第1部 現代篇
第2章 愛のかたち

1189年7月
鎌倉・西大路

 うつぼは『金売り吉次』と言う男の一行に匿われるようにして鎌倉に入った。
 源義経が藤原泰衡によって討たれたとき、うつぼは彼と運命を共にしようとしたが、義経はそれを拒み、密かに吉次に対してうつぼを逃がすように言い含んでいたのである。
 吉次は頼朝方の厳しい探索の網を悠然とかいくぐり、いわば敵地である鎌倉へとうつぼを連れてきたのだった。
「吉次さま……ここは?」
 吉次が足を止めた場所は、政庁よりやや離れた大通りの一角にある、とある大きな屋敷の前であった。
 不思議そうに、その屋敷を見回す。吉次は何も答えず、うつぼを屋敷の裏門の方へと導く。
 夜も更け、周囲はすっかりと静寂に包まれた。
 普段は住民やら御家人などの武士が往来を賑わすが、さすがにこの時間ともなると夜間警備の兵士以外の人影は見あたらない。
 吉次が裏門の納戸を叩くと、閂を外す音が響き、ゆっくりと納戸が開かれる。そして、家人風の男が吉次たちの姿を見て鄭重に頭を下げる。
「お待ちいたしておりました―――――お館様がお待ちでございます。どうぞ、こちらへ……」
 吉次はうつぼを導くようにして納戸をくぐり、家人の後をついて行く。
 その屋敷もすでに灯りのともった部屋はなく、皆深い眠りのただ中にいることを物語っている。
 怪訝な表情を浮かべながら、うつぼは吉次の後を歩み、敷居を跨ぐ。
 廊下をどれほど進んだか、屋敷の奥の突き当たり近くにある障子戸から、淡い光が漏れているのに気がつき、思わず足を止める。
「…………」
 吉次はその部屋の前で跪き、うつぼもまた足を止める。
「失礼いたします――――――吉次にございます―――――」
 吉次がそう言葉を発すると、障子戸の向こうから若い男の声が返ってきた。
「参られたか。入られよ―――――」
 吉次がその場で一礼して、障子戸をゆっくりと開く。
 うつぼの視界に、広い座敷が映し出される。そして、床の間の前に座す、ひとりの若い男に視線を止める。
「……吉次さま……」
 不安気味にうつぼは吉次に声を掛ける。
「こちらは―――――」
 吉次が返答しようとしたとき、若い男はおもむろに立ち上がり、うつぼを見て微笑みながら口を開いた。
「よくぞご無事で参られたうつぼ殿。それがし―――――佐殿が臣、三浦大介義村と申す―――――」
「―――――えっ!」
 男がそう名乗った瞬間、うつぼは思わず目を見開いた。
 何と、その若い男は、千葉・上総(かずさ)・畠山らと並び称される、頼朝の筆頭重臣・相模の大族、三浦義村その人であったのだ。
「…………」
 うつぼは瞬間、これがどういうことなのか全くわからなかった。
 混乱する思考。何故、頼朝の重臣がここにいるのだ。
 吉次が裏切ったのか、それとも場所を間違えたのか、この男が嘘を言っているのだろうか。様々な思惑が交錯する。
 義経とはまた違った感じの美貌を持った義村は、どこか冷たい微笑をうつぼに向けながらつづけた。
「何を驚いておられる。心配することなどない。それがしはそなたのお味方でござる。」
 穏やかな口調だったが、どこか含みがあるような気がしてならなかった。
 思えば平泉で突然、四代目御館泰衡が義経を襲ったときは誰もが茫然自失としてしまった。
 うつぼはそれが頼朝の脅迫に屈した泰衡の暴挙と思い、泰衡を憎んだが、それ以上に頼朝に対する憎悪の方が大きかった。
 当然のこと、そんな非情な男の腹心が自分の味方だと言ったとしても信用できようはずがない。
 もしも今、懐刀を携えていたとすれば、有無も言わさず義村に斬りつけていただろう。
「――――とはいうものの、『はい、そうですか』などと思えようはずはないか……」
 ため息まじりに義村は言う。怪訝な眼差しを向けるうつぼ。
「吉次殿―――――」
 義村が吉次に目合図を送ると、吉次は軽く頭を下げ、向かって右側の襖戸に手をかける。一瞥するうつぼ。義村はわずかに瞼を下ろしてじっとしている。
 襖戸が徐々に開かれて行く。
 そして、そこにひっそりと立つ、白装束の人物を見た瞬間、うつぼは愕然となった。
「あっ……あなたは……」
 蒼白・焦燥の面もちでまるで幽霊のようにたたずむ若く美しい女性。
 その両腕には気持ちよさそうに眠っている稚児。まさかとは思った。だが、間違いがなかった。

 雪の吉野山―――――義経一行が鎌倉方の兵団に襲われたとき、捕らえられた義経最愛の女性。
 風聞によると、その後彼女は鎌倉に連行され、頼朝の命令で源氏の守護神を祀る鶴岡八幡宮で舞を舞った。
 そこで彼女は堂々と義経を恋い慕う歌を唄い、そのはかなくも可憐な姿に、頼朝の妻政子は元より、千葉常胤(つねたね)、土肥実平(どい・さねひら)、畠山重忠ら頼朝の右腕・参謀格の武将らまでも目に涙したという。
「し……静さまっ! い、生きておられたのですかっ!」
 驚きと喜びに、うつぼの声が大きくなる。
 彼女はその後、義経の子を身籠もっていることが発覚し、頼朝は彼女を誅殺しようとした。
 だが、妻の政子が身を挺して諫め、頼朝も生まれてくる子が女児ならば良し。男児ならば海に投げ捨てよという、非情だが、そこまで引いた。
 彼女の身柄は御家人・安達新三郎の元に預けられ、監視下に置かれていた。
 だが、生まれてきた子は皮肉にも男児だった。
 そのために、厳命を受けていた新三郎は、生まれたばかりの子を取り上げ、由比ヶ浜から赤子を放り投げたという。
 ここまでが、うつぼの聞いた噂だった。
 だが、今目の前にいる人物は確かに静に相違なく、胸に抱かれている赤子は、海に捨てられたはずの義経の嫡男に違いがなかった。
 静は生気の感じられない眼差しで、うつぼを見つめていた。
「しかし―――――佐殿も惨い仕打ちをされるものだ」
 義村がおもむろに語り出す。
「いかに九郎殿が憎いとは申せ、何も生まれ出たばかりの赤子まで殺そうとせずともよいものを―――――」
 うつぼは義村を見て半ば狼狽した口調で言う。
「これはどういうことですか義村さまっ! 静様は……静様は……」
「お慌てめさるなうつぼ殿。ご覧の通り、静殿と、九郎殿の御嫡男はそれがしがお救い致した」
 微笑みを浮かべながら、義村はゆっくりとした口調で言った。
 義村は事の経緯を話した。
 安達新三郎の元に引き取られた時、義村は密かに彼のもとを訪れ、新三郎に事の損得を説き、籠絡にかかった。
 もともと、頼朝の命令の理不尽さに乗り気ではなかった新三郎は、頼朝の腹心である義村の説得を助けと、静の身柄を託すことに同意した。
 義村は新三郎に、産まれた子は男児であった。ゆえに頼朝の命令通り海に投げ捨てた。そう報告させたのである。
 しかし、その直後に安達新三郎は自害した。
 生まれたばかりの赤子を殺してしまった自責の念が彼を思い詰めさせたと、周囲は話していたが、それが三浦義村による抹殺であったとは知る由もなかった。
「何故……何故、鎌倉の重臣であらせられますあなた様がここまで……」
 うつぼの疑念は確かに的を射ている。
 静たちや自分が無事なことを喜んでいないのではない。
 ただ、義経は彼ら鎌倉方にとってはS級の指名手配犯人なはず。それに静やその生まれた子供すら、鎌倉にとっては危険な火種。
 それに、自分自身だとて、いつかは邪魔になりうる存在だ。
 それをよりによって鎌倉の警察首脳とも言える義村自身が進んで匿うとは。それも味方である御家人を暗殺してまで。
 これは何か裏があってのことか、そうでなければれっきとした鎌倉に対する反逆の証である。
「九郎殿には何ら遺恨はない。まして佐殿に対しても何ら不満はない」
 義村はそう念を押す。
「ただ…………義時―――――北条義時の思うつぼに、これ以上はまるわけにはゆかぬのだ……」
 一瞬、義村の瞳に炎が揺らいだような気がした。
「北条―――――義時―――――?」
 うつぼが怪訝そうにその名を呟く。
「……そなたはもとより、九郎殿もよもや気づかなかっただろうが……九郎殿が腰越にて佐殿宛てにしたためた書状―――――佐殿の目に留まったと思うか」
「えっ―――――?」
 愕然となり、義村を直視するうつぼ。
 義村は更にうつぼを驚愕とさせる事実を語りはじめた。
「九郎殿の書状は佐殿の目に届く前に、義時が握りつぶしていたのだ。その上、大江広元と謀り、改ざんした無礼な書状を佐殿に差し出した―――――。何も知らぬ佐殿は当然、烈火の如く怒り、九郎殿を……」
 急激にこみ上げてくる涙。言わずと知れた、悔し涙。堰を切ったように、うつぼのつぶらな瞳から大粒の滴がこぼれ落ちてくる。
 義村の話が本当だとするならば、何故頼朝が義経に会おうとはしなかったのか、わかった。
 いかに冷酷非情な頼朝だとて、嘘偽りのない心からの痛憤を記した義経の腰越状を読めば、寸分なりとて揺り動かされたはずだ。
 仮に義経の犯した無断任官の罪が許されなかったとしても、一目会い、言葉を交わすことくらいしただろう。
 それすら微塵にも感じさせなかった頼朝の対応。
 義経の手紙が、頼朝に届くどころか、側近が握りつぶしていた、その上改ざんした無礼な書面を頼朝に見せていたとなれば、頼朝の態度も理解できる。
「そ…そんなことって……ならば……ならば九郎さまの死は……」
 そう。
 義経を襲ったのは泰衡だ。
 だが、その泰衡を義経襲撃に追いつめたのは頼朝。
 その頼朝を焚き付けたのは、側近・北条義時。
 いわば、義経を死に追いやった原因は、義時と言うことになる。
「あやつ―――――何を考えておるのか……。佐殿と九郎殿の仲を裂き、何の得があるというのか、解らぬわ」
 うつぼにとって、義村の言うような義時の損得のことなどどうでもいいことだった。
 あるのはただ、愛する義経を死に追い込んだ原因を作った、義時と頼朝に対する恨みのみ。
「許せない―――――許せないっ!」
 突然、うつぼは奇声を発し、駆け出す。咄嗟に吉次がうつぼの背中を押さえつける。
「はなっ――――放してっ! ……九郎様を追いつめた奴ら……私が……私がっ!」
 吉次の宥めも耳に届かない。はげしく身をよじって抵抗する。
「落ち着かれいっ!」
 義村の威圧するような低い声が響きわたる。
 その瞬間、うつぼの瞳からは電源を切ったように、爛々たる輝きが失せて行く。抵抗する力をも失い、吉次が腕を放すと、その場にへたり込む。
 義村がおもむろに立ち上がり、後ろからうつぼの肩に手を重ねる。
「静殿に同じ事を話したときも、今のそなたのように狂乱した。―――――そなたらの気持ちは解る。まあ、そなたらにとって見れば、我らは仇敵やも知れぬが……死に急ぐは愚かだ。九郎殿も決して喜ばれぬ」
 うつぼの肩の震えが、はっきりと義村の手のひらに伝わってくる。
「時を待たれよ。…微力ながらこの義村がそなたたちの力となろう。ゆえに軽挙妄動は慎まれよ」
 優しく、力強い口調で、義村は興奮気味のうつぼを宥める。
 うつぼは茫然とした眼差しで、義村を見上げる。
 義村は穏やかに微笑みながら目で小さく頷いた。その端整な顔立ちは、どこか義経とは違う、耽美な美しさがあった。
「ま―――――ここなれば安心ゆえ、静殿とともにしばらく過ごされよ」
 そう言ってゆっくりと義村は立ち上がる。
「あっ……あの……」
 思わずうつぼは呼び止めた。
 義村はふっと笑い、その瞳の奥に冷たい光をたたえながら言った。
「我らは明後日に奥州討伐へ出陣することと相成った。しばらく鎌倉を留守にするゆえ、そなたらもここにてゆるりと休まれよ。……吉次殿、後はよろしゅうな」
 吉次は鄭重に頭を下げる。義村は軽く会釈をすると、その場を後にした。

 奥座敷にはうつぼと静の二人が残った。
 先ほどから静は何も言葉を発しない。うつぼもまた、何から話せばいいのか、解らぬまま無言であった。
 うつぼにとってみれば、吉野山での別離が永遠の別れだと思っていた。
 結果的には、義経とは永遠の別れになってしまったが、何よりも命があると言うことに勝るものはない。
 愛する義経は死んだ。
 だが、静やその子は無事だった。今はそれだけでも十分だ。
「静さま―――――ご無事で何よりです……」
 やっと、うつぼがそう言った。その言葉に、静もわずかに微笑む。
「三年―――――になりますね」
 そんなになるのかと、うつぼは振り返る。
 思えばここ数年、随分と慌ただしくて時の経つのも忘れるほどだったような気がした。
 そして、記憶はそれを通り過ぎて遡って行く。

 義経とうつぼ・静は鞍馬山で幼少時を過ごした幼なじみであった。
 うつぼと静は長いつき合いだ。
 遮那王と名乗っていた義経が鞍馬山に引き取られてきて間もなく、静は母親である磯禅師の都合と言う理由から下山した。
 三人で過ごし遊んだ鞍馬山の日々は短いものであったが、その間に、義経と静はいつしか強い絆で結ばれていたのかも知れない。
 当時は平家の天下だった。
 権大納言・平時忠が高言した、『平家にあらずんば、人にあらず』というのはあまりにも有名だ。
 そして、棟梁・入道相国清盛は、そんな平氏に反感を抱く者を取り締まるために、年の頃十五,六歳ほどの少年を召集し、密偵として洛中・洛外に放っていた。
 当時、人々はこの少年たちを、おかっぱ頭から名を取り『かむろ』と呼んで恐れたという。
 ある日、義経とうつぼ、静の三人はいつものように鞍馬の山中を駆けめぐって遊んでいた。
 身軽で足の速い義経とうつぼとは違って、静は山駆けや競争などと言うことは得意ではなかった。
 いつも義経やうつぼの後をついてくるようなタイプだったので、いつしか義経とうつぼは静とはぐれてしまっていた。
 それに気づいて引き返したとき、静はかむろに絡まれかけていた。
 増長した平家に連鎖するように、かむろ達にとっても、理由などない。お遊び感覚、憂さ晴らしとでも言うのだろうか、現在で言えば『オヤジ狩り』。
 因縁を付けて罪なき人々を痛めつける。そんな手の着けられない不良グループと成れ果てた連中に、静は取り囲まれていたのだ。
 その時、義経は何を思ったのだろう。
 源氏の御曹司として、頽廃した平家の所業を憎んだのか、それとも静を助けたいと思ったのか。
 彼は反射的に木の枝をへし折り、かむろ達に襲いかかったのだ。
 そんな彼の様子に、うつぼは子供心ながら複雑な心境になった。
 義経の武芸と敏捷さに、十人近いかむろ達は簡単に倒されていった。
 そして、恐怖におののく静を義経は優しく抱きしめていた……。
 彼と静との幼い頃の想い出は、うつぼが知る限りではこのことくらいしかなかったような気がする。
 それからすぐに、静は鞍馬を下りていった。何も告げずに……。
 義経は急に去って行く静を追いかけようとしたが、すでに彼女の姿はなく、痛快の念に力尽きたように大地を叩き付ける義経の姿を、うつぼは忘れることが出来ない。
 鞍馬山別当・蓮忍和尚は、静が去った理由は、平家の公達(きんだち)、能登守・平教経(のりつね)に見初められ、教経のもとに行くのではないかとのことだった。
 教経は清盛の実弟・門脇中納言教盛の子であり、若いながらも、貴族化し頽廃した一門の中で、中納言知盛・本三位中将重衡と並ぶ、武家の本分を守り通し、武勇に優れた人格者と名高く、また端正な美貌も相まって平家の中ですこぶる人気が高い人物だった。
 それを聞いたとき、義経は何を思ったのだろう。
 それ以来、彼は取り憑かれたように武芸に勤しみ、六韜三略(りくとうさんりゃく=兵法書)を勉強した。
 うつぼは、そんな彼のひたむきな姿が、父義朝を始めとする源氏を破滅させた平家に対する復讐の念だけではないような気がして、心なしか寂しさに包まれて行く感覚に囚われていた。
 それでも、彼女は明るく振るまい義経を励まし支えてきた。
 やがて義経が奥州の覇王・藤原秀衡の庇護を受けるために平泉に下向して行くときも、彼女は同行した。
 どんなときも、彼女は義経の側にいた。
 静よりも、同じ景色、同じ空を見ていた時間は比べものにならないくらい長い。
 だが、義経の心はうつぼには向いていなかった。
 やがて兄・頼朝が挙兵し、義経も鎌倉に駆けつけ、京都を騒がしていた木曾次郎・源義仲を討ち、平家追討の下準備を整えるに至る。
 その時、うつぼは義仲主従、特に彼の妻・巴に自分の姿を映し重ねていた。
 義仲と巴、樋口兼光・今井兼平の四人はそれこそ物心ついたときからの幼なじみだったという。
 朝日将軍などと祭り上げられ、その名の通り日の出の勢いだった義仲によって、平家は西国へと凋落していったが、『大天狗』と陰口を叩かれていた後白河法皇によって、使い捨てにされた義仲は義経によって戦いに敗れ、木曾への帰路、近江篠原で戦死した。
 この時、ずっと側で支え続けてきた今井兼平は、馬上で太刀の先を口にくわえ、頭から落下するという壮烈な最期を遂げ、主君の後を追った。
 樋口兼光は義経軍に捕らえられ、巴が残った。
 彼女も弓馬を自在に操る男顔負けの武者であり、夫の死を目前で見ながらもなお義経軍の武将を討ち取る奮戦を見せた。
 しかし、多勢に無勢。巴は後世にその勇名を刻みこみ、行方をくらました。
 戦いが終わった後、うつぼは近江の義経の陣所に駆けつけようとした。
 その途中の山間で、彼女は傷つき倒れ込んでいる華奢な武将を発見した。見れば何と女性である。
 うつぼは彼女が義仲の妻・巴であることをすぐに察知した。
 うつぼは人気の少ないところへ巴を連れて行き、傷の手当を施した。
 そして、巴に自分は義経の幼なじみであることを告げると、巴は一瞬不快な表情を見せたが、すぐに穏やかな表情に戻った。さすが天下の名の聞こえた女傑・絶世の美女である。
 巴もまた、経緯は違うが幼なじみであるという境遇から、うつぼに対してどこか同情に近い感情を抱き、その胸中を語り合った。巴は言った。

 ――――私は恋敵という程の者に出逢ったことはない。
 だが、最初は殿も私を女としてではなく、妹のように感じておられたのだろう。
 武芸に関しては天下一の殿も、女心にはつとに不得手であったからな。
 …かと申して私は自分の気持ちを抑えることの出来ない質。
 殿に対しこの想いをありのままさらけ出したのだ。
 私の想いに殿もようやくご自分の心に気づかれたのだろうな。

 巴は穏やかな微笑みを絶やさなかった。
 二十有余年も側にいて見つめつづけてきた義仲の死。
 それを悲しみという言葉だけでは語り尽くせないだろう。
 うつぼは終始笑顔の巴を、心の底から強い女性だと感じた。

 ―――――そなたも九郎を恋い慕うのならば、時としてその身をぶつけて相手に想いを伝える勇気も肝要だ。
 男と言う生き物は生来優柔不断なもの。
 そしておのが心に気づかぬ単純な生き物。
 女が支えねば、男は見境もなく突き進み、破滅してしまう。
 我が殿にとっては私がその役を果たしていたように、九郎にはそなたが必要なのだ。わかるか。
 そなたにしか出来ぬことがあるのだ。それこそが何よりの強み。

 そして巴は最後にこう言った。

 ――――そなたが勇気を出さねば事は進まぬ。
 何かに恐れていては、何も変わらぬ。
 変わるか、変わらぬか…すべてはそなた次第だ。

 うつぼの心に、巴の言葉が深く刻み込まれる。
 そして、巴は何かを諭すような優しい視線をうつぼに送ると、何処かに去っていった。

 巴の言葉を、うつぼは心の中でくり返す。
 だが、その後の義経たちは多忙を極めていた。
 朝廷と鎌倉の頼朝の間に揺り動かされ、平家が西海で再建を図っていると知ると、これを討滅するべく義経は休む間もなく出陣していった。
 熊谷次郎直実が無官大夫敦盛を泣く泣く斬った一ノ谷の合戦。
 那須与一がその剛弓で扇の的を撃ち落とした屋島の合戦。
 義経率いる源氏軍は、次々と並みいる平家の勇将たちを討ち、遂に壇ノ浦まで追いつめたのだ。
 次々に瀬戸内の海に沈んで行く平家軍。
 戦況は圧倒的源氏優勢のまま、終局間近になった。
 そんな中、義経は舟上に屹立する公達を見つけた瞬間、思わず動きが止まった。

 前能登守・平教経―――――

 それは、義経にとって、静を奪っていった憎き男。
 そして、平家にあって唯一の宿敵……。股肱の臣であった佐藤三郎継信を射殺したのも、教経である。
 義経は有無も言わさずに教経を討ち取ろうと躍起になった。
 しかし、教経は不敵な笑みを浮かべてジリジリと二人張りの弓を引く。
 尋常に勝負あれと叫ぶ義経を後目に、教経の放った矢が、義経の肩を掠める。
 さすがは平家一の勇将と名の聞こえた教経であった。
 義経をすんでの所まで追いつめ、あと一歩のところで討ち取るまで行ったのだが、敏捷力と脚力が人を超えていた義経は、世に名高き、『船上八艘飛び』を成し遂げ逃亡に成功する。
 これを見た教経は進退窮まったと感じ、自分に槍を突きつけた源氏軍の勇卒・安芸兄弟を両脇に抱え、死出の道連れと海に身を投じて果てた。
 義経はついに教経と静との関係を聞き出せないまま、無念そうに宿敵の最後を見守っていた。
 清盛の妻・二位尼時子、そしてわずか八歳の幼帝・安徳天皇、生母・建礼門院徳子。殿上人までもが平家の滅亡に殉じて行く――――。
 そして、知勇兼備の名将として、斜陽の平家を支え、無能の棟梁・平宗盛を補佐し続けてきた、前中納言・平知盛は、『見るべき程の事は見つ』との名言を残し、遠方の義経に意味深な笑みを送ると、碇を身体に巻き付け、入水していった。
 こうして、長年にわたる源平の争乱は終結した。
 戦勝に延々と鬨の声を挙げつづけて行く源氏軍。だが、義経は浮かれる気にはなれなかった。
 息も絶え絶えで、二度と復活の見込みもない平氏一門を何故完全に殲滅しなければならないのか。
 思えば、この頃から義経はどこか変わったのかも知れない。うつぼはそう、感じた。
 宗盛・建礼門院ら生き残った平家の面々を連れて京に入った義経。
 下山して以来数年ぶりに静と再会を果たした義経とうつぼだったが、かつてのような表情は冴えなかった。
 静は義経の苦悩を理解していたのだろうか。
 彼女は純粋に再会を喜んでいる様だったが、うつぼはどこかそんな彼女の様子に不信感すら抱いていたかも知れない。
 何も告げずに山を下っていった静。
 教経との噂は結果としてただのガセだったにしろ、義経は苦悩を抱きながら今日までを過ごしてきたのだ。
 言葉を悪くすれば、静の身勝手な行動によってトラウマを抱えた義経を、懸命に支え励ましてきたのは自分だ。
 彼を愛する資格は静にはない。愛せるのは自分しかいない。そう、うつぼは自分に言い聞かせ、自信を抱いていた。
 だが、巴の言うような積極さが、うつぼにはなかったような気がする。
 やがて、義経と静は結ばれた。これは自然の成り行き、致し方がないことだった。
 そして、そんな彼女に、敗将・宗盛の言葉が灰色の霧を晴らす。

 その想い、忘れてはならぬ―――――

「本当に―――――色々なことがありすぎました――――」
 うつぼの呟きに、静もしんみりとしたため息をつく。
「九郎様の……」
 うつぼが静の腕で眠る稚児を見つめる。
「はい……。三浦介さまのお計らいで……救われました。『眞那(まな)』と申します……。」
 その名は、義経と静で決めていたという。
 義経の幼名は遮那王。それに肖って、子が産まれたら、男であれ女であれ、『眞那』と名づけようと。
「眞那―――――眞那王さまですね……」
 あどけない表情で安らかな寝息を立てている義経の忘れ形見・眞那王。急激にわき上がってくる、悲しみ。
「九郎さまに生き写し……きっと、九郎さまに劣らない若武者になられますね……」
 うつぼの言葉に、眞那王の表情が笑ったように見えた。そして、そっと我が身の腹部に手を当ててみる。
「――――あなたも……九郎さまの……」
 静の言葉にうつぼは小さく頷いた。それから二人は言葉を発そうとはしない。
 そう、義経・うつぼ・静の三人の幼なじみを結んでいた絆は、義経の死という形で壊れてしまったのだ。
 ただ一つだけ、義経の子供の存在だけが、二人の間をつないでいた。
 だが、もう二度と鞍馬山の頃のような関係は戻らない。そううつぼは思った。寂寥感だけが、今その心を包み込んでいた……。

「……っ!」
 菜織が瞼を開くと、正樹が心配そうに顔をのぞき込んでいた。
「あっ……正樹…?」
「起きたか―――――ずいぶんうなされていたな」
 そう言って正樹はスポーツドリンクのペットボトルを菜織に差し出す。階下の冷蔵庫から持ってきたのだろう。よく冷えていた。
「……あ、ありがとう……」
 ゆっくりと起きあがり、正樹が差し出したペットボトルを受け取る。枕元のデジタル目覚まし時計を見ると、3:03の文字。
「―――――ゴメン……起こしちゃったんだ……」
 申し訳なさそうに眉をひそめる菜織。正樹は何も言わずに菜織の眦に親指を当てる。
「あっ……」
 驚く菜織。
 そう、正樹は無意識に流れていた菜織の涙を掬ったのだ。気がつき慌ててパジャマの裾でまぶたをこする。
「のど渇いただろ? いいから飲めよ」
「う……うん……」
 菜織はしばらくペットボトルを見つめた後、おもむろにキャップを開け、ググッと呷る。
 冷たい液体が、食道を通過し、熱く乾いた身体を冷やし、潤いを与えてくれる心地よさ。
「暑いな……本格的に夏だなこりゃ。熱帯夜って言うのか」
 カーテンを開き、心なしか明るくなった空を見上げる正樹。
「ねえ正樹―――――いつから……起きてたの?」
「ん―――――十分くらい前かな」
 気を遣ってそう答える正樹。だが、そんな嘘を見抜けない菜織ではない。
「正直に言って?」
「ははっ―――――一時間くらい前だよ」
 あっさりと本当のことを言う正樹。全く、菜織にはかなわない。
「ほーら。あたしに気を遣おうとしてもダメ。すぐにわかるんだから」
「へいへい。あなた様にゃかないません」
「…………」
 それから無口になる菜織。
 正樹が振り返ると、寂しそうに彼女は膝の上にのせられた半分残ったペットボトルを見つめている。
「菜織……」
「正樹……ゴメンね。アンタと一緒に寝ることが出来れば、変な夢みなくてもいいと思ったんだけど……やっぱり…」
 菜織の肩がすごく小さく見える。相当落ち込んでいる様子。
 正樹は微笑みながら菜織の肩に手を置いて隣に腰かける。
「なぁに気にしてんだよ、お前らしくないなぁ」
「…………」
 ばつが悪いのか、正樹の顔を見ようとしない菜織。
「そんなことくらいわかってるって。だけどさ、菜織一人でいるよりも、その……何だ……お、俺が側にいたほうが…いくらか楽になるんじゃねえかな…ってさ」
 いきなり顔を赤くしてどもり出す正樹。そんな彼の様子に、菜織は微笑みながら頭を彼の肩に傾ける。
「うん……ありがとう―――――アンタのお陰で、昨日よりも不安が少ないの。感謝しなくちゃね」
「ははっ……そんな大したことしてねぇよ」
 そう言いながら、正樹の腕が菜織の肩に廻される。
「―――――でもやっぱり汗かいちゃった。シャワー借りてもいい?」
「ああ。そのまんまじゃ風邪ひくからな。行って来いよ」
「うん―――――」
 さっと立ち上がる菜織。乃絵美の部屋に置いている荷物を取るために、部屋を出て行く。
 菜織の姿が見えなくなると、正樹の表情が途端に険しくなった。
(うつぼ? ――――しずか? ―――――くろう?)
 それは菜織の譫言であった。はっきりと正樹の耳に聞こえた、言葉。
(『まな』? ―――――『まな』って―――――真奈美ちゃん? ……まさかな。)
 正樹はそれがしなくてもいい勘繰りだと思い、首を振って雑念を払おうとした。
 だが、気になることを無理に忘れようとすればかえって気になってしまうのが人間というものだ。
 それに話に続く菜織の『悪夢』。
 ただの夢だとして片づけるにはあまりにも長く引きずりすぎている気がする。
(何か、原因があるはずだ)
 そして、彼は思いきって菜織自身に聞いてみることにした。
 そう、ここまで続けば、彼女自身も、夢のことを何か覚えているかも知れない。

 そうこうと考え事をしているうちに、部屋のドアが開かれ、シャワーを終えた菜織が入ってきた。
「あ、菜織―――――ちょっと聞きたいことが――――」
 と、振り返った瞬間、正樹は固まった。
 何と菜織はバスタオル一枚だけを身に纏った格好であったのだ。右手に荷物の入ったバックを提げ、左手でバスタオルを抑えている。
「ん―――――? どうしたの正樹?」
 事も無げに濡れた髪を拭く菜織。
「おいおいおいおいおいっ! おま…おま…おま…」
 菜織を指差しながら、壊れたレコードの様な声を発する正樹。
「え?」
 正樹はごくりと大きくつばを飲み込んでから声を張り上げた。
「お前っっ…なんちゅう格好してんだぁっ!」
「あっ――――――」
 菜織はさほど驚いた様子も見せずに、意地悪そうに笑う。
「あのな……一応、俺だって男なんだぞ。それをおまぁ…」
「あれぇ? ―――――何か…今初めて見たって言う風な言い方ね」
 流し目で正樹を見る菜織。
 からかっているのか、誘惑しているのか、さっぱりわからない。
 しばらく観察するような視線で正樹を見回していた菜織が、意味深な口調で言った。
「アンタって、意外とカマトトだったんだ。ふーん」
「な……何だよ、そのカマトトってっ」
「なんでもなぁい、ふふっ」
 後から調べたとき、正樹は菜織に無駄な言い訳をして彼女から更なるからかいを受ける羽目になってしまった。
「さあて、菜織さまのサービスはここまでにしておきましょうか」
 おもむろにしゃがみ込み、バックのファスナーを開く菜織。
「……って、お前―――――ここで服着るの?」
「そうよ。あ、正樹……ゴメン、ちょっと出てってくれる?」
 悪気もなく、菜織は正樹に退去を命じる。
「菜織くーん……頼むから着替えてから来いよぉー」
 呆れ疲れたような情けない声を出して立ち上がる正樹。
「もう…ほらっ、目の保養になったでしょ? 女の子の着替えは見るものじゃないのっ。ささ、出た出た。着替えたら呼ぶからっ」
 菜織が正樹の背中を押して彼をドアの向こうに追いやり、扉を閉める。
「はぁ―――――あいつ…性格変わってねえか……?」
 扉に寄りかかりながら正樹は嘆息する。
 いかに幼なじみだとはいえ、仮にも男の前で裸同然で現れるか。何を考えているんだアイツ。
 考えてみれば、菜織と恋人なってから、自分に対する彼女の対応は変わったような気がする。
 以前のように、いちいちお節介を焼き、一日一度は正樹を怒るというパターンに変化はないのだが、どこかそこに感じられた、『気遣い』というのが払拭されたような素直さがある。
 背伸びをしているという無理を感じさせず、ありのままの姿を自分の前に見せてくれるようになった。
 …かといって、堂々と裸同然で目の前に現れるとは驚愕ものだ。
 菜織はこんな奴だったのかなどと、嬉しさ半分、失望半分といった感じである。
(俺のこと、男だと思ってねえな)
 ならば襲ってやろうかなどと言う邪心さえ生まれたが、正樹は抑えた。
 そう、確かに一度は結ばれた二人だったが、決して盲目的に身体を求め会う関係にはなりたくなかった。
 それは当初から、二人の間で暗黙の了解だった。
 愛し愛される関係というのは人それぞれだとはいえ、心から信頼し合えるならば、それも自然の成り行きだろう。
 決して、一方的に求めると言うことはしないできた。
 多分、これからも幼なじみ的感覚の恋人同士としてつき合って行くことになるだろう。
 半ば菜織にからかわれたり怒られたり……。
 正樹にとってはそんな事がかけがえのないことになっていた。
「入っていいわよっ」
 部屋から菜織の声がする。正樹はおもむろにドアを開ける。
 菜織はタンクトップとショートパンツ姿でベットに座り、シャワー前に飲み残したスポーツドリンクのペットボトルをぐいと呷っていた。
「ったく、からかいやがって。ちゃんと着替えてから来いよな」
 呆れたように菜織を見る正樹。
「あはははっ、やっぱりお子様には刺激が強すぎたかしらぁ?」
 屈託のない笑みで揶揄する菜織。
「けっ―――――言ってろっ」
 とは言うものの、照れ臭さから来る顔面の紅潮は隠せない。
「…………ところで、聞きたい事って何?」
「は?」
 呆気に取られた声を出す正樹。
「さっき言ってたじゃない。忘れたの?」
「あっ、そうだったよ。ったく……お前のせいで忘れてたぜ」
「むっ……」
 やや不満そうに唇を尖らせる菜織。
「まあ――――いいや。なぁ、菜織? お前、その……」
 出鼻を挫かれたとでも言うのか、言い出すきっかけを失したと感じた正樹。なかなか切り出せない。
「? ―――――どうしたの?」
「その……なんだ……」
 戸惑う正樹の表情を見た菜織は、彼がいわんとしていることをおぼろげながら察知していた。
「どんなこと言われても驚かないわ。遠慮しないで言って」
 菜織が穏やかな口調でそう言うと、正樹もようやくきっかけをつかむことができた気がした。
「夢の―――――事なんだけどさ」
 予想していた問い。菜織は驚かない。
「そんなに毎晩のように見るなんて、何かが原因になっていると思うんだよ。思い当たる節はないのか?」
「…………」
 菜織は俯いて何かを考え込む。
「夢のこと―――――何か覚えてないか?」
「うん―――――あのね……」
 菜織は言った。
 最初の夢を見たとき、それまで特に印象に残るような出来事やテレビや漫画、本などは見なかったという。だからこそ、原因は分からない。
「くろう……べんけい……それに、うつぼっていう言葉、はっきり覚えているの。私のこと見て、うつぼ、うつぼって、夢の中で何度も語りかけていた」
 菜織の表情は明らかに不安に満ちている。
「うつぼって、お前の名前? ―――――なんだろうな」
「始めは私の家の社のような建物が見えたわ。それで突然それが燃えて行く夢。私が社の扉を必死で叩いてたような気がするの。そして…次はどこかのお寺の御堂のような薄暗いところで、何かを待っているような…。そして…優しそうなおじさんっぽい人が出てきたり……」
 菜織自身、漠然とした記憶を辿って話すしかない。
 夢の中に誰が出てきたのか、どんな名前だったのかまでは良く覚えていなかった。
「―――――そうっ! 雪が降っていたの。どこかの山の中で。女の人かな……弓とか刀を持った多くの人間に取り囲まれていて……そう、くろうさまぁっっ…って、叫んでいた。うんっ、それははっきり覚えているわ」
「くろうさま―――――か。くろうって、やっぱ人の名前なんだろうな」
「……そう……そうよっ! 夢の中で、くろうって呼ばれた人、その女の人のこと、しずか……そう、確かにしずかって呼んでいたわ」
「まとめてみると―――――その部分だけだと、雪山を歩いていた"くろう"と"しずか"は、弓や刀を持った人間――――って言えば"サムライ"だな。そのサムライに絡まれて、"しずか"がさらわれてしまった。"くろう"は当然、名を叫ぶ……」
 身振り手振りで表現する正樹。
「最初の方はどう?」
「菜織の話だけだとわからないけど、社のような建物が火事になる夢だろ? お前が社の扉を必死で叩いているって事は、その中に誰かが閉じこめられている夢って言った方がいいな。薄暗い寺の中で何かを待っているっていう話や、優しそうなおじさんっぽい人って一言言ってもなぁ。想像がつかねえ」
 腕を組み首を傾げる正樹。
「そうよね―――――やっぱり……」
 寂しそうにため息をつく菜織。
「そういや……お前、さっき譫言で"まな"とか言ってたけど……まなって、真奈美ちゃんか?」
「えっ――――――」
 その瞬間、菜織は瞠目する。
「真奈美?」
 驚いた様子の菜織。正樹は何かまずいことでも言ったのかと思ってしまった。
「いや……その―――――な」
 何を狼狽しているのだろうか。咄嗟に正樹は自分に対してそう思った。
「あははっ。あたしそんなこと言ってたの? 残念だけど、真奈美は夢には出ていなかった気がするわ」
 事も無げにそう答える菜織。
 正樹は思った。何をそんなに真奈美を余計に意識するのか。幼なじみではないか。菜織との会話の中でも、普通に出てくる名前ではないか。
 意識のし過ぎだと思い、正樹は安堵のため息をつく。
「―――――それにしても、お前の見た夢の原因……わからねえ。サムライが出てくるって事は、最近の出来事じゃないって事は確かだけど……」
 額を掻いて唸る正樹。
「……いいよ、正樹」
「え?」
 不意に菜織が優しい声を発する。
 正樹が振り向くと、菜織の瞳がキラキラと輝いているように見えた。
 どこか今にも泣きだしてしまいそうな感じにも見受けられる。
「そのうちこんな夢、見なくなると思うから……。何もそんなに心配してくれなくても……」
 そんな彼女の表情はいつか見たことがある。
 そう、あれは真奈美がミャンマーに帰って行く日の前日だった。夕暮れの景色の中、菜織に告白したときの、彼女の切なげな表情。
「何……言ってんだよ菜織。最近のお前見てて心配すんなってほうが無理ってもんだ」
「だって……こんな気味の悪い夢……どうしようもないじゃない……」
「確かに、俺なんかじゃ役には立たないかも知れねえけど、かといってこのまま放っておくわけにはいかなかったんだよ」
「…………」
 菜織はうつむいたまま、何かを考え込んでいるようである。
「大会のレギュラー選抜の時、俺が先輩との勝負に悩んでいたときに、お前は一生懸命俺を励ましてくれた。あのことは一生忘れねえ……。敷居は違うけど……今度は俺がお前を支える番だと思ってる」
「正樹……」
 菜織のきらきら輝いた瞳を見つめながら、菜織の隣に腰かけ、その肩を軽く叩く。
「大丈夫だって菜織。俺がいれば悪夢なんか怖くねえよ。そうだろ?」
 自信に満ちた正樹の言葉。
 菜織はわずかに微笑みを浮かべながらこくりと頷く。
「お前が不安なことは俺の不安なんだって。だからさ、一緒に乗り越えて行こうぜ、な?」
 それはおそらく正樹の本心だったのだろう。
 真奈美という名に小さな戸惑いを感じるも、それは決して『迷い』ではない。トラウマのようなものであったのかも知れない。
「正樹……ありがとう……本当に……ありがとう……」
 おもむろに菜織が正樹の胸に顔を埋めて背中に腕を廻してきた。
 正樹も当たり前のように、優しく彼女の背中を包み込む。
「何か最近、いつもこうしている気がするな」
 照れくさそうにそう言って、正樹は飽きることなく愛おしい女性を感じていた。