第12章 セレス暗殺 ~sisters of brimming over with love~


南洋修道院

 聖書が床に投げつけられる。力がないためか、手を伸ばせば届きそうな程だった。
「何ですのいったい……。ふぅ、最近とても落ち着かないですのね」
「は、はい……ここ最近、特にまた(あわただ)しく」
 執事のトクナガに向かって時々起こす癇癪(かんしゃく)。永年軟禁されてきた、この辺境の修道院にあって、この可憐な少女の鬱積(うっせき)した思いというのは察するに余りある。
 クルシス崩壊後の大赦令に際しても、何故かセレス・ワイルダーの一族に対する天恩はもたらされることはなかった。修道院の暮らしも乙なものとは誤解も甚だしい。セレス自身、神子であった兄を密かに思慕し、虚弱な躯を押してメルトキオの闘技場へと出場したことすらあった。
「…………お兄さま、最近来て下さらないの、何故ッ」
 怒鳴りつけられるトクナガは常に兢々(きょうきょう)たるものだった。
「神子さ……いえ、ゼロス様は今やテセアラの要職に与るご身分でございますれば、常に多忙にて――――」
「うそっ! トクナガ、他の者は(だま)せても、この私は欺せませんわ。お兄さま、やはり私のこと――――」
「それは違います、誤解でございますセレス様っ!」
「そう? ならばトクナガ、今すぐお兄さまに会わせて。私を、お兄さまのもとに連れて行って」
 トクナガの額に滲む冷や汗。無理難題を率直に突きつけるのは血の所以と言えるか。物心のついた頃より自由の利かない地に置かれているとはいえ、さすがに歴代の高家の令嬢と言ったところ。
 大赦の恩に与らぬ永世流刑の罪人が外出するのには、司法省の特許が必要である。それがなければ脱島の重罪となり、極刑は免れない。
 闘技場に現れた時は、トクナガが根回しをして司法省の役人を取り込んだ成果であった。二度同じ事をしろと言っても、一朝一夕で成し遂げられるものではない。
 セレスのわがままを極力聞き入れてきたトクナガも、さすがに二度目の脱島を望む彼女の言葉を受け容れることは出来なかった。
 トクナガの宥めに、セレスは夕立の如く大哭したかと思うと、すぐに疲れたのか眠ってしまった。
 彼女の兄へ対するひとかたならない思慕を知るトクナガにとって、セレスの寂しさは胸を突く思いであった。
 普段は長閑な南洋の孤島。しかし、臙脂(えんじ)の忍び服を纏い、覆面から覗く寂しげな瞳のカゲが、身を潜めて修道院を伺っている事が、波乱の様相を感じさせていた。

 三階のレストランの奥には、ミズホの里の住居と同じ『タタミ』と呼ばれる彼の地特産の藺草(いぐさ)で作られる空間が用意されていた。
 ここは靴を脱ぎ、膝を折り、足を崩して食事も出来るという場所。窮屈なブーツや剣を外し、背伸びも出来るのだから、特に安らげるだろう。
 リーガルの勧めで、ゼロスは居室にいたリフィルを呼んだ。
 これから就寝前のゆっくりとしたひとときを過ごすはずだったリフィルはいささか不機嫌の顔色を浮かべながら姿を見せるが、リーガルとゼロスという珍しい取り合わせに眼を細めた。
「テセアラの諸侯が夜半に密談とは、穏やかではないわね。何かしら、レジスタンスの計画?」
 するとゼロスは長いため息を漏らす。
「リフィルさまの洞察力、時々恨めしくなるよな――――」
「さすがは比類無き知恵者。リフィル、あなたならば良い策を教授されるだろう」
 リーガルの言葉にふっと笑みを返すと、リフィルはゆっくりと膝を崩した。
「ロイドはどうしたのかしら?」
「彼が聞けば方策とはならんだろう」
「……なるほど、賢明な判断ね。よほど緊迫した状況のようだけど、前置きは良くてよ、主題を端的にお願い」
「ならば単刀直入に言うぜ。セレスの命が狙われている――――」
 ゼロスの言葉にリフィルは瞠目した。
「……随分、穏やかな話じゃないわね。何、クルシスの残党でも蜂起したのかしら」
「似て非なるもの……と申すか、クルシス党も、神子の後嗣問題も全く関係ない」
「となると、さしずめ戦後を巡るテセアラ王家の内紛――――と言った感じかしら?」
「やはりリフィルさまには判っちまいますか――――」
「テセアラの禄に与る者の一人として、実に面目のないことだ……」
 リーガルが項垂れる。
「それはともかくとして、問題は何故セレスが命を狙われているかね。クルシス党が崩壊し、マーテル教の教義も改訂され、神子の権威も緩和されて、ゼロスも彼女も基本的には自由の身。単純に考えれば、ゼロスにしてもセレスにしても、今更命を奪ったところで実益にはならないのではなくて?」
「お待たせいたしました――――」
 給仕が運んできたのは、良く冷えたユミル産の緑茶だった。アルコールを交えて語る雰囲気なのではない。リフィルがそれをひとつ呷ると、心地よい冷たさとほろ苦さが眠気を覚ました。
「思うに、事は我が国に永らく根付く柵にある。こたびの密謀、おそらく保守派の内相が糸を引いている」
 その瞬間、わずかにリフィルの表情が曇った。
「……ハーフエルフ法……ね」
 テセアラに長く根付く民族差別。悪法・ハーフエルフ法は、今や終身禁錮(きんこ)にある元教皇が制定したもので、クルシス戦後、ゼロスによって廃止に向けた動きが活発化しつつあった。
「リフィルさまも知っていると思うが、妹は俺様を排斥しようと企んでいた元教皇が神子に祭り上げようとしていた、いわば保守派連中の象徴的存在だった」
「ええ。そして、兄であるあなたとの因縁も絡んで、複雑な人間関係がテセアラ王室を巻き込んだ繁栄世界に少なからず影響を与えたと言うこともね」
「因果ってよくよく後に(しこ)りを残すって言うか、実は妹の母親方の祖父は、現国王の父親の外戚に当たるらしい。つまり、現国王陛下と妹の母は……えっと、又従兄弟? ハトコ……んー――――つまり、セレスとヒルダ姫とは遠い親戚になる訳よ」
「なるほど。そう考えれば、教皇があなたを廃してセレスを擁立しようとした経緯のひとつを知ることが出来るわね。現国王を廃位に追い込み、前国王の落胤としていた自分が王となり君臨すればテセアラの諸侯、何よりも国民が離叛する。それならば、マナの神子一族であり、テセアラ王統の分枝という二枚看板を背負ったセレスを後に王位に就けることで、この国を掌中に出来るわね」
 今となっては、元教皇の胸中に思い描いていた野望の筋書きが、全て本末転倒と言えるのだが。
「しかし、教皇は既に収監されて法もあなたたちの尽力で改正に向けた動きがあるのでしょう?」
 するとリーガルが言った。
「急進派のアンドリュース・フラノール辺境公は、昔からテセアラにおけるハーフエルフへの差別に理解がある賢臣。教皇保守派のカーネル内相と反りが合わぬのは不思議ではない」
「ならば、セレスを狙っているというのは、そのアンドリュースという貴族なのかしら?」
「その逆だろう、おそらく――――」
 ゼロスの言葉に首を傾げるリフィル。
「教皇の下で保守派の象徴だったセレスの命を狙っているのが、同じ保守派の内務卿だというの? 訳が分からないわ」
「……国王が急進派に取り込まれたとするならば、話は別だ」
 その言葉に、リフィルははっとなった。
「私としたことが迂闊(うかつ)だったわ。確かに、国王がハーフエルフ法改正に意欲を示すことになれば、保守派の求心力は失墜する。その上、もともと反保守の立場に近かったゼロスがマーテル教会を指導する地位になって、セレスが急進派の旗手となれば……、永年既得権を握ってきた保守派は壊滅的打撃を受けて、教皇と同じ末路を歩むことになるわね」
「果たして、そのような見方かどうかは分からぬ。もしかすれば、ただ単にアンドリュース公とカーネル卿の不和に巻き込まれた所以なのやもしれぬ」
「いずれにしろ、俺さまやリーガル、陛下、辺境公は連中にとっては邪魔なことは確かね。手っとり早く気勢をそぐことが出来るのは、妹が一番だ。南洋修道院にいて刺客も入りやすい。病弱を良いことに毒殺しても理由がつく。血縁関係から見ても、奴らにとっては妹を殺して得はしないが損はない」
 飄々と語るゼロスだったが、明らかに『兄』としての狼狽が見え隠れしている。
「ハーフエルフ法は方便に過ぎぬだろう」
 リーガルの言葉に、リフィルは頷く。
「その通りだと思うわ。結局は、いつとも言えない時代に訪れるシルヴァラント・テセアラの統合世界を支配する野望を懐いた者たちの愚行。……ミトスとの戦いが終わってまだその記憶すら生々しく残っているというのに……人間て、本当に愚かね――――」
 リフィルは悲しみに長嘆する。
「ともかく、セレスを人身御供には出来まい」
 リーガルが呟く。
「……兄として、妹を気遣ってくれるのは有難いんだが――――、ただ修道院行って連れてくる……だけじゃ済まないぜ。そこまで考えてるとしたら……」
「戦いになる――――?」
 リフィルの瞳が鋭く光った。
「何としても、それだけは避けたいものだが……」
 リーガルが俯く。
「それよりも、先にセレスを守る手段を考えなければならないわね……」
「良いのかよ、リフィルさま」
 ゼロスの言葉に、リフィルはにやりとして答える。
「あら、それを知ってて私を呼びつけたのではなくて?」
 ゼロスは苦笑した。
「それでも、ロイドに話せばきっと先駆けるはずよ。無謀にね」
「ああ……ロイドにはマジで――――」
 言葉に言い切れないほどの思いがゼロスにもある。
「服部寛藏には南洋に向かってもらった。保高にもいずれ頼まなければならないだろう。……しいなにも、話しておかねばなるまい」
「あ、ああ……そうだな」
 ゼロスは驚いたように瞠目し、笑った。
「ん、どうかしたか」
「いや……別に――――」
 ゼロスが見せた一瞬の戸惑いを、リフィルは訝しんだ。

 コレットは苛立っていた。プレセアがどうも様子の落ち着かない彼女を気遣い、ずっと話し相手となっていた。
「ごめんねプレセア。私、最近ちょっとおかしくて」
「わかります。ロイドさんのことですよね」
「うん……」
 ロイドの名前を出すと、途端に悲しい表情になるコレット。
「私も……悩んでいます――――」
「プレセアも?」
「はい。……私、ジーニアスのことを――――。彼はとても優しい人です。優しいだけじゃなくて……とても強くて、頼りがいのある人です…………でも――――」
 プレセアもまた、沈んだ表情を見せた。
「でも……それでは彼がきっと…………」
「プレセアは、ジーニアスのこと好きなんだ」
 コレットの声は興味津々と上向いていた。好きかという言葉に、プレセアは敏感に反応する。
「……はい。好きです、大好きです。きっと、ジーニアスがいなければ、私はとっくに挫折していたかも知れませんから」
「そっか……そうだよね――――」
 コレットが瞳を伏せる。寂しさ、羨望、自らに向けた葛藤の現れ。
「……でも、私はコレットさんのように、まっすぐ好きな人を見つめ続けることは……無理かも知れません」
「……どういうこと? まさかジーニアス……」
 小さく首を振るプレセア。
「違うんです。彼じゃなく……私が……」
 それが“切ない”という表情なのだろうと思った。プレセアの胸中に秘めているジーニアスへの想い。そして、コレット自身がロイドに向ける想い。全ては、ミトスとの戦いの後に気づき、募り始めた感情であった。
「コレットさんは、出来ますか」
 不意に、プレセアが訊ねる。
「え、何を?」
「ロイドさんに、自分の想いを伝えることが出来ますか?」
「えっ、えっ……えっと――――」
「私は……臆病なのかも知れません。きっと……臆病だから――――怖いんです」
 答えに躊躇うコレットをよそにプレセアは独り言のようにそう呟き、胸元に合わせた手をきゅっと握りしめた。
「待っていても望めない言葉なら……自分自身にまたひとつ、勇気が欲しいと思います……。想いを伝えられる、勇気を――――」
「勇気……想いを伝えられる――――勇気」
 プレセアの言葉をコレットは反芻した。
「コレットさん、憶えてますか? 私、あなたのようになりたいって話しました」
「うん。モチロンだよ。私のようになんて、すっごく恥ずかしかったんだよ」
 プレセアは苦悩を胸に秘めながらも、常に物事を前向きに捉えようとするコレットの性格に憧れを懐いていた。あの旅の途上、ある日ふとそんなプレセアの心情を聞いたことがある。普段は自らをあまり語ろうとしないプレセアの心の片鱗をひとつ垣間見た気がしたコレットは、それが実に強く印象に残っていた。
「でも、前向きであり続けられることは……簡単じゃないですから……憧れます」
「私は……前向きだったのかな。そうだとしたら…ロイドも――――」
 コレットは瞳を伏せた。
「気持ちが同じだと、気づかない事が多いのかも知れません。近すぎるものは、見えにくいものだと思いますから――――」
 プレセアは静かに、そして力強くそう言った。
 近すぎるから見えないものがある――――。コレットは心の中で、この言葉の持つ意味をゆっくりと噛みしめようとしていた。