間違いがないのか」
「ん……ユージーン殿、貴公、ご存知なのか」
 ミルハウストがユージーンを見ると、ユージーンは真剣な表情で頷いた。

 ――――王の盾としてカレギア全土を廻っていた時分に、キョグエンにある名士の名前を一度耳にしたことがある。
 ……戀景(レン・チン)というガジュマの人で、確か通名を悳光(トゥカン)と言ったか。
 金の亡者として醜名内外に轟かす王斤とは正反対に、戀景は性謹厳で剛直な御仁で、決して金銭や権力に目の眩むことのない士だったと聞いたことがある。
 ときおり王斤の目を盗んでは、度々施しなどの善行をしていたとも言う。
 そのような戀景の存在を、王斤は忌み嫌い、かといって命を狙うほどの勇気もなく、やがてキョグエンの僻地に戀景を逐い、軟禁したと聞いた。

「東都に、そのような人物がいたのか」
 意外とばかりに目を点にするミルハウスト。ユージーンは続ける。

 ――――戀景には二人の娘がいて、長女を戀唱(レン・チャン)、通名を詩瑠(シーリウ)と言い、精悍な美貌と父譲りの剛毅果敢な性格で、幼くしてキョグエンにその名を知られていたと言う。
 次女は戀叶(レン・シェ)。通名を祥河(シャンホ)。姉とは違い、沈着で冷静。一見、気の優しい嫋々とした身のこなしながらその胸中には鬼神も目を瞠る智略を温めているという。
 この二人、僅か六歳の時に、ラドラス陛下のキョグエン行幸に遇い、拝謁を賜った時のことだ。
 ラドラス陛下が、妙齢となった暁には、どの様な道を歩みたいか。と親しく訊ねられたという。
 姉の戀唱は『低くして城の牆垣、高くして時鐘の道でございます』と答え、妹の戀叶は『国を愛し、済民の道を求めることです』と答えたので、ラドラス陛下は大層感心されたという。
 姉妹は共に俊傑の聞こえ高く、『ラドラスの落日』を経て、フォルスを得ることはなかったが、王斤に抑圧されながらも、心は強く保てたという。あの強大な負の思念に得ても決して動じず、ヒューマとガジュマの和解を願い続け、それが反って自分たちが守るべき者の憎悪を受け、孤立を招いたのだと言う。

「ユージーン殿ほどの漢が、そこまで誉めるとはな」
「戀姉妹は紛れもない英傑。フォルスを持たない弱みを、その才知と人望で補って余りあるのだ」
 実際、王の盾の威圧すら戀氏の前に霧消し、キョグエンがカレギア国中でただ一つ平穏とした装いをしていた一因でもあった。
「しかし……それほどの人物が、何故今、領主と諍いを起こそうとするのか」
 ミルハウストは組んだ両手に顎を乗せて、長く呻る。
「戀一族は戀景の曾祖父戀敦(レン・トン)がカレギア王家の篤い君恩に与ったのを末孫に伝える尽忠の家柄と聞く。王斤亡き後、向侯が領主となり、一方的に共和国大憲章に批准したとあっては、対立も余儀のないことだろう」
「カレギア王国の忠臣……か。何か、フクザツですね」
 マオの呟きに、ミルハウストは小さくため息をつき、瞳を閉じた。そして、少しだけ苦しそうに息をつく。今や共和国大将軍として苟且の統一国家を導く身。去来するのは哀しき王女アガーテの笑顔だ。
 やがてミルハウストは刮目し、声を荒げた。
「それが誰であろうと、国は統べられなければならない。我々は王家に代わり、一統融和の大事を使命としている。それを妄りに妨げようとする者はこれを伐ち、国の範とするまで」
 するとユージーンは頷きながらもため息まじりに言う。
「戀一族は平民だが我々が思っている以上の俊英の器だ。なめてかかれば必ず、痛い目に遭う。ミルハウスト、先ずは東都の様子を慎重に調べ、良策を講じて乗り込まねばならないな」
「貴殿の言われる通りです。……して、マオ。東都は火急を要するか」
 ミルハウストの問いに、マオはゆっくりと首を横に振る。
「明日にも紛争が起きそう……という雰囲気じゃなかった。キョグエンの人たちの中には、戦いが始まることよりも、楽観しているような空気もあったようです」
「そうか。なるほど……」
 ミルハウストは鼻梁を指でなぞると、僅かに口許に失笑を作る。
「謝肉祭を愉しむゆとりは、ありそうにないな」
「全く。顕官に与る者の損なところです」
 ユージーンが満面に苦笑いを湛え、首を横に振った。
「せっかくヴェイグたちがバルカに来ているって言うのに――――ま、致し方がないんだけど……ちょっと、残念かも」
 唇を尖らせるマオ。
「おお、そう言えば連中はもうたどり着いているな。マオ、せっかくだ。お前も城下に行き、愉しんでくればいいぞ」
「ユージーンは、どうするの?」
「私は無理だろう、こう見えて些少の政務をこなさなければならない。残念だが、ヴェイグたちとの友誼を交わす時間はない」
「そう……なんだ」
 マオは寂しそうに眉を寄せた。その時、ミルハウストがふっと笑みをこぼし、ユージーンに言った。
「私に気遣いは要らないぞ、ユージーン殿。貴公こそ、たまには気を抜くべきだ。そうすれば、更に視野が広まるというもの」
「いや。お主ひとりでは……」
「あの時、貴殿やヴェイグたちと交わした言葉、忘れてはいない。……案ずるな同士。いずれ、方策について諮らなければならない。その時は頭が痛くなるほどの論議にもなるだろうからな」
 ミルハウストはそう言って掌を振りかざす。
「そうか。わかった。しかし、根を詰めすぎるなよ、ミルハウスト。皆、主の身を案じている」
 ユージーンの言葉に、ミルハウストは小さく微笑みを返す。
「では。今日はその言葉に甘えよう。……マオ、行ってみるか」
「うん、待ってました! なんてネ」
 満面の笑顔のマオ。随分と久しぶりの慣れたやり取りに思わず笑い合い、ユージーンとマオは城下に向かっていった。
「東都……キョグエンか――――」
 ミルハウストは大窓の前に立ち、その眼差しは、幾つも連なる祭典の篝火を追っていた。

キョグエン――――青陵(チンリン)

 ラドラスの落日からユリスが滅亡するまでの間、玉華湖から青陵に通じる紫橋は故意に破壊されていた。
 青陵は風雅宮キョグエンを一眸できるなだらかな高台。青々とした竹林が広がり、冬は墨絵のような濃紺と白の風景となる。青陵の名はその四季の風景から付いた。
 戀氏の住居が青陵にあることから、王斤はこの橋を破壊し、戀景らを青陵に軟禁状態にしていたのだ。
 王斤が死に、ユリスの脅威が去った後、向侯は当主戀景を即時に開放。紫橋を苟且にも造り直させたのだ。
 名士戀一族の人望はますます高まり、青陵には終始一貫してヒューマ・ガジュマの分別なく人としての在り方を説いた戀景らを慕って、諸地方から多くの人物が青陵を訪れるようになっていた。

戀景邸

 突然、陶器の割れる音が響いた。神農祭に沸くキョグエンの都心とは全くの別世界。幽静な世界に、その音はあまりにも衝撃的でもあった。
 長い耳、踝に届きそうなほどの白銀の髪に、背中には大鷲の如き翼、切れ長の鋭い双眸、透き通るほどに白い肌に対照的な朱い唇。一見、ヒューマと見まごうばかりだが、れっきとしたガジュマの女性。美人の基準が違うとされる両種族にあって、この女性は両者から美貌の誉れを得そうだった。
 女性は怒りを滲ませたような様相で立ち、項垂れている壮年の男性を睨みつけている。
「シーリウ、まずは落ち着け」
 まだ多く残っている食べかけの食卓をひっくり返されはしまいかと、男性はハラハラな様子。とても瞳を合わせようとは思えなかった。
「父上はいつから、そのような腑抜けになられた。これ以上、カレギアの賊臣に隷従することなど我慢なりません。キョグエンのみならず、諸州の有士も、バルカの施政に不満を抱いているのです。お判りでしょう」
 この人こそ名士・戀景の長女、戀唱。通名を詩瑠である。
「誰も隷従などとは思ってはいない。落ち着けシーリウ。どうしてそうすぐ血気に逸るのだ」
「私は冷静です」
 瞳を瞬時に凍てつく色に変えて戀唱は語気を低く抑える。
「向侯殿は王斤が尽くした悪事の後始末のために奔走しているのだ。カレギアへの義心に偽りはない。それに……」
「それに――――何です」
「…………」
 言いかけて逡巡する戀景。その時、食堂の扉が開き、僅かに紫がかった白銀のショートヘアと言う以外、戀唱と同じ容姿の女性が陶器のティーポットをトレイに載せ、入ってきた。
「シャンホ……」
 この人ぞ戀景の次女・戀叶。通名を祥河という。
「姉上、語気を強くされる前に、よもやジルバのことを、お忘れではありませんでしょう」
 戀叶の言葉に、さっと顔色が変わる戀唱。
 食卓にトレイを置き、戀叶はゆっくりとした動作で木盃に茶を注ぐ。沸かしたての香茶。白い湯気が一本の筋となって立ちのぼる。
「あの者の犯した弑逆の汚名は、三族の罪となりました。たとえ王斤に軟禁されていたとは言え、私たちとて例外ではなかったはず」
「シャンホの言う通りだ、シーリウ。向侯殿やセルカーク大将軍らの恩義は王家にも劣らぬものだぞ」
「しかし、女王陛下がご崩御されたとは言え、宗廟を簒奪し、国を滅ぼしたことは罪にはならないのですか。ジルバの愚行があればこそ、私たちは身を捨してリンドブロム家の再興を……」
 言い終わることを待たず、戀景は言葉を割り込ませた。
「汚名を被ったまま朽ち果てるよりも、罪を晴らしこの国のために心血を注いでこそ、我ら戀家九代の大業が成せるというものだぞ、シーリウ」
 戀景の言葉に、返す言葉がない戀唱。納得がいかないのか、その白く美しい容貌がみるみる紅潮してゆく。
「ラドラス陛下と、向侯を天秤に掛けることなど、私には出来ません!」
「姉上。姉上の気持ち、叶にはよく解ります。……ですが、向総督やセルカーク大将軍の信念をよそにして徒に事を構えても、人々の心は掴めません。何事も時を得なければ涯に待つのは、身の破滅です」
「ああ……」
 冷たいくらいの妹の言葉に、戀唱は天を仰いだ。得も言われぬもどかしさが胸を突く。

東都政庁舎(旧王斤邸)

 キョグエンの音曲がひっきりなしに響いてくる。王斤が倒れた後、向侯(クウ・ホウ)はこの邸を全面改装した。
 特に悪夢のようなオークション会場だった広間を民のための会所とした。
 キョグエンの施政に対する意見陳情などを直接聞き及び、刑事・裁判など、裕福層が多いキョグエンにとって死活問題でもある治安に関する方策でも功を奏し、向侯の民政能力の高さは内外に高く評価されたのである。
 ただ、王斤の懐刀として活動していた経歴が、王斤の弊害を受けた多くの人々にとって、最大の障壁となっているのも事実である。
 戀一族に共鳴するそう言った人々の動勢が、心ならずともキョグエンの向侯政権にとって最も厄介な存在となっているのは実に皮肉なものであった。
「青陵の戀唱、不穏です。まさか、同調の賊とともにこの庁舎を襲いましょうか」
 邏卒長の言葉に向侯は答える。
「戀唱は気性は激しいが、忠節を識る思慮深い女だ。妄りに勇才に恃み叛旗を翻す愚行はしない。私としても、皆の諍いをこれ以上、深くすることは望まぬ。大都バルカの羅遒大使に、仲裁を附託した。いずれ、大都の使いがここに下向するだろう」
「おお。さすがは向総督。そこまで先を読まれておられるとは。これを機に青陵の脅威が除かれれば、東都の治安は飛躍的に良くなりましょう」
 羅卒長の言葉に、向侯は微笑み僅かも浮かべず、哀しげな声色で答えた。
「シーリウを、手捕りにだけはしたくないもの――――」
 ふと、向侯は眼差しを遠くに向けた。
「…………」
 向侯の言葉を聞いた羅卒長の、素に戻ったその表情が、妙に印象的だった。
 鼓膜を揺さぶるのは、なおも長閑な神農祭の音曲と、心から溢れる民の笑い声。
 為政者の心中を知る由もなく、祭りの日々は、なおも冷めやらぬ様相に満ちているようであった。
 キョグエンは静かながらも、カレギア民主共和国樹立の余波を受けつつあった。
 そしてそれが、“彼ら”にとって、ひとつの大きな転機となることを、誰も未だ知る由もなかったのだ。