第14章 第三の決断 ~To you sake~
極寒の地・フラノールの辺境公にして国務大臣・経済相を兼任するテセアラ王国政府の重鎮・アーネスト=アンドリュースは、若干三十四歳の英傑の誉れ高い烈士である。
南海公ブライアン家とは、三代に渡る
修学した時期から、
クルシスの支配下にあった頃は、教皇派から憎まれ、アリシア事件でリーガルが収監された直後に、連座するように所領・フラノールに軟禁されていた。
そのために、ロイドたちとは奇しくも会うことはなかったのだが、もしも会見が叶っていたとするならば、力強い側面支援になっただろう。
教皇がヒルダ王女拉致未遂の事件で逮捕収監されると軟禁が解かれ、国務・経済相の兼任を命じられて国政に復帰するが、その急進的な政策はザクソン・カーネル内務卿を筆頭とする旧教皇親党・保守派から激しい反発を受けていたのである。
その名臣誉れ高いアンドリュースに会うために、ゼロスはフラノールに飛んだ。しいなもゼロスの図南を聞いた以上、同伴を余儀なくされた。
しかし、ゼロスに突然抱きしめられ、唇を奪われた瞬間以来、ゼロスとしいなは一切口を開かない。しいなの方がゼロスを無視していたのだ。
相変わらず凍えそうな風雪が止まないフラノール島。
ペンギニストフェザーの外套だけでは完全な防寒にはならない。寒さに震え出すしいなに、ゼロスは懐炉を差し出した。マナの塊を用いた
しかし、それを受け取らずにさっさと歩き出してしまうしいな。
ゼロスはたまりかねて、ぐいとしいなの腕を掴んで引き寄せる。彼女の瞋恚に燃える眼差しはゼロスを灼き尽くさんばかり。しかし、ゼロスは無言で懐炉をしいなの手に握らせて、今度はさっさと自分が歩き出した。
(忘れたんだろ、こんな時に、お前は……)
フラノール領主館は、マーテル教会に隣接する。館内は地熱の暖房が効いてて逆に暑い位なのだ。
執務室と応接室を兼ねた広間。さほど間を置かずに、アンドリュース辺境公は姿を見せた。
「ゼロス殿、それに藤林の姫御前。久しぶりだね」
低音だが、良く透る涼しい声だった。顔立ちの雰囲気は、パルマコスタのニール総督に通じている。
「正直、あんま会いたくはなかったんだけどね――――」
「そ、その『姫御前』って呼び方、もう止めてもらえないかい……」
ゼロスとしいなの言葉に哄笑するアンドリュース。
「どうも気恥ずかしくて申し訳ない。それと、ゼロス殿、貴公は相変わらずだね。余程、廷臣は好まないですか」
「公爵を除けば……など申し上げれば、と。残念だが、このゼロス=ワイルダー、
ゼロスの弁を聞いていたしいなは唖然となった。いつもの軽い調子で女を手当たり次第に口説くイメージのゼロスではない、朝臣と渡り合えるに足る高尚な文言を流暢に連ねる。しいなの知らない、王宮でのゼロスの姿の一片を感じたような気がした。
「当にその通り。……して、ゼロス殿と姫御前のご来訪は、ただの挨拶ではないでしょう。伺いましょうか」
「伺いましょうも何もないと思いませんか、国務相閣下」
ゼロスの鎌に、アンドリュースはしいなを一瞥した後、苦笑した。
「そうか。さすがはミズホの情報網。行政府の処断は
「この際、あんたの御託はどうでも良いぜ。うちの“大将”はご存知、直情径行の気がある。何てったって、世界を動かしたんだ。抽象じゃなくて、具体にな」
「ロイド=アーヴィングですか。その名は聞いています」
「……なら、話は早い――――閣下にもひとつご協力を賜ろう。出来ないとは言わせねえぜ」
「承知した――――」
オリーブビレッジの支配人とはもはや顔なじみである。ゼロスの姿を見ると、彼は喜び勇んで宿泊の段取りをしてくれた。
「あ、悪いんだけどさ、しいなとは別個の部屋に――――」
ゼロスは機嫌の直らないしいなに気遣った。
「それにしてもしいなさん、お美しくなられましたな」
支配人の呟きに、ゼロスはふっと嗤う。
「わかるかい」
「ええ、そりゃもう」
「あいつは“恋”をしている。恋は女の美しさをより一層、加速させる。子供を大人に押し上げる力だね」
「ゼロス様がお相手ならば、尚のことですな」
「はっ、埒もねぇ。……あいつは、俺のこと嫌ってるよ」
「また、ご冗談を。じっと、あなた様を見ていらっしゃるようで――――」
支配人の言葉に振り向くと、しいなはぷいと、あからさまにそっぽを向いた。
「女は怒らせりゃ、魔界の武具の呪縛よりも恐ろしい」
「これはまた、説得力がありますな」
苦笑を残すと、ゼロスは先に行った。少しの間を置いて、しいなは支配人から鍵を受け取ると、ゼロスの部屋の隣へと向かっていった。
食事は各自の部屋で取った。孤独な食卓はどうも旨くない。アルタミラの時とは雲泥の差であった。
公私ともに混沌としたここ数日。疲れはたまっていた。浴場で冷えた身体を温めた後、ゼロスは大きな欠伸まじりで濡れた髪をごしごしとこすりながら部屋へと向かう。その途、階段の踊り場で、不運にもしいなと鉢合わせしてしまった。お互いに足が止まる。視線が交錯する。
「よ、よう」
わざとらしく手を挙げて作り笑いをするゼロス。
「ん、かはっ」
可愛らしいほどに乾いた咳をするしいな。
「これから風呂か。やっぱ、ガリッと寒い時に熱い湯は最高だぜ。導き温泉もそうだけどな――――」
ゼロスの言葉を無視して階段を下りようと足を踏み出すしいな。その時、ゼロスの声が素に返る。
「謝らねえぞ」
ぴたと、しいなの爪先が止まった。
「謝るようなことはしてねえからな」
くるりと、しいなは振り返った。細く、形の良い眉毛が逆立っていた。
「何で……なんで――――」
しいなの声は震えていた。肩も同じように小刻みに、哀しげに震えている。
「フロアならいいか。雪見しながらな」
ゼロスは熱い珈琲を二つ手に、廊下のつきあたりにある展望フロアへ向かった。しいなもとぼとぼとついてくる。その姿はいきり立っていた先ほどまでの印象はなく、一転、寂しく、打ち沈んでさえいるようだった。
「ほら、飲めよ。せっかく俺様が直々に淹れてきた特製珈琲なんだからよ」
備え付けの椅子にちょこんと坐るしいなにぐいとカップを差し出すゼロス。しいなは両手でそれを受け取った。
「特製って、どうせセルフのものだろ。……ありがと…………」
憎まれ口を一転、素直に謝意に変えるしいな。
「でひゃひゃひゃ、やっぱ女の子は素直が一番」
「……前言撤回」
しいなの呟きに、ゼロスは自らの頭を小突き突っ込む。
珈琲を口に含む。程良い熱さと苦みが、一気に身体中に染みいるのを強く感じる。
「おいしい……」
「だろっ、さすが俺様、拘ってんのよ、こう見えても。何てったって――――」
「それよりもアンタ、湯冷めとか大丈夫?」
話の腰を折って、ゼロスを案じるしいな。
「…あ、ああ。大丈夫だぜ? 良く言うだろ、アホはカゼを引かないってな」
笑うゼロス。しいなは眼を細めて微笑んだ。
「……アンタはアホじゃないよ――――あほなのは、あたしだ…………」
きゅっと、しいなは唇を噛んだ。顎を引き、前髪で顔を隠す。
「しかしさ、これからどうなっちまうんだろうね、この世界」
「?」
突然神妙なゼロスに呆気に取られるしいな。
「何が正しくて、何が間違っている。二つの道は両方、正しくても、間違っていることもある。ロイドの言う理想の世界がいつか生まれた時、傷つき、悲しむ連中も今以上に増えるだろ。絆が強くなればなるほど、痛みもまた、増すもんだ」
しいなは前髪越しにそっとゼロスを見た。コーヒーカップを唇に当てながらフラノールの街灯りを見つめているその姿は、実に懶(ものう)い気で、ゼロスを何ともいい男に映す。
「でもよ、それでも俺は、ロイドの信頼に応えるよ。どうせ一度投げた命だ。怖いものなんか――――あるな。うひゃひゃひゃひゃ」
そこで笑うかゼロス。良い雰囲気も、自滅するのが玉に大瑕。
しいなはくすと笑った。
「それって、あたしへの言い訳と取って良いのかい?」
「冗談――――」
「良いよ、もう。ありがと。あれは無かったことにす――――」
再び俯いた瞬間。しいなの細い顎は軽く持ち上げられ、唇を塞がれていた。
かしゃん……。カップがしいなの手を滑り落ち、残っていた珈琲が床に吸い込まれる。
言葉に絶えない柔らかさと温かさを感じるほどのキス。ゼロスが唇を離すと、しいなのわずかに開いた唇は小刻みに震え、見開いた瞳は揺れていた。夜の雪景の淡い紫色を湛え、ゼロスの瞳と重なる。
「言っただろ。俺は謝らない。身勝手で、軽率な野郎だからな」
「……アホ神子……卑怯じゃないか――――」
「卑怯で結構さ。お前をこのままにしておくくらいなら、そんな譏りなんて安いもんだぜ」
そして、二度目。通算、三度目の口づけ。今度はしいなも求めた。長く感じる時間。ただ唇を合わせているだけで、頭の芯が痺れてくるようだった。
「あたし……ロイドとは――――」
ゼロスの指がしいなの唇を閉ざす。ちっちと、舌打ちをしながら人差し指を振る。
「俺さまとしたことが愚かなことだぜ。自分の気持ちに、今さらになって気づきやがる」
「ゼロス……?」
(しいなをロイドに引き合わしたのは、まずったかな――――)
――――お前を、ロイドには渡さねえ。
……しいな。
俺、やっと気づいたんだよ……やっとな……
お前のことが――――好きだ。
……愛している……
「……本気……なのかい?」
思いもよらないゼロスの告白に、しいなは戸惑いと、破裂してしまいそうな鼓動に身を熱くしていた。
「あんた……馬鹿にするのも、
恥ずかしくなると悪くなる口を、ゼロスは何度も塞ぐ。しいなの肌の匂いを、吸った。
何度も揶揄し絶賛し、怒らせたその胸に、触れる。しいなは怒らない。ただ柔軟という言葉では済まされない、女の子が持つ独特の感覚。ゼロスの掌が優しく包み、片側がはだけた。
「……っ」
しいなは唇を噛んで声を押し殺した。その大きさに較べて絶妙な形をした、薄紅の綺麗な
「しいな……?」
小刻みに吐く熱い息の下、しいなは身を捩って言った。
「ありがと……ゼロス。でも……もう少しだけ、時間くれないか。あたし……」
「ああ……わかってる――――」
こくんと頷くと、しいなは胸を押さえながら振り返らずに駆け出して行ってしまった。
「アンドリュース公は近く、ここへ下向するぜ」
ゼロスの報告は朗報には違いなかったが、リフィルの表情は険しかった。
「虎穴も深入りすれば出口を塞がれて圧死してしまうのよ。余計な心配の種を増やさないでもらいたいわね」
「ああ、迂闊だったリフィルさま。申し訳、ありません」
頭を下げるゼロス。わざとらしい素振りに呆れるリフィル。
「……でも、しいながついていてくれたのが良かったわね。お目付役、ご苦労様」
「えっ! ……あ……い、いやぁ、あはははは」
乾いた高笑い。訝しむ一同。
「しいな、どうしたの?」
ジーニアスがしいなの顔を下からのぞき込む。驚くしいな。
「な、何でもないよ。いやだねぇ――――」
「ふ――――――――ん……」
すると興味ないとばかりに背を向ける。以外とこの少年は冷たい。
「ジーニアス、どうしたんですか?」
プレセアがきょとんとした表情でジーニアスを見る。
「あ、別に何でもないよ、うん」
プレセアを振り返り、笑うジーニアス。
「嘘です。……ジーニアスは何か、考えてます」
プレセアの口調は珍しく熱を帯びているように感じ、ジーニアスは少し驚いた。
「何にも考えてないよ。うーん……どうして?」
「あ……え……と――――」
プレセアは自分の言葉に驚き、戸惑った。
「ジーニアス――――しいなさんに……冷たいような気がしたから」
その言葉に、ジーニアスは唖然と口を開き、そして笑う。
「冷たくなんてないよ。いつもと変わらないじゃん。あははっ、変なプレセア」
逆に揶揄されるプレセア。確かに、ジーニアスは昔からこんな感じだ。何もおかしいところはない。
「そんなに、笑わないで下さい――――」
顔を赤くして俯くプレセア。何故、ジーニアスが冷たいと思ったのか、彼女自身、わからなかった。
「後は、ロイドの判断に任せます――――」
リフィルはそう言って場を締めた。
「…………」
リフィルとリーガルが席を離れても、ロイドは息を呑んで思考を巡らせていた。
やがて、思い立ったかのように突然瞠目すると、声を上げた。
「ゼロス、しいな、ジーニアス。ちょっとつき合って、くれないか」
指名を受けた三人がロイドを向いた。ロイドの眼差しは、クルシスとの戦いの時の直向きな炎がよみがえっていた。
「しかし……あんま良くねえんじゃ……」
ゼロスが苦い表情をする。
ジーニアスも、道連れになったプレセアも歩がやや重い。
「無謀……かも」
しいなが苦笑する。
そこは南洋修道院のある孤島だった。修道院へと続く道脇の叢に、ロイドに連れ出された面々が身を潜める。
既に、孤島にはカーネル内相の私兵が配備され、警備体制が敷かれていた。下手に動いて見つかりでもすれば、反逆罪に問われかねない。
「どっちにつくか、つかないか。そんなことウジウジ考えるよりも、取りあえずセレスに会ってみるのが一番だろ」
そう言ったロイドの表情に、コレットは眼を細めた。ロイドらしいと言えば、ロイドらしい決断である。
「先生とリーガル、怒ってるかな」
コレットが苦笑すると、ロイドもまた、つられて苦笑する。
「『ドワーフの誓い第四番、人に頼るな己で歩け』だ。セレスに会えないうちは何にも考えられねえ。だろ、ゼロス」
「……まったく、熱いねえ――――」
口調すら呆れるゼロスだったが、表しきれないほどの感謝で、彼の胸はいっぱいになっていた。
「…………」
そんなゼロスを、しいなは見つめていた。無意識に、しいなの眼差しはロイドではなく、ゼロスへと向けられるようになっていた。
「ミズホの寛藏があいつを警護していると言ってもなぁ……内相のこの手勢じゃ――――」
と、ゼロスがしいなに向くと、しいなは慌てて瞳を揺らす。
「寛藏は有能な男だけど、確かにこの数、寛藏だけじゃ心許ないか――――」
私兵がカーネル内相の号令ひとつでセレス逮捕へと動き出したとして、ミズホの能力でセレスを掩蔽するにしても、服部寛藏の手ひとつでは限界があるとしいなは言う。
「……あの男もいればなら……」
しいなは言葉を詰まらせた。完全に拭いきれない慙愧の念が彼女を未だに奮わせない部分。
「ここまで来たんだ。夜陰に乗じても、修道院に潜入するしかないみたいだね、ロイド」
と、ジーニアス。
「やいんにじょーじ……ってなんだ?」
緊張感が、一瞬緩んだ。
「あ……ごめんロイド。夜になったら……忍び込もうって事」
「ああ、それしかないか」
ため息を漏らし、肩を落とすジーニアス。
(くすっ……)
その様子に、プレセアは小さく微笑んだ。
「ジーニアスって、何か…………」
「え……?」
言いかけて止まるプレセア。ジーニアスが眼で促しても、プレセアはわざと逸らした。
「なんでもないです――――」
また、くすと微笑んだ。とても愛らしい笑顔だった。