TRUE FRIENDS

第5話
ケア・フォー・フレンズ

「なあ、トラ?」
 鳥かごを両手に抱えたさえない姿でスタジオATARUを出た俺と洋子。夕方の雑踏の中、足を如月駅の方に向けたときに洋子が俺を呼び止めた。
「つき合ってくれたお礼って訳じゃないけどさ、ステーションホテルで飯でもおごってやるよ。」
「はぁ?…別にいいよ。俺だってこうして買い物につき合ってくれたわけだしさ。」
「そんな事言わないでさ。つき合ってくれよ。」
 いつもの口調で洋子は微笑んでさえいたが、おふざけなんかじゃなくて、どうもマジが入っているように見えて仕方がなかった。
「わ……わかったよ。」
 気圧された……ってわけじゃなかったが、今日は洋子につき合わなければ後で悔やみそうな、そんな不思議な感覚に俺はとらわれていた。
「いいよ。俺がおごるよ。」
「えー?いいって。あたしが誘ったんだから、あたしにおごらせろよ。」
「うるせえ。女におごってもらったとあっちゃあ、男の名が廃る」
「それって女性蔑視発言だぜトラ。いいから今日はあたしにおごらせろっ!」
「黙れ黙れっ。そんなことされちゃあ南部家の家訓に背くっ!」
「おいおい……西御寺みたいな事言うなよ。」
「その前に南部家の家訓ってあんのか?」
「あたしに聞かれても困る」
 まあ、どっちが肩持つ持たないって、よくある光景、よくある他愛もない言い争い。五分程度のすったもんだの末に結局は割り勘ということになった。鳥かごの中のカナリヤが何度もバサバサと羽音を立てる。

 ステーションホテルは如月町駅に隣接された十四階建てのホテルである。屋上は子供たちの遊技場の他に五百人ほど収容できるライブスペースがあり、よくラジオ番組の公開録画が行われているらしい。今をときめく人気ロックバンドやらアイドル、演歌歌手までと、毎週のようにここでライブをするってんだから、いやあ世の流行りってものは全く理解が出来ない。余計なことだが、舞島可憐はここの上得意様なんだろうね。
 ええと、ちなみに今日は誰かな?ん…

『演歌界百年に一度の星の王子さま―――小金井沢しょうじっ!!華麗に舞い下ります!』

「ふう――――――」
「なに?どうした?ため息なんかついてさ」
「いや……」
「イヤか?……あたしと食事するの」
「違う違う。これ見てさ……」
 俺がチラリと入り口の脇に立てかけられている趣味の悪いハデな看板に目を配ると、洋子もそれを見てくつくつと笑った。
「星の王子様?華麗に舞い下ります?…あははははっ」
「もちょっとセンスのいい見出しにしろっての――――って思ってさ」
「同感、同感」
 などとどうでもいいことを話しながら、玄関をくぐると広いロビーには何と黒山の人だかり。しかも中年以上のおばちゃんばかり。
「ほ、星の王子様か。」
 俺が素っ頓狂な声を上げる。
「らしい…な」
「おいおい、こんなんでレストラン空いてんのかよ。」
「とりあえずフロントに行って聞いてみるよ。」
 洋子がワイワイガヤガヤと自分たち本位に騒ぎ立てるおばちゃん軍団の間をかき分けてフロントに向かう。そして十分後、ようやく戻ってきた洋子。
「どうだった?」
「ガラガラだってさ。」
「へっ?」
 意外なる返答に俺は呆気に取られてしまった。おいおい、こんなに人がいるのにレストランはガラガラなんか?
「評判悪いのか、ここのレストラン」
「入ったことないから知らないよ。…で、どうするトラ?やめる?」
「ここまで来て、おいそれと引き返せるかよ。味はともかく話のネタだ。行こうぜ。」
 俺が顔をしかめてそう言うと、洋子はホッとしたように顔をわずかに綻ばせた。
「おおっと。その前にこいつ、フロントに預けにゃあな。」
 俺は抱えている鳥かごをのぞき込んで頭をキョロキョロとさせているカナリヤを見つめる。
「あたしも預かってもらおうかな。」
「貴重品は預けましょう。」
「はーい。」
 半ばふざけながら、俺たちはフロントにそれぞれのプレゼントを預けた。

 ――――チーン――――

 無遠慮なおばちゃん軍団に何度も割り込まれ、十五回目にようやく自分たちの前でエレベータの扉が開かれた。
「やっとだよ……うわっ!」
「きゃっ!」
 無遠慮なおばちゃん軍団は容赦なく俺たちを押し込める。一瞬のうちに壁際に押しつけられた俺たち。無理矢理強引な連中どもに怒りを感じながらも扉が閉まり、それなりに落ち着いたと思われたとき、俺は不覚にもどきっとなった。
「よ、洋子…」
 俺の呼びかけに洋子も気づいたのか、顔が真っ赤になる。
「と、トラ…」
 そう。まるで缶詰状態のラッシュ電車のような空間に、俺と洋子の身体がぴたりと密着状態になっていたのだ。しかも当然だが離れようにも離れられる状態じゃない。むしろ無遠慮なおばちゃん軍団に押されてますます俺たちはきつく密着してしまう。
「は、離れろよ…」
 弱々しい声で洋子が言う。
「む、無茶言うな。」
 俺は何とか突っ張ってみせるが一向に効果がない。
「…………」
「…………」
 いわば密室状態で互いの胸がぴたりと重なっている体勢。互いに無言だ。おばちゃん連中の騒ぎ声が不思議と遠ざかって行く。洋子の顔はちょうど俺の肩のあたりにある。俺はわざと天井を仰いでいたが、ちらりと視線を落としてみる。
 赤く長い髪越しに見える洋子の睫もまた長い。そしてすっと伸びた鼻にきゅっと閉じられた薄い唇。色白で普段は気がつかなかったが、洋子って顔が意外と小さいんだ。
「なに…見てんだよ…」
 ふと気がつくと、洋子は顔を上げて俺を見ていた。目元をうっすらと赤く染め、やや切れ長の大きな瞳で俺を見つめている。
「い、いや…ごめん…」
 俺は思わず目をそらし、再び天井を見上げてからそう言った。
「…………」
 洋子は何も言わない。
 おばちゃん連中の喧噪などとうの昔に聞こえない。聞こえてくるのは自分の心臓の音と、息。衣服の擦れ合う音だけであった。
 男という生き物はみんなこうなんだろうかと思ってしまう。不可抗力とはいえ、こうして若い女性(じじくせえ表現で悪かったな)、しかも同じクラスの奴と身体を密着させていると、妙な気分になってしまう。考えたくはねえが、痴漢などと言う卑劣野郎の心境が何となくわかるような気もする。
 しかも今気づいたが、洋子は襟の開いた白のブラウスと紺のミニスカートという格好である。こんなん格好で満員電車なぞに乗った日にゃあ、『痴漢さん、どうぞ触って下さい』と言ってるようなもんだろうが。それに洋子はお世辞抜きでかなりスタイルがいい。こういう状況の相手が俺だからよかったもので、これが俺じゃなく西御寺や長岡だったら何をするかわからんぞ。竜之介…あいつはああ見えて結構真面目だから何もしねえだろうな。
「洋子…」
「え…?」
「お前、結構…胸あんな」
「なっ………ばかっ!」
 その瞬間洋子の拳が俺の脇腹に食い込んだ。
「ぐふっ…だ、だって仕方ねえだろ。俺の胸に当たってんだよ。おめえのが。」
「だ、だからっていちいち口に出すなっ!このスケベ野郎っ!」
 洋子はマジで怒っている。確かに。思っていても口に出すべきじゃあなかったな。しかもこういう状況で…。
「あらあら、ごめんなさないねぇ〜おふたりさん」
 おばちゃん連中のひとりが突然俺たちの方を向いてニヤニヤしながら話しかけてきた。
「いいわね〜ぼうや。そんなかわいらしい娘とぴったりくっついちゃって。」
 おめ〜らのせいだっちゅーのっ!
「どさくさに紛れて変なことしちゃダメよ〜」
 いやらしくニヤニヤするおばちゃん連中にムカッときた俺は強く一言言ってのけた。
「あんたらのせいじゃねえかっ、ほっとけっっ!」
「なによこのガキ。フンッ!」
 俺の一喝に手のひら返したように眉を顰めてそっぽを向くおばちゃん。全く、これだからいやだね。こういう連中は。
「わりいな洋子。もうすぐ着くからよ。あとちょっとの辛抱だ。」
「………」
 だが洋子の返事がない。視線を洋子に向けると、彼女は心なしか俺の肩に顔を埋めているように見えた。気のせいだろうか…。

 ――――チーン……ジュウヨンカイ レストラン【パワフル】デゴザイマス……

「どうやら着いたようだぜ。洋子、俺の後ろから離れんなよ。」
「う、うん……」
 俺の背中に洋子がぴたりと密着する。そうでもしなければこの無遠慮な連中からすぐに引き離されてしまうからだ。俺はわざと大きな声で連呼する。
「ちょっと御免なさいよ。失礼、失礼。」
 俺と洋子は強引におばちゃん連中の壁をかき分けて、地獄のエレベータから脱出した。
 チーン…
 異様な熱気から解放された途端、俺は大きなため息をついてその場にどっとへたり込んだ。
「ま、まいったぜぇ〜〜いっっ」
 一気に疲れが来るってのは、こういうことを言うんだろうな。
「階段使った方が良かったかな…?」
 洋子が屈んで俺の横顔を見る。
「はぁ…冗談じゃねえ。ここまでくんのに階段使ってたらそれこそ死んでしまうよ。」
「いい運動になるよ。お前、運動不足だろ?」
 にやりと笑う洋子。
「運動の前に時間を有効に使おうぜぇ〜…」
 このホテルも変わっていて、階段と階段はフロアーの対角にある。最上階まで直結していりゃあ有無もいわさず階段を使っていただろうが、いちいち各階のフロアー見学を兼ねてレストランまで行けるかって。
「まったくよぉ〜……ここ設計した奴一回見てみてえよ。」
「泥棒防止の機能があるらしいな。直結してるよりも対角にした方が万が一のことあっても大丈夫だって。」
「火事とかあったらどうすんだよぉ〜…ぜいぜい…」
「それもそうだな、はは」
「笑い事じゃねえべよ」
 俺は息を切らしながら視線を洋子に向ける。
「おい、洋子」
「ん?」
「おめえ、しゃがんでると……その……見えるぜ」
「あ……」
 途端に洋子は慌ててスカートを押さえながら立ち上がる。肉づきのいい長い脚が俺の目を突き刺す。思わず顔が赤くなって目をそらす。おかしいなあ…さっきまで全然そんなこと意識なんてしていなかったのに。
「ほらっ、トラ。いつまで座りこんでんだよ。早く席に着こうよ」
「ああ…」
 洋子に促されて俺は立ち上がった。

 このレストランはステーションホテルの最上階にあって、窓際からは如月町の景色が一望できる。特に夜景がすこぶる美しくて、カップルなんかには最高のデートスポットだという。多くの雑誌にも紹介されていたのを見たことがあるけど、何故か料理については触れられていない気がした。ただ見落としていただけなんだろうか。
「いらっしゃいませ……」
「うわっ!」
「!」
 いきなり低音の不気味な声が耳元に響き、俺と洋子は飛び上がりそうなほど驚愕の極地に追い落とされる。
「ばかやろっっ、びっくりすんじゃねえかっ!」
 俺は怒りに大声を発して声の主を向く。すると、全身黒ずくめの、まるでアクション映画に出てくるような狙撃者風情の男がナプキンを腕に提げて俺たちをじとっと見ている。
「な、何だよ…」
 俺の背中に思わず冷や汗が伝う。瞬時に過ぎったのは『恐怖』…
「ひっ…」
「へっ?」
 黒ずくめの男は、突然口許を歪めて嗤ったように見えた。
「ひっ…ひっひっひっひっ…」
「…………………」
「…………………」
 男の卑猥な嗤い声に背中に毛虫が這うようなおぞましい嫌悪感が俺と洋子を襲う。声も出せない。洋子は俺の背中に隠れるように立ち、肩ごしに男を見ている。
「す…すまん。み、店間違ってしまったようだ…よ、洋子…戻ろう。」
 冷や汗がたらたらと顔を伝い、苦笑を浮かべながら俺はそう言ってさっと振り返った。その時。
「あいや、お待ち下さい。」
 黒ずくめの男が風体に似合わない軽い声で俺たちを呼び止める。それはまるで呪文のように俺たちの足を金縛りのように竦ませる。
「いらっしゃいませ、レストラン『ぱわふる』へ。お食事ですね…。特等席にご案内いたします…」
 いきなり普通のウェーターになる黒ずくめ。俺らは呆気に取られて、返す言葉もないまま言いなりになるしかなかった。

「こちらでよろしいでしょうか。当店一、夜の景色が美しい席でございますよ。」
 黒ずくめはそう言いながらご丁寧に椅子を引いて俺と洋子を対面に座らせる。俺たちは目を見合わせて苦笑する。
「ご注文は……『ぱわふるスペシャルコース』でよろしいですね?」
 黒ずくめは勝手にそう言って去ろうとした。
「ちょっと待て。」
「ひっ?」
 またあの気色悪い嗤いだよ…。
「誰がそんな事言った。メニュー。メニュー持ってきてよ。」
「メニュー…で、ございますか?」
「当たり前だろう。スペシャルコースだなんて、勝手に決めんな。」
「お一人様三〇〇〇円の格安コースで、それはもう…ひっひっひ」
 なんか物凄く腹黒い陰謀みたいなものを感じるが、ここまで来たら俺も引き下がるわけには行かない。
「格安だかなんだかしらんが、レストランに来たら最初にメニューだろうが。つべこべいわねえで持ってきなよ。」
「か、かしこまりました……」
 黒ずくめはなおも気色の悪い嗤いを浮かべながら去っていった。
「な、なんか変わった雰囲気のレスだよね…」
 洋子が呟く。
「うーむ…見た目はごっついノーブルなんだけどね……」
 俺はちらりと店内を見回してみた。夜景が美しいと評判である所以は外の景色を見ることが出来る窓が、全面ガラス張りであると言うことだ。天井から床の部分まできっちりガラス。しかも、支柱というものが見あたらない。窓際をずっと伝っていっても、柱がなくオールガラス。これでどうやって建物を支えているんだろうと思わせるが、あまり深くは考えない。もちろんだが、開閉は不可能。仮に開閉式にでもされた日にゃあ、突発的な自殺者や不慮の事故者が確実に起きているだろう。しかも犯罪防止に階段が対角に設計されているように、このガラスは防弾ガラスである。火災などの災害を考えているのかいないのか。
 夜景を楽しむというキャッチフレーズの通り、室内灯はネオンランプのように常に薄暗く、全フロアを取り囲むダークライトがどこか怪しい雰囲気を醸し出している。更に全テーブルに備え付けの石油ランプは外国製の高級品らしく、どれも淡い黄色の光が揺らいでいて、美しい夜景を彩っている。
「あんなウェイターさえいなければ完璧にデートコースのゴールに近いスポットなんだろうけど…」
 俺はひとつ大きく息をついた。
「あのウェイターのせいで評判が悪かったりしてな。」
 と洋子が笑いをこらえる。
「何がスペシャルコースだよ全く……頼んでもいねえのに勝手に決めんなって。」
「ここに来る人たちって、ほとんどその『スペシャルコース』ってやつ頼むんじゃないのか?」
「第三者はそうだろうけど、俺らは違うんだ。一緒にすんなってな。」
「どんなもんなのかちょっと興味があるな。」
「そうか?」
「ひとり三千円だろ。こんな店で三千円のスペシャルって、意外と安い感じがしないか?」
「ま、そう言われてみりゃあ、そうだろうがね…」
「頼んでみようぜ。話のネタとしてさ。」
「ま、お前がそういうんだったら別にいいけど…」
 洋子の好奇心に圧されて俺らはメニューが来る前にもうオーダーを決めてしまった。
「お待たせいたしました。メニューにございます。」
「だぁっっっ!」
 またいきなり黒ずくめが耳元に現れた。
「どうか、なされましたか?お客様」
「だ、だから気配消していきなり現れんなってーのっ!」
「失礼しました…ひっ」
「その怪しすぎる嗤いもやめろっ」
 俺と黒ずくめのやりとりに洋子は必死で笑いをこらえている。最初の恐怖心はどこへやら、すっかり楽しんでいるようにも見える。
 俺はとりあえず黒ずくめからメニューを取り上げると、開いてみた。
「…………」
 そして、俺はわずかに固まった。
「どうか、なさいましたか?」
「おい、黒ずくめ。」
「ウェイターの早井でございます」
「どっちでもいい。何だこの文字は?」
「ウイグル語で、ございますが?」
「はぁ?」
「それが、何か…?」
「おい、フランス料理店まがいの雰囲気漂わせておいてメニューは訳わからん楔形文字かよ。誰か読めんのか、これ」
「当店ではメニューをご覧になるお客様はほとんどいらっしゃいませんので…」
「だからってなぁ…………まあいいや。オーダーは決まった。」
 俺は呆れてがくっと肩を落とした。
「『ぱわふるスペシャルコース』でございますね?」
「ああ、それふたつ。」
「かしこまりましたぁ〜……少々お待ち下さいませ〜」
 黒ずくめはやけに嬉しそうに肩を躍らせながら去っていった。
「何なんだ、この店はっ!?」
 俺は長嘆してテーブルに上体を伏せる。
「まあまあ…落ち着けよトラ。」
「しかし……はぁ……」
「お客様?」
「でぇ!?」
 いい加減にしねえかコイツ…。俺は変に慣れてしまったせいか、今度は過剰に驚きはしなかった。思いきり下がり目で黒ずくめを見る。
「きちんと足音を立ててましたが…」
「んなことはどうでもいい。何だよ?忘れもんか?」
「ええと…お部屋の方は…」
「あぁ?」
 俺は思いきり口を開けて歪ませる。
「その…お部屋の方のご予約は…いかがなさいますか?」
「………」
 何を言ってるんだコイツは。
「当店のサービスでございますが……ひっ」
 コイツ、腹だけじゃなくて内臓全部が真っ黒なんじゃねえか?
「おい、黒ずくめ」
「伊藤と申します。」
「さっきと違うじゃねえか。」
「…………」
 バカげたコントみたいなやりとりに洋子も今度は完全に呆れてしまっている。
「何だ?その部屋の予約って。」
「当店をご利用していただいた皆様は全員ご利用していただいておりますサービスでございますので……」
「黒ずくめ」
「早井でございます。」
「どっちなんだっ!」
「ひっひっひっひ……」
 俺の顔面から血の気が引いて行く。
「いらねえよ、そんなサービス」
「ご遠慮なさらずともよろしいのですよ?ご利用なされますと、何と6割引で……」
 あまりにしつこい黒ずくめにさすがの俺も緒が切れた。
「いらねえっつってんだろうがっ!いいから早く注文したもん持ってきやがれっ!」
「か、かしこまりました……」
 今度はひどく落ち込んだように肩を落としながら、黒ずくめは去っていった。今度こそ本当に去った。
「トラ…何もそんなに怒鳴らなくてもいいじゃんか。」
 洋子が悲しそうに俺を見る。
「怒りたくはなかったよ。……全く…何なんだここ。何がお部屋のご予約だよ。見た目はすげえノーブルで高級レストランなのに、やってることは最低だな。」
 すっかりムードがぶち壊されたよ。なるほど、これじゃあまともな客が来ないわけだな。
「なんか…悪かったな。誘って…」
 ばつが悪そうに洋子は言う。
「何で?全然そんなことねえよ。気にすんなよ。それに、いやだったらとっとと帰ってるって。」
「う…うん…」
 うつむいている洋子。だが、その表情は俺があの黒ずくめを怒鳴り散らした気まずい雰囲気から来ているものではないということを、俺はすぐに直感した。
「洋子…どうした…?」
 俺はじっと洋子の顔を見た。そして更に声をかけようとしたとき、突然エレベーターの方からワイワイガヤガヤと、うざったい喧噪が巻き起こり、それが俺たちの方に近づいてきた。俺が眉を顰めてそこを一瞥した瞬間、目を見張った。
「西御寺……」

 女三人ほどを引き連れて、そこに姿を現したのは西御寺有朋だった。得意げに両脇に寄り添う女の肩を抱いている。
 俺は無視するためにわざと窓の外に顔を逸らした。
「いらっしゃいませ、西御寺様、お待ちいたしておりました。」
 どうやら例の黒ずくめが対応しているらしい。
「ふふふ…今日は三人の美しい花が僕の午後のひとときを彩ってくれた。今夜はささやかなお礼をしようと思ってね。とびきりの『スペシャルコース』を頼むよ。」
「かしこまりました。…して、今日はいかほどのご予算であつらえましょう?」
「そうだな……午後に奮発して結構使ってしまったんだ…だから……そうだな、ひとり二万程度で頼むよ。」
「かしこまりました。いつもありがとうございます西御寺様…。では、お席の方へ…」
「ああ。さあ、君たちも行こうか。」
 何が二万程度だよ…思いっきり自慢してるよコイツは。まあ、別段気にもしていないが、どうも西御寺の喋ることはところどころ頭にくる。
 どうかこんな奴に気づかれませんように…などと願いながら通り過ぎるのを待っていた。しかし、世の中はそんなに甘くはなかった。
「あれ?…君は『南部親虎』君じゃあないか。」
 わざとらしく、なれなれしい声をかけてくる。しかもご丁寧にフルネームで呼んでるよ。
「へえ……南川君まで。こんなところで会うなんて、思ってもいなかったよ。はっはっはっは」
 いちいち突っかかるセリフを吐きまくる。どこに行ってもこいつの性格はこのままなんだろう。世界中で自分らが一番偉いと思っているという、ナルシストを人間にしたような奴だからだ。
 俺はコイツとそっくりな奴を知っている。そう、先負町時代、立石さんと犬猿の仲だった相原健二という人だ。彼は相原建設の御曹司って事でお高く止まっていた。もちろん女性遍歴は数知れず。桜木先輩を巡っての対立だったらしいが、結局桜木先輩は立石さんについてしまい、それ以来相原さんの話は聞いていない。ただ、噂ではここんところの不景気で、威勢を誇った相原建設も経営難に陥っていると聞いた。まあ、それが本当だろうとなかろうと今の俺には関係がないことだが。
 ともかく、こいつだ。気にはしていないとはいうものの、やはりいざ面前に現れると気分がいいものではない。無視しようか、それとも愛想よく応対するべきだろうか。西御寺嫌いの洋子は憮然とした眼差しを西御寺に向けている。
「洋子、それでさ――――」
「え?」
 と、言うわけでとりあえずは無視。どのみち気分が悪くなることしか言えない奴だから無視してからでもいいだろう。
「おい、南部。せっかく僕が話しかけてやってるのに無視すんのか?」
「……」
 やっぱりそう来る。西御寺は人から無視されるのが一番嫌いな奴だ。何と言っても『やそ学』で一番頭が良くて金持ちで、女にもてるのは自分だと思っているような奴だからだ。
 俺は細目で西御寺の高飛車な顔を見上げる。そしてわざとニヤリと笑う。
「おう、これはこれは"大念寺 ありも"君じゃないか。」
「西御寺だっ!"さいおんじ ありとも"っ!」
「はっはっは。まあ、そう興奮すんな西念寺君。」
 西御寺の顔が紅潮し、こめかみには血管が浮かんでいる。
「き、君は頭だけじゃなくて耳も悪いようだね…。僕の名前紙に書いてあげるから、持ち歩いていたまえ。君のために特別、僕の写真付きの名刺でも渡そうか?」
「あはははははっ。絶対にいらない。」
 "絶対に"と"いらない"を強調する。『いいです』、『結構です』などと言うと、こいつはマジで渡そうとする、悪徳通信販売のような姑息な解釈をするからだ。
「まったく…これだから賊軍の子孫は困るなァ」
 気に入らない相手の弱点や経緯を突いてそれを卑下する。『顔かたち』が綺麗な女性に対しては巧言令色と金を弄してものにしようとするくせに、それ以外はまるで自分の家来のような言動を取る、最低な奴なんだと。これは『やそ学』に通う『普通の生徒』たちが口を揃えて言っていることだ。
 ちなみに俺の事をどこで知ってか、いきなり話しかけられたときの開口一番が「賊軍の子孫、南部君かな」だった。
 賊軍なんて、今時の若い人たちはみんなその意味わかるのかよ。人を蔑むならもっとましな文句を考えな。
「これはこれは、官軍の"腰ぎんちゃく"の子孫にはかないませんよ、はははは」
 う〜む。難しい返しだったかな?
「失礼な人だな君は。誰に向かってそんなことを言ってるのかな?」
 おめえだよ。
「僕の家は奈良時代から続く京都の公卿。幕末には明治天皇の命を受けて徳川幕府を追討。天皇から感状を賜り、そして商業に進出し、大成功をなした家柄。時代の先を見ず徳川についてつぶされ、落ちぶれたどこかの家とは雲泥の差。口の訊き方に気をつけたまえ。」
 はいはい。長々とご説明ありがとうね。頭のいい人だったらこいつのゴタクをきちんと聞いているだろう。
 俺もこいつのレベルに合わせて皮肉る。飛ばさないで聞いてもらいてえな。
「南部家は源頼朝の血筋につながり、奥州藤原氏攻めで戦功のあった南部光行以来六〇〇年、一度もその地を離れずに守りぬいてきた。徳川幕府について賊軍となったは自分たちの思いを最後まで信じたからだ。結果的には賊軍となってしまったが、それを恥ずかしいと思ったことはない。かえって誇らしく思うぜ。…少なくてもな、どっかの家みてえに優勢な方について虎の威を借るキツネよりはねぇ…いいんじゃない?」
 最後まで聞いてくれてありがとう。
「ふん…負け惜しみだな。」
 鼻で笑う西御寺。俺は完全に呆れ口調で返す。
「西御寺よぉ……今どき家柄とか格式なんて関係ねえぞ。おめえ、時代遅れもいいところよ?」
「ぼかァ、そんなことを言っているんじゃないよ南部君。」
 顔にかかった髪の毛を払いながら西御寺は俺を見下している。どこ取ってもきざな奴。そして、こいつの言いたいことは言われなくてもわかる。
「金持ちか、そうでないかってんだろ?」
「ふふふ…わかっているじゃないか。少しは成長したようだね、君も。」
 おめえがいつも言ってることじゃねえか。耳にタコ出来てふさがっちまうくらい聞かされてるよ。
「わかったわかった。あんたはすごい。あんたが一番だ。」
「ようやくわかったようだね。君も少しは人間だったってこと、安心したよ。」
 こいつ、気のない返事でかわそうとしていることも気がつかねえのか?
「はいはい、よかったね。ささ、もういいだろ。ほれ、あんたのお連れさんが待ってるぜ。俺らのことはほっといて早く行きな。」
 俺は立ち上がって西御寺のことを押し放そうとした。だが…
「僕に触るなっ!」
 突然そう怒鳴り、俺の手を払いのける。何だ?こいつは。
 呆気に取られる俺に向かって鼻を鳴らすと、西御寺は洋子のところに近寄る。
「南川君…もしよろしければ、僕たちとご一緒しませんか?何でもご馳走しますよ?」
 こいつ…手当たり次第かよ…
「なんでしたら、ここで食事を終えた後、父の経営している高級バーでエーレガントなひとときを二人で堪能し……」
 おいおい、おめえの連れの三人はどうなんだ?
「そのあと僕のフェラーリで湾岸道の夜景を楽しむドライブにぃ〜…美しいですよぉ〜最っっ高ですよぉ〜〜。貴女と、僕のために貸し切りにしてしまうことだって、可能ですから」
 『僕のフェラーリ』って、おめえが買ったんじゃなくて親に買ってもらったんだろ。しかも運転手つき。それに湾岸道貸し切りなんて、大ぼらにも無理があんじゃねえのか?
 それにつけてもコイツ、選挙にでも出ろって。まあ、当落は別として、ここまで耳当たりのいい言葉ペラペラと出てくる才能はすげえ。あ、いかさまセールスの営業マンか。
「――――どうですか南川君?いや、洋子さんと呼ぼう。僕のための時間なら、いつでもいいはずですよね?」
「……せえ……」
「――――はい?」
 洋子のつぶやきに、西御寺は言葉を止めて洋子をじっと見る。俯いていた洋子。瞬間、椅子をガタリとはね除け立ち上がり、鋭い視線を西御寺に突き刺した。

「ゴタゴタとウルセェんだよテメェッッ!」

 洋子の激しい怒鳴り声が店内に響きわたる。一瞬にしてしーんと静まり返る場。俺も、西御寺も、呆気に取られて固まる。
「………」
 洋子は軽蔑の視線を西御寺に投げつけると、無言のまま飛び出していってしまった。

 茫然と立ち尽くす西御寺。ふられた無様さをさらしているコイツの胸ぐらを俺は構わず右手でつかむ。
「邪魔しやがって…。おい、あんまり調子に乗るな西御寺。」
「……………フンッ」
 俺の手を払いのけ、襟元をきざったらしく直す西御寺。この野郎、マジで殴ってやろうか。…いや、コイツのようなタイプは殴って解るようなタイプじゃねえな。殴るだけむだだ。
「この僕に対して何て言う口の訊き方をするのか。所詮、君のような人間とつき合う女性はみんなその程度なんだろうね。幻滅したよ」
 てめえが怒らせた事なんて微塵にも感じていない馬鹿野郎。その程度だと?ハハ…だったら世の女性のほとんどがお前にとっちゃ"その程度"なんだろうな。俺は呆れてこれ以上反撃する気も失せてしまった。こんな野郎に構っているよりも、洋子が心配だった。
「勝手にほざいてろッ。おめえとは話が出来ねえ」
 俺はそう吐き捨てると洋子の後を追うように駆け出した。西御寺の高笑いが響く。わかってはいたが、やっぱりコイツはどうしようもねえ野郎だった。
「お……お客様、どちらに…?」
 黒ずくめが慌てて俺を呼び止める。俺は振り返りざまに黒ずくめを指さす。
「黒ずくめっ!」
「村野でございます」
「ああ。"村野"さんよ。わりいけどオーダーキャンセルだ。理由はわかってるべ?」
「西御寺様と口論に…でございますか?」
「十分だ。…奴らがいねえときにまた来る。じゃァな。」
「あ、あのぅ!……」
 俺は構わず駆け出した。勢いで飛び出していった洋子はエレベータではなく、階段の方に消えていった。俺も後を追う。
 十三階…十二階…十一階…いやはや、対角線にある階段って言うのはどうも不便すぎる。時間がかかるだけじゃなくて体力まで浪費してしまう。こんなんじゃそりゃあいつまでたっても汚れないでピカピカなわけだよ。
 十階…エレベーターの前で座り込む人影を見つけたとき、俺の足はようやく止まる。
 俺はゆっくりと近づき、そっと肩に手を置く。
「洋子……」
 俺が囁きかけると、洋子はひどく哀しそうな表情を俺に向ける。ご自慢の長い髪が床に散らかっている。俺はゆっくりと屈んで洋子の目を見て微笑む。
「河岸、変えるか。」
 洋子はわずかに瞳を伏せる。そして、小刻みに震える声で言った。
「ごめんな…あたしのせいで…」
 俺は小さく微笑みながら洋子の両肩に手を置く。
「西御寺の奴が勝手に絡んできただけだって。気にすんなよ。」
「ん……」
 洋子らしくない弱々しさは、もっと別な意味がある。西御寺ごとき輩でいちいち落ち込むほど、洋子はヤワな女じゃない。俺はわかっていたが、とりあえず今は"西御寺のせい"と言うことにしておく。
 俺は軽く洋子の肩を叩く。
「さあ洋子。デートのつづきだ。別の店に行こうぜっ、なっ!」
「デー…ト?」
 思わず洋子は俺を見る。
「ああ、そうだよ。仕切り直しだ。今日のデートコース・ファイナルは俺がきれいに決めてやるよ。」
 そう言うと洋子は小さく吹き出した。
「西御寺みたいな事言うなよ…」
「はっ――――あいつほど口は上手くないけどね。」
 小さく笑い合う俺と洋子。ちょっとは元気が出たかな?
「さ、行こうぜ。」
 俺は洋子を支えるようにして立ち上がると、意味もなく屈伸する。
「ここの階段、やっぱキツイぜ。ハハ」
「本当。あたしも頑張ったんだけどね。ここまでが精一杯さ」
 そう言って軽く額を拭う洋子。役に立たないと思っていた階段もこうしてみれば役に立った。もしも直結だったら、洋子はすでにホテルを飛び出していたに違いない。
 そして、俺と洋子は改めてエレベーターを使い、下った。それは幸い、『星の王子様』が開演中のため、空いていた。

 フロントに預けていた互いのプレゼントを受け取り、外に出る。すでに真っ暗だった。時計を見ると8:21。もう、そんなに経っていたのか…。
 ひとり暮らしの不規則な生活とはいえ、夕食は6時から7時の間には摂っている。そう考えると、急激に腹の虫が騒ぎ出す。とにかく腹減った。洋子はともかく、俺は鳥かご抱えて夜の街をウロウロするわけにはいかない。このまま八十八町に戻ってもいいが、それまで空腹に耐えられるかどうかはわからない。かと言って、あてもなく彷徨うわけにもいかないし。
「ごめん……洋子。」
「えっ?」
「河岸変えようなんて言ったけど、俺この街詳しくないんだ。」
 驚いたように目を見開く洋子。
「へえ……お前って結構ひとりでブラブラしているような感じに見えるけどな。」
「めんぼくないっす…」
 俺がぺこりと頭を下げると、洋子は妙に嬉しそうに微笑む。
「わかったよ。じゃあ、あたしが案内するよ。」
「何だ、どこか知ってんのか?」
「親父の知り合いがやっている、小さなとんかつ屋なんだけどね。」
「おいおい、それを早く言えよぉ。何で黙ってたんだよ。」
 すると洋子はわずかに顔を赤く染めて言った。
「だって…せっかくお前がいるのに、とんかつ屋なんて…味気ないかなァ…なんて思って……さ。」
 俺は半ば呆れ気味に嘆息して言う。
「ばかだなあ…そんなこと気にしてたんかよ。俺はどっちかっていうと、さっきのような店よかそっちの方が好きなんだぜ?俺がデートコースで飯食うとしたら、きざったらしい『高級れすとらん』なんかより、こぢんまりとしたポピュラーな店を選ぶぞ。」
「そ…そうか?…そう言ってくれると…」
 俺は咄嗟に洋子の手を握る。突然の行動に唖然となる洋子。
「お前だって、本心はそっちの方がいいだろ?…さあ、いいかげん腹減った。行こうぜ、行こうぜ。どこだ?その店」
「あ…ああ。こっち…」
 そう言って洋子は如月駅の方に向かって歩き出した。俺が握った手を洋子はしっかりと握り返していた。

 洋子の知り合いだというトンカツ屋は如月駅裏口の狭い通りの一角にあった。ここら辺はバブル絶頂期、駅前開発のために地上げ屋などが散々に荒らしまくってきた中で、みんなが一致団結し、その魔手から逃れてきた唯一の商店街だ。表口一帯はオフィスビル街の灰色の冷たい風景だというのに、ここはまるで別世界のように人情味溢れた温かさを感じさせる。
 だが、こんな風情も世の中の流れには逆らえないのだろうか、折からの不況と新設されて行く大型店のあおりを受けて、かつてのような賑わいはすっかり色あせてしまったらしい。閉められたシャッターが錆びつき、塗装が剥げていたり、壁や看板も煤けたまま壊れていたりしているのを見ると、何故か言いようのない寂しさが襲ってくる。
 その店『かつ次郎』も、外見は今にもつぶれそうに煤けてはいるが、のれんをくぐり、引き戸を開けるとそんな余計な心配は一瞬にして吹き飛んだ。
「らっしゃいっ!」
 一見満席の賑わいの中、威勢のいいおやっさんの声が清々しく響きわたる。
「おやぁ?洋子ちゃんじゃねえかっ!」
 白髪まじりのひげに覆われた口で、おやっさんは屈託のない笑顔を洋子に向ける。
「コズさん。お久しぶり」
 洋子が笑顔で頭を下げると、おやっさんは頭に巻いていたはちまきを外し、嬉しそうに言った。
「本当にしばらくだったなァ。すっかり大人びちまってェ。それに『ぐらまぁ』になったなァ…」
 俺は温かい苦笑を浮かべている。
「しかもこんな時間に『彼氏』連れたァ……洋子ちゃんもやるねぇ」
「誤解しないでよコズさん。…ああ、トラ。紹介するよ。この人が親父の友人で『小鳥谷次郎(こずや・じろう)』さん。あたしが小さい頃から色々お世話になってる、いいおじさんだよ。」
 洋子の紹介を受けて俺も挨拶する。
「こんばんは、初めまして。八十八学園で洋子と同じクラスに通っている南部親虎って言います。よろしくお願いします。」
「がはははっ、そうかい、そうかい。いや、気に入った。俺のことは『コズさん』とか『おやじ』って呼んどくんな。」
 口調は荒っぽそうだが、ずいぶんと爽やかな人だ。なぜか知らないが、俺のことを気に入ってくれたらしい。鳥かご抱えてる変な奴だからか?
「ところで、満席のようだけど…」
 洋子が辺りを見回してから呟く。
「なぁ〜に言ってるんだよ洋子ちゃん。特等席あんの忘れちまったのかい?」
 コズさんがニヤリと笑う。
「えっ?…そんなのあった?」
「雄いっつぁんといつもあそこで飯食ってたろう。」
「親父と?…ああっ!思い出した。…でもあそこはコズさんの…」
「かまわねえ、かまわねえ。うちの奴、商店街の慰安旅行とかで、ガキ連れて昨日から冬至温泉に行ってから誰もいねえからよ。ゆっくりしてきな。」
「ごめんな、コズさん…突然来て。」
「なァにガラでもねえ事言ってやがる。いいからとっとと行きな。」
 コズさんの温かい言葉に、俺はガラにもなく胸が熱くなるのを感じた。やっぱり、俺はこっちの方がいい。何かしんねえけど、大切なもの…ってやつがあるような気がするからだ。
「トラ…こっちだよ」
「あ、ああ。」
 洋子の先導で俺が向かったのは、厨房の奥にある、茶の間であった。
「と、特等席って、コズさんの家の茶の間か?」
「そうだよ。」
「は、はぁ…」
 俺はおそるおそる靴を脱いで上がった。六畳ほどの茶の間にはテレビやら棚をはじめ、小さな子供用の玩具とかが無造作に端に除けられている。丸い卓袱台には空のポット。飲んだ後の湯飲み、菓子くずなどがある。天井や壁は、長年のタバコのヤニで琥珀色になっていて一見とても汚いが、俺はなぜか、こういった雰囲気の方が落ち着く。
 初めて他人の家に上がらせてもらったときと言うのは、無意識に辺りをキョロキョロする。それは多分、俺だけではないだろう。
 その時、厨房の方からコズさんの声が響いてきた。
「すまねえな。うちの奴、ろくすっぽ片づけもしねえでいっちまったもんだから。洋子ちゃん、適当に片づけててくれ。」
「はぁ〜い」
 洋子はすでに片づけの準備に入っていた。
「トラ、座って待ってろよ。」
「俺もやるよ。」
 俺も片づけようと思っていたところだ。
「いいから座ってろよ。あたしがやるからさ。」
「はっはっは。能なし亭主じゃあるまいし。それに、人の家に上がらせてもらってのんきに座ってられるかよ。」
「いいんだよ。今日はいろいろ振り回してしまったし…ゆっくりしてろよ。」
 そうこう言い合いしているうちに、俺と洋子はちょうど取っ組み合いをしているような形になる。
「そんなことねえって、言ってるだろ。気にしすぎだぞ洋子。」
「言い争ってる場合じゃないよ。早く片づけないと。」
「だから、俺もやるって言ってんだろっ!」
「お前は座ってろってっ!」
「うるせえっお前こそ座ってろっ!」
「ば、ばかな事言うなっ!」
 その瞬間だった。俺は何かに足を引っかけてしまった。やべ…
「うわっ!」
「きゃっ!」
 俺は背後に仰向けに倒れ込み、洋子は俺に覆い被さるように倒れてしまった。幸いというか、よくあるパターンだとでも言うのか、頭の部分にはクッション座布団があって打ちつけることはなかったが…。
「あい……ってえ…」
「…………」
 途端に、俺は固まってしまった。
 そう……この光景は……この体勢は……
 一瞬にして、時間が止まってしまったような感覚。金縛りにでもかけられてしまったかのように身体が動かない。言葉も出ず、ただ洋子の身体の重みだけが、俺にのしかかってくる。そして、この両腕はただ宙をかき回している。
 まさか、気絶しているのか?
 洋子はぴくりとも動かない。よもや倒れ込んだショックで死んでしまった…なんてわけねえよな。
 俺は視線を前に向ける。洋子は俺の上に跨ぐように重なり、頬を俺の胸に埋めている。
 普通ならばこんな格好になると男は多少なりとも邪な考えを起こすだろう。だが、俺は不思議とそんな感情は起こらなかった。むしろ、この腕を精一杯広げて彼女を抱きしめてあげたい…。そんな思いの方が強かった。
「洋子…」
 俺がそっと声をかけると、洋子は頭を起こして、俺の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳が潤み、光が揺れている。
 俺は見つめていた。純粋に、なぜかその瞳を離すことが出来なかった。

「他に何か食うかいっ?」
 その時だった。突然、コズさんの声が響いてきた。全く、タイミングが良すぎると言うのか、よくありそうなパターンだとでも言うのか。
「はっ……」
「あっ……」
 俺たちは、まるで眠りから覚めたかのように、慌てて跳ね起きた。
「ライス大盛りでっ」
 咄嗟に洋子は答える。
「よっしゃっ!」
 コズさんの爽やかな声が返ってくると、洋子は大きく息をついて俺に向き直った。
「わ、悪ィ…洋子。だ、大丈夫だったか?」
 俺は顔を真っ赤に染めながらそんなことを言った。
「ご、ごめん…トラ」
 洋子もまた顔を赤く染めながら言う。しかし、何とも気まずい雰囲気になるもんだ。
「わかった。俺…座ってるよ。」
「ん……」
 そそくさと俺は体勢を正し、卓袱台の前に正座する。洋子は何も言わずにゆっくりと卓袱台の湯飲みや菓子くずから片づけ始める。そして、茶の間の隣にある台所から水の流れる音を聞きながら、俺は考えていた。
(洋子のやつ、おやじさんと何かあったんじゃねえのか…)
 ふと、プレゼント用に包装されたキセルの箱を見る。それだけで、洋子が秘める何らかの思いが伝わってくる様な気がした。
 俺はしばらくぼうっとしていた。そして、厨房の入り口に影が浮かび、トレイを持ったコズさんが笑顔で入ってきた。
「おう、彼氏。早速熱い口づけでも交わしたか?」
 なんて際どい感だろか。
「ははは…変な事言わないで下さい。俺が洋子とそんな…」
「顔が赤くなってるぜ。」
 あ、やっぱりそうか。まあ、キスとまでは言わなくても、抱き合った感じになったことには変わりない。でも、コズさんはそんなこと根ほり葉ほり訊くような人ではない。
「洋子ちゃんは流しか?」
 俺がはいと言うと、コズさんは台所に向かって声を上げた。
「洋子ちゃん、出来たぜ。そっちはいいから、早くこっち来て食いな。」
「ありがとう。もうすぐ終わるから…。トラ、先食べててよ」
 水の音とカチャカチャという食器のすり合う音と一緒に洋子の声が返ってくる。
「だとよ。いい彼女だねェ…キシシシ」
 ややいやらしい笑いを残して、コズさんは厨房の方へと戻っていった。
 五分ほどが経ち、洋子はやっと姿を見せた。布巾で手を拭う仕種が主婦、若奥様という表現に違和感がない。洋子はどこか、大人びた雰囲気、要は色気というものを感じさせるときがある。
「何だ。食べていなかったのか。」
「ひとりでさっさと食べてられるか。」
「ばか…気を遣うなって言ってんのに…」
「とにかく早く食おうぜ。腹減って死にそうだ…」
 俺はわざと洋子の目先で手を合わせると、有無も言わさずに飯に食らいついた。洋子は呆れ気味に微笑むと、箸に手を伸ばした。

「うめえ…うめえよこのカツ」
 俺は口いっぱいに小麦色のとんかつを頬ばりながら言った。食べはじめてわずか三分。もう主食のとんかつ、みそ汁、つけもの、ご飯は空になっていた。うーん、我ながらこの時ばかりは若さと食欲旺盛に感心してしまう。洋子はさすがにまだそんなに減ってはいない。
「当たり前だろ。私が小さかった頃から、とんかつと言えばここしか考えられなかったほどだからな。」
「ああ。さすがだぜ。それに久しぶりに飯食ったぁ…って感じだぜ。」
 心地よい満足感に浸りながら、俺はデザートの夏みかんの皮をむく。
 何か、ゆったりとした時間の様な気がする。こうしていると、すこぶる落ち着く。そして、俺はようやく、洋子に対して口を開いた。
「……なあ、洋子。」
「え?」
 みそ汁のお椀を下ろした洋子が俺を見つめる。
「何か、悩みあるだろ。」
「はっ?」
「とぼけてもむだだぜ。俺にはわかるよ。お前がなんかに悩んでいるってことくらい。」
「……」
 洋子は箸を止めて小さくうつむいた。
「……おやじさんの…ことか?」
 俺の言葉に、洋子は確実に反応した。やはり図星であったのだ。
「誰にも言えねえようなことで悩んでんのか?」
 俺はそれ以上、詮索する気はなかった。人にはたとえどんなに大きな悩みを抱えていても、他人には言えないことがある。相談したくても、出来ないことがあるものだ。それを執拗に問いただすことも、反対に訊こうとしないことも、それは友達ではない。友達が悩んでいるんだったら、親身になって聞いてやるから、話してみな…。そういう誠意が相手に伝わればいい。
 俺はじっと洋子の言葉を待った。洋子が何かを言うまで、俺は黙っているつもりだ。
「………」
「………」
 洋子も俺も、しばらく沈黙が続いた。店から聞こえてくる客の声と、壁掛け時計の秒針の刻む音だけが無情に過ぎて行く。俺は食べ終えた夏みかんの皮をぼうっと見つめ、洋子は空になった食器をぼうっと見つめている。
 ワイワイガヤガヤと過ごす時間というものは、不思議なくらい短い。しかし、沈黙という時間は一秒一秒が異様に長く感じるものだ。黙とうではないが、一分間の沈黙というものは、やはりいやなものである。
 二人で相対していれば、普通五分も沈黙してしまうことはあり得ない。大概はどちらからか切り出しをかけるだろう。だが、俺たちは違った。六分…七分…そして一〇分近く、俺たちは互いに切り出しをかけずに、沈黙していた。まるで三時間も四時間も、こうしているような錯覚にとらわれる。
 俺は喉が渇いた。卓袱台から除けられ、床に置かれた湯飲みと急須に手を伸ばし、ポットの湯を注ぐ。電気ポットではなく、押し出し式のポット。風情がある。
「飲むか…?」
 切り出しをかけたのは俺だった。洋子ははっと気がついたように俺を見る。俺は黙って湯気が立つ湯飲みを洋子の目の前に置いた。
「ありがとう…」
 洋子は両手で湯飲みを包み込むようにしながら、呟いた。
 俺は微笑んで自分の分を入れる。
 ずずずずっ…ふう…
「美味い。」
 番茶とはいえ、お茶がこんなに美味いと感じるときは、俺自身つくづく日本人だなと思う。まあ、とんかつの後に紅茶はないだろうが。
「トラ…」
 洋子が湯飲みをじっと見つめながら、俺を呼んだ。
「茶柱…立ってるよ。」
「むむっ!?マジかよ。」
 俺は身を乗り出して洋子の湯飲みを上からのぞき込む。確かに褐色の茶柱が垂直に立ち、揺れ動いている。
「これは縁起がいい……って、何で茶柱が立つと縁起がいいの?」
「知らないよ。」
「まま、俺が入れたお茶だからな。幸運がついているかもしんねえ。」
「よく言うよ――――ふふっ」
 洋子が笑った。俺はとにかく、洋子が元気になってくれればいい。直接、彼女の悩みを聞かなくても、俺と話すことで自分なりに道を見出すことができれば、それでいいのだ。
 俺はわざとくだらない冗談を言って、洋子の苦笑を誘った。

「トラ……あのね…」
 洋子が話の途中で、真面目な眼差しを俺に向けた。
「気遣ってくれてありがとう…」
「え?」
「あたしの悩み……気づいているのに……」
「ああ、それか…」
 俺は照れ笑いを浮かべて洋子を見る。
「やっぱり……トラにだったら、話せる。…聞いてくれる?」
「俺で良かったらな。…的確なアドバイスなんて、出来ねえかもしんねえけどさ。」
「ん……聞いてもらうだけでも、ちょっと気が晴れるかも知れないし…」
 もしそうであったら、俺はそれだけでもいい。悩みを全て晴らすなんて、そんなことは出来ない。俺に出来ることは、お前の心に小さな光を与えてあげられることが出来れば…そう思ってるから。
「実はね……あたし……中免…取りたいんだ。」
「中免?…中型免許か?バイクの…」
「ん…」
 俺は納得した。洋子の家は『モトプラザ』というバイク店。そして、彼女自身も物心ついた頃から工具をおもちゃ代わりにしてきたほど、バイクに傾倒してきた。中免が取得できる十六歳を間近に控えて、ようやく念願が叶うことを考えれば、色々と思うこともあるだろう。俺の思っていることが正しければ…
「おやじさんが…何か言った…んだな?」
「……おやじ…最近になって急に私が中免取ること反対し出して…」
「そりゃ、なんでまた…」
「親父は最初って言うか、あたしがまだ中学卒業する頃までは原付取って、中免取って、いつかは大型二輪取って店を継ぐことに賛成していたんだ。けど…高校に通うようになったときから、あたしがその事言ってもうやむやにはぐらかすようになって、この間なんかとうとうキレちゃってさ、あたしのこと張り倒そうとしたのよ。もう…ショックだよね…」
「う〜ん…それって…」
「免許取るためのお金とかはちゃんと自分で貯めるって言ってるし…。勉強とかも真面目にするって、言ってるし…。家には負担かけさせないつもりなんだよ。…それなのにさ…」
「洋子――――多分だけどな。…その、俺はおやじさんの気持ちってもんがよくわからねえんだけど、ただこう思ってると思うんだよ。」
「ん…何?」
「洋子が"本気"だとは思わなかった…。」
「え――――私は昔からずっと本気だったよ…」
「だからさ――――中学生の頃までは実際に免許なんて取れないじゃん。まして、子供の頃から言いつづけていることだろ?親にとってみれば、まあ…ガキの戯言…っていう風に思っていた。けど、いざ高校になると、戯言じゃなくなるだろ。お前が本気で免許取るって言えば、絶対可能じゃねえか。――――だから、おやじさんは反対してんじゃなくて、戸惑っているって言った方が正解かもしんねえな。」
「戸惑っている…?そんな…戸惑っているからって、娘に対して暴力揮おうとするかよ。」
「いや…俺も経験があるんだけどさ、俺は小学校卒業した後に先負町でひとり暮らししたんだけど、その時は親の猛反対受けたんだよ。ま、当然と言えば当然なんだけどな。俺の場合は前触れもなく突然言い出したから親は鬼みたくなってさ、思い出しただけでもこええ…。でもさ、俺は俺なりに親に説明したんだよ。伝わったかどうかはしらねえけど、俺は誠意を込めて、親を説得したね。日にちはかかったけど、親戚が面倒見てくれるってことで決着はついたった。」
「……」
「だからって訳じゃねえけど、洋子。お前、無闇に免許取りてえ、取りてえって一方的に言っても、親が納得するとは思えないな。じっくりと話し合ってみることも、必要だと思うぜ。」
「う…うん…」
「お前がその気になりゃあ、免許なんていつでも取れるだろ。だけど、親の反対受けたままだと、何かと後味悪くなるじゃんか。…だからさ、要は誠意だよ、誠意。おやじさんは何だかんだ言っても、洋子が一番かわいいはずだと思うから、戸惑っているだけだと思う。だから、誠意を込めて説得すれば、きっと納得してくれると思うぜ。」
 俺は話し終えると、お茶をぐいっと飲み干した。
「なんか……お前ってすごいよな…」
 洋子は関心の眼差しで、俺を見る。
「多分な、多分。間違ってるかもしんねえって。」
「いや……言われてみれば確かにお前の言うとおりだよ。あたし、一方的に免許取りたいって言ってるだけだった。親父が何かを言いかけたときなんかも、話聞こうともしなかったかもしんない。お前に言われて、やっと気がついたよ。」
 俺はわざとらしく背伸びをして深呼吸をする。
「ま、世の中って思い通りにゃいかねえもんだな。…って、まだ十六足らずで、そんなこと悟りたくはねえよ。」
「でも…お前に話してよかったよ。何か胸のもやもやが取れたような気分だし…」
「そうか。それならば良かった。」
 俺は安心した。こんな話でも気分が晴れるのならば、それに越したことはない。
 俺が胸を撫で下ろしていると、コズさんがひょっこりと顔をのぞかせてきた。
「ずいぶんと話盛り上がってるじゃねえか。」
「いやぁ…ちょうど終わったところです。」
「はっはっは。そりゃあタイミングが良かったな。…どうだい未成年。これ飲むか?」
 そう言ってコズさんは両手にぶら下げたビンビールを差し出す。洋子は呆れ気味にため息をつく。
「コズさん……あたしたちはねー」
「わかってるって。聞いてみただけだよ。」
 ニヤリと笑いながら、コズさんは手を引っ込めかけた。
「コズさん、待った。いただいてもいいんですか?」
「おぉ?彼氏、飲むのか?」
「はい。たまに……ですけど。」
「未成年が酒のんじゃいけねえなァ」
 すると洋子。
「言ってることとやろうとしてること違うだろコズさん…」
「はっはっはっは。まあ、固てぇこといわねえで飲め。俺のおごりだ。ただし、これ二本な。」
 そう言って、コズさんはそれを置くと、再び厨房の方へと消えた。
「まったく……コズさんは……」
 ぶつぶつ言う洋子。俺はおもむろにビールを取ると、卓袱台の上に置く。そして、洋子を見て言った。
「せっかくだから、いただこうぜ。」
 洋子もすぐに微笑み、あっさりと頷いた。

 11:35。心地よい酔いの中、俺たちは『かつ次郎』を出た。また来なよっ!というコズさんの爽やかな声に送られて、俺たちは如月駅に向かった。11:58分の八十八駅止まりが最終。高校生の俺らが出歩く時間ではない。しかも、酒が入っている。警官に見つかれば御用だろう。だが、幸い、パトロールには引っかからなかった。如月駅周辺は土曜日と言うこともあってか、人通りが絶えることはない。むしろ更に溢れ返っている。週末の繁華街にくり出す人々。昼間の時とはまた違った自分が現れる、不思議な夜の空間。酔っ払い、アベック、ナンパ待ちの男女……それぞれの物語が交錯する、街…。俺と洋子はそんな混雑の中、最終電車に乗って、八十八町に戻った。
 うってかわって、しんと静まり返る住宅地。洋子と俺の足音が、静寂に響く。駅前のネオンサインが遠ざかり、暗い外灯がぽつりぽつりと目立つようになった頃、洋子は不意に口を開いた。
「トラ……ありがと……ごめんな、変な事、言って…」
「何が?」
「ほら……エレベーターとか、コズさんちで倒れたときとか…」
「あっ……そのことか。いや、俺も悪かった。ごめん……」
 俺の言葉の後、急に洋子の足音が止まる。驚いて振り返ると、洋子は暗闇でもはっきりとわかるほど瞳を潤ませて俺を見つめていた。
「どうした…洋子?」
「あたし……やっぱり……」
「?」
 洋子の瞼から、ぽろりと涙がひとつ、こぼれ落ちた。そのとき、俺は洋子が言おうとしていることを悟った。
「トラ…あたしね……」
「洋子って、泣き上戸だったのかよ。はは…ほら、早くかえらねえと、おやじさんカンカンだぜ?」
 俺は笑って洋子の言葉を遮った。
「酔ってなんかねえよっ……トラ――――」
「洋子。その気持ち、大切にしろ。」
 俺は洋子の言葉を聞くのが怖かったのかも知れない。俺は洋子が本当に言いたかったことというのが、父親のことだったのか、それとも、今、俺に言いかけたことだったのか…。
「お休み…」
 洋子は笑顔を向けて、玄関の奥に消えた。俺はひとり、家に向かいながら星空を見上げた。都会では珍しい、満天の星空。
(いちばん大切なことを、聞いてあげられなかったのかもしんねえな…)
 俺はしばらく、後悔した。そして、立派なことばかり言って、逃げた自分を恨めしくさえ感じていた。