第1部 現代篇
序章 夢のつづき

1189年(文治五年)――――閏4月30日
陸奥国(岩手県)平泉・衣川館

 血みどろの鎧、折れた太刀。かつて国中にその名を轟かせたその若き公子は、力尽き、最期の時を迎えようとしていた。
 御堂に入り、扉に何十ものかんぬきを施し、二度と開かないようにする。そして、壺に蓄えられていた灯り用の油を静かにまき散らす。敵の喚声はまだ遠い。

 ドンドン――――

 扉を強く叩く音に、公子は手を止める。そして、扉を叩く者が誰か、すぐに察知したかのように、穏やかな口調で言った。
「うつぼ――――か」
「―――――――」
 どうやら扉を叩く者は女性らしかった。むせび泣く声が何と言っているのか、全く判らない。
「そなたには世話になったな――――この様なことになってしまい、申し訳ない――――」
 徐々に、喚声は近くなってゆく。
「今にして思えば……そなたは鞍馬にいた頃からずっと、私のそばにいてくれた―――――」
 刀剣が交錯する甲高い音が、ところどころ声を打ち消す。
「そなたがいてくれねば……私はとうの昔に――――」
 その時、ひときわ大きな声が、周囲を突き破る。

「武蔵坊どのっ! 討ち死にぃぃぃ!」

 その言葉にも、公子はもはや動じることはなかった。
「うつぼ――――そなたは逃げよ……そなただけは…この様なところで死なすわけにはゆかぬ……。私の――――私のためにも…生きてくれ……」
「……………!!」
 うつぼと呼ばれた女性の扉越しの言葉。ひときわ大きく慟哭した後、公子はなおも穏やかな言葉で返した。喚声はもう間近に迫っている。

「そうであったか――――十徳……『十徳』と…名づけてくれ……」

 そして最後に、公子はうつぼに対し「早くゆけっ」と叫び、撒いた油に火を放った。たちまち轟音と共に火柱が吹き上がる。

「遮那王さまあぁぁぁ!」

 うつぼの叫び声がひときわ大きくこだました。公子は炎の幕に完全に閉ざされて行くまで、微笑みを絶やさなかった…。

 九郎義経、討ち取った――――――

 燃えさかる御堂を取り囲んだ兵たちの間で、鬨の声が上がった。
 源九郎義経――――享年三一。平氏一門を滅ぼした時の英雄も、兄頼朝から忌み嫌われ、ついには第二の故郷平泉で、藤原泰衡の手によってその短くも悲しい、波乱の生涯に幕を下ろした。
 そして、彼の最期の言葉を聞いたうつぼの姿は、そこになかった――――

1998年(平成10年)7月
桜美町・十徳神社

「ふう……相変わらず広いなァ、ここは…」
 わらぼうきを掴んだまま、正樹はどかりと社の縁側に腰かけ、額に浮かんだ汗を腕で無造作に拭う。そこへ、巫女服を纏った菜織が微笑みながらトレイに乗せられた大きなやかんとお椀を手にし、正樹の隣に座る。
「ごくろうさま。はい、麦茶と水ようかん」
「サンキュ…」
 コップに注がれた麦茶を一瞬して呷る正樹。冷えた麦茶が喉を通り過ぎたとき、こめかみがきいんと痛む。
「もう…だから一気に飲まないでねって言ったでしょう」
 きつく目蓋を閉ざした正樹に対し、菜織は呆れたようにため息をつく。
「ばぁか、このキィィィーンっていうのがいいんだよ」
 ややつらそうに、正樹は言う。
「全然よさそうには見えないけどね」
 そう言って微笑みながら、空になったコップにおかわりを注ぐ。
「ふー…ああ、いい…」
 おかわりを呷り、ゆっくりと目蓋を開き、正樹は夕暮れの景色を眺望する。相も変わらず、のどかで、とても静かな時間だ。

 彼、伊藤正樹と氷川菜織は、保育園時代からの幼なじみであった。
 それまではお互いの関係を『腐れ縁』などと卑下してきたのだが、今年の五月末に、遠くミャンマーに引っ越していったもうひとりの幼なじみ、鳴瀬真奈美の帰国をきっかけとして、正樹も菜織も、お互いの存在の大切さを思い知らされ、幼なじみ(腐れ縁)から、恋人として結ばれた。
 菜織の家はここ、十徳神社。父は神主、母は同じ敷地にある保育園の園長を務めている。
 菜織は姉と兄がいる三人兄弟の末っ子。菜織はもとより、正樹と真奈美もこの保育園出身であり、三人はいわば兄弟みたいな関係でもあったのだ。
 菜織は境内掃除のアルバイトをしているのだが、正樹が訪れるたびに半ば強引に手伝わせ、その報酬は一杯のお茶。正樹もわかってはいるくせに菜織に従ってしまう。
 正樹は小学生の頃、真奈美が両親の都合でミャンマーに引っ越していった後から、走ることに執念を燃やし続けてきた。走る理由のために走りつづけてきた六年。
 そして、彼は今、陸上部のホープとして陸上競技大会に優勝した。そこまでの道のり…たび重なる苦難と挫折を目の当たりにしてきた。だが、その都度、彼のそばには菜織がいた。菜織はいつも彼を支え励まし、勇気づけてきた。それゆえに喧嘩が絶えなかった二人の関係。だが、彼自身、菜織という存在が、今の自分を作ってきたと悟ったとき、彼女が自分の人生にとってかけがえのないものだと知った。
 菜織自身も正樹に対する想いは子供の頃から抱きつづけてきた。
 だが、真奈美に対する遠慮から、自分を偽ってきたのだ。正樹の告白、そして真奈美が再びミャンマーに戻るという話。
 菜織は葛藤したが、正樹の強い想いに救われ、自分の思いに正直になることが出来たのだ。

「…き……まさき? 正樹ってばっ!」
 いつしか、黄昏の空をぼうっと眺めていた正樹の耳に、菜織の声が響いてくる。
「あ――――どしたん?」
 いつものぽけっとした表情を菜織に向ける正樹。
「それはこっちのセリフよ、もう…。何ぼーっとしてたのよ」
 やや不満げにため息をつく菜織。
「ああ、ちょっとな。今までのこと、思い出していたんだよ。」
「え――――?」
 その言葉を聞いた瞬間、菜織の頬にさっと赤らみが射す。
 突然無口になった菜織の様子に、今度は正樹が怪訝な表情をする。
「おい、菜織。どした?」
「もう――――バカ……恥ずかしいじゃない……」
 赤らんだ顔、切なげな声。途端に正樹もつられて顔が赤くなる。
「おいおいおいおい。何考えてる。違う違う、そーではなくて…」
 菜織の思っていることを察知した正樹が慌てて否定する。
「……そうなの?」
 否定されたことに、今度は悲しげな眼差しで正樹を見つめる。
「いや、あの…その…だからな…?」
 しどろもどろになりながら、正樹は菜織と恋人になるまでの経緯を説明した。
「――――そうね……今でもどこか信じられないの。正樹とこうしていることが……」
 菜織も記憶を辿ってゆくうちに、今、正樹とこうして寄り添い合える幸せをかみしめるように呟いた。
 そして、そっと正樹の肩にもたれ掛かる。正樹も彼女の肩に優しく手を回した。
 夏の落日は長い。蝉の声が今日の夕陽を惜しむかのように、寥々とつづいて行く。
 しばらくそんな穏やかなひとときを堪能していた二人。
 やがて、思い出したかのように、正樹が口を開いた。
「そういや真奈美ちゃん、そろそろ帰ってくる頃だよな
…」
「そうね……確か、今月の末には帰って来るって、この前電話があったわ」
「末と言やぁ――――再来週じゃねえか。…まさか、土壇場になって帰国できない~なんてこたぁねえよな」
 そう言って小さく笑う正樹。
「そんなことないわよ。真奈美の話じゃご両親、現地での仕事が予定より早く終わっているそうだし、後片づけや休暇を含めて日をおいて帰るって言ってたわ。余裕をもって帰りたいんでしょ? 結構、先月なんかドタバタしていたから…」
「ま、まあな。それならいいんだけどさ」
 ほっとした様子の正樹に、菜織はやや不安そうな眼差しを向ける。
「なあに? ……もし、真奈美が帰れなくなってしまったら、寂しい?」
 まるで愚問を聞いたように、正樹は呆れ気味に答える。
「当たり前じゃねえか。幼なじみなんだし……お前は寂しくねえのかよ。」
「ううん…寂しいわよ。」
 菜織はどこか悲しげに微笑む。
 そのとき、彼女の脳裏に過ぎった光景は、先月真奈美が急遽ミャンマーに戻る事になって、桜美駅まで見送った日。
 正樹への想いと、真奈美への遠慮の葛藤に負けそうになった菜織は、真奈美の見送りに行こうとしなかった。だが、正樹に諭され、道を誤らなかった。
 真奈美は暗に菜織に対し、正樹をお願いと告げて、ホームに去っていった。
 その後、緊張の糸がほぐれたように菜織は正樹の胸の中で涙に暮れた。
 涙が涸れるまで泣きつくすと、彼女の心のわだかまりはなくなっていた。
 そして、正樹と想いを通じ合った。
 後悔などはしていない。だが、未だ心の片隅に、塵粒ほどの真奈美に対する慚愧の想いが、菜織を時々落ち込ませるときがある。正樹が真奈美の名前を言うたびに、それはあった。
 唐突に、正樹は菜織を強く抱きしめた。
 相変わらず、彼女の華奢な身体は正樹の腕で押しつぶされるかと思ってしまうほどである。
「ちょ…ど……どうしたのよ」
 恋人とはいえ、前触れもなくいきなり抱きしめられるとさすがに抵抗してしまう。
 決して嫌というわけではなく、恥ずかしさがそうさせるのだ。
「…………」
 正樹は左腕で菜織の背中を包み、右手で柔らかな髪の毛を撫でていた。
 無言で、その瞳はあのトラックを駆け抜けたときのような、凛とした輝きをたたえて橙に染まる雲を見上げている。
「正樹……」
 やがて、菜織も抵抗を止め、両腕を正樹の広い背中に廻し、小さな頭を厚くて広い胸板に埋める。
 優しくて静かな、それでいて深い抱擁をどれくらい交わしていただろう。
 不意に、正樹が菜織の耳元に囁いた。

「伊藤正樹は――――氷川菜織を愛している――――」

 ひとつひとつ、しっかりとした言葉で正樹はそう言った。
 その言葉を聞いた菜織。心に燻っていた不安が不思議なほど簡単に消えて行く。
「愛している――――」
 正樹はもう一度、言い聞かせるようにゆっくりと、かみしめるように囁いた。
 菜織のつぶらな瞳からすうと涙の筋が頬を伝い、正樹のTシャツに吸い込まれた。
 返す言葉が出ない。いや、出ないのではない。
 菜織の言葉なくても、正樹は彼女の心を判っているからなのだ。
 正樹は菜織の心に生じた不安を消す魔法の言葉を囁いた。
 女性にとって、愛する男性から『愛している』と、言葉にしてもらう以上の魔法はないのだ。それだけで、些細な不安は消えてしまう。
「菜織……ところでさ……旅行……」
 不意に正樹が呟いた。ぴくりとして顔を上げる菜織。
「決めたか?」
「え……」
 とぼけたように苦笑いを浮かべる菜織。
 正樹はゆっくりと彼女の両肩を離すと、小刻みに揺れる瞳を見つめた。
「まさか――――まだ、決まっていない~…なんていわねえよな?」
 正樹の表情は真剣が入っている。
 少しの沈黙の後、菜織は突然笑いだす。得意の笑ってごまかす作戦。
「あははは…ごめん正樹。その、まさかなんだぁ」
「…………」
 正樹はやっぱりと言った感じにはぁと長いため息をついて項垂れる。
「……いいですか、菜織さん? 今度の夏休みに旅行しようねって言ったのはあなたじゃありませんか? 行き先はあたしに任せてって言うからしばらく何も言わなかったのですけど――――今からじゃあ……軽井沢も湘南も無理じゃないですかねー」
 ひとつひとつの言葉を突き刺すように菜織に浴びせる正樹。
 菜織は上辺しゅんとした感じで正樹を見つめている。先ほどのシリアスな雰囲気など微塵もない。
「ホントにゴメン~~…明日までには決めるからぁ~」
 ぱんと両手を合わせて安直にそう言う菜織。
 正樹は菜織の肩に置いている手の力を抜き、引っ込める。
 菜織に急かされ旅費を貯めようと、自宅である喫茶店と菜織の家である十徳神社の境内掃除、そして時に新聞配達。
 行く先もわからないままバイトにバイトを重ねさせられた事を言おうとしたが止める。
 菜織との旅行のために貯まった額は取りあえず五万円ちょっと。意外と高くつく国内旅行にはいささか不安であるが、菜織と合わせると十万くらいはありそうだから、そうそう遠くなければ何とか二泊三日くらいは出来るかも知れない。
「わかったよ、しゃあねえな。だったら明日までに考えとけよ。それにあんま金もねえから、遠くにゃいけねえんだからよ。それも頭に入れとけ」
「はいはい。楽しみにしていてね、マ・サ・キくーん☆」
 悪びれた風も見せず、満面に笑顔をたたえ、細い人差し指で正樹の額をつつく菜織。
 惚れた弱みとでも言うのか、この笑顔を見ると、怒りなどすぐに吹き飛んでしまう。
 そして二人はいつものように軽く抱き合ってキスを交わすと、解散した――――

「う~ん……どうしようかな……」
 その夜、菜織は様々な雑誌を見ながら、この夏の旅行スポットを捜していた。
 旅費が安くて、若者向けの観光地。
 しかし、どこを見ても人気が高そうで、今更予約を入れても確保できそうな場所はない。
 まあ、菜織にとっては正樹と一緒にいられるのならばどこでもいいのだが、まさか無人島に行くわけにはいかない。
「もうぅぅぅぅ! どこもかしこも今からじゃ絶対無理よぉぉぉぉ!」
 怠慢が仇になって一人騒ぐのが落ちである。
 だが、さすがプラス思考の菜織。
「最悪の場合は八景島とベイブリッジみてホテルに泊まればいいわね」
 『旅行』が隣町横浜で済まそうというのだから大したものである。しかもただのデート・おきまりコース。
「そうそう、それで良いわね」
 自己納得して安心したのか、菜織はすやすやと安眠の旅に出てしまっていた。

 ――――――
 ――――――

「ほう……九郎殿がのう……」

 鎌倉政庁の一室で、年の頃二十五前後と思われる色白の武士がにやりと笑みを浮かべながら延々と綴られている手紙を見ている。
「佐(すけ)殿に閲覧していただく前に、ご貴殿にと…」
 白髪混じりの男が真剣な眼差しを若者に向けている。
「これを佐殿に見られては一大事であったぞ広元殿。よくぞ私に通して下された」
「いかがなされる…」
 広元の問いに、若者はうーむと唸った後、口の端に卑猥な笑みを浮かべて答えた。
「この書体をまねた書状を作り、それを佐殿に閲覧していただくことにする」
 その言葉に広元は愕然となった。
「何と……それでは九郎殿の御身がますます……」
 しかし、若者は卑猥な笑いを浮かべたまま広元を見ていた。
「そうならなければ……困るのでね…」
「よ…義時殿……」

鎌倉・腰越駅

「九郎殿――――」
 広元が腰越の古寺に逗留する義経の元を訪れた。
「大江殿、お待ちしておりました。…して、兄上のご返事は…」
 義経は広元を出迎える。期待に満ちた眼差しを送っている義経とはうってかわり、冷酷とも言える視線の広元。
「佐殿はお会いになりませぬ――――」
 思いもよらぬ言葉に義経は声を失った。
「これまでの九郎殿のご行状に、佐殿は烈火の如くお怒りでの。書状を差し出す間もなく、それがしの話をも聞こうとはなさらぬのじゃ」
「…………」
 あまりの事に義経はただうめき声を発するしかなかった。
 ただならぬ様子に、柱の影から覗いていた義経の幼なじみうつぼが思わず身を乗り出そうとしたときだった。
「うつぼ、よせっ!」
 屈強な手が、うつぼの細い腕を掴んだ。
「弁慶様……」
 それは義経の父であり、師であり、無二の忠臣である武蔵坊弁慶であった。
 弁慶は毘沙門天のような容貌に優しげな微笑みを浮かべて、うつぼを見る。
「御曹司にとってはここが正念場でござる。ここで逆上などすれば、すべてが水泡と帰してしまうこと、誰よりも御曹司が一番よくわかっているはず。何々、頼朝殿も人の子。やがてご理解して下さる日もこようて」
「で、でも……あまりにも非道い仕打ち……これでは九郎様が……」
 泣きそうな声で義経の沈んだ背中を見つめつづけるうつぼ。
「何事も堪忍。堪忍が寛容でござる。御曹司を信じられよ、うつぼ殿…」
 かくいう弁慶自身の声も震えていた。その眼にはきらりと光るものが浮かんでいた。

「九郎殿、ただひとつ佐殿の勘気を解く術はあり得る」
 広元の目がきらりと光った。当然、義経はぱっと顔を上げてそれは何かと尋ねるような表情を浮かべる。
「ご貴殿が連れてこられた、前大納言宗盛殿のことじゃが――――」
「宗盛殿が――――なにか」
 それは義経が2ヶ月前に壇ノ浦の合戦で平家一門を海の藻屑とした際に生き残った、清盛亡き後の平家の総領・平宗盛のことである。
 兄の命で平家を滅ぼした証でもあり、その処遇を後白河院に委ねず、兄頼朝に委ねようと連行してきた、義経の兄に対する忠誠の証でもある。
「入京する前に―――――斬られよ」
 広元はあっさりとそう言った。
「何と――――」
 驚く義経。
 頼朝は夜も寝られぬほど平家を恨み、滅ぼしたかったはず。
 今、その宿敵の総大将が目前にいる。なのに会おうともせず、斬ってしまえというのか。
 何のために多くの犠牲を払って、平家を滅ぼしたというのか。
 これでは自分がすでに用済みと言っているのと同じではないか。
「何か、ご異存でも?」
 顔をわずかに曇らせた義経の表情を、広元は見逃さなかった。
「いっ――――いえ……御意に、従いまする……」
 だが、義経の肩は震えていた。広元はそれ以上、突っ込まなかった。
 結局、義経は十数枚にも及ぶ、後に『腰越状』と呼ばれる義憤と、兄弟の絆を諭した手紙を兄頼朝に宛てたが、それが頼朝の目に留まることはついにないまま、京への帰路につくことになった。それが、頼朝の側近である北条義時が握りつぶしていたことを知る由もなく…。
 落胆の面もちで馬を進める義経の背中を、うつぼはただ見つめているしかなかった。
 うつぼは義経の願いで、京を発ったときから、捕虜となった平宗盛の世話をしていた。
 結果的には短い期間ではあったが、うつぼと宗盛は何気ない会話を交わしながら互いに気心が知り合えた。
 平家の御代であったら、鞍馬山の神官の娘ごときと、栄華を極めた平家の総領が話をするどころか、顔さえ会わすことなど叶わない。
 うつぼの胸には、宗盛と話すことで、平家は完全に滅んだという事実を改めて知らしめさせられ、それが却って宗盛に対する同情心さえ芽生えさせる。

1185年(文治元年)6月20日
近江国(滋賀県)米原――――

 京都が目前に迫ったその日、義経一行はその地で一夜を過ごすことにした。
 うつぼは宗盛の手首に掛けられた枷を外し、赤く腫れた部分を懸命に治療する。
「私の命も、今日までだな――――」
 不意にそう呟く宗盛。驚いてぴたりと手を止めるうつぼに、宗盛は小さく、穏やかな微笑みを向ける。
「そなたには色々と世話になった。何もしてやれぬが、礼だけは言わせてくれ」
「…………」
 寂しそうに、うつぼはうつむいていた。
「今にして思えば……我ら平家一門は、九郎殿に敗れて良かったのかも知れぬ」
「えっ……?」
「負け惜しみではないが、我らは互いの絆があまりにも強すぎて、それを傘に驕り、高ぶり、人を人とも思わぬ行状を重ねすぎてきた。結果、民草の心は我らを離れ、木曾の次郎(義仲)に都を追われ、更に九郎殿に枯れ葉の如く打ちのめされ、西海に沈んだ……」
「……」
「九郎殿は良い。純粋で、疑うことも知らず、おのが信念を貫き、その汚れなき刃にて我らの増長した絆をきれいに断ち切ってくれたのだからな」
 宗盛の言葉には、負け惜しみも、嫌味もなかった。
 本心で言う人間の表情には、清々しさを感じ、惹きつけられるものを感じる。今の宗盛の表情はそうであった。
「知盛も、教経も、母上も…みな清々しい顔つきで海に入っていった……まるで九郎殿に感謝するように……」
 宗盛の声はわずかに震えていた。
 それは当然のことである。まさか総領である自分が生き残ってしまうとは…。
 そんな自分に対する無様さは元より、戦いに敗れた無念さもあるであろう。
 うつぼは宗盛の心境を察していた。彼女も自然と涙が浮かぶ。
「虜囚の身ながら、こうして旅をし、九郎殿やそなたたちを見てきて、私も何か大切なものを見つけたような気がするのだよ。今更遅いがな」
「大切な……もの……?」
 うつぼは宗盛を見つめた。
 宗盛は照れたように笑い、続けた。
「そうだな―――――簡単に言えば……血の繋がりではない、友同士の絆……とでも言おうか」
「友同士の絆――――ですか?」
「ふっ……うまくは言えぬがな。要するに、他人同士が心から信じ合えることよ。…我らは親兄弟、一族しか信じられぬ偽りの絆であった。九郎殿が持つ、本物の絆に、我らは敗れたのよ」
「…………」
 うつぼは宗盛の言葉を脳裏に駆けめぐらせる。
 そう、義経も、弁慶も、海尊も、三郎も、そして自分も、皆天涯孤独の身であった。血の繋がりなどない、赤の他人同士だ。
 だが、お互い皆、強い絆で結ばれていた。
 他人同士の絆が、強大な平家の絆を破ったのだ。『水は血よりも濃い』ということがあるものだと。
「我らは、九郎殿が持つ絆を欠いていたのだ。今更だが、私はそのことに気がついたような気がする……」
「宗盛さま…」
「うつぼ殿」
 宗盛の呼びかけに、うつぼはきょとんとした表情を向ける。
「そなた……九郎殿の幼なじみだと聞いたが、九郎殿のこと、どう思っているかな?」
 突然の質問にうつぼの顔がみるみる赤く染まり、小さく狼狽する。
「好いておるようだな」
 宗盛がそう言って微笑むと、うつぼは慌てて顔を背け、両手を顔に当てる。
「そ…そんな……私はく、九郎さまとはただの…」
「よいよい。愚問であったようだ。許されい」
 宗盛は笑っていた。
「もう……お人が悪うございます宗盛さま…」
「はははは……。うつぼ殿、その…今の気持ちを大切になされよ」
「……?」
「絆は時に諸刃の剣となりうるものだ。絆にこだわり、絆ばかりを追い求めれば、やがて双方が傷つき、死することもある。そなたが今、九郎殿に抱く想いを忘れたとき…それこそが九郎殿の死……そしてそなたの死となりうる」
 宗盛の言葉の影には、平家という絆を守れなかった自分への不甲斐なさに対する自責の念とも取れるものを感じる。
 そして、死という言葉には、目前に迫った死に対する恐怖の念。
「幼なじみという絆は美しい。美しくも、朝露の如きはかなきものでもある。…失くしてはならぬ…失くしてはな。たとえそなたと九郎殿が想いを通じ合うても、今その想いを忘れてはならぬぞ……」
 何度も、何度も、宗盛はくり返した。
 彼の言葉がうつぼの瞳に、とめどない涙をもたらしていた。

 翌日――――栄耀栄華を極めた平家の総領・平宗盛は、近江国篠原において、源義経によって斬首された――――享年三十九。
 花鳥風月をたしなみ、政争を不得手とした凡人。
 義経が彼を助けたいと思ったかどうかはわからない。
 だが、うつぼは確かに彼を逃がしてやりたいという感情に包まれていた。
 河原に引き出される際、宗盛はうつぼに対し、本当に優しげな微笑みを送っていた。
 うつぼは声も出ず、ただ自分に絆というものの意味をひとつ教えてくれた敗将を見送ることしかできなかった。
 そして、一瞬だったが、義経の非情さを憎んだ。
 太刀が陽光にきらめき、宗盛の頸に音を立てて振り下ろされるまで、宗盛は微笑みを絶やさなかった。

 その想い、忘れてはならぬぞ―――――

 うつぼは宗盛の言葉を深く、胸に刻み込んでいた。

 義経は都で土佐坊昌俊という刺客に襲われ、九死に一生を得た。
 義経はそれが源氏乗っ取りを画策している北条義時の放ったものとは知らず、兄・頼朝の差し向けたものだと思いこみ、ついに後白河院に対し、頼朝追討の院宣を賜った。
 壊れなくともよかった兄弟の絆は、完全に壊れ去ってしまった。

 しかし、もはや時代は英雄・源義経に味方しなかった。
 打倒頼朝の兵を挙げたものの、義経に呼応する者はほとんどいなかった。
 義経は再起を図るために摂津国(兵庫県)から西国へ落ち延びようとしたが、途次暴風雨に遭遇し、押し戻されてしまう。
 天までもが義経を見放し、更には多田蔵人行綱らの急襲に遭い、数少ない郎党を失ってしまった。

京都――――吉野山
11月17日

 義経は弁慶や海尊、佐藤忠信らの郎党、恋人の静御前と共に、雪の山道を下っていた。
「大丈夫か静――――」
 義経の纏う外套にくるまわれるように、静はぴたりと寄り添っている。
 彼の気遣いに、静は優しく微笑み、首を横に振った。
「そなたと共に……奥州へ行く」
 その言葉に、静は元より、弁慶ら義経の郎党たちは驚いて足を止める。
 西国への脱出に失敗して以来、義経の口からは次の目的地となるべき地がはっきりと口にされていなかったからである。
「御曹司――――奥州といわば……秀衡様の――――」
 弁慶の言葉に、強く頷く義経。
 その言葉に、皆誰もが唸った。よくよく考えれば、もはや自分たちを庇護してくれる勢力は奥州藤原氏くらいしかいなかったのだが、遠く離れた京の地で、まさかその地名を口にしようとは思わなかったからである。
 静とひとときも離れない義経に、うつぼは複雑な想いを抱いていた。
 宗盛の言葉がそのたびに脳裏を巡らせるが、やはり落ち着かない。
 義経の心は静にある。
 遮那王と名乗っていた幼少時代から、うつぼに見せる屈託のない笑顔は、幼なじみか、妹に対する慈しみの笑顔であった。
 だが、静に見せる笑顔は、それとは全く違うもの――――愛に満ちた笑顔であった。
 うつぼと静は旧知の間柄で、仲が良かった。
 それこそ、物心を覚えて以来の幼なじみ。義経よりも、若干だがつきあいは長い。
 静は平治の乱で源義朝側につき、殺された武士の忘れ形見で、義経と同じように鞍馬山の別当蓮忍和尚に預けられた。
 義経が鞍馬山に引き取られた頃に、故あって下山したが、後、白拍子となり義経と運命的な出逢いを果たしている。
 義経と静が急速に惹かれ合う様子を、うつぼは内心、気が気ではなかった。
 思ってはいけないことはわかってはいながらも、静に対して嫉妬し、『消えてしまえばいいのに』『死んでしまえばいいのに』と、何度も念じたことがある。気がつくたびに、自己嫌悪に嘖まれた。
 しかし、そんなうつぼの心にある悪の部分が、皮肉にも叶ってしまうことになろうとは、この時まで周囲はもとより、うつぼ自身も知る由もなかった。

 道案内のために先回りしていた郎党の一人が、蒼白の面もちで義経の前に戻ってきた。
「く…九郎様…た、大変でございますっ!」
「いかがしたのだ」
「はっ――――前方に…敵勢が……」
「な…何っ!」
 驚いたのも束の間、そう報告した瞬間、郎党の背中を、一本の征矢が貫いた。
「おのれ、いつの間にっ!」
 すぐに弁慶や忠信らが得手を構えて義経らを庇うように立つ。
 それは、頼朝の命を受けた比企朝宗・北条時定らの手勢であった。
 間髪入れずに義経一行に襲いかかる比企・北条勢。
 弁慶の剛力、忠信らの卓越した剣技に、圧倒的な数の比企らは押され気味であった。
「御曹司っ! ここは我らに任せて早くお逃げ下され!」
 弁慶の叫び声が響きわたる。
 乱刃の中、義経は静を庇うようにしてその場をかいくぐる。うつぼも何とか、義経の後に続く。
 しかし……
 義経は、こめかみをすれすれに貫いた弓矢をさっと除けたその瞬間、耳元に響く愛しい女性の悲鳴が、心臓をこわばらせた。
「!」

 九郎さまぁぁぁ――――――

 吉野の山間に延々とこだまする、静の叫び声が、義経の意識を途切らせた。
 いつしか、茫然自失した義経の傍らには、うつぼと敵を蹴散らした弁慶・忠信らが、ひどく哀しそうな表情で主君を見つめていた。
「はっ――――しずか……静は――――」
 だが、弁慶は過酷な事実を伝えるしかなかった。
「申し訳ありませぬ……静殿は……敵の手に落ちましてございます……」
 静、捕らえられる――――
 その悲報に、義経の瞳が生気を失したように濁り、屈強な身体が砂の塔のように崩れ落ちる。
 前に倒れかかるその身体を、うつぼがしっかりと抱き支えた。
「しずか……おお…しずか……」
 むせぶ声。涙さえ出ない。そんな様子の義経を、うつぼは切なそうに見つめているしかできなかった。
 何と声を掛ければいいのか、わからなかった。
 そして、自分の心の闇で願っていた静に対する嫉妬の念が、今この凋落の途上で現実のものになってしまったという罪悪感が、絡みつく蔦のように、じわじわとうつぼを苦しめていた。
 悲嘆に暮れる義経主従は、それを振り切るように、一路奥州・平泉への逃避行へと発っていった……。

「う……うーん…………」
 不思議な夢から目覚めた菜織は、パジャマが汗のためにぐっしょり濡れていることに驚いていた。
「うそぉ~エアコンかけているのにぃ~なんでぇ~??」
 梅雨明けが近いのか、昨夜はひどく蒸し暑かった。
 菜織はエアコンを快眠モードにして眠りについていたから、部屋の中は、それほど暑くはなっていない。
 だが、起きあがった途端、額からしたたり落ちる汗の玉に、彼女は思わず声を張り上げた。
「もうっ! 壊れてんじゃないのこのエアコンッ……うー…気持ち悪いぃ――――」
 べっとりと身体に張り付く衣類の感触に耐えかねた菜織は、猛然と跳び起き、タンスから着替えを引きずり出すと、ダッシュで離れにある風呂場へと駆け込んでいった。
「……なんなんだろ…あの夢……この前も……」
 シャワーを浴びながら、菜織は脳裏に漠然と残る不思議な夢の光景を思い出していた。
「でも……なんか不思議な気持ち……」

「はぁ? ひらいずみっ!?」
 素っ頓狂な声を上げた正樹がけったいに顔を歪ませて菜織を見る。
 クラスメイトたちが一瞬、正樹と菜織を見るが、興味がなさそうに元の位置に戻る。
「ちょ、ちょっと…そんな大きな声出さないでよ」
 菜織が顔を真っ赤にし、小声で怒る。
「『ひらいずみ』…って、どこだ?」
 聞いたことのない地名に、正樹は不安に包まれる。
「アンタ知らないのぉ? 勉強不足ね本当に」
「悪うござんしたね。だてに授業中寝てやしませんから」
 自慢げに言う正樹。
「自慢できることじゃないでしょっ! …まあ、それはいいけど、平泉はね、東北にあるの」
 そう言いながら、菜織は地理の授業で使う地図帳を持ち出し、正樹の前に広げる。
「ここよ」
 指さした場所を見て、正樹は唖然とした表情を浮かべる。
「おいおい…そんなとこ知らねえぞ。聞いたこともねえ」
「あら、そう? まぁ…だからいいんじゃない」
 こともなげに返す菜織。
「誰もしらないんなら、ゆっくり出来そうじゃない?」
 正樹はやや呆れたようにため息をつく。
「あんな……ゆっくり出来るのと、暇って事は似ているようで全然違うんだぜ?.」
「暇なんかじゃないわよ。平泉はとってもいい所なんだから…」
「いいところって……お前、行ったことあんのかよ?」
「ないけど…」
 正樹ははぁと長い息をつく。最近、嘆息ばかりでそんな自分が嫌になる。
「ないって、お前……。まあ、いいや。そんで? そこには何かあんのか?」
「あるわよ。私の家のような由緒正しいお寺やら、心を落ち着かせる景色。美味しい水に美味しい食べ物うんぬん…」
「…………」
 呆れたような眼差しで、じっと菜織を見つづけている正樹。
「菜織。お前と一緒ならどこでも良いけど、どうせなら遊べる場所の方がいいだろ。寺や神社めぐりってなあ、ちょっと……」
 正樹は完全に乗り気ではなかった。当然と言えば当然のこと。
 菜織と一緒にいられるならば、どこでもいいのだ。
 今流行りのスポットを探索しながら話を弾ませるのもいいだろう。定番のスポットを巡りながらありきたりの会話をするのもいい。
 だが、平泉はいただけない。
 神社・仏閣を巡りながら…と言っても、元々そのような場所に興味がない正樹にとっては暇以外の何ものでもないだろう。
 神社の娘である菜織がそこに詳しいとしても、自分の方がついてゆけそうもない。
「それだったら、鎌倉の方がいいだろ。安上がりだしさ」
 寺や神社めぐりのために、わざわざ東北までゆく。その旅費の方が高くつきそうだ。
 同じことをするのだったら、鎌倉の方がいい。鎌倉ならば、自分も多少の知識はある。
 しかし、菜織は突然無口になり、正樹をじっと見つめていた。
 正樹はそんな彼女の瞳に不思議な迫力を感じ、そんな気持ちさえ封じ込まれてしまう。
「お願い正樹―――――」
 いつにも増して真剣な菜織の表情に正樹は気圧されたように頷くしかなかった。
 そして菜織自身も、なぜ急に平泉などという地にこうもこだわっているのか、わからなかった。そう…あの夢を見た、あの日から……。