曙光がバルカの街をほんのりと浮かび上がらせようとする頃、ヒルダは目覚めたばかりとは思えないほどに蹶然と起きあがる。
それでも、誰にも気づかれないように隠密行動をしたつもりだったが、軽く麺麭を頬張るためにキッチンにある貯蔵庫が視界に入った瞬間、思わず身構えてしまった。
「アンタ……何やってんの」
そこではティトレイが正々堂々と腰に手を添えながらきんと冷えた牛乳を飲んでいる。
「おはよう姐さん。ナニって、そりゃ見たように、朝イチのミルクをば……うーん、星三つってところか――――」
「そっか……昨夜はあのまま――――んー……ともかく、朝っぱらから庫を勝手に荒らされて、星三つも四つもないわね。全く、泥棒みたい。そうね、ドロボウ星五つだわ、アンタ」
昨夜とはうってかわって頗る機嫌が斜めなヒルダに、ティトレイは首を傾げる。
「そういうお前さんこそ朝からそんなに気色ばんでどうしたんだ。せっかくの清々しい朝に似合わねえぜ」
凄味にも動じないティトレイに、ほんの僅か後込みするヒルダ。
「あ……アンタには関係ないじゃない、そんなこと」
ティトレイは空になった牛乳瓶を徐に水桶に突っ込むと、真っ直ぐにヒルダの瞳を見据えながら、真面目な口調で言った。
「お前さんの意図はとうに判っているさ。そう分かり易く顔色変えられればな……全く、二刻前からここでだらけてて正解だったよ」
愕然となるヒルダ。
「ふ……二刻前ってアンタ――――!」
酔余の会話も尽きてヒルダが睡魔に屈せんとする頃合だった。酔いつぶれて寝てなお、この青年は起きていたというのか。
「夜討ち朝駆けでダッっちゃ……いや、オスカル監令に会って……どうするつもりだ」
「どうするなんて、そんなの決まってるでしょ。私もキョグエンに下るってことを伝えるのよ」
短絡的な答えに、ティトレイは半ば失笑する。
「戀一族の手強さを知っているお前さんが、まともに戦うとでも言うのかい?」
「た……戦うわ。それが、この国のためならば当然でしょう?」
「物騒なこと言うなよ。戦うなんて誰が決めたんだ」
「っな……! アンタ、人のこと馬鹿にしてるわけ?」
言葉を突っ張らせるヒルダに、ティトレイは全てを見透かしているかのように長嘆して言った。
「戦う戦わないじゃねえ。ぶっちゃけた話、四星やミルハウストを凌ぐ――――なんて噂される相手とよ。ヴェイグならまだしも、お前さんや俺が個々に立ち向かったところでなんて事はねえだろうぜ。問題をすり変えんなよ、ヒルダ」
「…………」
絶句するヒルダ。
「まあ、朝一に登庁した途端にオスカル監令殿に平手打ちのひとつでもお見舞いするだけならば、俺もこうしてねえけどよ。どうも焦臭えんだな」
「何……、どういうこと?」
怪訝な視線をティトレイに向ける。
「キョグエンの内紛ってだけならばよ、ミルハウストが直接出向いて、向侯と戀一族のどっちかを宥めてりゃ済む。……だが、実際は特使だ監令だ、ヴェイグ行け公使を呼べとか、水面下でかなりな大騒ぎになってるだろ?」
「だから、それは――――」
「戀唱姉妹が評判通りの傑物だったら、それで済むだろ?」
反論しようとするヒルダに言葉を割り込ませるティトレイ。ヒルダは二の句を継げなかった。
「バルカの政庁が何かを知っているか、ミルハウストの政治の一端なのか……」
うーむと唸るティトレイ。
「ふーん。アンタにしては頭が回るわね」
「るせー」
ヒルダの揶揄にフンと鼻を鳴らすティトレイだったが、ヒルダの表情はすぐに素に戻る。
「確かに一理あると思うけど、私はそんなに深刻な事態じゃないと思うわね」
その言葉にティトレイは一瞬、目を瞠り、瞬かせた。
「お、言い切るじゃねえか。……でもな姐さん、深刻だろうと、そうじゃねえにしろ、俺たち一人、一人からみれば、ちょっとキツイことがありそうな気がするんだよ」
「…………」
無言のまま、僅かに瞼を伏せるヒルダ。
「どんな経緯があったかは知らねえけどさ、ダッちゃんが特使になったのだって……」
言いかけたティトレイの言葉を、ヒルダは遮った。
「いいわ。丁度良いと思うし。これもきっと、何かの縁ね」
まるで自分に改めて言い聞かせるかのように、ヒルダは僅かに鼻息を荒くした。
「何の縁なんだ、二人とも」
不意に重い声が響く。驚いて声のする方に振り返ると、眠気を覚ましたとばかりのヴェイグ・リュングベルが隣で苦笑気味に微笑むクレアと共に二人の様子を見ていた。
「――――って、起きてたんかい!」
ビシッと裏拳を打つティトレイ。
「お前の大きな声では、惰眠も貪れん」
呆れたように切り返すヴェイグ。
「おはようございます。ティトレイさん、保冷庫荒らしはちょっと……」
「いや―――クレアさんまで人聞きの悪いこと言わないでよ」
「クレアとヒルダは留まるべきだ」
「右に同意ッ」
ヴェイグの言葉に、ティトレイが高々と右腕を突き上げる。
「ちょっと待ってヴェイグッ」
「それ、どういうこと? 説明しなさいよ」
朝食のフォークを思わず弾きそうな勢いで、クレアがテーブルを叩く。ヒルダは飲み干したコーヒーカップをそっと置くと、そのまま合わせた手の甲に顎を乗せ、二人を睨視する。
「ティトレイの主張の通りだ。もしも事態の根が深ければ大事になりかねん。お前たちを危ない目に遭わすわけにはいかないだろう」
「答えになってないわね、ヴェイグ。クレアはともかくとして、私まで除外しようとするなんていい度胸ね」
ヒルダの突き刺すような視線に一瞬、気後れするヴェイグ。
「そんな……私はともかくだなんて、ひどいわヒルダさん」
不満とばかりに、クレアが言う。
「まあ、論戦ならば引けは取らないか。悪いわね、クレア、やっとうの話だった」
「やっ……とう?」
きょとんとするクレア。早速、ティトレイが反応した。
「お、いい言葉だねー。ヒルダもやっと良さが判ってきたようで俺は嬉しいぜ」
「ちっ、失敗したわ」
二人の微妙なやり取りに困惑するクレア。
「いずれにしろ、二人とも留まるんだ」
ヴェイグの強い口調。しかし、ヒルダは返す。
「それを決めるのは大将軍でしょう」
「ミルハウストには俺から話す。――――ともかく、お前たちの出る幕じゃない」
鸚鵡返しにヒルダ。
「だから、大将軍でしょう」
根拠のない威圧は、彼女たちに対しては全くの無効果だった。結局、絶句したのは当のヴェイグだった。
屋根の上に腰を下ろしながら、政庁に向かうヴェイグたちを見下ろしている紅髪の少年・マオ。瞳を瞬かせながら、少女に紛うばかりの唇を開く。
「ティトレイ、なかなか鋭いよネ」
すると、マオの背中あたりの気が揺らいだ。
(全く、ちょっと見ないうちにヴェイグったらずいぶん情けなくなったみたい)
その言葉に、マオがくすくすと笑う。
「何言ってるのシャオルーン。ヴェイグはずっとあのままでしょ」
(あれ……そうだった? そうか)
「てゆうか、確かにヴェイグ、ますますクレアに頭が上がらなくなってきてるって感じがするネ。大丈夫かなあ?」
(いつも冷や汗、かかされてばかりだった?)
「そうだヨ。シャオルーンも姿見せてよ。ボク一人じゃ大変だって」
(うー……ゴメンよ、それはまだムリ。ちゃんと時機が来たら出るから、それまでお願いだよ、マオ――――)
やんちゃな甘え声で、声の主・シャオルーンが言った。
マオはひとつ大きくため息をつくとすくと立ち上がって、脚をバネにして空に跳んだ。滑らかな曲線を描きながら、トンと乾いた音を立ててマオはヴェイグたちが去った道に降り立つ。
「ボクはどうするの、シャオルーン」
(モチロン、行くのさ)
その言葉に、一際長いため息をつくマオ。
「やっぱりね。そうこなくっちゃ」
半ば諦めかけたかのような口調だったが、表情はいつもの嬉々としたマオそのものだった。
久しぶりのカレギア城はあの戦いの最中に訪れた時とは雲泥の差とも言えるほどに活気溢れ、明るかった。多忙に駆けめぐる官吏たちもかつては棘が立つかのように緊迫の最中にあったが、今は笑顔で自らの仕事に打ち込んでいるというのが伝わる。
「この城も、変わったな」
ヴェイグが呟くと、ヒルダが言う。
「そうね。あなたがそう思うのなら、変わっていっているのね。確かに、ゆっくりとでも」
「あの頃なんか、ちょっとでも変な物音立てたりしたら、即地下牢! ってな雰囲気だったしな」
ティトレイが笑う。
「アンタの場合、それが放屁っぽくて嫌ね」
すかさずヒルダのつっこみ。ヴェイグの傍らのクレアが何故か赤面する。
「ティトレイさん、そうだったの?」
半ば下がり目でヒルダの美しいソヴァージュを睨むティトレイ。
「彼女が本気にするからそう言う冗談はやめてください、姐さん」
「うふふふ」
楽しそうに、ヒルダが笑っていた。
カレギア王国を建国した英雄・大祖崇高帝ゴルドバ王から始まり、『四世の英君』と謳われている、第二代讚美帝ジェヴァン王、第三代恩恵帝サクソン王、第四代鴻化帝ティーガ王、王国初の女王である第五代慈慶女王ミマーナ。
第一〇代文智帝ドラガン王、第十九代淳慎女王チェスク、第三二代聖粛帝ヤージ王。そして哀賢帝ラドラス王、麗愍女王アガーテなど、錚々たるカレギア歴代国王の常在所だった空間は、厳粛たる議政堂として国家の行く末を論じる場所になっていた。
壁にはカレギア王国を導いた、それぞれ名君の肖像画が掛けられている。
「帝室への思いは誰もが懐き続けています。きっと、この思いは子々孫々と……」
ミリッツァの言葉は正しく人々の心の真理そのままのようだった。だからこそ、カレギア王国歴代の名君が見守る空間での厳かな議政。この空間だけは、惜しむらくもなく最高の装飾に彩られ、王家の威厳を伝えている。
クレアは種族を問わず、その聡明さと明朗な性格で人心収攬に努めたとされる、慈慶女王ミマーナや、女性の社会的地位平等に力を尽くした淳慎女王チェスクの肖像に目を奪われ、ティトレイは名だたる王の威厳に身を重ねて熱い息をつく。そして、権勢に無頓着な、さしものヴェイグもその空間に圧巻され、萎縮する。
「やはり、忠臣だな……ミルハウスト」
ヴェイグは思った。王国時代の崇高たる空間を、国政の中枢機関に置いた大将軍ミルハウストの心を。
間を置かず、静かな議政堂に跫音が響いた。
ヴェイグたちが振り向いた竜刻の大きな扉がゆっくりと開く。
精悍たる風貌に、今は議政礼装とされている、足許までひとつに繋がった、袖裾の長い朝廷服に戦袍を羽織い、長剣フォルティソードを佩いた大将軍・ミルハウスト=セルカークが、長い黄金の髪を翻しながら現れた。
その姿にヴェイグたちは、あの戦いの中で感じた白銀の鎧に身を包みし威厳将軍という心象が外れ、いち指導者としての道を目指している彼自身を感じ取っていた。
「ミルハウスト……」
「ヴェイグか」
二人は小さくそう呟き合い、眼差しを交わす。
再会の喜びは要らない。眼差しだけで全てを語る。剣を交わした同士だけが得る感覚かも知れない。
ミルハウストに続き、中将軍ユージーンが仲間を見廻し微笑みを送る。
保健省技官アニー=バースは、おそらくヴェイグに視線を送り、僅かながらにはにかみ、公安府長官ワルトゥは、毅然とした表情を崩さず凛然と歩を進めた。
そして、同じ議政礼装に身を包んだ、飄然とした感じの男が姿を現すと、ヒルダの反応がぴくりとなった。
「…………」
一瞥してすぐに斜め下に視線を落とすも、気になるかのように再び眼差しを上げる。瞳に埃が入った時のような瞬きの如く、それをくり返してしまう。
男はヒルダの存在に気付いたのか、一度は彼女が気になるかのように眼差しを向けたが、何事もなかったかのように、視線を逸らした。
「神聖たるカレギアの議政堂に君たちを招いたこと、嬉しく思う」
「再会の喜びは後としよう。ミルハウスト=セルカーク大将軍。共和国最高の権威に俺……いや、我々を導いた経緯と主旨は理解しているつもりです」
ヴェイグの声が、凛として議政堂に響く。
「東都の雲行きと、君たちを謝肉祭に招いたことの因果はないことを初めに言っておく」
ミルハウストがそう言うと、ヴェイグは失笑気味に返した。
「そんなことくらい判っている。見くびるなよ、ミルハウスト」
「そうだったか。どうやら、失言だったようだ」
「この国を仕切る大将軍が目指す理想郷……。それがどのようなものか、知らしめる前に阻むというのならば、それを破るのは当然」
しかし、ミルハウストは憂色濃く言う。
「ユリスの思念に呑み込まれなかった、王家以上のガジュマの英傑だ。戀一族を甘く見てはならない」
「それは、お前とて同じだったろう」
「もはや話すまでもないだろうが、戀唱…レン・シーリウ、戀叶…レン・シャンホの噂は聞いている通りだ。かつての四星やジルバ、ユリスも、彼女らに敵う保証がない。清廉高潔な名士ゆえ、敵に廻すのは危ぶむ」
「戦いなどは考えていない。俺はただ、お前や俺たちが目指す未来を阻もうとするならば、それを破ると言うことだけだ」
ミルハウストの視線が一瞬鋭くなる。
「戀唱が正であってもか」
「正義ならば、明日にでもスールズに直帰する」
ヴェイグの言葉に、大将軍は小さく笑う。
「ヴェイグ、いかにも君らしいな。覚悟を問うに、言葉は不要だったか。ティトレイ・クロウ君、君の覚悟も彼と同じと見て良いか」
ティトレイは少し不満そうに眉を顰めると、ミルハウストにきっと視線を突き刺す。
「見て良いかだなんて、ずいぶん失礼というもんだぜ?」
「なるほど――――――――」
ミルハウストは満足げに頷くと、徐に飄然とした様子の礼装服の男に目配せをする。男はゆっくりと歩を進めて、ヴェイグたちの前に立つ。
「オスカル・ダジュール中都監令だ。政府特使として、同行することになっている」
ミルハウストが紹介すると、オスカルはすっとした身のこなしで跪き、ヴェイグたちに拝礼した。
「オスカル=ダジュールです。お会いすることが出来、感激です」
真面目という言葉の持つ雰囲気というものは、きっとこういう男のためにあるのだろうかと思うほどに、オスカルは礼儀正しい挨拶をした。
「ヴェイグ・リュングベル……です」
思わず、ヴェイグも腰が低くなる。
一通り、自己紹介を終えた後、ヒルダと視線が合った。
ヒルダはふうと嘆息まじりに冷たい色の瞳をオスカルに向ける。そして、こう言った。
「久しぶりね、オスカル一等中尉。まさか生きていたなんて、思わなかったわ」
「ありがとう。君にそう言ってもらえるなんて、思わなかったよ」
笑顔で、オスカルは返した。