結局、正樹と菜織の立てた旅行の計画は、お互いの予想を超えて、岩手県・平泉に決まってしまった。
正樹はやはり菜織に任せてしまったことを後悔しつつも、多少なりとワクワクしていた。
確かに、探せば若者向けの場所は多々あるだろう。
今流行りのちょっとした穴場でさえ、友人や知人から情報を得れば容易に見つけられるはずだった。
特にその手に詳しい親友・ミャーコこと信楽美亜子などに聞けば、この時期に宿泊場所をゲットできる裏技まで教えてくれただろう。
だが、よくよく考えてみれば、正樹にとってそんな事などどうでも良いことであった。
菜織が楽しんでくれれば、どこだって良いのだ。
菜織の楽しみが、いつしか自分の楽しみのような気がしていたことを、知らず知らずのうちに正樹の心に芽生えていたのだ。
「ふう―――――金、ためねえとな……」
苦笑いを浮かべる正樹。
旅費代のために、学食・購買を控え、母や妹・乃絵美の拵える弁当で昼食を摂り、帰りは寄り道などもせず、まっすぐ家に帰り、自宅の手伝いに勤しんでいた。
菜織のために、何かしてやれること―――――
正樹は若い。そこいらの大人たちのような、そして気障な恋愛ドラマのような大きな事は出来やしない。
正樹は取りあえず、金を貯めて菜織との東北旅行を満喫したいと、ただそれだけのためにがむしゃらになっていたような気がする。
自分の取り柄は、取りあえず気力と体力だった。
その他はずっと昔から、菜織の支えがあってからこそ、うまくいっていた。
恩返しなどと言うものじゃない。
自分にとって、菜織は本当に必要な存在なのだ。そう、気づいた。
だからこそ、正樹は菜織に対し、不変の思いを抱くことが出来た。
今まで見つめられてきた分、これからは俺が菜織をみつめてゆこう―――――
人というのは不思議なものである。
口に出さずとも、人は相手の心を知ることが出来るのだろうか。
人は、相手の純粋で、一途な心に無意識のうちに惹かれるものなのだろうか。
正樹の父は何も言わず、アルバイト代を割り増しにしてくれた。
驚いた正樹が父に問うと、父はただ一言、『黙って受け取れ』と言ってはにかんだ。
「菜織ちゃんとの旅行のために―――――って、お父さん言ってたの……」
乃絵美からその話を聞いたとき、正樹はさりげない父の気遣いに感謝した。
これで、正樹の手元には十万円弱の旅費が貯まった。もう完璧だ。後は八月頭の菜織との旅行を待つばかりだ。
正樹たちの通う高校・St.エルシア学園の終業式が終わり、遂に夏休みへと突入した。
皆、この瞬間が気分的にも最高になるのだろう。
一学期最後のホームルームが終了すると、瞬く間に教室は空となり、校舎から校門へと流れて行く生徒たちの群が後を絶たない。
正樹はなぜかしばらく自分の席で、ぼうっと座り、帰ろうとはしなかった。
「帰らないの?」
廊下掃除を終えた菜織がおもむろに正樹の前に現れた。
「まあな―――――菜織を待っていたんだって」
どうもそうは見えないから、菜織も笑う。
「嘘でもそう言ってくれると嬉しいわね。……それより…」
「ん――――どうしたん?」
正樹が微笑みを浮かべながらじっと菜織を見つめる。菜織はややはにかみながら、勇気をふりしぼるように口を開く。
「旅行……真奈美も―――――誘ってみたらどうかなぁ…なんて」
その言葉に正樹の目の色が変わる。
「真奈美ちゃんを―――――?」
まさか菜織の口から真奈美の名を聞こうとは思いもよらなかった。
「うん―――――せっかくだし……」
それは、今まさしく正樹が考えていたことだった。
六年ぶりにミャンマーから帰り、わずか一月足らずの間に三人の間でドラマのような葛藤があった。
結局、正樹は菜織との愛に目覚めたわけであったが、再び真奈美がミャンマーに一時戻らねばならなくなったとき、正樹にとっては真奈美との別れがどこか中途半端だったような気がして、正直心の中につかえがあったのだ。
菜織に対する想いに曇りはない。だが、思わせぶりな感情を真奈美に抱きつづけていたことは間違いがない。
何と言っても、彼女のため、六年前、彼女が去りゆく線路を追いかけ、追いつけなかった悔しさを胸に、走り続けてきたのだ。そうそう簡単に真奈美に対する思いを断ち切ることは出来ないだろう。
菜織もそれはわかっている。菜織自身も、正樹に対する想いに曇りはないというものの、真奈美に対する罪悪感は、完全に拭い去ってはいないのだ。
本来なら恋人同士である正樹と菜織が二人きりで行くべき旅行だったはずだ。真奈美を誘うことはまず普通ならば考えられない。
それが二人にとって最低限の真奈美に対する気遣いであったのだろう。
まあ、彼女の性格からすれば二人に遠慮して断っただろうが、幼なじみという視点から誘えば、快く承けてくれるだろう。
「そうだな。三人で旅行するのって、なんか初めてのような気がするし。――――よしっ、真奈美ちゃんも誘ってみよう」
正樹の言葉に、菜織は幾分ほっとしたように笑顔を返した。
その夜、真奈美から菜織に電話があった。
終業式が終わったことと、明日からの夏休みに関する話。そして、三〇日には帰国するということ。
菜織は本当に嬉しそうな表情で真奈美との会話を弾ませていた。
「ねえ真奈美? 来月なんだけど―――――正樹と三人で東北に旅行しようって話あるんだけど、アンタどう?」
(え? ―――――東北?)
電話越しに真奈美のきょとんとした声がする。
「そう。岩手の平泉ってトコなんだけど―――――」
(ヒライズミ?)
「そうなの。ふる~いお寺とか自然があって、とっても良いところなのよ」
(へえ―――――お寺かぁ……ふふっ)
電話越しに真奈美のかすかな笑い声が聞こえる。
「な、何がおかしいのよ」
菜織はややムッとして聞き返す。
(ううん――――菜織ちゃんにしては結構渋いなぁって思って)
「なによぉ、それってどういう意味?」
(あ、勘違いしないでね。菜織ちゃんだったら若い子向けの所とかなのかなーって思っていたから)
「もうっっ。正樹もアンタと同じ様なこと言ってたわ。そんなに私がお寺とか見たいって言うのおかしいかなぁ」
そりゃあ、十六、七の高校生が平泉に旅行したいなどと言うのは奇特だろう。修学旅行とかならば話はわかるのだが。
(菜織ちゃんと正樹君がよかったら、私はいいよ。…本当にいいの?)
「えっ! …じゃあオーケーってこと?」
(うんっ。お寺とかはこっちでもたくさん見てきたから好きなんだ。それに、日本のお寺って、一度ゆっくり見てみたいと思うし……。お邪魔じゃなかったら、私も参加させて)
真奈美は二つ返事で快諾してくれた。
万事うまくいった。菜織が諸手を挙げて歓喜する。真奈美は旅行の支度をすると言って電話を終えた。
菜織は間を置かず、正樹に電話する。
「あっ、正樹? ―――――真奈美、オーケーだってっ」
(え――――ああ。そうか、良かったな)
一瞬の戸惑いをごまかすように、正樹は笑う。
菜織は彼の反応を見逃さなかった。さりげなく訊く。
「オーケーしてくれて良かったね。…もし、ダメって言われてたらどうする?」
(べ、別にどうもしねえって。真奈美ちゃんには真奈美ちゃんの都合ってものがあんだしよ)
明らかに正樹の口調は自棄気味になっている。それは予想通りの反応だった。
無理もないだろう。いかに自分と心から結ばれたとはいっても、真奈美はつい最近まで正樹といい関係になりそうだった。
言葉を悪くすれば、略奪愛。
正樹にしても、真奈美に対する未練が塵ひとつないといえば嘘になる。
正樹は未練、菜織は後ろめたさ。二人とも真奈美に対するそんな思いを理解し合ってつき合っているのだ。
菜織は意地悪なことを言ったことを反省する。
「そうそう。真奈美ね、三〇日に帰って来るって。旅行の準備してくるって言うから、あたしたちももう準備しといたほうがいいんじゃない?」
(真奈美ちゃん、気が早いよ…)
苦笑する正樹。だが、真奈美のそそっかしく天然ボケな性格を考えれば、その方が間違いなくていいのだろうか。
行き帰りは新幹線を使うことにした。
正樹がインターネットでチケットの予約を取ることに成功。八月三日の出発ということだった。
ゆとりをもって三泊四日の日程として宿泊は平泉地元の民宿を確保するように菜織に要請。
「わかったわ。そっちの方はあたしがやっとく」
半分なしくずしに決まってしまった今回の旅行だが、段取りは完璧に近いほど整った。
後は真奈美の帰国と、出発の日を待つばかりとなる。
(もう、後戻りは出来ねえぜ、菜織)
「わかってるわよ。今度は本気。…大丈夫。ドタキャンなんかしないってば」
(あたりめえだっ! 高い金はたいてチケット取ったんだ。ドタキャンされてたまるかっ!)
「あら。あたしの分はあたしが払うんでしょ? だったらいいじゃない」
(あのな……そーゆー問題じゃないだろ)
「あはははっ、冗談よ。すぐにムキになるんだから面白い」
(………)
正樹の大きなため息がはっきりと聞こえてくる。
「それはそうと、真奈美の分はどうすんの?」
(は? 真奈美ちゃんの分って、なんだ?)
「旅費よ、旅費」
(どうするって―――――そりゃあ、もらうだろ。俺は真奈美ちゃんの分まで負担するほど金がない)
正樹はあっさりとそう言って苦笑した。
「そうよね。当たり前だよね。…ゴメン、変なこと訊いて」
菜織はまた一つホッとした。正樹だったら、真奈美に気を遣って彼女の分を自己負担しそうな気がしたからだ。
わかっている。心から信じているが、やはり一縷の不安はある。それが余計な杞憂を生む。人の心というものは、そう言うものだ。強くてもろいものだ。大事に想われると、想われるほど、不安は大きくなってゆくような気がする。
「正樹―――――」
(ん?)
不意に口調が翳る菜織。
「ごめんね。わがままばっかり言って、アンタを困らせちゃって―――――」
急に改まった言葉に正樹は一瞬笑いそうになったが、すぐにその言葉の意味を知り、優しい言葉を返す。
(そんなこと気にするなよ。菜織と一緒ならどこだっていいって。―――――まあ、平泉って聞いたときはびっくりしたけどな)
「ありがとう―――――。あのね…私もどうして平泉にこだわっているのかわからないの…。だた、急に平泉って所が頭に浮かんできて、無性に行きたくなってしまって…」
(いいよ、いいよ。俺も全く興味がないって訳じゃないし。それに東北だったらここらより少しは涼しいだろうしな。ああ、あとさ、旅行までに平泉の知識勉強しとくからさ)
そんな正樹の気遣いが菜織は嬉しかった。
「ありがとう―――――正樹」
(な…なんだよ、らしくねえなぁ。どうしたんだよ)
「ううん…何でもない。ごめん…」
(さっきから謝ってばっかだな。気にすんなって。楽しみにしてんだからさ)
「うん…」
急にしんみりとする菜織。
正樹はそれが単純に旅行の行き先について悩んでいるのかと思っていた。
(まあ……とにかくゆっくり休め菜織。明日から夏休みだし。旅行の日まで無駄な体力使うんじゃねえぞ)
「ふふっ…その言葉、そっくりアンタに返すわ」
いつもの調子に戻る菜織。心なしか正樹は安心する。
(はっ―――――ま、そんじゃ)
「うん…ありがとう。じゃあね」
電話を終えた後、菜織は大きくため息をついた。
彼女自身もなぜため息など出るのかわからない。
真奈美のことなのか、それとも違う、何かの不安なのか。菜織自身もわからなかった。
ただ、頭の中に、白い霧に包まれたような漠然としたものが、菜織を心から菜織らしくさせなかった。
今日も熱帯夜の予報だった。
菜織はシャワーを浴び、エアコンをかけると、急激に睡魔に襲われた。
―――――
―――――
一行は北陸道を東へと進んでいた。
鎌倉の追及を逃れるために、身分を隠し修験者に変装していた。
平家を滅ぼした後、鎌倉佐殿・源頼朝は事実上、武家の棟梁の座につき、全国の守護・御家人らに対し、逆臣源義経追討を命じていた。
その義経は、吉野山中で愛する恋人・静を鎌倉方に捕らえられ、完全に意気消沈してしまっていた。それ以来、めっきり口数も少なくなってしまった。
寄り添ううつぼに向ける微笑みすらその瞳は死んだ魚のようだった。
それまで一行は厳しい鎌倉方の監視の網をかいくぐってきた。
この時代、紀州高野山・羽州羽黒山などなど、名峰・霊峰を巡礼する修験者の一行が一種の流行のようなものであったので、各関所も、変装した義経たちを見落としてきたのだ。
すんでの所で気づかれたとしても、義経たちの逃げ足は、捕り手の数十倍も勝っていた。
しかし、ここ安宅の関は格別違う。
京の都から越後以北に通じる北陸道の中継地点として極めて重要な機能を持ち、鎌倉も北面の拠点として、数段警備兵を配置していた。義経たちも、ここだけは今までのように容易に抜けることは出来ない。
関守・富樫泰家(やすいえ)は加賀守として頼朝の信任厚い名将だった。
泰家は他の関守たちとは違い、堅実に通行人の取り調べを行っているため、義経たちは窮地に追い込まれてしまった。
(あ―――――見える―――――)
「そこなる修験僧、待たれい」
何とか取り調べを終え、安宅東門へと足を動かした次の瞬間、泰家の手に握られた扇子がパンと音を立てる。
「その剛力、九郎判官殿に酷似していると申す者がいる」
弁慶を筆頭に修験者に扮した一行。
主人である義経は荷物持ちの下男である『剛力』に変装していたのである。
「これはしたり。我らの中に九郎殿がいると仰せられるか」
弁慶が不満げに泰家をにらみつける。
「左様なことはないとは思うが、そのように申す者がいるのでな。…剛力、笠を取り顔を見せよ」
義経はさっと顔を伏せる。まさしく絶体絶命。笠を取り顔を見せればその時点で義経たちの命運は尽きよう。
(なに―――――何なの―――――)
「いかが致した。よもや……」
泰家が立ち上がろうとしたその時だった。弁慶の形相が変わり、得手の錫杖を振りかざし、義経を横から強く殴りつけたのである。
(いや――――やめて……やめて―――――!)
義経は弁慶の打ちつけた錫杖に、軟土に立てた杭の如く、容易に飛ばされる。
ただでさえ華奢な身体。弁慶の人並み外れた力で打ちつけられれば、骨が粉々に砕けよう。突然の弁慶の行動に、一行は驚愕する。
「うぬぬ……この罰当たりめがっ!」
大地をも震撼させるとまで言われた武蔵坊弁慶の怒号。
「未熟者めがっ! 貴様の修行が足りない故にあらぬ疑いを持たれ…よりによって九郎判官に見間違えられるとは何たる恥辱っ!」
弁慶はそう叫びながら、容赦なく何度も義経を打ちつける。あまりの残酷さに、一行は元より、泰家までもが息をのむ。
「そ…それくらいにしてはいかがだ」
「お止め下されるな富樫介殿。よりによって我が一行が九郎判官如き輩に間違われたはひとえにこの者の修行が足りなきためなれば―――――この場で打ち殺しても構わぬ」
弁慶は大声を張り上げながら、なおも義経を打ち据える。
(やめてっ!)
「うぬっ――――おのれ、貴様も打ち殺されたいかっ」
「行者を止めよっ!」
泰家の命令に、衛兵たちが一斉に弁慶を取り押さえる。すでにぐったりした義経を、庇うようにする…。
(ああ…なんて酷いことをするの……)
「何故お止め下さる。これは我ら一行のことなれば、富樫介殿には関係なきこと…」
不満そうに泰家を睨み付ける弁慶。
「それはそうだが…他の通行人の手前、この場にて人を打ち殺したとなるとこの泰家の面子が立たぬ」
「お言葉ながら、それはご貴殿の事。我らとて、あらぬ疑いをかけられた以上、このまま捨て置くわけには参りませぬぞ」
弁慶の剣幕に、さすがの泰家もタジタジとなる。
「ああ――――よくわかり申した。もはや疑いは晴れたゆえ、早々にこの場を離れよ」
気が抜けたように泰家は一行を追い払うような身振りをする。
「良いのですか」
食いかかる弁慶に対し、泰家は無言で手を払う。
心なしかホッとした表情を見せる弁慶。次の瞬間、伸びている義経を睨み付け、怒号を放った。
「剛力ッ! 富樫介殿のご厚意によりその命救われたのだッ! これに懲りたら二度と九郎判官などに間違われぬよう、更に修行に励むことだ、わかったかッ!」
義経は激痛にただ呻くだけであった。
(何てことするのよ……)
義経を抱き起こし、片腕を肩に担いで起きあがらせる。
義経は項垂れながら力無く錫杖を片手に、弁慶たちの後ろによろけながらついてゆく。
安宅の関からしばらく離れた峠道まで歩いてきた一行。疲労のためか、足取りが止まった。その瞬間、弁慶が錫杖を投げ出し、突然義経の足下にひれ伏す。
「も……申し訳ございませぬ御曹司っ!」
固い大地に額を打ちつける弁慶の姿に、一行は愕然となる。
「敵を欺くためとはいえ……ご主君に対し打擲を加えるとは……この…この弁慶…何と…何と申し開きすればよいか……」
激しい嗚咽に言葉が繋がらない弁慶。
「よい……良いのだ弁慶。そなたがああでもしてくれねば、泰家を欺くことは出来なかった。そなたが謝るどころか、私の方がそなたに感謝をせねばならない」
顔中痣だらけにした義経が弁慶を見つめて微笑む。
(あれ……? この人……)
「ん――――? うつぼ、どうした。私の顔をじっと見て?」
(うつぼ――――? あたし…うつぼなんて名前じゃないわ。菜織……菜織よ?)
「どうしたうつぼ? ……そうか、私の顔の傷が気がかりなのか。はははは、心配には及ばぬ。この程度、単なるかすり傷よ」
(うつぼって誰よ―――――それよりもこの人……)
「心配をかけてすまない。私は大丈夫ゆえ、さあ――――先を急ごう。平泉まではまだまだ先が長い。少しでも足を進めなければ…」
まるで無視するように、義経はぎこちなく立ち上がる。意志とは無関係に、義経を支えて立ち上がる。
(ちょっと待ってっ! 誰……誰なの…っ)
「はっ―――――」
菜織は突然目が覚めた。
外はまだ真っ暗闇。目覚まし時計は3時をやや過ぎている。
「またあの夢―――――」
気がつけばまた全身汗だくになっていた。
「はぁ―――――冗談じゃないわよぉ……病気かしらわたし……」
かすれ気味の声で肌に張り付くパジャマに触れようともしない。
中途半端に目覚めてしまったせいか、やけに目が冴えてしまった。
「シャワー浴びないと……」
眠い身体を起こし、菜織は着替えを取り出し、部屋のドアを開け、重い足取りで浴室に向かう。
当然のこと、この時間は全くの静寂の世界。廊下のきしむ音がやけにうるさく響く。
「それにしてもあの夢―――――『うつぼ』って誰なのよ…それに時代劇に出てくるような格好した連中……」
ぶつぶつと、菜織は独り言を言う。
「クロウとかベンケイとか言ってたわね……誰よ。そんなヤツ知らないって」
テレビの見過ぎなのだろうかと思ったが、考えてみれば自分は歌番組とかドラマくらいしか見ていない。時代劇なんて、全然見たことがない。全く、変な夢である。
「あーあ……変な夢のせいで寝られなくなってしまったわ」
そうぼやきながら、菜織は再びベッドに横になり、天井をじっと見つめる。
そうは言うものの、自分でも不思議なくらい、夢のことが気がかりになっていた。
(正樹―――――確か平泉のこと勉強しておくって言ってたわね。そうだっ、今日あいつ誘って図書館行こう)
なぜ図書館なのか。菜織は素直にそう思って納得してしまった。茫然と天井を眺めているうちに、いつしか意識が飛び、再び深い眠りへと落ちていった。
夏休みの初日。猛暑である。午前一〇時なのにすでに真夏日。
菜織はあまりの暑さに目が覚めてしまった。睡眠不足なのか、体調は優れない感じだ。
思いきり薄着をしても、照りつける夏の日射しは肌だけではなく、骨から焼き付けるようである。
ぐうの音も出ないまま、菜織は正樹の家に向かい、喫茶店ロムレットのドアを開ける。その途端、ひやりとした空気が菜織を包み、生き返らせてくれる。
「はぁぁぁぁ……いきかえるぅ~~」
嬉しい悲鳴が自然と口から発せられる。
「あ、いらっしゃい菜織ちゃん……」
メイドのようなウェイトレスの制服に身を包んだ正樹の妹乃絵美が微笑みながら声を掛ける。
「こんにちは乃絵美。ここ、すごく涼しいわねぇ~」
「外、暑いの?」
乃絵美の問いに、菜織はおぞましいものでも見たような表情をして答える。
「んもぅ! 暑いなんてものじゃないわよぉ。地獄よっ地獄ぅ! 今からこんなんで午後になったらどうなんのぉってカンジ。ホント、エアコンなきゃ死んじゃうわよ」
「ふふっ。今年は特に暑くなるって言っていたから、電気屋さんが大繁盛らしいよ……」
「そりゃそうよねぇ~。取りあえず食べることよりエアコン買うわ、あたしだったら。ホント、やってらんないわよっ」
「ふふっ…そう言えば天気予報、今日の最高気温、三六度くらいまで上がるって。」
「マジィ!? …げっ…」
乃絵美の話を聞いた途端、菜織は一瞬外出したことを後悔した。
「あ――――それよりも乃絵美、正樹いる?」
「あっ…うん、いるよ。今日は朝ご飯以外お部屋から出ていないみたいだから…」
呆れたように笑う菜織。
「楽しい夏休みの初日を部屋で過ごすなんてねぇ…ま、アイツらしいわ。……ねえ、行ってみてもいい?」
「うん。全然構わないけど、もしかすると寝ているかも知れないよ?」
「寝ていたら起こすわよ。この菜織ちゃんの肉声目覚まし時計でね」
くすくすと笑い合う二人。
菜織はカウンター奥の通路から正樹の部屋へと向かった。
トントン……
ノックしても反応はない。やはり寝ているのだろうか。
「正樹? 正樹ってばっ! あたしよ、菜織」
しかし、返事はない。これは完全に熟睡の極地にある。
「入るわよ」
がちゃ……
「あっ―――――」
その瞬間、菜織は思わず足をすくめてしまった。
正樹はテーブルに向かいながら、何かをしている。その周囲の床には、雑誌やら本やらが雑然と散乱している。
「…………」
熱心に正樹は広げられた本を読んでいるのだろうか、ぶつぶつと呟きながら集中している。これでは気がつかない。
菜織は一瞬、変なことを考えてしまったが、どうやらそれとは全く関係がないらしい。
菜織は正樹を脅かしたい欲望に駆られ、忍び足で彼の背後に近づく。
そして、勢いよく彼の頭に華奢な腕を絡めた。
「うぎゃっ!」
潰された蛙のような声を発する正樹。
「あはははははぅ!」
高らかな笑いが正樹の部屋の静寂を撃破する。
怒りに満ちた顔を振り向ける正樹。菜織の無邪気な笑顔を見た途端、あっさりと毒気を抜かれ、呆れを通り越して長嘆する。
「なんだぁよ―――――菜織かよぉ~~~~」
「あははははっ、すごいいい顔してたっ。きゃはははあーおかしい」
本気で笑っている。腹を抱えて笑う、はまり笑いというのはまさしく今の彼女のようなことを言うのだろう。
「てめぇ―――――」
さしもの正樹も菜織の嘲笑に激怒したのか、勢い任せに身体をひねらせ、彼女を押し倒す。
どっとカーペットに仰向けに倒れる菜織。
両手を支えに、正樹は菜織を上から見る体勢になった。
その瞬間、菜織の笑いがぴたりと止まる。表情が素に戻り、正樹の瞳をじっと見つめる。
「…………」
「…………」
いきなりの展開に今度は妙な雰囲気が喧噪を破る。怒りがおさまった正樹、その瞬間、この状況に狼狽してしまう。
金縛りにかかってしまったかのように、視線が菜織の瞳から離れない。だが、心は大いに動揺しまくっている。
しかも菜織がゆっくりと瞼を下ろすと、動揺が激しく増すばかり。
心の準備が出来ていない。当たり前だろう。
唇を小さく歪ませて失敗を悔いた途端、菜織がくすくすと笑いだし、両手を突き上げ正樹の胸板をどんと押す。
正樹の上体が大きく後ろに反れ、正座の状態に戻される。
菜織はゆっくりと起きあがり、やや乱れ気味になった髪の毛を正す。
「もう…怖い顔しちゃって…急にしんとならないでよぉ」
きょとんとした表情をしている正樹に菜織がそう言って微笑む。
ほんの一瞬のようであったが、二人がどのような雰囲気になっていたのかなど、菜織は意識していないかのように振る舞っている。
「あ、ああ。スマン…」
とぼけたように謝る正樹。
意識しているのはどうやら正樹のようであったが、急に菜織が顔を赤くして恥ずかしそうに呟く。
(それに……いくら何でも…朝からそんな気分になんかなれるわけないでしょ……)
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げる正樹。その瞬間の表情が何とも言われず滑稽である。
そんな菜織の仕種や態度ひとつひとつが、『幼なじみ』の頃には見せもしなかったものである。
「ううん…なんでもないの。―――――それより、なにしてんの? 乃絵美に聞いたら朝からずうっとここに籠もりっぱなしだって。寝ているんじゃないかなって、思ったけど」
「あ、ああ。ちいとな、色々と資料見てたんよ」
「資料? 資料って、なんの?」
不思議そうに正樹が向かっていた机をのぞき込む菜織。
「平泉だよ、ヒライズミ。勉強しとくって、言っただろ?」
正樹が照れた調子でそう答えると、菜織はどこか嬉しそうな表情で正樹が開いていたページに目を送る。
「ふうぅぅん…感心感心。勉強嫌いのアンタでも、菜織様のために旅行先の知識覚えて、物知りになろうと必死になっているのね」
茶化すように菜織はニヤリと笑う。
「そいつぁ、多分絶対違うと思うが、まぁ…無知なまま旅行行くよりは、向こうのこと、少しは頭に入れといたほうがいいだろ?」
少しはとはいうものの、テーブルの脇には広げられたままのガイドマップ、東北レジャー雑誌、グルメ、ファッション、エンタテインメント等々…メイン観光情報から、遊べる穴場情報まで、それはそれは大量の本がある。
猛勉強していたのだろう。いささか彼の目じりが黒ずんでいる。
菜織はすぐにわかったが、あえて突っ込まなかった。わずかに憮然とした感じの正樹の表情が、無性に愛おしく感じる。
「ふーん……。で? 今読んでいたのは何?」
「ああ、『ナカソンテラ』と『ケコシテラ』とか言う寺の事書いてる本なんだけど…」
「ナカソンテラ? ケコシテラ? …何、その名前?」
呆れたように菜織が言うと、正樹は指を本に書かれたところに置く。
「はぁ―――――正樹。もっと日本史勉強しときなさい。これは『ナカソンテラ』じゃなくて、『ちゅうそんじ』って読むの! …それと、こっちは『ケコシテラ』じゃなくて、『もうつじ』って読むのよっ。学校で習ったでしょう?」
どうやら漢字の『中尊寺』と『毛越寺』のことらしい。
正樹はとぼけたように苦笑する。
「はぁ……これだからアンタって……」
そんな正樹を愛おしいと思った自分にちょっと後悔。
「お前が興味あんのがこれらなんだろ?」
「まぁ……どっちかっていうと、中尊寺の方に興味があるなぁ。何て言ったって、中尊寺には金で塗られた御堂があるって話だし、ミイラも置かれているって―――――まあ、ミイラにはあまり興味がないけど……」
どこで覚えたのか、やけに菜織は詳しい。
「ええと。中尊寺は――――ん…ふじわらせい…せい…何とかがけんりつ……し……て…」
正樹のぎこちない読み方に、菜織ははぁとため息をつく。
「『ふじわらのきよひら』って読むのよっ! ホント、アンタ何をしに学校に行ってるのよぉ…」
そりゃあ、寝るため…なんて言えば激しい叱責を食らってしまう。
それよりも、それまで日本史なんて全く気にもかけない科目だった。
「全くもう……走ることにかけてはすごくかっこいいけど、その他のことになるとからっきしダメなんだから…」
そうぼやきながら菜織はその本を手に取る。
初代清衡の中尊寺。
二代基衡の毛越寺。
三代秀衡の無量光院―――――。
奥州平泉の歴史が簡潔にわかりやすくカラー写真などを盛り込んで解説されている。
菜織自身も元々は日本史など、学校の授業の一環としか考えていなかったのだが、なぜか無意識のうちに引き込まれるように読みふけり始めた。
そして、藤原秀衡の項に目を通し始めた菜織。思わず声を出して読み始める。
「みなもとのよしつね…奥州へげこうして…秀衡の元でそだち……兄・頼朝が打倒平氏の兵を挙げると…ろうとうとともに秀衡のもとをたち鎌倉へさんじんす……」
ぶつぶつと喋り始める菜織を怪訝そうに見つめる正樹。
彼女はまるで取り憑かれたかのように、読み続けている。
「……だが……平氏を倒したあと……頼朝からうとんじられて……ふたたび奥州へと落ち延びてきた……しかし…秀衡の死後……後を継いだやすひらが……頼朝の威圧にくっし……よしつねを平泉たかだちに追いつめて……妻子とともに…じがいに追い込んだ……」
不思議なオーラが菜織を包み込んでいるように正樹は感じた。
本に食い入っている菜織を横からのぞき込む正樹。彼女の瞳は異様に輝いている。
「よしつね……よしつね……くろう……九郎義経……」
ぶつぶつと呟きつづける菜織。
「おい―――――おい、菜織」
正樹の呼びかけにも菜織は気がつかない。
「義経……べんけい……」
まるで呪文のように呟き続ける菜織。
大丈夫か、こいつ。最近、なんか変だぞ…。正樹は思わず、彼女の細い肩を後ろから抱きしめた。
「―――――う…つ…ぼ…?」
手に持っていた本がテーブルに落ちて閉じられる。正樹の胸板にもたれ掛かるような姿勢の菜織。
だが、目は虚空を見つめるようにぼんやりとして、正樹に全く気がつかないようである。
「―――――うつぼ……はっ! …うつぼ」
「菜織っ、どうしたんだっ!」
瞬間、菜織は反動をつけて正樹から離れ、正樹に振り向く。
「正樹――――あたし……あたし…最近変なの……」
恐怖におののくような口調。彼女の瞳は正樹を見つめているようには見えなかった。
正樹は彼女の両肩を掴み、まっすぐに見つめる。手のひらに伝わる、小刻みな震え。
「変な夢を見るの……なんか……とっても怖い夢……武士が出てきて……人を殺したり……目が覚めると…身体中汗だらけになっていて……」
震えながら、菜織はきつく目を閉じた。
「菜織……」
正樹は強く彼女を引き寄せ、背中を包んだ。更に彼女の身体の震えが伝う。
「どうして……なんかおかしいよ、あたし……」
「疲れがたまってんだよお前…。ずっと俺のこととか、バイトに明け暮れててさ、ろくに休む暇、なかっただろ? だからだよ」
正樹が彼女の髪を撫でながら優しく言う。
「とにかくゆっくり休めよ菜織。このまま無理してたら、旅行どころじゃなくなるだろ。もうすぐ真奈美ちゃんも帰ってくることだし……元気な姿、見せてやろうじゃねえか、な?」
「ん……」
正樹の腕に包まれている菜織がとても小さく見える。
「お願い……しばらく…このままでいて…怖いの…」
言われるまでもない。正樹は彼女の気持ちが落ち着くまで、いつまでも抱きしめつづけていた。
正樹は彼女が呟いた言葉が妙に気がかりになっていた。
"うつぼ"
そう彼女が発した瞬間、菜織は驚いたように目を見開いた。その言葉は、一体どういう意味なのだろうか…。
三〇分ほど、無言のまま抱き合っていた二人。
ようやく落ち着いたのか、菜織がもぞもぞと身体を動かし、腕の力を緩めた正樹から離れる。
「ふう―――――ごめんね、暑いのに…」
そう言って菜織は舌を覗かせて笑う。
「いや……それはいいけど、ホントお前、大丈夫か?」
「うん……正樹のおかげで、少し落ち着いたわ。ありがとう」
疲れたような感じで微笑みを浮かべる菜織。
「ん―――――ところで菜織。今日はどうしたんだよ。なんか用があったんだろ」
「あら……用がなきゃ来ちゃダメなの?」
「いや…そう言う事じゃなくてだな……」
「ふふっ。えーとね…一緒に図書館に行かないかなって、誘いに来たんだけど…」
「図書館? ―――――へえ…珍しいな、お前が図書館なんて。なんか調べものでもあんのか?」
「うん。アンタが平泉のこと勉強したいって言っていたし…それにあたしもちょっとは知っておきたいしね」
「知っておきたいって、お前、十分詳しいじゃねえかよ。いつ習った?」
「ええ!? あたし何にも知らないわよ。だから一緒に行かないって誘いに来たんだけど……どうやらその必要もなさそうね…」
正樹は呆気に取られた。
何も知らないって、さっき中尊寺のこと、見てきたような感じで喋っていたではないか。自分の言ったこと、忘れたのか。この暑さで健忘症にでもなったのかよ。
「菜織、お前、本当に大丈夫?」
正樹が心配そうに菜織の顔をのぞき込む。
菜織は大きな瞳をぱちぱちさせながら正樹を見つめている。
「大丈夫よ? どうしたの?」
無邪気な笑顔だ。正樹は自分の気負い過ぎかと思い自己完結させた。
「図書館か―――――いいな。どうせ、旅行までは金は使えねえし……それにあそこは静かで涼しいもんな。よしっ、菜織。行くか?」
「えっ―――――あ、んん…」
菜織は驚いたように立ち上がっていた正樹を見る。そしておもむろに自分も立ち上がった。
St.エルシア学園が夏休みに入っても、図書館は常に人の影が絶えない。
だてに市立図書館に匹敵するほどの蔵書量ではない。学園の生徒のみならず、大学生・院生・学者・研究者などの利用を受け容れるほどだ。
「ふぅぅぅ…すずしー」
炎天下をテクテクと歩いてきた正樹と菜織が、図書館の自動ドアをくぐった瞬間、そんな言葉が自然と発せられる。一瞬寒いくらいに冷やされた図書館。天国である。
「ここで夜まで過ごしてえよー」
力を使い切ったように、壁にもたれ掛かる正樹。
「何言ってんのよっ。気持ちはわかるけど、ちょっとあたしにつき合って」
「ん?」
菜織に手を引かれてきた所は、歴史風俗・民間伝承の書物が陳列された棚であった。
菜織は本棚に近づき、指で本の背表紙を横になぞってゆく。
「ん――――――――――――と……」
棚の最下段から一段一段、菜織の指が横滑りに動いてゆく。
「おい菜織、何を探してんだ?」
「ちょっと、待っててくれる? ―――――えーと……」
彼女は無心になって目的の本を探しているようだ。真奈美ならばともかく、普段の彼女からは全く想像がつかない姿。
「あっ、あったあった。へへっ」
目的の本を発見したときの彼女の表情は本当に嬉しそうだった。
「何? 何の本なんだよ」
さっとその本を後ろに隠した菜織。当ててごらんと言わんばかりの表情を正樹に向ける。
「わからねえ。平泉関係か?」
「惜しいっ!」
そう言って菜織はジャーンなどと言いながら本を前に差し出す。
「なになに…『すもうこく神社探訪記』?? 何じゃそりゃ?」
正樹がタイトルを読むと、菜織はガクリと膝を折る。
「ばーか。違うわよ。『すもう』じゃなくて、『さがみのくに』って言うのっ! 神奈川の昔の国名でしょ?」
「あーあ。そういや相模原って地名あったっけ」
決してボケた訳じゃない。
「菜織……それはそうと、そんな本みっけたことがそんなに嬉しいのかよ」
「ふふーん。アンタは知らないでしょうけど、私の家って、鎌倉時代から続く、由緒正しーい、神社なのよ?」
自慢げに語る菜織。
「えっ、そいつぁ初耳だな」
「この手の歴史本には必ず家の神社の名前があるらしいの。おやじの話だけどね」
「何だ。お前も知らなかったのか」
ため息をつく正樹。
「そう。昨夜聞いたばかり」
「ああ、そうっすか」
自分ちの事くらい知っておけよと言いかけて正樹はやめる。
「あ、あそこ空いてるから、あっちで見ようよ、正樹」
ちょうど、大学生らしい青年数人が立ち去った後のテーブルを指差す菜織。二人はおもむろにそこに向かった。
相模国。
つまり神奈川県で有名な神社と言えば、何と言っても鶴岡八幡宮であろう。
源氏の棟梁・源頼義によって創建され、その息子でありここで元服した、通称を八幡太郎と名乗った源義家を祀る、武士の信仰厚い社。
鎌倉幕府を開いた頼朝が、この地で義経の愛妾静御前を舞わせ、静が義経を慕う歌を唄ったという逸話は名高い。
更に三代将軍実朝が石段の下で甥の公暁に刺殺された事件も有名だ。
「ここは小学校の時遠足かなんかで行ったことあったな。人ばっか多くてよくわからんかった気がする」
「よく言うわ。アンタ、全然先生やガイドさんの話も聞かないであっちこっちはしゃぎ回っていたくせに」
「あら、そうだったかしら?」
とぼける正樹。
「――――ところで、お前ん家、どこに載ってんだよ」
「ん……ちょっと待ってて。今、探す……」
ペラペラとページをめくってゆく菜織。なかなか見つからない。そしてついに本は最終ページを超えてしまう。
「あの―――――菜織君?」
「え?」
苦笑する菜織、下がり目の正樹。
「目次――――見た方早くない?」
「あははは。おっしゃるとおりです、正樹様」
84ページ。十徳神社―――――
それは、たった1ページの、簡単なものであった。
しかも、写真は白黒、あのきつい三〇〇段の石段を登り上がったときに見える、社の外観一枚だけ。
「ほう―――――確かにあるなぁ」
正樹の口調がやけに低音になる。
「ま、まあ…載ってないよりは…いいじゃない」
「なんか、『その他の神社』みてえな扱いだな、おい」
最近になって新設されたような『神社』と名の付くもの。賭け事必勝祈願、安産祈願、交通・家内安全祈願……そんな、いわばまがいものの『神社』の中に、菜織の家は紹介されていた。
「ええと……創設年は―――――一一九八年か。ふうん…八〇〇年も続いているんだぁ、私の家って」
「へえ…そんな年月経っている割には、かなりきれいじゃないか、お前ん家」
「そりゃあ、その間に何度も修復しているでしょ? 当たり前じゃない」
「あ、それもそうか」
「それで―――――誰が造ったのかな。……やっぱり、私のご先祖様よね―――――」
菜織は文章を追う。しかし、創設者の"そ"の字すら出てこない。
「ええと…おかしいわね」
やや焦ったような感じで、菜織は真剣に文章を追う。
『義経・泰衡討滅後に、その霊を鎮撫するために、頼朝は永福寺を建てた。
義経か泰衡の徒党のひとりが生き残り、三浦介義村の庇護のもと、彼らを神格化して十徳社を開闢したと伝えられる―――――』
菜織の祖先は愚か、十徳神社を開いた人物の名前すら出てきていない。
この本には、源義経か、藤原泰衡の家来の生き残りが、源頼朝の重臣である三浦義村の助けで、旧主人を神に仕立てて十徳神社を開いたらしいとしか、記されていない。
「どうやら…わからずじまいだったようだな、菜織」
正樹がまじめな顔つきで菜織を見る。
「…………」
菜織はさも悔しそうに、何度も自分ちの紹介文を読んでいる。
「多分さ、名もない兵士か武士が造ったんだよ」
「違う……」
「え―――――?」
菜織の呟きに、正樹は驚く。
(うつぼ―――――そう、あの夢で私のこと、確かに『うつぼ』って、呼んでた…。義経―――――そう、あの人は私を見て『うつぼ』って……)
再びぼうっとした表情をする菜織。
さすがにここまで来ると、大丈夫などという言葉だけでは済まされない。
正樹は何を思ったか、突然菜織から本を奪った。
「あ――――――」
茫然とした様子の菜織。
普段の彼女なら、なにすんのよっ! などと怒鳴って正樹に食ってかかるはずなのだが、そんな様子ひとつも感じない。
本を支えていた手のひらを眺めながら、ぽかんとしている。
「おい、菜織。お前、絶対おかしいって。……もう、しばらく本は読むな。平泉のこととか、自分ちのことだとか――――何だよ急に……」
正樹は菜織の手を握りしめていた。彼女はその手を握り返すこともせず、微睡みからさめたような表情をしている。
「菜織……。おい、菜織っ、聞いているか?」
「えっ―――――うん……」
「お前……変な夢みているって言ってたよな……武士がどうこうとか…」
「ん………」
「もしかしたら、その夢のせいかもしんねえ」
正樹はうーんと唸った後、さり気なく菜織を見つめ、言った。
「菜織。しばらく俺ン家で泊まれ―――――」
「…………えっ!?」
唐突なセリフに、菜織は一瞬、耳を疑った。
「このままお前をひとりにさせとくと、何をしでかすかわらねえ。いいから、何も言わずに俺ン家で泊まれよ。いいな」
勢いとはいえ、随分と無謀なことを口にするものだ。
「おやじやおふくろには俺が事情を説明しておく。お前もおやじさんたちに友達の家にでも泊まるって言ってこい」
「…………」
普通の状態だったら、何をバカな冗談言っているのよっ! などと言って一蹴してしまうのだが、そんなことを言う兆候すら見えない。彼女は無言の肯定をあっさりとしてしまった。
病院にでも連れていった方がいいのかと正樹は真剣に考えた。
だが、こうして両親や乃絵美と食事しながら普段通りに談笑する菜織の姿を見ていると、別段精神的に異常があるとはどうしても思えない。
正樹は両親に菜織をしばらく泊めて欲しいと言い、意外とあっさり承知してくれた。
だが、菜織は馬鹿正直に正樹の家に泊まると言ったらしい。だが、彼女の両親は正樹の家に泊まる事を了承した。
女の子で、しかも高校生が外泊すると言えば、大概の両親だったら怒髪天を衝くように激怒するはずだ。
正樹もその話を聞いたとき、思わず顔が真っ青になったほど。
だが、よくよく思えば、正樹は幼なじみでもあるわけだし、ひとり暮らしでもない。
まあ、乃絵美の部屋に泊まらせるにせよ、菜織つてに彼女の両親は正樹の親に『お世話かけます』と言っていた。
まあ、嘘をつくよりは正直に話した方が、それほど波風は立たないだろうが。
食事を終えて、シャワーを浴びた正樹は、自分の部屋に散乱している東北関係の資料を取りあえず片づけ、ベットに腰かける。
「旅行の時まで、菜織には本を読ませないようにしねえとな」
二重人格と言えば大袈裟かも知れないが、菜織が歴史関係の本に興味を持つこと自体、考えられなかった。
それが今度の旅行先がなぜか突然『平泉』となり、その関連の本やなぜか自分の家の関連本を読みあさるようになった。
そして読んでいるうちにまるで別人のようになってしまい、気がつくといつもの彼女に戻る。
正樹自身、正直言って少し気味が悪い。
物の怪の類は信用してはいないが、今の菜織は、何かが取り憑いているのではないかとさえ、考えてしまう。
トントン……
「あっ―――――はい」
「正樹、起きてた?」
ドアが開き、パジャマ姿の菜織が姿を見せる。
「おお、菜織か。風呂入ったのか」
「うん…後は寝るだけなんだけど。まだちょっと時間があるし……」
「乃絵美は?」
「先に休むって。寝ちゃったみたい」
壁時計を見ると十時前である。相変わらず、乃絵美が寝るのは早い。
「何してたの?」
菜織がおもむろに正樹の隣に腰かける。湯上がりのいい匂いが正樹の鼻をくすぐる。
「いや―――――特にこれと言ったことはしてねえよ」
「そう―――――? 何か考え事していたみたいだけど」
菜織が正樹の顔をのぞき込むように顔を近づける。
正樹は自分の瞳をぴくりともそらさないで見つめている菜織が、瞳を通して自分の思っていることを察知されてしまいそうで照れと後ろめたさが混同していた。
さり気なく菜織との距離を離して笑う。
「なぁ菜織。明日、横浜に行こうぜ」
「えっ? 横浜?」
きょとんとする菜織。
「旅行の準備さ。三島デパートに行って、必要なもの見に行かないか」
「う……ん。それもそうね」
戸惑い気味に菜織は頷く。
「東北ってさ、やっぱこっちより涼しいんだろうな。だったらセーターを買わなきゃならないか……いや、待てよ。いくら何でもそこまで寒くないか、ハハハハ……」
くだらないことを言いながら無理に笑っているようにしか見えない正樹。
菜織は表情も変えずに正樹をじっと見つめつづけている。
話が続かない。
正樹の渇いた笑いだけが、虚しく部屋にこだまする。
「けほっ……」
わざとらしい咳を吐く正樹。くだらない言葉が一層、空気を重くしてしまったようだ。
菜織はなおも正樹をじいっと見つめている。いや、睨んでいるとでも言うのか。彼女の視線を受けて、正樹の視線は宙を彷徨っている。
そして突然、菜織は身を乗り出して正樹を突き倒し、仰向けに倒れた正樹の上に跨るような体勢を取った。
「!」
愕然となる正樹。菜織は正樹を上から見下ろしながら、口の端ににやりと嗤いを浮かべる。
「正樹―――――何を隠してるの?」
「はっ?」
「とぼけてもムダよ。アンタが何かウソついたり隠し事してたりすると、すぐに顔に出るんだから」
その言葉に、正樹は大慌てで手のひらを顔に当てる。
「べ……別に何も隠してなんかいねえよ。マジだって」
「そう? ―――――だったらどうして、私から目を反らそうとするわけ?」
正樹は無意識にも菜織に目を合わせようとしなかった。
「そ…そりゃあ、照れるからだろうが」
「説得力のない言い訳ね。今までそんなこと言わなかった癖に」
菜織は両手の細い指を、正樹の頸に絡ませた。
「な、何する気だ菜織……」
「正直に言わないとォ―――――このまま絞め殺しちゃうぞォ―――――」
冗談気味に言いながら、菜織は指に力を込めてゆく。
「くっ…はっ……わ、わ、わかったわかった……言うよ。言うから止めろっ!」
正樹は内心怖かった。
菜織は本気ではないにしろ、最近の菜織はどこかおかしい。とぼけ続けていると、無意識なりと本当に絞め殺されてしまうかも知れない。
「よぉ~し……じゃあ、話してもらいましょうか」
菜織は正樹から離れ、再びベットに座り直す。正樹は片手で頸を押さえながら、起きあがる。
「いいか菜織。余計なこと考えずに聞けよ」
正樹の念押しに、菜織はため息をつきながら答える。
「だから、何よ」
「旅行の行き先が平泉に決めた後からなんかお前、おかしいなあって」
「えっ――――おかしい?」
「自分で言ってたじゃねえか。あたしなんか変なの…って」
「えっ――――うん……まあ…ね」
「普段通り話してても突然ブルー入ったり…今朝だって平泉関連の本読み出したら急に様子おかしくなったり……図書館でもいきなりお前ん家載った本引っぱり出してきて突然怪しい感じになるし……。それに、お前が見たって言う変な夢の話も……。お前、ホントに大丈夫なのかなぁって。何か取り憑いているんじゃないかってさ」
「そう――――ね。確かにアンタの言うとおりだわ」
指摘され、表情が翳る菜織。
「それに、今日だって…。絶対笑って断られると思ってたのに、あっさりオーケーしちまうし……。お前らしくねえぞ、最近」
「…………」
菜織は無言になる。
「何があったかはしらねーけど、俺にだけは隠し事しねえでくれよ。もう俺たちはそんな仲じゃねえんだからよ」
「…………」
うつむいたままの菜織。
「と…まっ、そんな感じな事を考えていただけだ。わかったか?」
正樹が菜織を見ると、彼女はうつむいたまま沈黙している。
「なんだぃ、寝てやがんのか、こいつ……。せっかくいい言葉でしめたのによ…」
(……くっくっくっく……)
「!」
突然、低い笑い声が部屋に響き、正樹は愕然となった。
「な、な、な……なんだっ!?」
(ひっひっひっひ……)
「な、菜織……」
それは俯いている菜織から発せられていたものだった。
彼女は肩を震わし、薄気味悪く笑っている。
正樹は顔から血の気が引いてゆくのを感じ、金縛りにあったかのように立ち上がることすら出来ない。
菜織は顔を見せないまま正樹の方に身体の正面を向け、じりじりと擦り寄せてくる。
「よ……よせっ!」
背筋に悪寒が走る正樹。菜織の異様な雰囲気に、強い恐怖感がすべての身体機能を停止させる。
そして……
うわぁぁぁぁぁ―――――――――!!
外部まで響きわたる若い男の悲鳴。それに驚いてか、近所の犬が一斉に吠える。
「くっくっくっく……ふふふふふっ……あはははははっ!」
固まった正樹の胸に顔を埋めた菜織が放心状態の正樹を見て高笑いをする。
さっと身を離して正樹を見つめる菜織。その微笑み、瞳の輝き、いつもの菜織だった。
「どお? 迫真の演技だったでしょう?」
はにわ面の正樹に、菜織はいたずらそうに小さな舌を覗かせる。
「おめえよぉぉ―――――ミャーコちゃんじゃねえんだからよぉ―――――」
力が抜けたか、正樹が崩れたように仰向けに倒れる。
「アセってるアセってる。いい表情してたわよ正樹」
笑いをこらえる菜織。
「こんなときに―――――冗談悪過ぎんぜ菜織ィ――――」
疲れ切ったように正樹は目を閉じて長嘆する。
「…………」
そして、しばらくの沈黙の後、正樹は胸に何かが乗せられたような感覚に目を開けた。視線を向けると、菜織がそっと、頭を横たわった正樹の胸に埋めている。
「菜織……」
「―――――ゴメン。ありがとう……私のこと、ずうっと心配しててくれたんだ」
しおらしい声で、菜織は素直にそう言った。
「…ま、まあ……そ、そんなわけじゃねえけどさ……」
男はいつだって照れ臭さを隠そうとする。
(私―――――やっぱり正樹で良かった―――――)
「え――――――?」
小声で呟いた菜織。聞こえなかった正樹が聞き返そうとしたが、菜織はするりとはぐらかす。
「ねえ正樹? 今晩、ここで寝させて……」
「はぁ?」
「正樹の側だと、すごく落ち着くの…。正樹の側で寝られたら、変な夢も見なくてすみそう……」
甘えた声で、菜織が言う。
「ま…まずくねえか? それって。一応…俺の親もいるしさ…それに乃絵美だって……」
「大丈夫。心配しないで…。みんな起きる前には乃絵美の部屋に戻るから……」
「………」
菜織は赤く染まった顔を隠すように、強く正樹の胸に顔を押しつけている。
正樹は愛おしさが重なって彼女の背中に腕を廻し、強く抱きしめた。
その瞬間、心なしかこわばっていた菜織の身体から力が抜け、正樹に委ねるように預ける…。
「ねえ正樹?」
「ん―――――?」
「もう一度…言って?」
「え……何を?」
「この間……社で私をこうしていたときに…言った言葉…」
(伊藤正樹は―――――氷川菜織を愛している――――)
「はっ―――――忘れたよ……」
そう。男は基本的に照れ屋なのだ。
「む………」
拗ねてみせる菜織。なかなかつなぎの言葉を発想としない正樹。
怒って正樹から離れようとしたとき、菜織の背中を正樹は再度、抱き直した。
そして、はにかみながら、言った。
「伊藤…正樹は―――――氷川…菜織を……心から…愛しています――――…くわぁっ、これでいいだろぉ…」
「最後は余計ね……でも……うれしいよ…言葉にしてくれると……」
「はぁ―――――そんなもんかね……簡単そうなのに…結構神経使うな、これを言うのって……」
「ふふっ……」
屈託なく、菜織らしい笑いが正樹の心を改めて捉える。そう、幼い頃から、自分はこの笑顔に支えられてきたのだ。
正樹と菜織は寄り添いながら横になった。
直接身体を合わせずとも安心できる。今の二人は、そんな感じであった。正樹は菜織の細い肩を包み、菜織は正樹の方に頭を傾け、眠りについていった……。