第6章 諦められない想い ~Younger him who is continuing adoring~


「ロイドッッ!」
 しいなの怒号が街路に反響し、空に吸い込まれてゆく。行き交うカップル達は、何かしら後ろめたい事情でもあるのだろうか、殊に驚愕したように身を震え上がらせる。
「……え……っ、あっ…………」
 意識がまだ定かではなかったロイドが、しいなの雷鳴に一瞬だけ焦点が定まる。
「あっ――――しい……な…………」
 ロイドに腕を絡めていたオリビアが、苦虫を噛み潰したような表情で、怒号の主をばつが悪そうに一瞥する。
「あんた……、オリビアじゃないか」
 つかつかと大股歩きでロイド目掛けて歩み寄ってきたしいなが、意外な様子で、オリビアを気にとめる。
「何やってんの、アンタは……」
「……えーっと…………。ハーイこ、こんばんはぁ、しいな。おひさー」
 ぱっとロイドから身を離し、胸元に広げた手のひらを揺らしながら、無理矢理愛想笑いを浮かべるオリビア。
「『おひさー』……じゃないよ。オリビア、アンタこんなところで、ロイドと……」
 学友・オリビア=ユーティス。ゼロスともども旧知の仲となれば、さすがにごまかしもきかない。
(まずった……ちぃ……)
「何か言ったかいっ?」
 ミズホの民に対して、些細な呟きすらも命取りとなる。
「な……なんでもないわ。……それよりもしいな、あなたがナゼここに?」
 旧友の再会という、和やかな雰囲気など微塵もないまま、オリビアとしいなの間には険悪な空気すら漂う。
「アンタが今腕を絡めてる“そいつ”と一緒にいる娘から、そいつがなかなか戻ってこないから捜してくれるように頼まれてね。あたしがこうして来ているわけさ」
「はぁ――――――――」
 突然、オリビアがため息をつく。
「?」
 オリビアは意味深に視線を泳がせると、恨めしげにしいなに向き直った。
「彼、ゼロスといたんだけど、状況はあなたの察しの通りね。“ついで”だから、これから送っていこうと思っていたの――――」
 心なしか戸惑い気味のオリビアに、しいなは苦笑まじりに言う。
「そうかい。それはご苦労様だね。っと、それじゃ、もういいよ。ロイドの身柄は引き受けるからさ」
「…………」
 するとオリビア、いかにもばつが悪そうな面持ちで視線を泳がしつづける。
「どうしたんだい? ありがとう。このとーり」
 押しとばかりに頭をも下げるしいな。さすがにここまでされるとぐうの音も出ない。
「……わ、わかったわよ。……と。それじゃ、お願いね――――ロイド様、さようなら。また、お会いしたいですわ」
 (ようや)く意識浮遊のロイドから名残惜しげに離れると、オリビアはなおもためらいがちな素振りを見せながら去っていった。
「う~~んゃ……」
 苦労をよそに半ば夢見心地のロイドに対して、しいなの嘆息は長い。
「全く……この男は――――」
 ロイドの肩を支えながら、しいなはその横顔を覗くように見つめた。
「…………」
 その瞬間、しいなは自分の胸がすうっと熱くなるのを覚えた。
「ほら、シャンとしなっ!」
 ひとつ、そう声を荒げる。しかし、今の状況では、雷鳴すらもロイドの耳には遙かに遠いものに等しい。
 そして、ロイドの身体に不可抗力ながらも密着するしいなの心は一方的に熱くなって行く。
(そう言えば……まともにロイドと手を握ったこともなかったね――――)
 あの戦いの日々がよみがえる。頼もしかったロイドの姿。近くにいても、いつも遠くで見つめるだけのもどかしさの中に、しいなはいた。
「く――――――――……」
 しいなの想いをよそに、ロイドは鈍感もかくやとばかりに、なお微睡みの中を彷徨っている。
「ほらっ、ロイド。しっかりしないと、コレットが……」
 言いかけて、しいなは突然言葉を止めた。
「……コレットが、心配してるよ――――」
 それは、無理矢理に目覚めさせるための、荒い語気ではなくなっていた。
「コレット……うーん……あはは……」
 まるで寝言のようだ。おぼつかない体勢で、体重のほとんどをしいなに預けている。
「こ、こら……」
 メルトキオの宿泊街。周囲は人目を忍ぶカップルばかり。
 『純朴』で『奥手』との公式お墨付きを得ているしいなにとって、この場所、このシチュエーションは十分すぎるほどに彼女の裡に秘めている想いを刺激するのに十分だった。
「困ったな――――」
 陽光の下であれば、しいなの顔の赤らみを遠目でもしかと知ることが出来ただろう
 相も変わらず覚束無いロイド。
 時々コレットやジーニアスらの名前を呟く様子を見ているうちに、しいなの心の中には嫉妬に近い感情が芽生え始めてきた。
「……このままじゃ迷惑が掛かるか。仕方ないね――――」
 しいなは自己納得するかのように頷くと、ロイドを支える体勢を正すと、宿の一角の暖簾(のれん)をくぐった。
「いらっしゃい。ご宿泊かいな――――」
 カウンターの老婆が慣れた様子で対応する。
「あ、え、え、えっと……ちが、違うんだ。あー……えっと……」
 動揺しまくりのしいな。怪訝な眼差しで二人を見回す老婆。
「……あー、はいはい。そう言う事ね。わかってますよ」
 そう言ってカウンターの下をごそごそとあさる老婆、やがてひとつ、鍵を差し出す。
「そこ一番奥の角右の突き当たり。大丈夫、意外と死角になっているから外からは見えんて。良かったね、幸い空いてるから」
「……は、はぁ…………」
 言っている意味がわからないまま、しいなは頷き、鍵を受け取る。
「……ほら、ロイド。はやく酔い醒まして帰るんだよっ」
「あ、んん…………」
 息づかいだけで返事をするロイド。しいなは中途半端に動揺を感じながら、指定された部屋へと向かう。
「久しぶりに来たねぇ…………」
 老婆はにやりと笑いながら二人の背中を見ていた。

 今はカップル御用達の宿泊街とは言っても、個々の宿屋が備える部屋に特別な誂えはない、ごく一般的な造りである。一般の旅人も利用することも考えれば、何かに期待するというのは御門違いというものだった。
 今まで泊まってきた世界中の宿屋とあまり変わらないレイアウトに、しいなはどこかほっとした。
「~~~~っ!」
 ベットにロイドの身体を放る。ベッド特有の柔らかい音が部屋に響き、ロイドの火照った寝顔が、灯りに映えた。
「……全く、無邪気なもんだよ」
 言葉尽きないとばかりに、しいなは聞いてもいないロイドに向かって文句をたらたらと続けた。
「あはは……しいなはすげぇなあ――――」
「……え?」
 ロイドの寝言に、しいなはドキッとなった。
「しいなが……いなかったら…………考えられないよ…………」
 どんな夢を見ているというのだろうか。ロイドに名前を呼ばれたしいなはいつしか無意識に、真っ直ぐロイドの寝顔を見つめていた。
 二つの世界の窮地を救った、有言実行の英雄らしからぬ、出逢った頃のままの直向きな容貌、変わらぬ性格。しいなが惹かれていった、ありのままの年下の少年。
 寝言でもしいなを褒めるロイドに、しいなの胸は否応にも熱くなり、思わず照れ笑いを浮かべてしまう。
 そして、いつしかその脳裏からは使命感が徐々に霞み、ロイドを見つめる鳶色の瞳は、熱く潤んでいた。

「……あたしだって……ロイドがいなかったらなんて…………考えられないんだよ……」

 ロイドは気持ちよさそうに眠りに落ちている。しいなが心の中でずっと抱き続けていた、ロイドへの淡い想い。それは、ほんの小さな火の粉のような想いだった。
『一粒の火の粉も、やがて樹海を焼き付くさん熾烈の焔となる――――。人の情(こころ)も爾(しか)り――――』
 幼い頃、祖父でミズホ総領・毬栗老(いがぐりろう)こと藤林保豊(ふじばやしやすとよ)から教えられた言葉の意味が、わかったような気がした。
「…………」
 しいなの胸の鼓動が音を立てて速くなる。(よこしま)な情と、しいな本来の良心が突然、剣戈(けんか)を交える音。
「そのままだと……寝苦しくなるよ――――」
 正当な理由だった。しいなはゆっくりと手を伸ばし、ロイドの服に手を掛ける。小刻みに震える手。緊張のあまりに瞬きすら忘れて凝視してしまう。
 生地のしっかりとした旅人用の外套(コート)は機能性に優れている。脱ぐのは見た目とは裏腹に案外容易なのだ。
 この間まで介護のために昏睡状態だった毬栗老以外の男性の服を脱がすなど、考えも及ばなかったしいな。そんな無器用な彼女ですら、容易に剥がせる構造。見慣れた朱色の外套の下には、白いシャツ越しに、ロイドの逞しい上半身があった。
「…………」
 しいなは思わず瞳を細めた。決して筋肉質というわけではない。身体を鍛えている少年らしい体つきだった。
 それが、眩しく映った。時々、寝返りを打つかのように身を捩るロイド。しいなが知る、強いロイドの優しい微笑み。
「ロイド…………あたしは…………」
 その時、すうっ……と、部屋の灯りがフェードアウトする。まるで仕組まれたかのように、燃料の鯨の脂が切れたのだ。
 濃紺の空間に、窓から差し込む街灯りが、仄かに部屋を照らす。それがしいなに暗幕のローブを纏わす。
 それほど厚くはない壁越しに、隣室の嬌声(きょうせい)が微かに聞こえてくる。それがしいなの純粋無垢な感情を本能的に昂ぶらせる。
「…………」
 油の切れたカラクリ人形の様に、身体を動かすたびに、節々が熱を持つように軋むようだ。暗闇に眩暈(めまい)し、顔が火照る。そして、軋む両手が貫筒衣を結ぶ大きな腰の紐帯(リボン)を解くと、流れるように、それは床に落ちた。
「はぁ――――――――」
 吐く息も熱を帯び、体感気温を高める。
 理性がしいなを押し止めようとするように、躊躇いがちに肩をすぼめる。だが、それは情事の力学には意味を成さなかった。
 しいなのなめらかな肩から貫筒衣が滑り落ち、晒布(さらし)と呼ばれる木綿布に覆われただけの豊満な胸が露わになった。
「くぅ――――――――すぅ――――――――」
 元『暗殺者』でもあるしいなに、今こそ“”寝首を掻かれそう”なのに、ロイドは深い眠りの中にあった。呑気なのか、或いはただの油断なのか。
「あんたに……また、逢ってしまうなんて…………あたしは…………」
 上半身がほとんど露わになったしいなは身体をゆっくりとロイドの方に傾け、斜めから覆い被さるような体勢になる。晒布越しでも胸が揺れ、ロイドの腕を軽く圧迫する。
「…………」
 しいなはしばらく、ロイドの寝顔を見つめた。手を差し出すが、触れられない。触れてはいけない思いが、しいなの最低限の自制だった。
(忘れようとは思ってなかったけど……あたし……意地っ張りだからさ――――)
 夜の街の遠い喧噪、隣室の嬌声。夜の都会独特の不協和音が実に不思議な雰囲気を醸し出し、奥手の美人を化す。
 ロイドは夢も見ぬほどに深い眠りに落ち、安息を立てている。不器用な想いで彼を見つめ続けていた、元暗殺者の美女。幼なじみの守保(くちなわ)や、保高(おろち)の前ですら見せたことのない、白く艶冶(えんや)な肩から背中のラインをさらしている自分を躊躇いながらも、どこかでその逆を感じているところがあった。
「あたしだって…………負けないよ……」
 そして、緩やかに巻かれていた木綿布の白帯が、するりとロイドの胸の上に滑り落ちていった。

「……!?」
 突然声を上げたコレットに、リフィルとジーニアスが驚いて目を見開く。
「び、びっくりしたぁ……」
 魔物の襲来にも驚くことのなくなったジーニアス少年の、久しぶりの驚駭(きょうがい)
「どうしたの、コレット」
 さすがにこれは驚いたとばかりに、リフィルは胸をひとつ、撫で下ろす。
「あ……、ご、ごめんね……。うん、何でもない…………」
「何でもないって…………あはは……」
 ジーニアスが苦笑を浮かべて首を横に振る。
「コレット? ……ロイドのことなら、大丈夫」
 あまりにもあからさまな物思いの主役を見破り、リフィルはそう言った。
「はい……でも先生、やっぱり……ちょっと心配で――――」
「ゼロスなら大丈夫よ。それに、しいなも追っつけロイドたちのところへいるんだから」
「姉さん……、しいなはともかく、ゼロスだから、コレットは心配しているんじゃ……」
 自信満々に勇気づける姉に水を差す姉思いの賢弟。当然、姉の平手が脳天に降りかかるのは否めない。
「バカねジーニアス。いくら繁華街でも、“あのゼロス”だから、大丈夫なんじゃない。それに、ロイドは――――」
 言いながら不安に俯くコレットを一瞥する。
「……あ、そうだもんね」
 ジーニアスも自己完結をして納得した。
 時間計に目配せすると、すでに日付が変わるまでに近くなっていた。リフィルは慌てて弟に就寝するように催促し、自らも熟読していた教書を閉じた。
「コレット。気持ちはわかるけど、もう寝なさい」
「…………はい。そうします…………」
 眠気があるのに、寝られそうもないもどかしさ。リフィルには、その気持ちがよくわかる。
「ふふ、良いわね。想い合えるなんて、最高だわ――――」
 リフィルの笑顔に送られて、コレットは部屋へ戻り、寝台に身を横たえた。窓の外、まるで光の原のように眼下に鏤む街灯りがほんのりと差す。
 漠然とした不安が、初冬の粉雪のようにこの強き少女の心を舞い始める。眠れぬまま見つめる天井に映るのは、ずっと自分を守り、想いつづけてくれた、少年のことばかりであった。