第8章 秘 想

 カレギア六都の他に、眺海府ミナール、望沙府ピピスタを含めた総称・六都二府はそれぞれ大都バルカに特命全権公使を駐箚(ちゅうさつ)させている。
 いずれも、かつてユリスの負の思念に強い影響を受けて、種族間の激しい対立を招き、或いは招きかけた主要地であるために、民主共和国の大憲章に基づき、ミルハウストらが“招聘”するという形で名士を政庁に留め置いた。
 特命全権公使は、中央政府からの交付税の配分、つまり予算制定に関わる権限を持っていた。そのため、必然的に権威は在地総督よりも強くなることが多い。
 バルカ政庁東庭には、その六都二府のひとつ、東都・キョグエン公使館がある。
 白髪が多く混じる長い髪に、東洋の文官帽を戴くヒューマが羅遒(ルオ・チウ)、通名を俊遼(チュンリョウ)。東都キョグエン特命全権公使である。
 キョグエンの豪商であった祖父・羅倏(ルオ・シュウ)が、カレギア王家の信任を得てバルカに駐在して以来、羅戉(ルオ・ユエ)と続き、羅遒と、三代に亘り、政商としてバルカに対する影響力は絶大なものになっていた。
「父上ただ今戻りました。……早速ですが、東都の向総督より報せを」
 青年は羅彝(ルオ・イ)、通名を法孝(フォアシャオ)。キョグエンに在する羅遒の息子である。
「おお彝、戻ったか。うむ。大方、事情は察知している。青陵の戀景公あたりが騒ぎ立てているのであろうか」
 読みかけの厚い本に栞を挟み、羅遒は鎖のついたグラスを鼻から外す。
「その様ですが……、どうもトゥカン殿よりも、シーリウ殿や、シャンホ殿のようで」
「ほう。唱・叶か。さすがの向総督も、“檻の錆”に気づかなかったと見える。或いは、別の意味合いがあったのか。いずれにしても、らしくないのう」
 羅遒がそう言って一笑する。
「向総督は父上に、政府特使を下向せしめ、仲介を頼むとのことです」
「はっはっはっは。さもあろう。……して、誰を東都に向かわせようか」
「誰とは……。内務担当官ではいけませんので?」
 羅彝の言葉に、羅遒は笑った。
「戀の姉妹に、卑官は充てられまいぞ」
「……では?」
「大将軍閣下自らが下向し、彼の姉妹を説き伏せる気概がなくばなるまい」
「……何と、セルカーク大将軍を――――」
 父の言葉に愕然となる羅彝。
「国のためとあれば、大将軍は進んで決断されるはず」
「しかし、如何にシーリウ殿とは言え、我らと同じ人。事を誤る虞はありませんか」
 羅彝の言葉に、羅遒は哄笑して返す。
「大将軍は当世の英傑だ。在野の淑女に背を曝すほど暗愚ではなかろう」
 羅彝はむうと唸り、肩の力を抜いた。
「わかりました。政庁にはその様にお伝えしておきます」
「時に彝よ、雅華園の様子はどうだ」
 羅遒がそう訊ねると、羅彝は思い出したかのように、声を弾ませて言った。
「皆、父上のことを気に掛けております。……実は、折を見て父上に一度、東都への帰還を求めようと思っておりました」
「おお、そうか。うむ……もしかすると、私も東都への下向に付くやも知れん。そう思えば、気も浮かれると言うものだな」
「適えば十年……に、なりましょうか」
「そんなに経つか……。永いのう……」

東区――――ヒルダ・ミリッツァの家

 祭りの後の静寂は一際心悲しいと言うが、それがたとえ明日も、明後日も続く一休みの夜半とはいえ、やはり、静寂の中に聴こえる草むらの虫の鳴き声と、遥か沿道から空に吸い込まれてゆく、溷六(どぶろく)たちの賑やかな笑い声は、心に何故か深く響くようだった。
 見渡せば、窓の灯りは延々と夜景を彩り、短いバルカの清夜を飾るのだ。
「…………」
 少しだけ残ったワインのグラスを傍らに、ヴェイグは宴の終わった広間の窓に腰を掛け、微かな夜風に髪を靡かせていた。洋灯ひとつのダウンライトは、夜景を損ねない。
 あれから、ヴェイグは物想いをよくするようになった。クセと言うには、あまりに見劣りはするのだろうが、表情に怒りも、哀しみも滲まさず、かといって喜びもない。
 “素の表情”と言うには聊か語弊がある、クレアだけが知る、ヴェイグの表情がそこにあった。
「ヴェイグ……いい?」
 クレアの声に、ヴェイグはすぐに反応する。振り返ると、廊下側の扉にちょこんと立ち、申し訳なさげに、肩を僅かに竦めている、美しい幼なじみがいた。
「クレア……、どうした。もう、眠ったかと思っていた」
 爽やかな石鹸の香りを溶け込ませながら、クレアがゆっくりとヴェイグの傍らに歩み寄る。
「うん……。すこしだけ喉が渇いたから、お水をもらいに来たんだけど……ヴェイグが――――」
「そうか……すまない。心配を掛けたな」
「…………」
 ほんの少しだけ、クレアは眉を顰めた。
「何を考えていたの?」
「ああ、“みみっちい”……問題だ」
「ん――――もう。真面目に答えて、ヴェイグ?」
 別に、冗談を狙ったわけではなかったのだがと思ったが、心の奥に封印した。
「あぁ。ユージーンの話を、何となく……考えていた」
「ユージーン……さんの? と、言うとキョグエンの?」
「ああ。この世界に……ユージーンや――――あのミルハウストにも劣らない人がいたなんて……。そう思うと、俺はきっと……」
 クレアは少しだけ気が抜けたように、小さくため息をつく。
「世界は広かった……。私ね、ヴェイグ。あの日々のことは今でも……ううん、きっとこの先ずっと、私が天命を全うする、その時まで、すごく貴重でかけがえのない経験だったんだなって、思いつづけることが出来るわ」
「……クレア……」
「ヴェイグは強いわ。誰よりも強いの。……私……、私がいちばん、そのことを解ってるつもりよ」
「そんなことはない。買いかぶりすぎだ」
「ヴェイグ……!」
 クレアの語気が一瞬、強くなった。愕然となるヴェイグ。
「今ね……ヴェイグが考えていること、すごくよくわかるの」
「…………?」
「キョグエンに――――戀唱という人と、会ってみたいって」
「…………」
 ヴェイグはどきっとした。それは遠からず、当たっていた。
 ヴェイグは思考を少し整理する。一度、クレアから視線を外すと、ひとつ長いため息をつき、口を開いた。
「あの旅は、俺にとって色々な意味で忘れることが出来ない。……クレアのことを思いながら、ユージーンやティトレイたちから、数えきれないほど大切なことを教えられた。クレアを思えば胸が塞がるほど辛い夜も、みんながいたから、乗り越えられた」
「…………」
「俺はそれでも、王国や天上界の事などは気にも留めずにいた。……そう。きっと、ミルハウストと、剣を交えるまでは――――」
 互いの胸に抱く、それぞれの強く、確かな想いがあった。
 正誤、白黒、左右、明暗、賛否……。そんな狭義が意味を成さない真っ直ぐな心を、二人はあの旅の中、剣に込めて交えた。だからこそ、勝敗を超えた絆で、結ばれた。
「クレアを救うために始めたはずの旅が、いつしか世界を無に帰す思念から、この世界を救うことになっていた。……昔の俺だったら、絶対そう思わないことを、今思える」
「なに? 言って、ヴェイグ」
 ヴェイグは小さく瞼を閉じながら少しだけ長く深呼吸をすると、再び、クレアのクリアブルーの瞳を見つめて言った。

 ――――クレアのおかげで、現在(いま)がある――――

「…………」
 クレアは胸の奥底がきゅんとなるような感覚に、息をほんの僅かに詰まらせた。
「うん……」
 切なげな微笑みを返し、自然に両腕をヴェイグの肩に廻す。クレアからの触れ合うだけのキスの求めを、ヴェイグは受け入れる。クレアの得も言われぬ温かく、柔らかな唇の温もりを感じることが出来るだけで、幸福だった。
「……クレアには、もう二度とあんな目には遭わせない。俺が、一命を賭してお前のことを守ってゆく」
「…………ありがとう……ヴェイグ……」
 どうしてか。少しだけ、切なそうにクレアの唇が震えているように思えた。
「……だから、俺はミルハウストやユージーンと交わした。たとえ道が違っていても、再誕の夢はひとつであることを」
「…………」
「世界の和を保つことが、お前を守り抜くことが出来るというのならば、俺はその和を守るべきだと思っている」
「戀唱という人を、討つの?」
 その質問に、ヴェイグは曖昧に瞳を閉じる。
「もしも、戀一族が“和”を乱す元凶となるのならば、俺はそれを討つ。世界のために……クレア、お前のためにも――――」
「そう――――」
 寂しげに、クレアは睫を伏せた。
「だが、何か已まない事情が向侯と戀唱を争わせているというのならば、それを糺して、改めさせようと思っている」
「…………」
 何故かクレアの表情は浮かないままだ。
「どうした、クレア」
「…………」
 しかし、クレアは少しだけ思いつめた様な表情で、躊躇いがちにヴェイグへの視線を交錯させる。
「ヴェイグ……」
「ん…………?」
「………………」
「………………」
 ほんの僅か、得も言われぬぎこちなさが、漂った。
 そして、言葉を発するきっかけがないまま、クレアの方が先に表情を動かした。
「ゴメンねヴェイグ。私……、何かヘンなこと訊いちゃった。――――もう、眠ったほうが良いわね」
 無理矢理に繕ったかのような微笑みを向けると、クレアは弾くようにヴェイグから身を離して後退る。
「クレア?」
 ヴェイグが振り返ると、クレアはいつもの優しい微笑みを返し、踵を返した。
「クレア……」
 呼び止めることも出来ず、ただヴェイグは見送るしかできなかった。
「…………」
 クレアのことよりも、今のヴェイグはそのことが余計に、気になっていた。

 眠気は感じていた。しかし、しばらく経っても、意識が低空飛行するだけでもどかしかった。何故か無性に、体感温度が高く感じた。
「ふぅ…………」
 ヴェイグは、クレアが用意してくれていた、黒のティーシャツと薄いデニム生地のパンツという軽装に着替えると、物音に気を遣いながら、入口の扉から外に出た。
「そんなに蒸し暑いと言うわけでもないか……」
 ヴェイグの髪を揺らしてゆくのは、少しだけ湿り気を帯びただけの、暑くない微風だった。
 気を紛らわすためとは言え、喧噪から外れた東区を彷徨いていてもつまらない。
 バルカは首都だ。その上、年に稀少な清夜。そんな夜を愉しむべしと、不夜城が静まることはあり得ない。
「人が……多いな」
 少しだけうんざりとした様子で、ヴェイグが呟く。
 涼しさにつられて辿り着いたのは、バルカ総政庁。つまり、王国のカレギア城には、小庭園がある。無論、王侯貴族のためだけの団欒の場としてあったのだが、今は城壁も取り払われ、一般に開放されている。
 この城は正直、ヴェイグにとってあまり良い想い出があるとは言えない。
 雰囲気が随分変わったとは言え、心の何処かに憚る気持ちがあることに変わりはない。心地よい涼風が白楊樹の葉をよそがせ、中池に佇む恋人たちの語らいは、ヴェイグが見知ったかつての出来事など、知る由もない風だった。
「…………」
 甘い愛を語り合う恋人たちの中にあって、ヴェイグは当然、居たたまれなくなってくる。
 カップルの中に朴訥とした青年が一人混ざっていると言うことは、いかにも不審人物としてみられかねなかった。
「深入りしすぎたな……」
 木々のざわめきとは明らかに違う音が植え込みのほうから微かに聞こえてきた時、ヴェイグは本能的に顔面に血が上り、そそくさとその場を離れていた。
「ふう……ますます暑くなってどうする」
「ヴェイグ……さん?」
 政庁正門へ続く石畳の上で息をついたヴェイグに、不意に背後から玲瓏とした声が呼び止める。
 ゆっくりと振り返るヴェイグ。そこには栗色の少女がきょとんとした表情で立ち止まっていた。
「あ、やっぱりヴェイグさん♪」
「アニーじゃないか」
「服が違っていたから、一瞬、判らなかったです」
「……どうしたんだ、こんなところで」
 どこか眩しそうにヴェイグを見るアニーとは別に、怪訝とばかりに眉を顰めるヴェイグ。
「それは、私のセリフですよ。ヴェイグさん、どうしたんですか、こんな時間に」
「んー……質問に質問で返すのは感心しないな」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……もしかして、一度言ってみたかったのですか?」
 素の表情で、ヴェイグはこくりと頷いた。
「ふふっ……うふふふふふっ」
 アニーの笑顔に、ヴェイグの無用な緊張は、自然に解れていた。
「小庭園はすごく綺麗な景観ですから、デートスポットになっているんです……」
「なるほど……」
 アニーが頬を染めて、ヴェイグを見ながらそう語るも、ヴェイグは恨めしそうに小庭園の方に眼差しを送っている。
「あの……ヴェイグさん」
「ん?」
「もしも、涼むのでしたら、私が、お付き合いします。……おひとりだと、かなり居づらいでしょうし」
「ああ。そのことなら、もういい。別のところへ行くことにする」
「…………。そうですか」
 小さくため息をつき、アニーは僅かに肩を落とした。
「南門広場は、涼しくないか」
「あ……えっと――――」
「眠くなるまで、ちょっと話をしないか。積もる話もある。語りきれないだろうが」
 アニーの表情が、一気に晴れて行くのがわかった。
「良いんですか?」
「無理にとは言わない」
「そんな……行きます!」

南門広場

「混んではいるが、あそこよりはましだな」
「あはは……」
 まさに不夜城・メインストリート。往来こそ少ないが、大都最大の公園は収穫祭のただ中と言うこともあって、昼に負けない賑やかさの中にあった。
「ん――――……あ、ヴェイグさん、あそこが空いてます」
 噴水の袂に、ちょうど二人が腰掛ける分のスペースを見つけたアニーが、嬉々と声を上げる。
「噴水の側か、涼しいだろうな。……よし、あそこにしよう」
「はい!」
 アニーが小走りに陣を占拠する。ヴェイグはそのまま、踵を返す。驚くアニー。
「何か、飲み物を見繕ってくる。アニー、何がいい?」
「あ……私は……。ヴェイグさんにお任せします」
「本当だな?」
 何故か切羽詰まった怪しさを感じるアニーが、顔を赤らめ、慌てて手を振りかざす。
「リンゴジュースを……お願いします」
「承知した」
 一瞬、ヴェイグの見せた微笑みの中にからかいの色を感じたアニーは唇を尖らせようとしたが、その直後、ヴェイグの姿は消えていた。
「……これって、夜の……デー……と――――」
 思いも寄らない“幸運”に、アニーは眼を細めてそう呟き、自分に言い聞かせる。
「どうした?」
「え……、きゃっ!」
「…………!?」
 不意に声を掛けられて、アニーは声が裏返ってしまう。
 瓶を抱えたヴェイグも思わず怯み、危うくバランスを崩しかけてしまった。
「は……早いですね、ヴェイグさん……」
 心臓がばくばくするのを必至で鎮め、アニーは言った。
「早いも何も、飲み物屋はすぐそこだ」
 ヴェイグが指さす方に、結構人がいる。皆、良く冷えた瓶を手にしていた。歩いて、十歩もない。
「どうも、この時間帯にはただのジュースはないらしい……。一応、リンゴ味のを選んだつもりだが……」
 アニーは間を置かずに、両手を差し出し、ヴェイグから一本、瓶を取る。それは、本当に良く冷えて汗をかいていた。
「飲みます。ありがとうございます!」
 アニーは噛みしめるようにそう言葉を繋げると、瓶の口を小さな唇に銜え、傾ける。
 ごく……ごく……
 リンゴのすっきりした甘みと共に、何か熱い感覚が後から続く。
「おい、アニー。一気は止せ」
 ヴェイグが呆れたようにため息をつくと、アニーはくいと傾斜を元に戻し、瓶を唇から離した。それほど、減ってはいない。
「ふう――――美味しいです」
「そうか。良かった」
 ヴェイグはほっとしたように肩を落とすと、自らも瓶を口に含めた。
「ヴェイグさんは、何ですか?」
「ん――――これは……」
 何故か躊躇う。
「? どうしたんですか」
「あ――――いや……その……」
 どうやら、話すことに若干の抵抗があるような様子だった。
「大丈夫です。笑いませんよ、絶対に」
 アニーはいつしか、緊張や羞恥が解れ、その可愛い顔には、優しい微笑みが戻っていた。
「……ーチ……」
 ヴェイグの呟き。
「え……?」
「…………。ピーチ味」
 何故か、ヴェイグは顔を赤くし、項垂れてしまう。呆気に取られたアニーだったが、すぐに屈託のない笑いに変わった。
「ヴェイグさんって……なんか――――、ふふふふっ」
「好きなんだ、ピーチが。そんなに笑うな」
「あ、はい。ごめんなさい……ぷっ……」
 アニーはヴェイグの口からそんな意外な言葉を聞けた事が、妙にツボにはまったようだった。噴水を囲む幸福そうな男女たちの中でも、ここの一組は突出していたと、誰かがそう言っていたという。

「聞きそびれていた。アニー、宴会の後なのに、何故カレギア城に……」
「あ、はい。……ええと、実はですね、宴会の時に典薬府の技監から、ちょっとだけ雑務の整理を手伝って欲しいって連絡が来てたんです。途中で抜けるのも悪い気がしたので、終わってから行くことに……」
「何だ、公務か。ならば、遠慮などせず、すぐに向かうべきじゃなかったのか」
「いいえ、大丈夫です。技監にはそれじゃなくてもたくさん、貸しはありますから」
「…………」
 アニーの将来像が、閃光のようにヴェイグの脳裏を掠めたような気がした。
「それはそうと、技監の話なんですけど……、近々キュリア先生が保健相に就任されると聞きました」
「あぁ。キュリア先生が……」
「ずっと、ミルハウストさんが打診されていたのですが、キュリア先生はなかなか腰を上げずにいたみたいですけど、やっと……」
 そう報告するアニーの表情が、嬉々としているのがわかる。
「そうか。良かったじゃないか、アニー」
 ヴェイグは素直に喜べた。
「ありがとう、ヴェイグさん。あと……」
「あと?」
「ミーシャも……ミーシャも、技官として保健省に出仕することが決まったそうなんです!」
「ミーシャ……。そうか。そうか、アニー……。良かったじゃないか」
「は、はい……!」
 あの戦いの後、最後に残っていた一縷の蟠りを、アニーは心の何処かで気にしていた。
 民主共和国政府の一員としての立場上、なかなか私的な用件で大都を離れる事は出来ない。会えないまま時が過ぎて、全ての思いが時に優しく抱かれ、眠り埋もれて行く事を、アニーは危惧していた。
 しかし、保健省技官となれば、共に医者を目指す同士、いつでも共に仕事をこなすことが出来て、触発し合える。そして何よりも、今よりも明日へと絆を深める事が、可能なのだ。
「イゴルさんも、保健省での役職に就かれるみたいですよ♪」
 苛酷な現実を知る旅を助けてくれた人たちとの再会と、同じ道を歩み出すことが出来る喜びを、アニーは感じている。わかっていることだが、彼女と初めて出会った時のような、ネガティブな雰囲気は完全に無くなっていた。
 真実を知り、それを強く乗り越え、再び原点から歩み出そうとする、健気な少女の表情。

 可愛い……

 何故か、ヴェイグは嬉々と語るアニーを見つめながら、そう思った。
「――――ですよね。ふふっ。だからすごく、楽しみで……」
「ああ――――」
 見慣れているはずだったアニーの笑顔が、新鮮に見えるのは、何故だろう。
 そして、三年前までとは明らかに違う、女性としてのその部分に思わず視線を止めたヴェイグは、大慌てで頭を勢いよく横に振り、邪念を払う。
「? ……ヴェイグさん?」
「あ、ああ……すまない――――」
 ヴェイグは背筋が妙にむず痒かった。