第10章 古疵

 公安府のギンナルとユシアが、ヒルダとミリッツァの家に訊ねてきたのは、昼過ぎだった。
 しかし、ヴェイグとクレアは謝肉祭を見学しようと、マオらと共に街へ出掛けていた。
 結局ヒルダとミリッツァ、そして昼食に与っていたティトレイが彼らを出迎えた。
「よー、漆黒の翼。元気そうじゃねえか」
 ティトレイが両手を広げて歓迎すると、ふたりは少しだけ照れくさそうにはにかむ。
「ご無沙汰です」
 ぺこりと頭を下げるユシア。
「あなた達のお陰で、こうして世のために働ける――――。本当にありがとう」
 以前とは全く雰囲気の違うギンナルに少しだけ拍子抜けするティトレイ。
「そういや、あのがたいのでかい奴はどうしたんだ?」
 ティトレイの問いに、ギンナルとユシアは一瞬顔を見合わせる。そして、互いに頷くと、毅然とティトレイを見る。
「ドルンブの奴は――――」
 ユシアが粛然と口を開く。急に悲しい雰囲気を感じる場……。
「ワルトゥ長官に“何故か”認められたとかで、北都都護尉に……抜擢されたんです」
「はぁ?」
 その瞬間、拍子抜けした表情に並列する。
 『北都都護尉』――――言うなれば、ノルゼンにおける“警視庁・捜査一課長”だ。
 それまでは“王の盾”の爪弾き者としてサレに利用された挙げ句、挫折のどん底まで落とされた『漆黒の翼』。
 その一人ドルンブは、他の二人と共にカレギア民主共和国樹立後、ワルトゥが指揮する公安府に所属。僅か数年の間に“落伍者”から一転、北都ノルゼンの治安を一手に任される都護尉に“大々抜擢”されたのだ。
「そいつはすげえな、大したもんだぜ」
 ティトレイが意外そうに言うと、ギンナルがうんうんと同意する。
「あいつ、一番地味だったのに……ホントわからないものですよ」
 すると、側で話を聞いていたヒルダが不意に口を開く。
「人の能力は、見た目や言動の華侈に比例するものじゃないわ――――。都護尉となったのは彼がその職務に適した人材だからでしょうね」
 まるでギンナルやユシアに対して棘のあるような言い方をするヒルダ。やや悄気る二人に、ミリッツァが言った。
「お前たちは公安府でよくやってくれているぞ。長官も私も、大いに助かっている。それは間違いない」
「お慰めありがとうございます、ミリッツァさん」
 ますます肩を落とすギンナル。半ば慌てるミリッツァ。
「おい。私は慰めてなどいない」
 すると、ヒルダが再び言った。
「仕事ぶりに対する事実を語っているだけでしょう。貶す必要も、慰める必要もないわね」
「おっしゃる通りです……」
 今度はユシアが肩を落とす。何故かやりこめられている二人に、ティトレイが救いに入った。
「まあ、やっぱりお前らには、人を貶める事よりも、人を守る事の方がずっと合ってるってー事だよな」
「え…………?」
 二人がティトレイを見る。
「お前らは街を守っている。地味だが、お前たちがいなければ、街は犯罪者の巣窟になっちまうんだ――――」
「…………」
 ヒルダが視点をティトレイに向ける。やや顰め面のその目に映ったのは、時折……いや、たまに数えるくらい見せたことがある、優しい笑顔だった。
「ひとつ訊くぜ。――――お前ら、今の仕事どう思ってるんだ?」
 ティトレイの質問に、二人はほぼ同時に答える。
「俺(私)に合っていると思います!」
 確信に満ちた答えに、ティトレイは笑った。
「それで良いんじゃねえかな。……まぁ、俺もなんだかんだ言って、工場の日雇い人夫がどうも性に合っているみてえだしさ――――。人の役に立つ……それ以上に喜べる仕事なんて、ないぜーきっと」
 そんな言葉に二人は思わず、頬を染めてはにかむ。
「あっ……ありがとう――――自信、つきました……」
「…………」
 傍ら、ティトレイに向けている、安堵の溜息と優しい眼差しに、ヒルダ自身、気づかない。
「あー……え……と。時にギンナル・ユシア両主査、公安府から何か特別な通達でもあったのか」
 水を差すのを躊躇いがちに、ミリッツァが二人に対す。一転、官吏の表情に変わる。
「ミリッツァ准尉、そうでした――――。ワルトゥ長官からの内旨を……」
 ギンナルが目で合図をすると、ユシアがこくりと頷き、話す。
「東都青陵の戀唱・戀叶姉妹は叛徒を率い、政庁襲撃の気配があります。よって、公安府は内々に戀氏の動向を注視、並びに特使を下向させて、戀氏の軽挙を抑えようとのこと」
「バルカの公安府が動くなんて……なるほど、戀姉妹が侮れない存在だって事は本当のようね」
 ヒルダが唸る。そして一瞬、身震いをした。王の盾にいた頃、あの蛮勇を誇ったトーマが不可解な重傷を負った姿を一瞬だけ見たことがある。それが、戀唱の類い希な武術と、戀叶の謀計によるものだと思えばこそだった。
「ワルトゥ長官は、今回の東都特使にヴェイグさんを推挙したようです」
「見込み通りのようね。……でも、いくら特使と言ってもヴェイグたちは政府の職にはない。政府として全権特使が任命されていると思うけど……」
 すると、ティトレイが自信満々に口を開く。
「そりゃ、ミルハウストかユージーンに決まってるだろ」
 すると、呆れたようにため息をつくヒルダ。
「相手の出方も解らないまま、いきなり政府首脳が行けるわけないでしょ。……全く」
「あ――――そりゃそうか……って、やっぱそうなるとユージーンは同行できないって事になんのか」
 するとミリッツァが答える。
「中将軍はおそらく、特使帰還後の正使として東都に下ることになるのではないでしょうか」
「ま、それが普通でしょうね」
 ヒルダがわかったかと言わんばかりにティトレイを見る。少しだけ恥ずかしそうに瞳を逸らすティトレイ。
「それはともかくよ、その全権特使ってのには誰がなるんだ? ユージーンでもミルハウストでもないってなれば……あまり堅ッ苦しい役人風情だけは勘弁してもらいてえよな」
 そう言うと、すかさずヒルダが言葉を挟む。
「何? まさかアンタ、ついて行くつもりなの?」
「あったり前だろ。ヴェイグが行くっつーんなら俺も行くのが当然よー」
「ふーん、そうだったのー」
 何気に馬鹿にしたような感じのするヒルダの相づち。
 二人の微妙なやり取りに少しだけ臆したギンナルとユシアだったが、ミリッツァに促されて話す。
「公安府が全権特使に任命されたのは、中都監令のオスカル・ダジュール殿でございます」

―――――――― ! ――――――――

 ティトレイと“じゃれ”ていたヒルダの動きが、突然凍ったように止まる。
「ん。ヒルダ、どうした?」
「え……あ、ううん。な、何でもないわよ」
 ティトレイが声を掛けると、ヒルダはすぐに元に戻る。凍結したのは、本当に一瞬だった。
「へえ。オスカル・ダジュールかよ」
 ティトレイが朗々とした様子でその名を言う。
「ご存知で?」
 そう聞くギンナルに、ティトレイは当たり前よと指を鳴らす。
「ペトナジャンカのオスカル監令とはもう“クロちゃん、ダッちゃん”と呼び合う仲なんだぜ」
「…………本当ですか、ティトレイさん」
 ミリッツァのある意味素直な眼差しが、出過ぎな言葉を戒める。
「普通に知っているだけでございます」
 中都監令――――言うなれば、ペトナジャンカにおける“警察本部長”だ。
「て、言うか……監令とお知り合いだって、あまり大声で自慢できる事じゃないような気がするんですけど……」
 ユシアの呟きに、黙然とした肯定。
「ワルトゥ長官の人選は的を射ている。他州の監令ならば角も立たない。政府も戀氏も、一応のメンツは守れる。調査には都監職ならばうってつけ。それに、何よりもダジュール監令ならば、紛れもなく適任。……ただ――――」
 ミリッツァの言葉が突然途切れる。怪訝そうにミリッツァに向けられるティトレイたちの眼差し。しかし彼女の瞳は、戸惑い気味にヒルダに向いていた。
「…………」
 素の表情が、無意識に固まっていた。

 ――――困るんだよな――――

 ただ漠然と、だだっ広い聖堂で張り上げた声のように、延々と反響する。それほど、その言葉は衝撃的だった。あの頃のヒルダにとっては、一度でも歩む道を決定づけた、人生の岐路。

 ―――ハーフに好きなられても……――――

 人には、決して忘れることのできない言葉というものがある。激励、中傷、希望、失望……様々な意味で、何気ない日常会話のひと言でも、それが相手にとって生涯忘れることの出来ない言葉となりうる。
 きっと、ヒルダの人生において、岐路となったその言葉。その思い。今にして考えてみれば、当たり前のことだったのかも知れない。
 思い返せば、何故彼のことをあんなにも好きだったのか。笑いたくもないのに、過去の自分を笑いたくもなってくる。

 街の灯りが仄かに空を照らし、喧噪が辛うじて静寂を妨げてくれていた。
 絵柄の線をようやく認識できる程度の明るさの中で、ヒルダは茫然とした様子でタロットカードを捌いていた。半ば虚ろな瞳の色。弛緩した手捌きだった。
「言うまでもねえよな。ヴェイグはキョグエンに行くぜ」
 唐突にそんなことを言い、作業を遮るように、すっとヒルダの目前に差し出されたティトレイの手には、酒精の強い匂いが立ちこめる陶磁のグラス。
「そう――――」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 ヒルダはそれを一気に呷った。
「……聞かないのね」
「俺には小難しいことはよくわかんねえからよ」
 ありのままにそう答える。
「……そう……」
 そんなことを口にした自分への嘲りをこめてため息をつく。
「あんたって、優しいんだか無神経なんだか、本当よくわからないわ」
「マオに言われたよ。“ティトレイはデリカシーが足りない”ってさ」
 ティトレイがそう返すと、ヒルダはくすりと笑う。
「……かん…な……だけよ」
「ん?」
「何でもないわ、独り言よ。…………ところで、ねえ。ひとつ訊いてもいいかしら?」
「俺に答えられることならな」
 ヒルダは苦笑を浮かべながら、首を横に振る。
「大丈夫。込み入った事じゃないわ。その……オスカル・ダジュールって、どういう人なのかしら」
 その問いに一瞬、逡巡したティトレイだったが、答えた。
「そら、オスカル監令はペトナジャンカじゃすげえ評判のいい人だぜ。気さくで人の話をキチンと聞いてくれるし、なんて言っても労使抗争の仲裁も無贔屓にこなす。黒い噂ひとつない、清廉な官吏だってな」

(そうね……清廉な人。お金に無頓着で、遊ぶことが不器用で……、恋愛に興味がない、真面目だけが取り柄のような人。……だから…………)

 ――――困るんだよな――――ハーフに好きになられても――――

 悪気がない分、何よりも辛く、その柔らかい胸に容赦なく突き刺さる言葉だった。
「子供のジャンなんか、すっかり姉貴になついちまってよー」
 その言葉を聞いたヒルダの表情は、あからさまに硬くなっていた。
「子供……そう。子供がいるのね」
「あの戦いの後に、家族を連れて着任してきたんだ。俺たち姉弟とはそう言う事もあって普段よく話をしたりするぜ――――」
「そう。ありがとう……」
 気の抜けたような返事に、ティトレイの声のトーンも落ちる。
「なあ、ヒルダ……」
 しかしヒルダは首を横に振り、もはや隠しようもない作り笑いを浮かべている。
「大丈夫よ。ちょっと、昔の……」
 言いかけて言葉が詰まる。
「あー、どうもいけねー」
 突然、奇矯な声を張り上げるティトレイ。髪をかきむしりながらわざとらしく舌打ちをする。
「酔っちまうと、どうも気が多くなっちまってーだめだぁー」
「…………」
 怪訝な眼差しでティトレイを見るヒルダ。
「あれだ、あれ。そう、酔っぱらいの戯れ言とかって奴。だからさ――――」
 その時突然、ヒルダが堪えきれずに笑い出す。
「?」
 茫然となるティトレイ。笑いの収まったヒルダ。穏やかな微笑みを彼に向けた。
「気を遣ってるの、あからさますぎね――――。女の子の心を掴むためには、もっと上手に話を運んでゆくべきね」
「な、な、なわけあるか! お、お、俺はただ…………」
「でも……あんたの気持ちは嬉しいわ。ありがとう。私は平気よ。もう、昔の話なんだし」
「……オスカル監令だったのかよ」
「あら、そう言えば話したこと、なかったかしら」
「俺はてっきり、お前が今好きな奴の話なんかなーって思ったんだぜ?」
「あら、残念ね」
「だいたいよ、お前相手の男の話なんて、したことなかったじゃねえか」
 しかしその一方で、ヒルダを悲しませた奴の名など、聞きたくもなかった。
「もしかして、ものすごくショック受けてるとか」
「ば、バカいってんじゃねーよ。そんなわけあるかっ!」
 気後れしているのを逆手に取られて、からかわれるティトレイ。
「……でもヒルダ、何で俺に」
 空になった陶磁のグラスをティトレイに返すと、ヒルダは頬に手を当てながらティトレイに振り向く。
「あんた……だからかしらね」
「…………」
 絶句するティトレイ。一瞬だけ、そう言うヒルダの表情が変化したのに、気づかない。
「あんたは何だと思ったの? あの人のこと」
「そ、そりゃあ……お前が……その、そのよ――――あ、あれだよ――――!」
 ひどく動揺するティトレイ。ヒルダは少しの間そんな彼の様子を見つめ、やがて顔を綻ばせた。
「あんたって、本当に面白いわね。――――ふふっ――――ねえ、ティトレイ?」
「な、なんだよ――――」
 不機嫌そうにヒルダを睨むティトレイ。そんな彼を、真っ直ぐ見つめる。その深い瞳には不思議と逆らえない。
「私が昔どうして、オスカルのこと好きになったのか――――聞いてみたくない?」
「……な…………酔ってるぞ、お前」
「そうね……、酔っているわ。酔っているからこそ、言えるのよ。……ううん、言いたいのね、きっと。聞いて。聞いて欲しいわ。誰でもない……ティトレイ、あなたに――――」
「ダーッ、しょーがねーなあ、もう」
「ふふっ、ありがと……」
 どちらからでもなく、互いに背中を向き合わせる。そして、酔余が言葉を紡ぐ。普段では決して触れられない、とても繊細なる心の襞。美しくも数奇な運命を辿った女――――。その女が塗れた、泥の過去の言葉。聞く。しっかりと、その言葉ひとつひとつを聞く。聞いて頷き、時に首を振る。語るたびに唇から漏れる息。重苦しさだけの色はない。心の奥に鬱積していた、硝子の破片。それを今、長く閉めていた『言葉』という扉を開放し、全て掃き出すために。今は新しく傷つこうとも、それはいつか癒えると思って。

東都・青陵

 背後の山を覆う竹林から聞こえてくる虫の音、戦ぐ葉。玉華湖に映す月。そこは限りなく閑静であり、俊英が世を遁れて余生を過ごすには全くお誂え向きなのだ。
 庭園の外れにある四阿に、戀唱はいた。湖面の月を、ただ見つめている。
「今日も大勢――――柴がすっかりと路を模っていました」
 トレイを手にした戀叶がそう言う。四阿の小さな円卓にトレイを置き、杯にポットを傾ける。湯気とともに、僅かにつんと来る酒精の匂い。
「神農祭です。たまには、よろしいでしょう」
「たまには……な」
 戀唱がそれを手に取り、ゆっくりと呷る。温められる熱さとはまた違う、染みこむような熱さに、思わず表情が綻んだ。
「旨い」
 ふうと、胃の奥から熱い息を吐く。
「少しだけ、濃いめにしてみたのです。姉上はきっと苦手でしょうけれど」
「そんなことはない。本当は酒精に縋り、一時の逃れとなりたい気分だった。シャンホはよく気がつくな」
「……姉上は最後の迷いの中にあると思えば、きっと……」
「父上は、やはり……」
「大都へ釈明を。共和国政府に……」
 戀唱は小さくため息をついた。
「私は決して騒乱を望んでいるわけではないのに……」
「しかし、ヒューマもガジュマも問わず、人々の多くは……」
「わかっている――――わかっているのだ。だからセルカークは性急すぎた。シャンホも、辛いだろう」
 戀唱の振りに驚く戀叶。
「私は……王家――――戀家のために善い道を探るだけのことです」
「どの道を進んでも、避けられぬ岨路」
 まるで泣き出しそうな程に、清冽な声が震えている。
「向侯総督の要請を受ければ、共和国政府はここに特使を派遣します。おそらくは……」
「負の思念を祓った、救世の英雄」
 戀叶は黙って頷く。
「事の次第によっては、戀家を討つというのか。面白い。この戀詩瑠、救世の雄と相見えても、信念は曲げぬ」
「ヴェイグという青年の名は知っています。姉上、代表特使が誰であれ、もしもヴェイグらが特使としてあるならば案ずることはないかと思います」
「そうだな……。そう、ありたいものだ」

 時は実に意地悪なものだ。東大陸(イースタリア)の幽邃なる地に雌伏する俊傑。しかし、ラドラスの落日に端緒する世界存亡の危難にあって世に出られず、カレギアが王国から共和国へとその体制を変えてゆく中で、駆り出されてゆく。時は。そして世界は彼女たちを必要としているのか。
 戀唱はこんな穏やかな夜の風景に、一抹の寂しさのようなものを感じていた。