第13章 彼の真意 ~LOST DISTANCE~
「しいなのおかげで、判ったことがある」
暁の空、少しばかり熱くなった部屋の空気を冷まそうと、ロイドが窓を開けると、朝の涼しく新鮮な空気が流れ込んできた。
「ちょ、ちょっと寒いよロイド!」
慌てて毛布を抱きしめるしいな。ロイドの嫌味のないまっすぐな笑い声が響いた。
「しいなは俺のことを思ってくれたんだよな。そこんところが、しいならしいって言うかさ、俺は大好きだぜ」
臆面のないロイドの言葉に、しいなは苦笑した。彼のように、深く意識せずに好きと言う言葉を口に出来る事が羨ましくさえ思った。
「あ、当たり前だよっ。も、もう、わ、わたしの気持ちは伝えたんだから……あまりからかわないでおくれよ……」
「あはははっ、からかっているつもりはないぜ。…うん、本当、ありがとう――――」
ロイドは優しい眼差しをまっすぐしいなに向けていた。しいなはため息を呑み込み、紺色の空を吸い込んだ瞳を返していた。
その日の朝。ロイドとしいなは同時に食堂に姿を現す。
コレット、ゼロス、ジーニアス、プレセア。それぞれに交錯した想いの視線を浴びながら、席に着く。
簡素な南洋風の朝食は旨いが、正直ロイドにとっては物足りないものはある。若さの特権は質より量と良く言ったものではあった。
あっという間に平らげるロイドを見守っていたリフィルは、ゼロスとリーガルにそれぞれ目配せをして頷きの確認を取ると、最後の珈琲を飲み終えてから口を開いた。
「ロイド。みんな、ちょっと話があるの。聞いてもらえるかしら」
神妙な面持ちで、リフィルは教師の顔になる。
「ん、何だよ先生。何か改まってるぜ?」
ロイドの言葉に、リフィルは小さく頷く。ただ事ではないと察知したロイドは反射的に身を正した。
「回りくどい言い方はこの際なしにするわね。驚かないで頂戴。そして皆の意見を聞かせて」
「どうしたの、姉さん……なんか、顔が赤いけど――――」
ジーニアスは姉の顔の紅潮が羞恥心のものではないことを見抜き、不安に囚われた。
「ゼロスの妹、セレスが暗殺の窮地に立たされているわ」
「…………は?」
ロイドは一瞬、唖然となった。ロイドだけではなく、リフィルやリーガル、そしてゼロス以外も、リフィルの言葉を一瞬、理解出来なかった。
「あのな先生。そういう冗談は朝じゃなくて――――」
「ロイド。こんな悪い冗談、言えるかしら」
リフィルの厳しい視線がロイドを突き刺す。
「…………どういうことだよ…………」
リフィルに代わって、リーガルが事の経緯を語る。話が進むたびに、全員の表情が険しく、沈痛なものに変わってゆく。
「じょ、冗談じゃねえぞ。セレスを助けるに決まってるじゃねえか!」
「そう簡単に行くくらいなら、あなたに話す前に、私たちだけで何とか対処は出来ます」
リフィル師の言葉は尤もだった。
「事態は単にセレスを凶刃から救い出せば済むというものではないのだ、ロイド」
「ロイドくんの反応は予想通りで、とても有難いよ」
ゼロスは笑っている。その様子に思わず、ロイドは怒鳴った。
「笑ってる場合じゃねえだろゼロス、お前の妹の命が狙われてるんだぞ」
しかし、ゼロスは眉だけを顰めて、笑顔を消さない。
「ああ。何で、放っておいてくれないのかね」
「ゼロス。この際、お前のことはどうでも良い。俺はセレスを助けに行く。保守派のナントカナイ……って奴をぶちのめしても、セレスを助けてお前のところに連れてきてやる」
ロイドの強い言葉が、ゼロスの胸には熱く染みいった。しかし、逆に冷徹な言葉がゼロスの口から発せられる。
「余計なお世話になるかもしんねぇな」
「何だと」
「ロイド。お前の馬鹿正直な気質はクルシスの時は役に立った。……でもな、今度の相手はクルシスじゃねえ。
「そんなことはないだろ! 何の罪もないセレスを、ゼロス、血の繋がった妹をお前は殺されても良いって言うのか」
「……熱いねえ。以前よりも熱くなった」
「茶化すな、ゼロス」
「ロイドッ、少し静かになさい」
張り裂けんばかりの怒号をまき散らしていたロイドを、リフィルの冷静な言葉が制止する。
「ゼロスも、私もリーガルも、セレスを見殺しにするなんて一言も言ってないわよ。分かるでしょう? だから、こうしてあなたや皆に話しているの」
「先生、でもセレスは――――」
「あなた以上に、ううん。私たちなんか比べ物にならないくらい不安に駆られて焦燥しているのは、他でもない、ゼロスではなくて?」
「…………」
ロイドがはっとなってゼロスにふり向くと、彼はうつむき加減に後頭部をポリポリと掻く仕草をしていた。端から見れば緊張感がないように見える。しかしそれが、窮地を隠そうとする彼のおどけた姿であることを、ロイドは知っている。
「ロイド。もしも感情に駆られてセレスを修道院から連れ帰ったとしなさい。事態はそれだけでは済まなくなるのよ?」
リフィルの言葉に、プレセアが身を乗り出す。
「カーネル内相派にとって、クーデターの絶好の好機となります」
ジーニアスも、眉を顰めて言う。
「そして、急進派は大粛清される」
二人の言葉に、ロイドは目を瞠る。リフィルは頷き、ロイドを諭す。
「単純に考えてみても、二人の言うとおりになるの。無策でセレスを救っても、せっかく復興への軌道に乗り始めたテセアラは、クルシス時代よりも非道い、血塗られた時代に堕ちる可能性もあるのよ」
「成算もないまま
リーガルの沈着な口調が、ロイドの興奮を静める。
「でも、でもこのまま手をこまねいていたら、セレスは殺されちまうかも知れねえんだろ。何とかなんないのかよ」
「いや、今日、明日に命奪われることはない確信がある。セレスの身は、しばらくは大丈夫だろう」
リーガルはその根拠として、保守派の過重・内憂を挙げ、またミズホのカゲ・服部寛藏保峻が南洋修道院の警護に就いたことなど経緯を話した。
「寛藏が――――あの男だったら心配ないよロイド」
しいなが安堵した様子を見せる。
「でも、正直言えばあまり長い期間は安全の保証は出来ないわね。内相一派が朝使として私兵などを派遣すれば、あからさまに撃退すればまずいことになるわ」
「先生ッ!」
全ての道が袋小路とばかりの話に、ロイドは焦りを覚える。
その時、ゼロスが投げやりな感じに口を開いた。
「公道が塞がれていれば、獣道を通れば良いんじゃねえか」
「?」
怪訝な眼差しを向けるロイド。
「アンドリュース一派に味方するか、じゃなけりゃカーネル派に味方するか……」
「なんだって!」
ロイドたちは愕然となった。思いも寄らないゼロスの言葉。しかし、リーガルはじっと目を閉じ、リフィルは複雑な表情のまま小さく頷く。
「どのみち避けられない衝突なら、いっそのことどちらかにつきゃ、妹は三日、いや、七日くらいは命を長らえることが出来るだろ」
「ゼロス、正気か。よりによってセレスの命を狙っている奴なんかに味方しろなんて」
それはあの教皇の残党に加勢しろと言うに等しいことだった。しかし、リフィルは言う。
「ゼロスの進言は
「な、何言ってんだよ先生。教皇派はハーフエルフ法なんていう悪法を生み出した元凶なんだぜ。そんな連中に……」
「教皇派ではないわ、ロイド。カーネル内務卿はテセアラに根付く体制・文化を守り抜こうとする意向のもとで国民の人望を集めているの。そして急進派のアンドリュース辺境公もまた、私たちが成し遂げた世界統合の大業、新世界へ向けて旧体制の刷新を目指すという大義のもとで有志が集まっていると考えられるわ」
リフィルの言葉に、しいなが呟くように言う。
「て、ことは……要するに、カーネルの奴も、アンドリュース公も、目指す方向は違っているけど、両方道は正しい……って言うのかい?」
「百歩譲って第三者の立場から状況を見据えれば、そう言うことになるんだな。テセアラ組は“常識”なんだけど、ハーフエルフへの偏見・差別はほとんど解消されたとは言えねえのさ」
「と……言うことは、国民の大部分は、内相支持者……という事なんでしょうか」
プレセアの言葉にゼロスは親指を突き立てにやりと笑う。しかし、力がない。
「さすがプレセアちゃん、察しが良いね。……その通りさ、ロイド。俺たちがいくらハーフエルフ法は悪法だと言っても、国民の多くの意識が変らねえと、意味なんかなくなっちまう。何てったって、今までの支配があまりにも長すぎたからな」
「…………」
「私たちの絆から取るべき道は、敢えて多くの敵を作ることになりかねない急進派への協力なのでしょうけど、ロイド。あなたがどうしてもセレスの身が案じられるのならば、保守派に加勢すればいいわ。私たちは、あなたの選んだ道を歩んでゆくだけだから……」
「過ちのない選択だ。お前に任せる」
リーガルの言葉に、場の意志は集約されていた。
『お前はもう、間違えないのだろう?』
ふと、クラトスの言葉が過ぎった。幾度とない過失を踏んできたロイドにとって、クルシスとの戦いは、どこかで自分自身の胸の裡にある過失との戦いでもあった。今、思い起こせば、父・クラトス=アウリオンの言った言葉のひとつひとつが、理解出来るようになってきた。今だ全てではない。多分、クラトスの言葉を心から理解できるようになったとき、きっと彼と並ぶことが出来るのだろうと、ロイドは思っていた。
「間違いのない選択……か」
アルタミラの海。南洋修道院の方角を見据えながら、ロイドは砂浜に戯れる子供たちの歓声を聞いていた。
子供たちの楽しそうな笑顔。それがもしも一時のこととはいえ、間違いなくミトスの野望を封じ、世界を救った事は事実なのだ。
「ロイド……?」
力のない声が背中に届く。振り向くと、寂しそうに俯くプラティナ・ブロンドの髪の少女、コレットがロイドにじっと向いている。
「良いよ、坐るか」
「…………」
コレットはわずかに頷くと、ロイドの隣に腰を下ろした。
「何か久しぶりだね。ロイドの隣に坐るの……」
「ずっと、避けてたからなぁ、お前」
「…………そだね…………」
沈む。
「そんなことよりも、ロイド。答え、考えてる?」
「うーん……今回ばかりは参ったかも。間違いのない選択なんて――――そんなんアリかよッ、みたいな」
「あはは。ホントだね。まるで、2になる答えは、1足す1と3引く1。どっちを選ぶかと言ってるみたいなものだし」
「んー……何か違うような気もするけど……まぁ、それに近いようなもんか」
苦笑するロイド。コレットもまた苦笑する。ぎこちのないものだった。
「セレスを助けて、ハーフエルフ法を廃する方につけば、テセアラの人たちの多くを敵に廻してしまうことになる……。かといって、内相側につけば、形は違っても、あの教皇のやろうとしたことの片棒を担ぐことになる。…………迷わない方が、おかしいと思うよ――――」
ロイドの悩んだ表情を、コレットは久しぶりに見た気がした。
「ロイドの信じたことを、私も信じる」
「?」
「マイナスの事だけ考えても、きりがないから。私は再生の神子だった時、ずっと頭の中でマイナスのことだけが過ぎっていたから。それをプラス思考にしてくれたのが、ロイドだったから……」
「コレット……」
彼女は微笑んでいた。今度は無理を感じさせない、ごく普通のコレットという女の子の微笑み。
「だから、今度もロイドが選んだ道はきっと、みんな考えている以上に良い結果を生み出すんだよって。私、信じてるよ」
ロイドがはにかむ。
「プレッシャーだな。……でも、悪くないぜ。何となく、気が軽くなった」
ようやく、ロイドが笑った。
「いずれにしても……、もし戦いになると言うのなら――――これが、本当に最後の戦いになるかもな」
「戦いにはさせないよ。ロイドも、先生も、ジーニアスも、ゼロスもしいな……も。でしょ?」
「……だな」
コレットの引っかかりをロイドは意識しなかっただろう。
しばらく、沈黙が続いた。一定の間隔で押し寄せる波の音が妙に高揚した気分を鎮めさせる。
「あの……ロイド?」
「ん――――?」
コレットの白い頬に朱が走っている。胸の鼓動が内を伝わり、鼓膜に到達する。
「ひとつ、お願いがあるの。……いいかな?」
「?」
改まった態度に、ロイドは身を乗り出してコレットに向き直る。
「私の質問に、正直に答えて。気持は変わらないから、嘘だけはつかないで」
「…………分かった」
海鳥が舞う。その鳴き声がトロピカルな楽園には実に不似合いな感じがする。
午後の南洋。海流の変化に伴って、魚たちが近海に集まってくるからだ。
コレットはしばらく無言だった。ロイドもまた、無言だった。気遣いのない幼なじみ同士なのに、何故か雰囲気が固い。
「メルトキオで、ずっと待ってたんだけど……それに、今日も――――」
どことなくむず痒い沈黙を破ったコレットが訊かんとする意味を、ロイドは分かっていた。
「……………………」
ロイドはまっすぐ、コレットの瞳を捉えた。彼女もまた、ロイドの瞳を離さない。少し引き締まった唇をまっすぐに結んだロイド。ふうと、ひとつ息をつくと、言った。
「お前が心配するようなことはないよ」
ロイドの瞳は海のきらめきを映しこんでいた。
「うん――――」
コレットは、ただ頷いた。
残り少ない休暇を楽しむようなカップルにしては実に無味乾燥なシルエットが、そこにあった。
「アンドリュース公をここにだって?」
ゼロスの言葉に、しいなは愕然となった。
「何だよしいな。声がでかい、ただでさえでかいのに」
瞬間、
「だから胸を見ながら言うなってんのサ! アンタって奴は……」
真っ赤になる。つくづく感情を隠せない正直な女だと、ゼロスは改めてそう思っていた。
「不思議なことじゃねえさ。どのみち、俺様はカーネルの野郎には邪魔な存在。奴の讒言で、陛下もこの俺様が国を牛耳ろうなんて考えてるという。……全く。魑魅魍魎も百鬼夜行の喩えも満更でもねぇよな。だとしたら、俺様の道は無論、アンドリュースにつくことよ」
「アンタ……ロイドに任せるんじゃなかったのかい?」
しいながゼロスにすがる。
「あったり前じゃん! だから、もしも。もしもだよ? ロイドがカーネルに味方するって言ったら、アンドリュースの奴を軟禁することが出来るだろ。一石二鳥ってもんだよね――――」
戯けるゼロス。しいなはまた、呆れ調子だ。
「奇策……って、アンタの得意分野だよね。あたしは好かないけど」
しいなは救いの塔でのゼロスの行動を思い返していた。
「憎まれることには慣れているさ。でも……、彼奴と出会ってここまで来て、ちょっと俺様、臆病になってきたかも」
ふっと、ゼロスはそう言って笑った。
「臆病……だって。アンタが? どこが」
本気に取らないしいな。身体の芯から湧き上がる可笑しさを、懸命に堪える。しかし、次の瞬間、それは一瞬にして吹き飛んだ。
「しいなをロイドに引き合わしたのは、まずったかなって……な」
「…………え?」
ゼロスの表情は憂色を秘めていた。しいなはその言葉に、全身の関節が軋んだ。
「ゼロス?」
急にトーンダウンしたゼロスを案じたしいなが彼の肩に手を伸ばしかけたその時だった。
「あっ――――!」
しいなの身体はゼロスに強くしめつけられ、薄い朱色の唇が覆われた。意識が定まらないまま、温かさがしいなの口の中に広がってゆく。震えが小刻みに増し、ゼロスの引き締まった身体に伝わっていった。
数分後、身を放たれたしいなは茫然自失。覚えていたのは、ぱあんという激しい打音と、一人残ったゼロスが、真っ赤に腫れた頬を窓に映していた姿だけであった。