第10章 遥かなる宇宙の下 ~Distance is in the heart~


    誰か教えて
    私の進むべき道を
    私が刻んだはずの足蹟を
    何のために生まれたの…
    失くした月日は闇い洞
    藻がきつづける心がいる

    答えを聞かせて
    これからどこに進めばいいの?
    よどみのない河のように
    いつか私の心も
    きれいな色にかわるのかな……

 とても不思議な感覚だった。
 まるで、峭峻(しょうしゅん)なる極寒の山岳をさまよい歩いた末にたどり着いた、熱い出湯に浸かった時のように、身体の中に怒濤のごとき温かさが迸ってゆく。
 不規則で細微なほどの身体の震え、とくんとくんという鼓動が伝わり、それが二人の不慣れな若さを表すようでもあった。
 霊か怪に取り憑かれたかのように固まるジーニアス。贔屓目(ひいきめ)に見ても、少女を優しく抱きしめて、ゼロスさながらの甘い言葉のひとつも囁く風ではない。
 そんな雰囲気の欠片のひとつもないジーニアスに抱きしめられたプレセアは、驚きと同時に、心の昂揚がゆっくりと落ちついてゆくのを実感していた。
 不器用でぎこちないジーニアスの腕から伝わる想いが、ただ心地よい気がした。そこはかとなく、親近感があった。
 やがて、空を彷徨っていたプレセアの腕がジーニアスの背中に着陸しかけた瞬間だった。
「っ――――――――!!」
 突然、ジーニアスが大声を上げて飛び退けた。
「あ――――――――っ」
 身を弾かれ、思わずプレセアも後退る。
「ププププ…プレプレ…プレレレ…」
 例によって、極度の吃音(きつおん)がジーニアスに襲い(かか)る。
 要約すると突然抱きついてしまったこと、我を忘れていたこととする彼なりの『言い訳』らしかった。プレセアをまともに直視せず、休む間もなく喋り倒す。
「私は、平気です……。ジーニアスこそ、大丈夫ですか」
 心配してくれた。プレセアの声が、ジーニアスの勝手な暴走を止めてくれる。
「プレセア、あの…………」
 興奮に目の前が眩んでいたジーニアス、夕闇に慣れた眼差しをプレセアに向けた瞬間、彼は今度、声を呑み込んでしまった。
「…………」
 今までと違う彼女の姿に気づき、ジーニアスは瞬く間に顔が真っ赤になってしまった。
 プレセアが声を掛けようとした瞬間、ジーニアスの首がくるりと斜め上を向く。
「あは、あははは。プレセア、どーしたの?」
 ジーニアスの言葉に、一瞬きょとんとするプレセア。
「どう……あ、この服のことですか?」
「う、うん。その……えーと……」
「はい……私がお世話になっているマッシュさんとジェイミーさんから――――」
「……へ、へぇ。そうなんだ。あははは、びっくりしたよ」
「…………」
 苦笑するジーニアス。首を傾げながら、じっとその様子を見ているプレセア。
「……ジーニアス。ロイドさん達が待ってます。リフィルさん、かんかんです」
 その言葉に焦るジーニアス。そして、プレセアの瞳はいつもの色に戻っていた。

 ミズホの里に帰還していた藤林太賀の元にもたらされた(おろち)から報告に、沈着な太賀は絶句した。
「これは……真ならば由々しきことでは済まされぬ。直ちに人を遣わし、事に対処せよ。重ねて海州(アルタミラ)へ向かい、レザレノ社に注進するのだ。ゼロス殿が在しておられるならば尚良し」
 太賀側近の服部寛藏保峻(はっとりかんぞうやすとし)が不安な面持ちで呟く。
「毬栗老は案じておられる。何よりも我らミズホの民が、果たして近未来この新世界に溶け込んで行けるか否か」
 すると太賀は、一つ長い息をつくと寛藏を見て言った。
「クルシスの脅威が収まったとはいえ、このまま安寧無事に未来があるとは思えぬ事は確かだ。しいなにも、今後相応の覚悟をしてもらわなければならぬ。……そして、私もいずれ起たねばならぬのう」
 やがて、ミズホの隠密たちは一斉に散開していった。
「それにしても、世と言うものは、なかなか平穏とはならぬものだ――――」

 ――――その日の夜、アルタミラヒルのレストランで催された、再会を祝した晩餐会は実に簡素なものであった。
 それはもともと派手を嫌うリーガルの意向もあったが、何よりもロイドたちの人柄、戦いの日々が時に食事すら絶つ日もあったことを考えれば言うまでもない。
『料理にはこだわるが、贅沢を望まない』それが、ロイドたち仲間たちが掴んだ、共通の信条の一つであった。
 プレセアの服装には、誰もが目を瞠り、感嘆した。そして、最初に彼女がそこまで女の子としての魅力があると絶賛したのは、奇しくもロイド・アーヴィングであった。
 無論、ロイドが心底からプレセアを意識して言ったのかどうかは定かではないのだが、プレセアは終始、褒めちぎられて赤面冷めやらぬ様子であった。
 アルタミラヒルのレストランはやはり格別だとされるように、リーガルの料理は飽きさせず、あっという間に食器は空になってゆく。
 食べている時間が特に至福を感じると言うのはどこの世界でも同じのようで、女の子ならば特に食事に気を遣いそうなものなのだが、この面々の女性達は、そのようなことなどお構いもしないようである。
「やっぱ、リーガルの飯ありつかないとな」
 満足そうに、ロイドはお腹をさする。
「ジーニアスの料理も最高だけど、やっぱリーガルの味知ったからには、週に一度は食べないと――――」
「ロイド、そんなにおだてても何も返す物はない」
 リーガルは淡々と語るが、表情は喜びがこぼれ落ちそうだった。
「んー……何て言うのかな。やっぱさ、離れてみて気づくことがある……って言うのかなぁ、良くわかんないんだけど」
「最近のロイド、やけにセンチメンタルなのよ。本当、どうしちゃったのかしら――――みたいな」
 リフィルが笑う。コレットも意味深に微笑みながら、お茶をすすっている。
「ロイドさんが、センチ……」
 プレセアがリーガル特製“ごーじゃすフルーツパフェ”の『トリ』であるチェリーをぱくりと銜えながら呟く。
「ロイドさん、センチ……」
 呟く。
「センチ…………」
 場の空気が、プレセアに集中する。
「…………約177センチ、です」
 瞬間、空気が固まった。そして、思わずジーニアスが突っ込んだ。
「身長かいっ! センチメートルじゃなくて、センチ・メンタルだよプレセアぁ」
 手の甲でプレセアの胸元を軽く撲つ。リフィルいわく“カンサイまんざい”というところの突っ込みだそうだ。
「あ……そうでした。ジーニアス、“ないすつっこみ”……です」
 不意に握り拳に親指を突き立て、それをジーニアスに向けるプレセア。返しの利かない仕草に、ジーニアスはすっかりと翻弄されたような気がしていた。
「何かプレセアってすごく面白くなったねぇ」
 コレットがそう言って笑う。
「そうね。何か心境の変化でも、良いことでもあったのかしら」
 リフィルがきょとんとするプレセアに訊ねる。
「えっと……そうですね。あったかも、知れないです」
「本当に。少し興味があるかも」
 リフィルの言葉に、プレセアは少々照れ気味に笑った。
 テセアラ復興への道程は決して安楽なものではないと言うことを知ったロイドたちはしばらくの間、この地に留まることを決めた。コレットも、リフィル達もすでにそうすることが当たり前とばかりに二つ返事で了承したのだ。
「この国の不安分子は潰えた訳ではないのだ。いつの世にも、欲というものは得てして世情を惑わす」
 リーガルはそう言った。
「そして、誰も一人じゃないことを知り、成功を収めてゆくもの」
 リフィルが言った。
 ミトス・ユグドラシルは言うなれば旧時代の遺物だった。時代が進んでゆく中で、かつての正論もそぐわなくなってゆくのは悲劇としか言いようがない。彼らが滅んだのは自然の成り行きだったのだ。
 そして今また、このテセアラに根付く旧来の体質が、障壁となって立ちはだかっていることを、リーガルは示唆していた。

「コレット、ちょっと良いか」
 晩餐を終えたロイドが声を掛けると、コレットは一瞬、戸惑うように瞳を泳がせてから微笑みを向けた。
「ごめんねロイド。ちょっと休みたいんだ。後にしてくれる?」
「え、あ、ああ……」
 想いも寄らぬコレットの反応に戸惑うロイド。彼女はひとつ微笑みを向けると、二度振り返ることなくその場から離れていった。
(……ロイドのばか……)

「あ、リーガル。プレセア、知らない?」
 気がつけばプレセアもまた、晩餐後に姿を消していた。
「ん? 見てはいないな。おそらく部屋にでも戻っているのではないか」
 アルタミラヒルの一室をプレセアは提供されている。南洋を遠く眺望出来る絶景の場所。かといっても、客室などではなく、倉庫目的としてのスペースを改造しただけに過ぎない、六畳程度の部屋なのだが。プレセア自身がそれを希望した。
 リーガルに言われたところに足を運ぶ。しかし、ドアをノックしても、もともと人の気配がないそこにプレセアが居るはずはなかった。まだ、戻っては来ていないようだった。
 ジーニアスは心なしか不安に囚われていた。何気に、再会した時の素振りが彼女を傷つけてしまってはいなかったかと考えていた。だから、どうしても今、プレセアと話をしたかった。
 アルタミラヒルにプレセアの姿はなかった。
 食後に外に出かけたと、プレセアをよく知るホテルの従業員は言った。
 ジーニアスは外に飛び出していた。直感的に、『あの場所』にいると思った。ライトシルヴァーの髪を靡かせながら、駆け出す。
 あの場所。
 今日この日、想い続けていた少女と再会した町外れの高台にぽつんと、少女は佇んでいた。
「プレセアッ、捜したよぉ――――」
「ジーニアス……」
 肩で息をするジーニアスを、プレセアは冷めて捉えられそうな口調で、心配そうに振り返る。
「今日は今までで一番エアロゾルが低いです。空が、眩しいくらいに……」
 見上げれば満天の星。無数の電飾を撒いたかのように、色とりどりの星たちが瞬いている。
「本当だ。いつもこんなに星が見えるの?」
「いいえ。こんな日は初めてです。それに、何故か今日は人がいません」
 確かに、二人以外この絶好の星見台には人の姿はなかった。
「不思議です……」
 プレセアは再び空を見上げ、星の粒を数え始めた。ジーニアスは半ば慌てた。彼にとって、今は星よりも大切なものがあった。きゅっと、ポケットをまさぐった。
「プ、プ、プレセア」
 じわりと汗が滲んだ。
「はい。何でしょう、ジーニアス」
 再び振り返るプレセア。まっすぐその瞳は真っ赤になったジーニアスを捉える。
「あのあの……さっきはゴメンッ」
「何故、謝るのですか?」
「その……あの……会った瞬間、気が動転しちゃって……その……上手く言葉が出なくて、えーっと……つい……」
「つい、抱きついてしまった――――」
 淡々と、プレセアが代弁した。
「そ、それだけじゃないけど……」
「大丈夫です。気にしていませんから」
 その言葉を聞いた瞬間に、ジーニアスは思わず声を張り上げていた。

「気にしないなんて駄目だッ!」

 はっとなるプレセア。そして、自らが発した言葉に愕然となるジーニアス。
「…………」
「…………」
 そこはかとなく気まずい空気が、二人の間を漂い始める。
「……あ、あの……」
 ごそごそと、ポケットをまさぐり、ジーニアスはそれを取り出した。真鍮(しんちゅう)製の小さなブレスレット。
 そっと、それをプレセアに差し出す。
「トンガリマダラトビネズミでも、木彫りのくまさんでもなくて……えへへ、実は時々ロイドから彫り物細工習っててさ、すごく粗いんだけど……一応、僕達ハーフエルフの間で伝わっている、幸運の(くしろ)……のつもり」
「これを……私に……?」
 戸惑いがちに、プレセアは黄銅色のそれを受け取る。
 確かにブレスレットと言うにはいささか形が歪な代物であった。
「その釧には、幸運招来の願いが込められているんだ。僕達の種族にとって、この世界で幸せを望むことは今まで殆ど不可能なものだったからね。せめて願いだけでもって、ずっと僕達の一族は伝えてきたんだ」
 そして、その釧の技法は形を変えて多くの種族・現在に伝わり、エクスフィアを抑制する要の紋となったとも言う。
「あ、ありがとう…………」
 プレセアはすかすかのブレスレットを手首にはめてみた。角張った部分が肌を刺激する。それを除いてもしっくりとはまらないので、どうにも落ち着かない。
「ご、ごめん……やっぱ合わないかな。ダメだったら捨てちゃって?」
 ジーニアスの顔はますます赤くなる。しかし、今度はプレセアが珍しく声を高くして言った。
「捨てません。ジーニアスのプレゼント、大切にします」
 こわれ物をそっと包み込むように、プレセアはその釧に触れた。
 その瞬間、ジーニアスの胸に熱いものが流れてくる。
「…………」
 プレセアはそのままゆっくりと、瞳を空に向ける。良く、星空が少女を捉えて止まない。
 星影に映えるプレセアの姿は、どこか儚げで切ない美しさを醸し出していた。いつも見慣れた服装ではなく、普通の女の子らしい服装が、そんな雰囲気をより増長させているのかも知れない。
 彼女の淡い色の瞳は若い星の光を秘めて揺れていた。今にも天空から降りそそぐ星の(きざはし)に吸い込まれてゆかれそうな、あり得ない不安が、ジーニアスの胸を焦がした。
「プレセアッ、ボク――――僕は……」
「ジーニアス……」
 柔らかい声が上擦った少年の気持ちを抑えた。
「星……見てますか?」
「え…………?」
「私……星が好きです。でも、星座のことはよく知らないんです」
「…………」
「ジーニアスは、物知りですよね」
「う、うん……まぁ、ね」
「私に、教えてくれませんか、星のこと。星座にまつわる、色々なお話を……」
「プレセア……」
 わずかに、身をずらした。その意を汲んだように、ジーニアスは全身の関節が軋む感覚で足を進め、そっとプレセアの隣に並んだ。
 星が良く見えた。そして、それ以上に切なげな美少女の息づきが聞こえてきた。
 プレセアが気になっていたという星について語り始めるジーニアス。それはぎっしりと混み合う星屑とは対照的に、ぽかりと穴の空いたような暗闇の中に、ぽつんと輝く、二つの恒星。
 ジーニアスはその星にまつわる神話、悲しい運命の兄弟の話を綴った。
「まるで、私たちのようです……」
 涙を堪える。しかし、ジーニアスは微笑んだ。訝しむプレセアに、神話の最後を語る。
「いつかまた巡り会えるから、その別離は悲しくはなかったんだよ。心はどこかで受け継がれて、新しい命になってゆくって。……そして兄弟は生まれ変わった。生まれ変わって、再び巡り会えたんだ、この星の下で……」
「生まれ変わって……」
「絆って、ずっと切れないものなんだね」
 ジーニアスがそう締めて照れ笑いを浮かべる。
「…………」
 不意に、少年の肩に荷重がかかった。ふり向くと、愕然となった。
「プレセア?」
 ジーニアスの肩に、プレセアは凭れていた。華奢な腕に両手を添えて、光を湛えた瞳を、ジーニアスの髪越しに天に向けていた。

「ジーニアス……ごめんなさい……」

 不意に、彼女はそう呟いた。

「……え?」

「…………ごめん……なさい…………」

 少年の肩に(もた)れながら、淡い瞳に湛えられた星の光が、ゆらりと大きく揺らぎ、散った。
 そして服越しに、少女の肌の温もりがジーニアスの身体にゆっくりと染みこんでいった。