第16章 永遠の果てに・前編 ~From Hideaki Tokunaga in 1994~
抱き上げた腕の中で眠るセレスを伴って帰還したゼロス達を、ロイドは目を細めて迎えた。
「ロイド、俺は――――」
言いかけたゼロスを、ロイドはすっと止める。
「ゼロスじゃなくても、同じだろ」
ロイドはそう言って笑った。
「うだうだ考えてるのはどうも苦手なんだ、やっぱりね」
「でもロイド。いくら私たちが匿ってあげても、アルタミラやメルトキオにセレスを連れてくことは危ないよ?」
コレットが不安げに言う。
「それ、ずっと考えてた。安全…というなら、やっぱり、保興様の許に匿ってもらうしかないね」
「ミズホの里かあ。うんっ、『トーダイもとクラし』って言うからね。イガグリさんやタイガさん達ならきっとだいじょぶだよ」
コレットがガッツポーズまじりに揚々と言う。
「しいな。最後の最後まで手間かけさせちゃうな」
手を合わせるロイドに、しいなは苦笑する。
「な、何言ってんだい水臭いねえ。もう、乗りかかった舟だ。ミズホ次期頭領の名にかけて全うしてみせるサ!」
「頼りにしてますぜ、次期頭領」
ゼロスが小声で茶化すと、しいなは顔を真っ赤にして興奮する。
他愛のない喧嘩も騒音も心地よいとばかりに、セレスは安らかな寝息を立てている。
「…よく眠ってるね。ん、今日はここに泊まるしかないか」
ロイドの言葉に、誰も異議は唱えなかった。早朝からの強行軍で、疲れていた。
「明日、ゼロスとしいなはミズホに向かえばいい。しばらく、セレスと一緒にいてあげな」
ゼロスはふと、ロイドを見た。
「なあに、こいつをミズホに預けたら、すぐに戻ってくるよ」
オウム返しに、ロイドは首を振る。
「余計な気遣いだって。……セレスはずっと待っていたんだろ。今までの分、一緒にいてやるのが、兄さんとして、ゼロス=ワイルダーとしての、お前の当分の使命だと思う」
しいなも、ロイドを見た。
「ロイド……あんたは――――?」
そこはかとない不安感に、しいなの声は微かに上擦る。
「しばらく、成り行き見守るよ」
「…………」
ロイドは穏やかな瞳で、しいなとゼロスを見遣っていた。
「しいなも、ほんとサンキューな」
「や、やめなよ」
思わず、しいなは声を荒げてしまった。
「統合世界の平和のために、しいなたちの活躍がやむことはないけどさ、へこむなよ」
「だ、誰がへこむかッ」
「しー」
ロイドが人差し指を唇に当てる。慌てるしいなに、ロイドは笑った。
やがて、皆眠りについた。巡邏兵の警備体制も極端に薄くなった。
やはり孤島の修道院に侵入するような好き者の賊徒はいないと見越しているのか、指揮官の手抜きなのかは分からない。武器や甲冑の擦れ合う音がしない静かな南海の夜、久しぶりの野宿もおつなものであった。
しかし、ロイドはずっと目を凝らしていた。皆、『眠りに落ちた』ことを確認すると、ゆっくりと身を起こす。
「お……にい……さま…………すぅ――――」
時折寝言を漏らすセレスは、兄の服に手を添え、寝てもなお兄から離れないことを証明している。そしてゼロスの隣にはジーニアス、プレセア、しいな、コレットと続く。ロイドは一番端、コレットの隣にあった。万が一敵の目に入っても障壁となれる位置だったからだ。
ロイドは音を立てぬように剣を杖に立ち上がる。そして一人、少し離れた草地へ歩むと、レアバードを取り出した。
その時だった。
「ロイド?」
鈴のような声が、レアバードに乗りかけたロイドを呼び止める。
「あ……見つかっちまったか」
不安げな表情のコレットに、ロイドはばつが悪そうな顔をする。
「どこ……いくの?」
「ん――――……話さないとだめか」
「あぶないこと……する気なの?」
「違う」
いつになく不安に怯える様子のコレットに、ロイドは戸惑った。
ゼロスは気がついていた。
目を凝らし、ふと北に示すシルヴァラントが映ゆる紺の宙を見上げると、キラリと光る鳥が二羽、軌跡を描きながら飛び去っていった。
「…………」
胸に籠もる思いがじんと、鼻の奥を熱くする。カゼを引いているわけではないのに、鼻水がたまるようにつまる。
しっかりと上着を握りしめるセレスの手を優しく解き、起きあがる。毛布代わりの外套をかけ直して、妹の寝顔を見つめ、指でやわらかな朱の髪を梳いた。
「ん……んん……お……にい……さま……」
気持ちよさそうに寝息を立てるセレス。ゼロスも、この時ばかりは正直に『兄ばか』になりきれた。
「ゼロス――――」
小声の囁きが聞こえてきた。しいなだった。
「なんだ……お前も起きてたんか」
呆れたように返すゼロス。
「ああ。なんだか……眠れなくてさ――――」
彼女も身を起こす。
「ロイドとコレット……どこに?」
「気でも遣った見てえかな。あからさますぎ」
ゼロスにしては控え目な笑いだった。
「そう……。もう、お別れなのかな」
妙にしいなはさばさばとした感じに言った。
「俺たちにミズホに行けと言うくらいだ。しばらくはそう言うことになるんかね」
飄然と言うゼロス。しかし、どことなく空気が変わっている。
「……会えるよね、またさ……」
「何言うかなお前まで。当たり前じゃんか。俺たち、親友だぜ、親友」
「…………そうだねえ」
しいなは寂しそうに微笑むと、一度俯いた。
「なあ、ゼロス。……そっち、行ってもいいかい?」
「ん?」
聞き返すゼロスにしいなは顔を赤くして釈明する。
「あ、勘違いしないでよ。ほら、ジーニアスとプレセアが間にいて話してると、うるさいかなって思ってサ」
「……ああ、いいぜ」
その時のゼロスは真顔だった。
ゼロスは少し身をずらして間を作ると、しいなは抜き足でその間に寄った。ゼロスの顔を見ると、照れくさそうにはにかむ。
「何か、照れるねえ」
「王立研究院の修学旅行の夜、思い出すようだぜ」
「あ、そうだよ。あははっ、友達の部屋に忍び込んで、夜までだべってたり――――」
今思えば懐かしい、学生時代の思い出話が無性に楽しく思える。ゼロスもしいなも、よく似合う笑顔が、夜空に花を添える。
「ロイドたちと出会って、旅をして――――今こうして、あんたと話しているとサ、何か今までの辛さとか悲しみとか、みんな良かったんじゃないかって、思えるんだ。不思議だよ」
しいなの脳裏に、かつて心を通わせ合った、コリン、今は『心の精霊』ヴェリウスの姿が浮かんだ。
(コリン――――)
コリンの小さくても強く、愛らしく優しい雰囲気をそのままに、気高く雄壮をたくわえた聖狐は、しいなをまっすぐに見つめ、ただ優しく微笑み、頷いた。
(いつでも、貴方と共に在らん)
そう言っていた彼は、その言葉通りに、この不器用な女性と共にあったのだ。
「あんたが、『あの時』……戻ってきてくれて、本当に良かったよ……」
しいなの呟きに、ゼロスはちくと胸が痛んだ。そして、いつになく、言葉や思考を越えた感情が、ゼロスの胸をゆっくりと貫いてゆく。
「…………なあ、ゼロス」
ふと、しいなの声のトーンが落ちた。ゼロスが振り向くと、しいなは抱きしめた自分の膝を見つめている。その瞳がいつになく潤んで揺れていた。
「ああ……」
ゼロスは柄にもなく緊張してしまう。
「フラノールのこと……なんだけどさ――――」
戸惑う言葉。しいなは声がかすれてきた。ゼロスも、無性に喉が渇いてゆく。飲み込む唾が粘っこい。
「……あんたが…………本気なら――――あたし――――」
ゼロスは無意識にしいなを見つめる。しいなはゆっくりと顔をゼロスに向ける。
「……あたしなんかで、本当にいいのかい?」
「同じ言葉は――――ねえよ――――」
ゼロスの科白に、しいなはゆっくりと微笑んだ。
あたしも……あんたのことが……好き……だ――――
人の想いに、理屈なんていらなかった。戸惑いも、体裁も、愛する人の前には無意味なものになってしまう。
あれほど気障で無類の女性好きとされてきたゼロスが、初めて触れるみたいにしいなと抱擁を交わす。繕われない形の青年の震えを、しいなは初めて愛しいと思った。
仰向けのしいなに覆い被るように、ゼロスが上体を肘で支える。
「こら……起きちまうよ――――」
しいながわずかに瞳を逸らす。腰帯を解いたゼロスがくくと笑う。
「大丈夫だぜ。しいなが耐えてりゃな」
「…あほ神子……なに……考えてんのさ」
言いながら、一枚、一枚としいなの服を取り去ってゆく。どこかしか、不器用な手つき。
「もう、恐いなあ……」
暗く、毛布代わりの外套に包まれて周囲には見えないとはいえ、さすがのしいなも身体を強張らせた。
「いざとなったら、こうすりゃいいだろ」
「あ……んっ――――!」
言いながら、ゼロスはしいなの唇を塞いだ。いつもより粘る唾液が息継ぎを閉ざし、お互いの舌にまとわりついた。
ゼロスの掌が、豊満で絹のような感触の胸に触れ、指先が莟に絡む。その甘美な痺れに捩るしいなの上体。さすがミズホの忍術を体得してるだけある。その身体の動きは婉然としている。
二人の唇を繋ぐ銀の糸が星に輝いた。
「いい身体してんのな、お前……」
絶妙に滑る背中の線をなぞりながら、ゼロスが呟いた。
「ばか…言ってんじゃないよ――――」
言葉だけの怒り。決して飽きないしいなの肌に触れる指先を、ゼロスは徐々に下げていった。
「…………」
プレセアは身を固くしていた。身じろぎ出来ない雰囲気に、心の中が混乱していた。
すぐ側から聞こえてくる、くぐもった嬌声。不規則な衣擦れの音。淡い色の髪が敏感になり、頭皮が妙にくすぐったい。
悲鳴を怺えながら、時折漏れるその声は苦痛と喜悦が交じり合ったもので、プレセアの脳髄を直に刺激した。
(しいな……さん――――)
きゅっと瞼をきつく閉じ、唇を噛んだ。ゆっくりと身をずらし、耳を塞ぐ。
しかし、それだけでは完全な防音にはならなかった。この時ばかりは、無性に静寂な夜を恨みそうだ。
プレセアは側で何が起こっているのか、思うほどに鼓動が速くなる。背中が無性にむず痒くなった。
「…………!」
完全に目が冴えてしまったプレセアが瞼を開いた瞬間、どくんと、鼓動がひときわ大きくうねった。
眼前に何も気づかず、深い眠りの中で安らぐ銀髪の少年が、すうと寝息を立てながら時折寝返りを打っていた。無邪気に口をもごもごさせながら、くうと鼻息を立てる表情など、無垢な少年の姿そのままであった。
(…………)
寝ている時が幸福とばかりに、ジーニアスは時折寝言を言いかけている。
(気楽ですね……ジーニアス――――)
プレセアの胸に小さな怒りが芽生えた。
それは理不尽な怒りに他ならない。だが、幸福そうな少年の表情は、傍らで繰り広げられる密やかな情事をただ一人怺えるプレセアにとって、不公平に他ならないものだった。
これまで聞いたことのない物音、息づかい。男と女が奏でる妖しいカプリッチオに、プレセアの白き心が色を付け始める。
しいなの波動が伝い、プレセアの脳を微々と痺れさせる。それは少女の小さな身体を駆け抜け、芯に大きく震えた。
固まる四肢。しかし、白く透るような頬が赤らみを増し、息も熱を込めてくるようだった。瞳の色が藐然と定まらず潤を湛え、力が抜けてきた。
(何か――――変――――…………)
ふわふわとした心地よい気分に、プレセアは引き込まれてゆく。理性を優しく包み込む、本当の意味での天国のような気持ち。
(ジーニアス……私…………)
しかし、瞳に映った夢見の少年の顔を残像にし、熱くなった身体を冷ますことが、プレセアの『人』としての本能を満たすことが先決だった。
早暁、ジーニアスとプレセアが深い眠りの中にあるうちに、ゼロス達はミズホの里へ向けてレアバードを駆っていった。巡邏兵の警戒態勢が本格的に始動する直前の隙を縫っての出立であったことは言うまでもない。
ジーニアスはゼロス達が既に発ったことに思わず眉を顰めた。
「早いね。……仕方ないかあ」
「…………はい」
しかし、プレセアは言葉少なに、ジーニアスからわずかに視線を逸らす。
「そう言えば、ロイドとコレットもいない。プレセア、知ってる?」
ジーニアスの振りに、プレセアはふるふると首を振る。
「たぶん……先にアルタミラに帰ったのではないでしょうか」
「まったく。僕たちをおいてくなんて酷いや」
憤慨するジーニアス。
「内相の私兵の目を欺くためには、ばらばらに散っていった方が良いと思います」
「まあ……そりゃ、そうなんだけど……」
プレセアの言葉に思わず苦笑するジーニアス。
「あの……ジーニアス――――」
プレセアが兢々とした口調で、ジーニアスを呼ぶ。
「ん? ……ど、どうしたのプレセア」
ジーニアスが振り向くと、プレセアはいつになく神妙な表情で、それでも彼と視線を合わそうとはせず、わずかに俯いていた。
何か差し迫った雰囲気を感じたジーニアスは、じっと二の句を待った。
こくんと、プレセアが唾を呑み込む。そして、ためらいがちに愛らしく結ばれた唇を開いた。
「アルタミラに戻った時で構いません。……お話があります。よろしいですか」
「…………」
ジーニアスは思わず返答に遅れてしまった。プレセアの顔が、ほんのりと赤くなっているのに、見とれてしまっていたのだ。
「……ジーニアス?」
「あ…………は、はい。よ、喜んで!」
思わず、声が裏返ってしまっていた。
ジーニアスとプレセアが発った後、南洋修道院は何も知らない内相の私兵によってなお厳重に警備網が張り巡られていた。
ロイドとコレットはアルタミラには戻っていなかった。さて、そうなると、リーガルはともかくとして、出し抜かれたリフィルの怒りというものは想像に易かった。
「人攫いのような真似をして、この後どうするつもりなの」
「もともとロイドの性格を考えれば、分かっていたことだよ、姉さん」
開き直りとも取れるジーニアスの言に、リーガルは神妙な表情を変えず、リフィルは失策か後悔か、ため息がよく絶えなかった。
アルタミラ行政府に蠎の情報がもたらされた。ジョルジュ行政長官(レザレノ社社長)はリーガルにその旨を報告。
ロイドとコレットはメルトキオのワイルダー邸に逗留しているとのこと。また、カーネル内相ら保守派、アンドリュース辺境公ら急進派ともども、どうも一枚岩ではないらしいとのもの。とかくテセアラ国王の求心力が著しい低下にあると、リーガルは語った。
「セレスの身柄を確保する前に内憂が山積しているみたいね」
リフィルの言葉にリーガルが息を吐く。
「ロイドの勇も必ずしも間違いではなかったと」
「あなたらしくもない。馬鹿言わないで」
リフィルの怒声に、リーガルは苦笑した。
「そうだな。しかし、ロイドは実に時に恵まれている。……時代を動かす力は、まさに時に恵まれなければ成せぬのやも知れぬな」
「……そのために、こちらの寿命が縮んでいては、意味がないわ。あの子たちの『冒険』、いつになれば終わるのかしら。最近、そればかり思っているのよ」
リフィルの長嘆に、リーガルは言った。
「若かりし者の特権というものだろう。あの戦いが終わっても、情熱が冷めぬことは素晴らしいことだ。リフィル、あなたも情熱、秘めているのだろう。それを消さずにゆくことは大敵を伐つよりも難しい」
リフィルが頷く。
「そうね。……あの時、私もクラトスと……なんて。もう、小言も疲れるわ。この歳でオバサンになるのは不本意」
ごまかすように笑った。リーガルはわざと聞き流して、一緒に笑った。
それから三日。事態急変などの報せなどはない。アルタミラに帰還したジーニアスとプレセア。セレス暗殺という目前の危急を脱し、精神的にも落ち着きを取り戻した筈だったが、ジーニアスの心は揺れていた。
(アルタミラに戻った時で構いません。……お話があります)
プレセアがそう言って三日。彼女は何故かジーニアスと目を合わそうとせず、不意に視線が重なると、ぱっと背けて小走りに去ってゆく。
(避けられている……)
ジーニアスの動揺は、大きな不安に駆られていた。裡に哀しみを抱えてきた少女。
プレセアがいなくなってしまう……。
漠然とした憶測。天才少年・ジーニアス=セイジは、振り返った視線に映る、少女の華奢な背中に、風に散りゆく淡い光のプリズムが重なって見えた。
そして、この日もまた、すれ違う。愛らしい顔をうつむき加減に、ジーニアスを避けるように踵を返す。
「プレセアッ」
「あ…………」
思わず、腕を掴んでいた。
エクスフィアの力とはいえ、かつて大きな戦斧を自在に操っていたとは思えない程の細い腕は、ジーニアスでも簡単に掴めた。
放さない。そんな意志を感じ取ったプレセアはゆっくりと腕の力を抜いて、振り向いた。
ほんのりと紅く染まる頬。やはりジーニアスの瞳を捉えるには、まだ何かが足りなかった。
「プレセア……話って――――」
ジーニアスの促しに、プレセアはこくんと頷いて言った。
「遊園地……行きたいです」
それは何か思いつめたような感じの表情だった。孤独感に囚われ、淡い瞳はそれでいてどこまでも深く落ちそうで、しっかりと押さえていないと二度と戻らなさそうで、少年は『思いきり抱きしめたい』と思った。
「うん。僕もプレセアと、行きたかったんだ」
ずっと、願っていた。
柵のない、好きな女の子との時間(デート)を。