Last supplementary.2
can wait forever~廻りゆく時の河岸で~


 笑顔の意味なんてあるのだろうか。楽しい時、嬉しい時、哀しい時……人が見せる笑顔というのは時に意味深で、とても惹きつけるものだと言えないか。そして、それが誰よりも美しく、儚げな女性であれば尚更だろう。

 一介の青年と薄紅色の髪の美しい女性。傍目から見れば何でもない、普通の恋人同士だ。
 他愛のない話題に青年ははにかみ、女性もまた微笑む。並び歩く姿には決して万人の羨望の眼を受けつづけるような華やかさがあるわけではない。いや、それは正しい表現ではない。女性の美しさが、一見凡庸な青年の姿に相殺されているとでも言おうか。それでもやはり道を歩けば目を惹く存在であることに違いはなかった。
 彼女の見せる笑顔は確かな幸福を滲ませていた。青年と共に在る彼女の心は紛れもない、純粋な幸福を感じていたのだろう。
 クルツは喜んだ。仆れそうなほど懸命に現在を生きている彼女の力になれたのかと思えた。そう確信できる、二人の笑顔だった。

 その言葉から一年。時の奔流と言うものが静かに、それでも確実な積み重ねとして彼女を運んで行く。
 躊躇、羞恥、高揚、悲哀…。人としての情緒を噛みしめる。その人と共に。
 リーガル・ブライアンがアルタミラに戻る。国民議会発足の多忙さにあって、その時間はあっという間に過ぎていった。
 久しぶりに戻る街、その変わらぬ人々。民主国家への希望に溢れ出す活気にリーガルは眼を細めた。
 そして、その数多の衆中に見つける。彼が知るものとは違う、美しい笑みを浮かべる彼女の姿を。
 リーガルが知り、そう“あるべき”はずの人物ではなく、彼女の“確かな未来”を歩むべき人物の横で、彼女は新しい笑顔を浮かべていたのだ。
「しばらく見ぬ間に――――」
 誉め言葉が続かない。プレセアには滅法、弱い。
「随分と、幸せそうになった……」
 リーガルの言葉に、プレセアは少し恥ずかしそうにはにかむ。
「風は、暖かな方が良い。春は人をも豊かにする。初夏に心を躍らせるようにな」
「くすっ……リーガルさんって、本当に言葉に汚れを感じないんですね」
「思ったことを述べているだけだが……それは買いかぶりだな。私も、随分と中央にいて揉まれたと思っているよ」
 リーガルがそう答えると、プレセアは微かに微笑み、言った。
「変わってません……リーガルさんは、リーガルさんです――――優しい、立派な……」
 不変への羨望。人は変わらないことを心の何処かに抱いている。
 それはきっと、自分自身への憧憬。夢見ていることへの憧れなのかも知れない。

 星見の高台に足を運ぶ。
「まだ、ここに来ていたのか」
 リーガルが半ば驚き、半ば呆れて言った。

「――――この場所は、私がここにいられる一番大きな理由ですから」

 彼女はそう言ってはにかむ。
 潮風が通りすぎて行く高台にあって遠くに眼差しを向けるプレセアを、リーガルは不安そうに見つめる。
「エリュオン君。君は何とも思わないのか。プレセアは……」
「リーガルさま」
 清々しさすら感じさせるように、彼は微笑みを向ける。

「そんな彼女で良いのです。……そんな彼女だから――――私は――――」

 あの時の言葉……。誰にとっても、人生一大の転機であるだろうプロポーズの言葉。
 星夜。その答えを、プレセアはとても大切なことのように、ひとつひとつ、言葉を紡ぐように言った。

《――――私は、あの丘の景色がとても好きです。
 ……初めは、妹が好きだった景色をただ追っていただけだったのかも知れません。
 でも……それがいつしか彼――――あの人との大切な場所へと――――変わってゆきました。

 エリュオンは知っていますか。

 この大地(ほし)から、一番近い星――――マーテル・ピエタス座のオニス……。アスカが導く光の帆船でも、辿り着くのに二〇年です――――。
 そして、私が一番好きな星……フラテルノの二連星――――。アスカの帆船でも四五〇年なんですよ。……くすっ、私はもちろん、彼でもきっと無理です。
 ――――星が好きな私に、彼が教えてくれた星座……星の神話……。とても素敵なんですよ――――。
 宙(そら)に較べれば、私自身なんて、とても小さく感じます。
 喜びも、悲しみも……あの戦いの日々もとても瑣末な事のように思ってしまう……。
 だって、今見えるオニスの光は、私が心を失っていた頃の光……フラテルノの兄弟星は、遙かな昔、私やあなたの遠い遠いご先祖がきっと何処かで見ていた時に発した光……。そう思うと――――なんて小さな存在なんだろう……って、思うんです。

 十六年なんて、きっと刹那――――

 ……だから……待つことが辛いなんて、思わないんです。私は、そんな人間です……》

 それは否定の言葉だ。今、プレセアと遠い彼の隔たりは、たとえ星々のようであっても、決して廃れることのない繋がりを持っていると。

「やはり、あなたらしい」
 エリュオンは笑った。その意外な反応に驚くプレセア。
「あなたを一生の伴侶として生きて行ければ正に無上の奇跡。……ですが、どうやらあなたと思い人との絆には、遠く及びもしなかったらしい」
「……すみません……ごめん……なさい」
 逆に沈鬱とした表情を浮かべるプレセア。
「何を言いますかプレセアさん。それで良いんです。それこそ、私が惹かれたプレセア・コンバティールなのです」
 その時、プレセアの心の中で、エリュオンという男性の感情が不思議なもののように思えた。今まで意に返さなかった彼を除く異性という存在に、少しだけ心を揺り動かすものを感じるようになっていたのかも知れなかった。

 ――――でもね、プレセアさん。
 星は、そこにあるだけでは意味がない。
 誰かがこの地上で夜空を見上げて、その輝きを初めて美しいと感じることが出来るんですよ。
 眼差しを落とせば身を抱く闇夜を、美しいと想えることが……。

 エリュオン自身、それはきっと意味を成さず、ただ虚しいことなのかも知れないと思った。報われない恋愛に心を投ずることの惨憺さは沸々と感じる気がする。
 手に出来ない、辿り着けない。まさに彼女が心惹かれる天空の星々のような想い。宙を見上げ、自らも同じ宙にある。
 プレセア=コンバティールに心を寄せることが、彼女を追いかけて、アスカの帆船で大宇宙を駆けてゆく。気づかぬままに同じくしていた、十数年越しの想いが辛く苦しいなんて思う訳がなかった。

 リーガルにそんな二人の関係を責め立てることなど出来るわけがなかった。
 そんなプレセアと判っていたエリュオンの直向きな想い。遙か遠い彼方を真っ直ぐに見つめつづけられるプレセアの意志。そういう形もありなのかと思う。

 この一年、彼女の表情は紛うことのない、確かな幸せそのものだった。幸福であり続けた。それは、ずっと傍で彼女を見てきたエリュオンが一番判っていた。

 なのに、彼女は時折涙を零した。澄みきった空、くっきりと浮かび上がる水平の彼方、静謐の夜に満天を埋め尽くす星を見つめながら、表情は微笑んでいるのに、その瞳からは、無尽蔵のように宝石が落ちる。
「あれ――――おかしいです……埃でも、入ったのでしょうか……」
 鼻声でプレセアが苦笑する。見つめ合うエリュオンはただ無言で瞳を伏せ、背中からそっと彼女の肩を抱く。
 何も訊かない、何も答えない。プレセアの心の中に溢れた感情を受けとめる小さな小皿でありえた。

 彼女の身を抱こうと思えば、いつでも出来た。プレセアはきっとエリュオンを拒むと言うことはしない。出来ないのではなく、しないはずだと、確信できた。
 しかし、エリュオンは彼女に“求婚”し、共にあっても彼女に指ひとつ触れなかった。いや、触れてはいけない、触れられなかったのだ。
 その優しさの傍らで、やはり彼女は途轍もなく意志の強い女性だった。
 たとえその白く滑らかな肌を組み敷いたとしても、その唇や双丘を貪ろうとも、彼女が十余年も信じつづけてきた意志までも征服することなど、出来るわけがないのだ。
 だから、エリュオンは彼女の傍にいて、見つめつづけることにした。恋愛の最終的に行き着くところは、身体を重ね合わせて、子孫を残すことにある。エリュオンはある意味において純朴なプレセアを、その奇異とも言える想いを成就させることで、恋愛という感情を超えた、万人に勝る境地を得ることを望んだのだ。

「…………帰ってこなければいいとは、思わないのか」
 リーガルの問いかけに、エリュオンは苦笑して、こう答えた。

「帰ってこなければ良いと…………、そう思うに、決まっているではありませんか」

 星見の高台はその風景を変えない。プレセアが知る、あの旅路で触れた頃のままの雰囲気を、四季毎に醸す。
 もう何十回もその四季を見た。今では瞳を閉じて身体を回転させても、指を指した場所に何があるのか、当てることが出来る。
 潮風でくすむ真鍮製の釧は、時々磨いている。
 傷をつけないように、丁寧に磨いても、やはり年月の経過は表面に刻まれる。誰もが目を瞠る美しい女性なのに、ブレスレットはあまりにも粗末。目立った。

 メルトキオ中央政府・アンドリュース首相の暗殺未遂事件で混乱した連邦議会は、事態収拾もままならず内閣総辞職、議会解散を宣言。慌ただしく実施された総選挙では、アンドリュース首相の民主革命党がメルトキオやルイン、フラノールなどの大票田で議席を大幅に失い、第三党に後退する惨敗を喫した。
 リーガル=ブライアンのテセアラ社会民主連合は第二党に躍進。都市部・地方でも票を着実に上積みさせ、各選挙区でリーガルの党派は軒並み当選した。
 そして、その追い風に与り、アルタミラ第三区でテセアラ社会民主連合の公認を受けて出馬した、エリュオン=シーグルも、次点に三万近い差を付けて初当選した。
 アンドリュース首相暗殺未遂事件で議会解散まで及び、大混乱した政情安定のために、リーガルが招請してエリュオンは選挙出馬を決断したのだった。
「おめでとう、エリュオン……」
 ようやく人気の引いた祝賀会場で、プレセアはやっと、エリュオンにそう伝えられた。
「ありがとう、プレセア。あなたならば、きっと私の考えに賛意してくれるだろうと――――」
 連邦議会選出馬を、エリュオンはプレセアには相談をしなかった。喩え自分がどのような道を歩もうとしても、彼女は彼女自身の想いの中でエリュオンと共にあるだろう。
 彼女の遠い思い人。それはエリュオンにとっては決して敵わない。彼女と出逢って今まではずっと片想いに等しいものだった。確かな幸福も、思い人があったからだと、切なさもこみ上げてきたものだった。だが、それでもエリュオンは後悔は微塵とも感じなかった。この十余年は、確かに彼女と歩んでこられた。それが自信になった。
「私の元で、手伝ってくれないかな」
 かつてリーガルが初当選した時にも言われた言葉だった。プレセアは、それを断り、エリュオンが言った同じ言葉も、静かに、確かに、深い言葉で断った。
 エリュオンは議会議員に当選した時には、首都メルトキオに永住することを決めていた。政治家として、連邦国家のために邁進する。プレセアが行動を共にしなければ、それはきっと、遠い別離となる。互いの許に帰還を約束した、プレセアたちの別離とは違うもの。
 旅立ちは別れ難い雰囲気ではなく過ぎていった。また会おう、時々声を聴かせてくれ。
 プレセアのみならず、クルツやジョルジュなど、プレセアとリーガルに関わった多くの人々・支援者がエリュオンの前途を祝した。その一端に、彼女はいたのだ。

(――――この美しい硝子細工を……、私は守りとおせたぞ――――
 貴方ならば出来るだろう……五十年、百年――――貴方ならば、この硝子細工を美しいままに、愛しつづけることが出来るだろう……。

 ――――プレセア・コンバティールが、十六年……途方もない時間、一時も忘れ得なかった、貴方ならば……)

 夕陽に染まりかける星見の高台に背を向けて、エリュオンは街に、想いに別れを告げた。
 下る石段。伏せ気味の視界に、すっと入ったライトシルヴァーの髪。ふと、足を止めたエリュオン。ゆっくりと石段を上がるその人物に、思わず、声を掛けていた。
「ここに勝る風景は、ありません」
 その人物も足を止め、ゆっくりと振り返る。逆光で姿は判らなかったが、優しく、どこかしか無邪気な微笑みで、エリュオンを見ていたことだけは気がついた。
 そして、その人物はこう、返した。

「忘れられない景色です。ずっと、この場所に帰ってくる日を、待ち望んでいましたから」

 すうっと落ちるように、エリュオンの胸が空く。無意識に逆光の人物を見つめる。
「やっと……その……が、来たようだ……」
 エリュオンの呟きは吹き抜けた風に運ばれていった。
「では……」
 その人物はエリュオンの呟きに気づかずに会釈を送ると、再び背を向け、石段を登っていった。

 その後、プレセアが十六余年の想いを遂げたという話は、誰かの短い言葉の中で聞いた。
 しかし、その後のプレセアと、思い人とのことは杳として知れず。エリュオンもリーガルも、誰も追求することを快しとしなかった。

(それで良い。もう、心穏やかだろう)

 数十年後――――。

 その日、エリュオン=シーグル内務相のもとに、一人の老翁が訪ねてきた。
 ライトシルヴァーの髪の老翁は、清々しい笑顔を浮かべながら、深く、長くシーグル内務相に頭を下げた。
 永い、永い時間記憶を辿る。そして、思わず、シーグルは老翁の手を取る。
 老翁はシーグルを見上げ、微笑みながら、こういった。

 ――――あなたのおかげで、幸せであれたのです。ありがとう。本当に、ありがとう……。

 思い出が、とめどなく蘇っていった。