俺は携帯電話って奴があまり好きじゃあない。竜之介なぞは「あんなもん、自分の首を絞めるような器械だ」と言っている。
確かに、持ち歩いていると常に監視されている気がする。特に竜之介のような遊び人にとっては、携帯などでいちいち今、何をしているだとか、どこにいるのだとか訊かれるのは好きではないだろう。
「自分の首を絞める」とまでは言わないが、携帯電話が好きじゃない俺が何故持っているかというと、実はこれは親父が無理矢理俺に持たせている物なのだ。いついかなる時でも連絡を取れるようにしておけと言うことで、もちろん、経費は全て親父持ちだ。
俺は持って歩くことが好かないんだが、一度家に置いていたときに着信が入っていて、後でひどく怒られたことがあった。しかし、授業中でも電源は切っておくなという話はあまりにも無茶苦茶すぎる。まあ、要は家族との連絡用として持たされた代物なのだが、いつからか電話番号が流出していたらしい。時々だが変な電話もかかってくることがある。
俺は耳障りな呼び出し音に半ば憤慨しながらも、受話器を上げている絵のボタンを押す。
「はい、もしもし――――」
俺がだるそうにそう言うと、いきなりスピーカーから甲高い女の声が俺の耳を突き刺す。
(もしもし、トラか?)
俺はその声が誰なのか、すぐにわかった。
「何だ、洋子かよ。びっくりさせんな。」
(おいおい、ケータイ持っててびっくりしたはねえだろ。そんなことよりさ、なあ。今、暇か?」
「ん〜?何か用か?」
(暇だったらさ、ちょっとあたしに時間くれないか?)
「何だよ。それって、俺を誘ってんのか?」
(お前まで変なこと考えんなよ。ちょっとつき合って欲しいところあるんだ。竜之介の奴に声かけたんだけどさ、あいつ捕まらないし・・・あたしひとりじゃなんだから、お前につき合ってもらいたいって言うわけ)
「おいおい、俺はリュウの代役かよ・・・まあ、それはいいとして、つき合うって、どこに。」
(スタジオATARUだよ)
「えっ?、おお、そいつぁちょうどよかったよ。俺もこれから行こうと思ってたんだ。」
(そうか。じゃあ、いいな。んーと・・・だったら四時に如月駅前で待ってるぜ)
俺は腕時計を一瞥した。液晶には3:01と表示されている。
「わーった。お前こそ遅れんなよ」
(ああ、じゃあな)
がちゃ・・・プー・・・プー・・・プー・・・。俺はこの受話器を切るときの音と後の音が好かない。まあ、基本的に電話というもの自体があまり好きな質じゃないのだ。
よく近所の友達同士で三時間とか四時間とか長電話をするという女子生徒の話を聞くといつも思うことがある。『近所だったら、直接会えよ』。その前に、毎日会っているのによくそんなに話すネタがあるものだなあと、感心してしまう。まあ、彼女らが言うには、『電話の方が話しやすいことがある』とのこと。なるほど。言われてみればそうなのかも知れない。よくわからんが。
俺はそのまま八十八駅へと向かった。しかし、こういう予定が詰まったときに限って、不吉なことは起きるものである。そう、会いたくないというか、苦手な奴に出くわしてしまうものだ。
雑踏を避けながら歩道橋の中間までさしかかったとき、そいつにばったりすれ違ってしまった。
「あれぇ?南部君じゃないか――――」
スローモーションをかけたテープのような口調で、そいつは俺を呼び止めた。遠目からでも一発でわかる肥満体。やけにフレームの厚い黒眼鏡から覗くいやらしい目。右肩に常にぶら下げているアルミのボックス。この中にはプロ顔負けのカメラ機材がぎっしりと詰まっているだろう。こいつは俺の同級生で、『長岡芳樹』という男だ。性格はねちっこく、なれなれしい。それだけならまだ許せるが、何と三度の飯よりもパンチラが好きだと高言している、変態野郎なんだ。入学当初からそんな態度を臆面もなくさらけ出し、一気に全校生徒の心象を悪めた。学校ではもちろん、写真部に速攻、入部。カメラの技術は俺も認めている。だが、それをパンチラ写真などという低俗な分野に発揮していることが情けない。そのために、誠実な部の諸先輩方は、こいつが入部してたった三日ですべてやめてしまった。
根はいい奴なんだが、俺が何度となく注意しても、聞こうとはしない。いや、その時は聞くのだろうが、一晩寝ると忘れる、と言ったタイプなんだ。
俺は苦笑いを浮かべて足を止める。
「長岡。お前、何してんだよ。また、コレか?」
右手でカメラのシャッターを押す仕草をする。長岡は卑わいな笑みを浮かべて俺を見る。
「クククク・・・さすが南部君、察しがいいねえ。」
察しがいいも何も、お前がそいつをぶら下げているときの行動パターンは決まっているだろうが。
「でもね、今日はちょっと違うんだなあ。今まで如月町に行ってたんだよ。」
(駅前歩道橋の階段の下にでも待機してたのかよ)俺は心の中でそう呟いてため息をもらした。
「カメラの調子が悪くてさ、ATARUのカメラショップに行って修理を頼んできたんだ。」
「修理!?」
本気で残念そうな顔をしている長岡をよそに、俺は喜々とした表情で声をうわずらせた。
「そうなんだよ。何でもさ、二週間くらいかかるって言われて、すごく悲しかったよ。」
「そいつぁ、おめでと・・・・・・いや、残念だったなあ」
ハッキリ言って、残念という気持ちは塵粒ほどもない。むしろ、これを機にこいつの性根をたたき直そうか、などという妙な期待に満ちあふれている。
「僕から写真を取ったら、何が残るってんだよう、まったく・・・。」
俺はちょっと考えてみた。うーん・・・・・・悪い長岡。他にいいところが見つからない。お前はカメラあっての長岡芳樹だ。
「とにかく急いで直すようにって、店員と五時間話をしてきたところなんだ。」
「ご、五時間!?」
どうやら奴は開店時間からカメラショップに居座っていたらしい。『すぐに修理に出します』という店員の言葉も信用できないのか、とにかく念を押しつづけ、根負けした店員がメーカーに電話をし、強引に長岡のカメラを引き取るまでを直にその目に刻み込み、かつ、引き取りに来たメーカーのサービスマンにまで延々と念を押しまくり、結局五時間もショップのレジにいたのだという。長岡だったらやるだろう。命の次に大事なカメラの故障は、長岡を親にたとえると、幼い子供が不慮の事故にあったときと同じ心境である。しかし、五時間もカメラのために居座るとは恐れ入る。どのみち、二週間という修理の期間には影響がないとは思うのだがね。彼のがんばりに水を差すようで悪い気がするが、俺としては直ってきて欲しくないと言う気持ちの方が大きい。
「新しいもの買ってくればいいじゃんか。」
我ながら心にもないことを言う。だが、一応長岡に気を遣っているつもりだ。
「う〜ん・・・でも僕は、あのカメラじゃないとだめなんだ。」
愛着というのか、一体化するというのか。こだわっている人間は大概そう言うものなのだろう。古くなっても壊れても、長年使ってきたものを捨てるに忍びず、愛用しつづけるものだ。
まあ、こいつから言わせると、今流行のデジタルカメラなどいうものは素っ気がない。やっぱりフィルムで撮影して、暗室にこもり、現像液の中で徐々に浮かんでくる画像を見る。その間がたまらなくわくわくするんだ。などと言うに決まっている。だから長岡、言わなくてもいいぞ。と、思っていてもやっぱり言いやがった。
「ところで南部君は何をしているんだい?こんなところで」
その問いかけに、俺ははっとなった。時計を見ると、3:19。うーん、3:15の如月行きは行ってしまったし・・・次の私鉄の発車まであと一〇分か。
「そうだよ長岡、あぶなく忘れるところだった。」
「如月町でデートかい?」
察しがいいなあとは思わない。こいつの場合、相手の動向を勝手にデートと解釈し、勝手にその後の様子を解釈する。泊まりがけかい?などといやらしい口調で言う。お決まりだ。他の奴は不快な顔をするが俺は適当にあしらう。
「ま、そんなところだな。お前はこれから家帰っておとなしくするんだぜ」
「そ〜だね。カメラがないとつまんないし・・・、帰って本でも読もうかなあ」
「写真集だろ?そっち系の」
「クククク・・・きっついなあ・・・」
「おおっと、時間がねえ。じゃあなっ」
俺は軽く右手をあげてやつと別れると、駆け足で駅の構内に向かった。
「やれやれ、余計な時間喰っちまったな。」
息を切らしながらプラットホームに駆け込んだときは電車のドアが閉まる直前だった。長岡と話をしなければ、こんな危険な目には遭わなかった。そうは思いつつも話をしてしまう。俺って、変なところで気を遣ってしまう。
ともあれ、3:56には如月町に到着した。相も変わらず複雑な通路を慣れた足取りで雑踏をかいま抜け、改札口を通り抜ける。そして、エンジンの音と排気ガス、人やスピーカーの雑音さんざめく沿道に抜け、腕時計を見る。4:03。まあ、こんなものだろう。
「トーラッ」
後ろから不意に俺の肩に軽い感触が走った。驚いて振り返ると、そこには赤い長髪を都会の空気になびかせ、俺に向かって悪さをした少年のような笑みを見せている女が立っていた。南川洋子だ
「よ、洋子・・・ばかやろ、ビックリさせんな」
「なーにが《びっくりさせんな》だぁ。遅刻だよ、チ・コ・ク!」
そう言いながら俺の小鼻を人差し指でつつく。
「さ、三分くらい大目に見ろよ。」
「社会人は1分の遅れも許されないんだぜ。ま、それはいいけどさ、珍しいな。お前がぎりぎりに来るなんてさ。」
「それが、長岡の奴につかまっちまって、電車乗るの遅くなってしまったんだよ。」
「芳樹にか。あはははは、そりゃあ災難だったなぁ」
「聞いてくれよ。ラッキーニュースだぜ。あいつ、ご愛用のカメラフリーズしちまったらしいんだ。」
俺が喜々として長岡との話をすると、洋子もまた驚いたようなうれしそうな表情をする。
「あははっ、そりゃあいい。これでしばらくは世の中平和になるってもんだよ。でもあいつからカメラ取ったら、何が残るんだ?」
「俺も同じ事を考えた。答えは見つからなかったな。」
「だろー」
長岡の話に盛り上がる俺たち。何か大事なこと忘れてはいやしないか?
「おい洋子。ところでさ、なんか大事なこと忘れてはいないか?」
ぴたりと笑いを止めて、俺は洋子に尋ねる。洋子は少しの間、俺の顔を見つめて、思い出したように手を叩く。
「そうそう、スタジオATARU。ATARUにつきあってくれってんだ」
その言葉に、俺もようやく思い出した。そうだった。俺は桜子に贈るためのプレゼントを買いに来るつもりだった。そして、病院を出たときに偶然洋子からATARUに誘われたんだ。
「ところで洋子、ATARUに何を買いに行くんだ?まさか俺を誘って映画か遊園地はねえだろ。」
冗談っぽくそう言うと、洋子は本気で冗談笑いを飛ばした。
「あははは。あたしとお前とじゃどっちも釣り合わないよ。それに、今日はちょっと真面目なんだ。」
途端にどこか寂しげな表情を浮かべる洋子。何かあったのか?そんな些細な心配をよそに、洋子はいつものような明るい顔に戻る。
「ま、まあ。そんなことは行ってみればわかるさ。とにかく陽が暮れないうちに行こうぜ。」
「お、おい待てよ。」
一人勝手に歩き出す洋子を、俺は半ば慌てて追いかけた。
『スタジオATARU』は、如月町の中心部にある巨大な多目的施設だ。地上二十階はあるだろうビルの中には遊技場やデパート、イベント用のホールはもちろん、映画館やプール、地下には地下遊園地などというものまであるから、いやはや現代人の娯楽がぎっしりと凝縮されているって感じだ。
『東京ディスティニーランドに行けないときはスタジオATARU』と、ある有名雑誌に数週にわたって特集されているほどだ。この中にないものというと、いかがわしい風俗店や、宿泊する場所くらいだってんだから、大したもんだね。田舎根性でいう訳じゃあないが、世の中本当に便利になったもんだ。
平日でも、ここは休日の盛岡のデパート以上の賑わいを見せる。だから、土日ともなると慣れない地方の人間は迷子になるか、途中でダウンするかのどっちかだろう。俺は東京暮らしがそこそこ長い方だから平気だがね。
なれた足取りで街の雑踏をくぐり抜けた俺たちは、ATARUの前にたどり着いた。
「なあ、洋子。何買うんだ?」
今日はちょっと真面目なんだなどと、彼女には珍しく意味深な発言をしているからにはまさか洋服とか装飾品の類ではないだろう。それに、恋人でも何でもない、ただの仲のいい友人である俺に、好きなものを選定させるつもりでもないだろう。
まあ、俺としても、桜子にプレゼントするものを買いに来るつもりだったから、ついでに洋子にもつきあってやるくらいの余裕はあった。彼女のことを深く追求するつもりはないが、何を買うかによっては俺の用事は後回しにした方がいい場合もある。何て言っても俺のはかなりの荷物になりそうなものだからな。だから、一応訊いてみたわけだ。
「トラ、ついてきてくれ」
俺の質問に答えず、洋子はスタスタとエレベーター乗り場の方へと歩幅を大きくする。俺は怪訝な顔つきで後を追う。
ぎっしりと詰まったエレベーターに何とか俺たちは乗り込む。俺と洋子は開閉ドアにへばりつくように立つ。はっきり言ってこんなにすし詰め状態になるくらいなら、たとえ最上階に行くにしても階段を使った方がはるかに疲れないような気がするのだが。
『13カイ。シコウ・コウゲイフロアーデス』
チンという電子レンジのような音と共に、13回目のドアが開くと、洋子はあっさりとエレベーターを脱出した。
ここで降りるのか・・・。
俺は下半身を突っ張らせて、背後から押し出されないような体制をとっていたため、洋子の後を追うようにエレベーターを降りると、俺をつっかえ棒にしていた背後の中年のおやじとOL風のねーちゃんが、支えを失って軽い悲鳴を上げながら重なるように体勢を崩し、エレベーターからはみ出されていた。
「嗜好品と工芸のフロアーか・・・なになに?『チベット仏教展示会開催中』だって・・・さ」
派手な横断幕が通路の天井にぶら下がっていたのだが、ものすごくつまらなさそうなイベントの名前に思わず大きなため息がもれた。
13階は全フロアーが世界中の嗜好品と骨董工芸美術品の展示・販売専門となっている。もちろん、賑わっているが、客層は中年以上の年輩の人たちが多い。そりゃあそうだろう。ここで売っているものは大概がウン万円以上のものばかり。しかも今時の若者の心を捉えるような代物はほぼ皆無である。かくいう俺も全くと言っていいほど興味はない。しかし、なぜ洋子はこんなところで降りたんだろうなあ・・・。
まさか洋子、この性格で実は美術マニアだとか――――いや、骨董コレクターかな?・・・それとも、この『チベット仏教展示会』とかいうやつを見に来たんかい?
そんなことを思いながらも俺は考えた。確か、洋子の家は『モトプラザ』というバイク屋を経営しているはずだ。彼女も小さいときからドライバーやらレンチとかを玩具代わりにしてきたという、根っからのバイク好きと聞いている。まかり間違っても、彼女にとっては、こんな無味乾燥な“ゲージュツ”などを好きになるはずはない。決めつけなくてもわかるって。
「ついてきてくれ――――」
洋子は不意にそう言って、先に立って歩き出した。おいおい、マジにこんなところに用事があるのかよ。
俺は周囲の珍しいらしい美術品類には目もくれず、ただ洋子の背中を追った。洋子も周囲には一切目もくれずに、嗜好品コーナーの方へと歩を進める。
そして、彼女は世界の煙草類が陳列されている棚の前で足を止めた。
「何だよ。タバコ買うためにここまで来たのか?」
「・・・・・・」
俺の不満味含めた言葉にも、彼女は反応しない。
「何も高校生だからってそんなにびくびくする必要なんかねえだろ。吸いたきゃ吸えばいいじゃんかよォ。こそこそと俺を見張りにでも使うつもりなのか?」
物珍しい世界いずこのタバコを買うために、洋子はわざわざ俺と待ち合わせたのか。だとしたらとんでもない酔狂だ。自分が吸うタバコくらい自分で買えって。俺だってタバコくらいやるんだぜ。しかも白昼、駅前の自販機で堂々と買っている。何が悪い?
『二十歳未満の喫煙は禁止』なんて法律は俺にとっちゃあ実にくだらないね。大人どもは俺たち『未成年』がタバコ吸うと、血相変えて怒ったり、教師などはやれ停学だ、退学だ、父兄指導だなどと騒ぎ立てる。『あんたたちだって、俺たちの時からタバコ吸ってたんだろ?』と言いたいね。
二十歳の誕生日が来て、待ってましたとばかりにライターの火を灯すなんて律儀な奴っているかよ?タバコにしろ酒にしろ、歳に関係なく興味を持ったらやればいいのさ。他人に迷惑をかけなければ別に構わないと思うぜ。法律なんて、見方変えりゃあ人の自由を束縛する代物だ。
タバコや酒が身体に害を及ぼすなら二十歳未満じゃなくて、生きている内は禁止にしろってものよ。・・・あ、そうなると酒タバコはこの世から抹殺するってことか。
とにかく洋子、君は誰にも迷惑をかける訳じゃないんだ。大人たちの偏見や常識なんか気にしないで、堂々と買えよ。タバコ買うためにつきあわされたのは、実にくだらないけど、来たからにゃあ支援するぜ。
俺のそんな覚悟をよそに、洋子はため息をつきながら熱心に商品を見回している。
「なあ・・・洋子・・・」
俺が再び声をかけると、彼女はまた一つため息をついてようやく口を開いた。
「トラ――――悪いけどさ、《キセル》・・・探してくれないかな?」
「はぁ?」
俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。おいおい、キセルって、あのキセルかよ。管みてえなのにタバコ詰めてプカプカ吸うやつ?ポパイが愛用している・・・あれか?
さすがの俺でもキセルには驚かされた。洋子の奴、タバコはタバコでもキセルのタバコとは随分とマニアックじゃないか。今時、キセルを使ってタバコふかす奴なんて、古風な作家とか、格式のある家の老人だけだと思うぜ。いやあ、凝っているというか、渋いというか。高校生のやることとは思えないねえ。
「勘違いすんなよ――――あたしのじゃないからな」
奇妙に感心している俺の意図を察知したのか、洋子は独り言のように呟いた。何だ・・・そうか。俺は一人心の中で演説していた自分に呆れ気味になる。自分に対し白けているのをよそに、彼女の視線は陳列されているタバコ用の器具を追っているままだ。
「おい・・・あったぞ」
俺はあっさりと答えた。ちょうど洋子が探しているキセル類は俺の陰に隠れていたのだ。
彼女ははっとして振り返り、俺の後ろに視線を送る。長いもの、短いもの、単純な作りのもの、見た目複雑なもの、模様が彫り込まれているもの、無地のものなど、とにかく色々な種類のキセルがそんなに幅のない棚にずらりと並べられている。
「…………」
洋子は食い入るようにそれを手に取りながら時には唸り、ため息をついている。あたしのじゃない?だったら誰だよ。おまえの彼氏か?キセルを使ってタバコ吸う彼氏ってったら、金持ち気取りの得体の知れないおやじかよ。お前ともあろう女が、はした金見せつけられてのこのこついていっているんじゃねえだろうな。今流行りの『援助交際』とかいうやつをやってんのか?ありゃあ、れっきとした『売春』だぜ。やめとけ洋子。お前はもっとしっかりとした考えのある人間だ。そんなことして、人生無駄にするような質じゃねえだろう。
俺が一人でそんなことを心の中で叫んでいると、彼女が不意に呟いた。
「おやじ・・・どれがいいかなあ・・・」
俺ははっとなって彼女を見た。おやじ?おやじって、洋子の父親のことか?
「なあトラ。どれがいいと思う?」
「・・・・・・え?」
俺はぼう然としていた。洋子の顔が小さな怒りに染まる。
「何ボーっとしてんだよっ!・・・ったく・・・おやじへのプレゼントだよ。」
「おやじって、洋子の父さんのことだよな?」
「なに当たり前なこと訊いてんだよ。トラ、さっきからお前・・・なんか変なこと想像してないか?」
うーん・・・鋭い。言う通りだぜ。いや、俺ってさ、ちょっと考え込んでしまうと想像が極端なんだ。悪い癖だな。いや、許せ。確かに冷静に考えてみりゃあ、お前が『援助交際』なんてするわけがねえな。タバコを吸うのは知ってるけど。
「それよりもさ、一緒に選んでくれねえかな。もうじきおやじの誕生日なんだ。」
へえ・・・父親の誕生日プレゼントか。洋子って、見かけによらず結構親孝行なんだな。
「わかったよ。そう言うことなら喜んで」
俺は感心し、洋子と肩を並べながら、キセルが並べられている棚に目を配った。
「これなんか、いいんじゃねえか?」
俺は柄の部分が虎縞模様のキセルを手に取り、洋子に差し出した。
「え〜〜〜〜〜ちょっとハデ過ぎないか?」
「そうか?なかなかいいと思うけどなあ、お前の親父さんに」
「トラ、あたしのおやじはやくざじゃない」
じとっとした眼差しで俺を睨む洋子。その口調はマジが入っている。おいおい、俺はふざけてなんかいねえって。
「もっと地味なのでいいよ。」
そう言うと再び陳列棚に目を移す。俺も虎縞のキセルを元の所に戻すと、洋子と顔を並べるようにして品定めに専念していた。
「これなんか、どう思う?」
そう呟いて洋子が取り出したのは全体に木目が施されただけのシックなキセル。
「そうだな。それだったら難もなくて、落ち着いた感じがある。いいと思うぜ。」
俺がそう言うと、洋子は「そうか」と短く返し、横顔に少し憂いをたたえる。
「お前がそう言うなら、これにするかな――――」
「おいおい、俺が言うからって、そんなん決めんのはお前だぜ、洋子」
俺は即決した洋子に念を押すように言う。
「――――いや、これでいいよ。他のも見たけど、おやじにはシックなのが似合うし、きっと喜んでくれるさ…」
どこか寂しそうに微笑む洋子。何でそんなに寂しそうにしているんだ。
「な、なあ――――」
俺が話しかけようとした瞬間、洋子はいつもの笑顔に戻っていた。そして、軽い足取りで選定した誕生日プレゼントのキセルをレジに持っていったのだ。
「話すタイミングが……」
俺は一人取り残され、呟いた。
「いや、悪いなあトラ。」
リボン包装された長方形の箱を手に、洋子が俺のそばに来た。
「そう言えば、お前も何か買いに来たんだろ?」
やや息を切らした感じで、洋子は訊いた。
「おおよ。俺はペット売場に……」
俺が思わず声を張り上げると、洋子は一瞬ぽかんとしたような顔つきになって、途端に笑い出した。
「ペットッ!?トラ、お前ガラにもなく動物なんか飼うつもりか?」
眉を離して揶揄する洋子。俺は不覚にも顔を赤くしてしまう。
「ば〜か。そんなんじゃねえよ。ちょっとな…」
「ふ〜ん…ワニでも買って天道のアパートに送りつけるつもりか?」
詮索するような眼差しの洋子。ちょっとは俺をドキつかせるセリフが飛び出してくるかと思ったが、はてさて、どこからそう言う発想が生まれて来るんだよ。
「おいおい。リュウの奴なら考えそうなことだけど、俺はわざわざ自腹切ってまで嫌がらせなんかしねえって」
「でもさ、天道の奴、本気では虫類系だめらしいよ。」
「ああ見えて、天道さんにも結構いいところあるかもよ?」
俺が素っ気なく言うと、洋子は妙に感心したようなため息をもらす。
「ホント、お前ってさ、脳天気っていうか、幸せな奴って言うか…さすがは《若様》育ちって感じだよな…」
「その《若様》って言葉はやめてくれ。一番気にしてることだ。」
「でもさ、本当にお前って、殿様の子孫なのかよ。全然そう見えないけどなあ。」
「盛岡藩二十万石、南部家の出身でござるよ」
俺はわざと仰々しくそう言うと、洋子は首を傾げる。
「ナニ藩だかなんて、あたしよくわかんないけどさ、要するにお前って、《お偉いさん》の出だろ?その割には全然鼻にかけたり、気取ったりしねえよな。西御寺の奴とはまるっきり正反対だよ。」
「西御寺?ああ、A組の西御寺有朋か。」
俺は無関心に言った。
「あいつも確か、元《クゲ》の出身だとか何とか言ってたよ。」
西御寺有朋――――奴の事はよく知っている。
洋子の言うように西御寺家は京都の公家の流れを汲んでいる名家で、明治時代に貿易商に転じ、巨万の財を蓄え、《西御寺財閥》を作った。小さい頃、爺さんや親父から耳が痛くなるほど聞かされていた話だが、明治維新前の戦争で、俺の家の本家である盛岡藩南部家は幕府側について賊軍となった。かたや西御寺家は官軍の総大将・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の腰巾着となって、大した功績もないのに幕府側についた人たちを次々に処罰していった。当時の盛岡藩主も、西御寺の当主有亨(ありとし)の言いがかりで危うく殺されるところだったという。以来、南部家と西御寺家の因縁は始まったが、西御寺は貿易で成功し、南部は苦しい時を経てきた。
そして、俺のひい爺さんが分家を興して、親父が建設会社を設立したのだが、因果は巡るというのか、資金繰りを巡っているうちに、俺の親父と、西御寺の親父有行が出会っちまった。もちろん気位ばかりが高い西御寺の親父はそんな昔の話を取り出し、俺の親父を貶して相手にしなかった。
親父の苦労を思えば俺も西御寺などという名は聞きたくもなかったんだが、運命って奴は奇妙なもんだ。俺が八十八学園に入学すると、西御寺の息子有朋も同じく入学していた。
俺はそんな昔のことなどを気にかけるような質じゃなく、西御寺有朋という奴のことも、気にかけるような人間だとは思ってもいなかった。要するに、俺の眼中にはない奴。そう言った方が簡単かな?
だが、有朋はそう言ったことに執着するというのか、バカがつくほどプライドが高くて、一方的に俺に対し闘争心を燃やしている。俺のことをバカにしているような言動を取っているらしいが、俺は寸分も気にしていない。有朋がいちいち絡んできても全く気にもとめないので、有朋もやけになって突っかかってくる。
「そういや有朋って、何で俺とかトラに突っかかってくるわけ?」
「知らないよ、そんなこと。お前、昔、何かしたんじゃないの?ほら、あいつってさ、すごい根に持ちそうなタイプじゃん」
「う〜ん…思い当たりはあるんだけどさ、俺には直接関係ないことだからな。」
「何だよそれって…」
「昔話みたいなもんさ。それよりも何で有朋の話になってんだ?」
「何で?」
とにかく、有朋のことなどどうでもいい。俺はペット売り場に用があるんだ。
俺の目的地であるペット売場は四階フロアーだ。このビルは各階共に専門フロアーとなっているから、迷うこともなく、欲しい物や興味のある物を一日中散策することが出来る。まあ、人から言わせれば、野球グラウンドなみのだだっ広いスペースに『こけし』だらけはないだろ〜と言う。確かにこけし専門フロアーというものもある。しかし、はっきり言って、客足はない。洋服や宝石などのフロアーは常に女たちでごった返し、玩具フロアーは子供たちの姦しさが絶えることがない。なまじでかい割にはあまり生活の役に立つフロアーが少ないのが玉に瑕と言ったところだろう。
さて、俺の目的地であるペット売場はさすが土曜日だけであってペットマニアから遊覧者まで人が溢れている。
ここはゴキブリみたいな昆虫からタランチュラのような有毒怪物まで、実に多種多様なレパートリーが並んでいる。意外と好評を得ているのがワニのような両生類系。見た目はグロテスクな生き物が人気を博していると言うから、本当に世の中の流れというものはよく解らない。
「トラ。お前、何を買うの?」
嗜好品フロアーで俺が訊いたような口調で洋子も尋ねる。
「つちのこ」
「ふーん…」
あれ?冗談で言ったつもりだったのに真に受けられてしまった。
俺はキョロキョロする洋子を導くように向かったのは、小鳥のスペースだ。カナリヤや九官鳥、伝書鳩など、よく家の玄関先などにいるおなじみの顔ぶれはともかくとして、カラスやスズメなどまで売り物にしてるのはどんなものなのかね。
「さて……と」
俺はカナリヤが並べられている棚の前で足を止める。
「カナリヤかぁ――――」
何か期待はずれ…と言ったような感じで洋子は呟く。
「何だかんだ言っても、やっぱり一人暮らしが寂しいんだろ?」
「違うって。…仕方がない。種明かしをするか。」
別に隠し立てをすることもないから、俺は言った。
「市民病院に入院している従妹にプレゼントでもしようかと思ってさ。」
そう言うと、洋子は不思議そうな表情で俺を見る。
「従妹?あれ、お前に従妹なんかいたの?」
「あ、言ったことなかったか。」
「全然そんな話しないじゃないか。」
早く言えと催促するような口調に、俺はやや照れ気味に言った。
「杉本桜子って言って、俺らと同い年の子なんだけど…体が弱くてね、本当ならば俺らと同じ『やそ学』に入学するはずだったんだけどさ――――」
それを聞いた瞬間に、洋子はすべてを察した。不思議とフィーリングが合って知らない間に親友となった洋子。お互いにすべてを語らなくても、お互いの気持ちというものが分かり合える。実に素晴らしい親友を持ったものだよ、俺は。
「お前ってさ――――一見いい加減そうに見えるけど、全然そんなことないよな。」
「アハハ…そんなことあるって」
「いや、本当にそう思うよ。…だって、こんなあたしにでもつき合ってくれるし、人が悩んだりしてるとさりげなく気を遣ってくれるしさ。ホント、優しいよな」
そうなのか?俺自身は全然そんなことは思わないけど。
「寂しがってる従妹に小鳥のプレゼントか――――。何か羨ましいって言うか…何かいいよ。」
どことなくうっとりとした声で洋子は呟く。
「女の子じゃなくて、もし男の子でも同じことするか?」
「当たり前だよ。ま、さすがに男だったら小鳥じゃなくて、何か遊べるものな。」
「ごめん、お前にとっちゃバカな質問だったな。」
洋子は心なしか寂しげに微笑む。
「…それで、どれにするんだ?」
洋子も鳥かごが陳列されている棚に目を配る。
「これ」
俺はすぐに指さした。全体が白で羽先がまばらな黒斑のカナリヤ。
「早い早いっ!ちゃんと選べよ。心からの贈り物だろう?」
洋子の怒りが俺に向けられる。
「いや、ちゃんと選べって言われても……ここ、この白い奴と黄色の奴しかねえぜ。」
なぜか目を瞬かせながら俺は言う。すると洋子はひととおり棚を見渡してから呆れたようにぼやく。
「あれ?ホント、マジかよ。…何だよここ、だだっ広い割にたった二品種しかねえのか……」
それが『スタジオATARU』のちょっと…いや、かなり変わったところなんだな。
なぜか洋子の方が不満げな面もちをたたえながら、俺は白のカナリヤが入っている鳥かごをひとつ取り、レジの方に持っていった。