第1部 現代篇
第3章 源氏の末裔

 心配することはねえ――――

 そんなことを言っても、それはただの気休め程度にかならない。
 どんなに正樹が菜織のそばにいてあげたとしても、夢の不安は完全に解消されることはない。
 そんなことくらい、正樹はもちろんのことだが、菜織自身が一番よく判っていることだった。
 科学の発達したこの時代に、物の怪などという存在など信じていない『小槻教授派』の人間のひとりである二人だったが、さすがにここまで連夜同じ夢を見るとなると奇怪と感じざるを得ない。
 真奈美が帰国するまであと一週間足らず。
 このままでは旅行に行く前に精神的に参ってしまう。
 せっかくひと月も前から計画していた楽しみを、夢ごときでおじゃんになったのでは、笑い話じゃなくなる。

 その日の朝、取りあえず精神科に行くという菜織を宥め、正樹は取りあえず菜織の父に話してみてはどうかと言った。
 まがいなりにも(なんて言えば失礼極まりないが)菜織の父は十徳神社神主である。その手の話には精通しているかも知れない。
 正樹はやや厳しい表情を浮かべたまま、菜織の肩に回す腕を一時も放さず、三〇〇段の石段を登る。
 時々、肩を抱く腕に力を込めるとき、彼は菜織の話を脳裏に過ぎらせていた。
「今の時間だったら、社務所ね…」
 ぽそりと呟き、菜織はそっと正樹の腕を外す。
「待ってて。ちょっと行って来る」
「あっ…菜織っ!」
 正樹の呼び止めよりも先に、菜織は小走りで社務所の方に向かっていた。
「ったく……人の気もしらねえで……」
 ため息まじりにそう呟くと、正樹は背伸びをしながら穏やかな景色と朝の空気を堪能した。
 ここは本当に心安らぐ別世界。そして、正樹にとって何よりも思い出深い場所。
 菜織が境内掃除をしているときにのんびりと散策したり、寝転がったり出来れば、一日中居ても飽きることはないだろうが、それは絶対に司法試験に合格するよりも至難であろう。
 正樹は高台の社の方へと向かった。
 今や倉庫と化してしまったその朽社が、本来の十徳神社。
 鎌倉時代からつづいていた正殿なのであろうが、ここは正樹と菜織にとっても特別な場所になってしまっている。
 訪れるたびに無意識なりとも照れ笑いを浮かべてしまうのは何もおかしいことではないと、正樹は自分にそう言い聞かせているのだが…
「ふっ――――――――」
 じっと朽社を見つめていた正樹が何を思ったか照れくさそうに笑い目を反らす。
 ちょっと気障な二枚目気取りを呈そうかと思っていたのだが、素振りを見せる間もなく、呆気なくその考えは潰えた。菜織の声によって…。
「正樹ィ~~~っっ! おやじぃ~~~~っ!」
 菜織の姿を見た瞬間、『フッ…どうした菜織、いつものお前らしくないな』が、『な、なんだぁよ…菜織ィ、どうしたんだよぉ』に変わる。
 そう、正樹は正樹に戻る。
「お、おやじさんって、菜織の?」
 何を当たり前なことを聞くのだろうと、自分で自分を突っ込む。つまり、それほど狼狽していると言うことだが、それもそうだろう。
 何せ、大事な娘は無断ではないとはいえ、自分の家に泊まっているのだから。
 疚しいことはないとはいえ、やはりどこか気が引ける。
「正樹君」
 神主の衣装を着た、菜織の父が実に神妙な表情で菜織の後からやって来た。
「お、おじさん―――――ど、どうも、おはようございます」
 ぎこちなく、咄嗟に頭を下げる。
「娘から話は聞いた。色々とすまないね、正樹君」
「いっ――――いえ。こ、こちらこそ…ど、どうも」
 何度も頭を下げる正樹をさほど気にかける様子もなく、菜織の父は正樹の横を通り過ぎ、朽社の前に立つ。
「娘が見た夢の中で、『うつぼ』という名がでたそうだが、君は知っているのだね」
「はっ、はいっ。この耳で確かに…」
 その瞬間、正樹は自分の発言に息を呑んだ。
 それは菜織と同じ部屋で寝ていたことを容認することではないか。
 だが、菜織の父は気づいているのかいないのか、それとも既にそうだろうと思っているのか、不快な表情は浮かべていない。
「そうか……」
 はっきりとわかるため息をついて、菜織の父はわずかに項垂れた。
「親父……?」
 そんな様子の父に、菜織は心配そうに顔をのぞき込む。
 菜織の父はふうとひとつため息をつき、朽社を見上げながら、おもむろに語り始めた。
「『うつぼ』というお方は、ここ十徳神社を開闢(かいびゃく)された女性の名なのだ。今からちょうど八〇〇年前になる。うつぼは、九郎判官義経公の幼なじみで、義経公の妻である志乃御前に侍女として仕えていた……」
 その時、正樹はようやくわかった。
 そう、菜織が譫言で言っていた、『くろう』は、義経。"源義経"の事であったと。
 いかに無知とはいえ、義経の名くらいは聞いたことがある。
「義経公は平泉で志乃御前と一人娘と共に命を絶たれたというが、うつぼにも義経公の子が身籠もっていたという。…そして生まれた子は『十徳』と名づけられたそうだ」
 初めて聞くといった様子の菜織に比べて、正樹は比較的落ち着いている。
「まあ……話せば長くなるのだが、わが氷川家は十徳の子孫…つまりうつぼの子孫と言うことになるのだよ」
 と言うことになると、菜織は源義経の子孫と言うことになるのか。
「そんな話――――初めて聞いたわよ」
 菜織がやや不満げに言う。
「黙っていた訳じゃあないぞ。別に覚えておく必要もないと思ったから言わなかっただけだ。誰の子孫であろうと、今の世の中、そんなことは関係がないからな」
 菜織の父の言うことはもっともである。
 もともとそのような話題など、聞かれもしなければいちいち普段の会話で持ち上がる話題ではない。
「それに――――義経の子孫かどうかなどと、今となっては確信できる証拠もあるわけではなし。自慢ぶるのもおこがましいだろう」
 それもそうだ。
「じゃあ、私の見た夢って、たまたま"ご先祖様"が現れたって事? しかも毎晩のように?」
 責めるような口調で、菜織は父に食ってかかる。
「むう―――――大したことではないとは思うが、そう毎晩のように同じ夢を見るというのも奇怪な話」
 腕組みをしてうーむと唸る菜織の父。
 やがて何を思ったか、正樹と菜織にその場にいろと言うと、ひとり朽社の中へと入っていった。
「あっ、おやじっ……もう…」
 そそっかしい行動に呆れる娘。
 菜織の性格からして意外と厳格な両親かと思っていた正樹だったが、どうやら菜織の世話好きな性格というのは、母親譲りらしい。
 菜織の父はどちらかというと自分に似ているかなと思った。娘が悪夢に悩んでいるのに、どこか楽観視しているとも思える。
「ごめんね正樹。おやじったら、話にならない……」
 ばつが悪そうに正樹に謝る菜織。正樹は苦笑しながら首を横に振る。
「大袈裟に騒がれるよりもいいよ。それに、親父さんの話のおかげで、菜織が言っていた人の名前の意味がひとつ分かったし…」
「うーん……そうだけど……」
 それでもどこか不安そうな菜織。
 父の話が本当だとすると、菜織のご先祖・うつぼは八〇〇年以上もの時を越えてなお成仏せず、残存思念(怨念)が子孫である菜織に取り憑いたと言うことになる。
 いかに怪奇現象を信じないとはいえ、さすがにそう思うと、信じざるを得ない。
「なんか……いやだな……」
 はにかむような感じで呟く菜織だったが、その心境は計り知れない恐怖と不安で満ちあふれているのだろう。
 それまでただの悪夢だと思っていた事が、父の話で夢に出てきた人物というのが実在、しかも自分の先祖であると言うこと。それがかえって恐怖感をあおり立てていた。
 正樹はそんな菜織の心境を推し量ったか、優しい言葉で言う。
「良く聞くよな。潜在的意識がもたらす不思議な体験って……。菜織もそんな感じじゃないのかな? 心のどこかに、昔聞いた話のイメージが残っててさ、そいつが不意によみがえってきた…ってな感じで」
「もう……昔聞いたも何も、さっきそんなこと初めて話したって、言っていたじゃない……」
 しまった。フォローしたつもりだったが、しっかりと見破られてしまった。と、言うのも正樹自身が単純極まりないのだが。
「あっ……そうだったっけ?」
 とぼけるしかない正樹に呆れたようにため息をつく菜織。情けない苦笑を浮かべている正樹。
 心なしか気まずそうな雰囲気に包まれかけたとき、朽社から菜織の父が現れた。
「スマンスマンッ。げほっ、げほっ」
 白い神官服を埃まみれにした姿の父に唖然失望のため息をつく菜織。
「ちょっとオヤジィ――――なにやってんのよぉ……」
 仮にも目の前には恋人がいるというのにそんなに慌てちゃって、父親らしさがないじゃない…と思ったのだろう。
「なにをって、決まっているじゃないか。この神社の記録を記した書物を探していたのさ。喜べ菜織、見つかったぞ」
 埃だらけの顔に笑顔をたたえ、菜織の父は実にボロボロになった昔の本を手にしていた。
「いやあ、奥の奥にしまい込まれていたからな。探すのに苦労したよ」
「そんな……言いつけてくれたら手伝いましたよ?」
「はははは。いやあ、君にはいつも境内掃除手伝ってもらっているからね。こんなことまで頼めないよ」
 何だ、しっかりとわかっているではないか。菜織のヤツ、きちんと話していたんだな。偉い偉い。
 と言うことは、着実に菜織の両親の自分に対する好感度はアップしていたのだな。うんうん…。などと、今は余計なことを考えている暇はない。
「ここで解読するわけにはいかんからな、社務所の方で話をするか」
 どうやら、菜織の父がわざわざここまで足を運んだ理由というのは、そのボロボロの本を探し出すためだったらしい。ご苦労なことである。

 社務所で菜織の父は、ところどころ詰まりながらもその本の内容をかいつまんで話した。
 それによると、十徳神社は意外にも昔から隠されたスポットだったらしいことが窺える。
 図書館で見た『相模国神社探訪記』の記事の百倍はあるほど、細かい記述がなされていた。
 神社を開いた人物は、菜織の夢にも出てきた『うつぼ』という女性であること。
 そして、彼女の子供である『十徳』の父親は、紛れもない源義経であること。
 そして、それが因縁かはわからないが、十徳神社は源氏の第二の氏神を祀る裏神社的存在として武士たちの密かな信仰を集め、鎌倉時代末期に北条氏を滅ぼすために出陣した新田義貞(にった・よしさだ)が、鎌倉攻撃の前夜、戦勝祈願の太刀を密かに十徳神社に奉納したこと。
 南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子である、大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)や、天皇に仕えた美少年騎士・北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)が陸奥守として東北に下向する際に幸運を願い参詣。
 室町・戦国を経て、かの徳川家康までもが、ここに宝物を寄進したという事まで書いている。
 また、簡潔な系譜も記されていて、途中で切れてはいるが、年代相応を考えてみると、菜織の父は、初代『源 十徳』から数えて三十一、二代目の神主になるらしい。
 だから氷川家は元々、清和源氏(清和天皇の子孫である源氏)になり、これを言えばあまりにも仰々しく、考えすぎかも知れないが、菜織も本来のフルネームは、氷川菜織ではなく『源 菜織』。
 完全に血は薄れているとはいえ、天皇の血を引いていると言うことになる。
 家柄だけにこだわれば、菜織の家はそこいらの成金風情よりもずっと由緒あるのだ。

 ……以上、菜織の父の自慢訳語。頭のいい人ならば、この長ト書きを飛ばさずに読んでくれただろう。
「……それはわかったわよ。で、私の見た夢の原因って、何か書かれているの?」
 そう。そんな蘊蓄よりも、当面は菜織が悪夢を見ないようにするにはどうすればよいのかという事なのだ。
「それなんだが……」
 菜織の話をもとに、父は本の記述をたどる。
 だが、夢の内容はところどころ付合するが、直接夢の原因となる記載はされていなかった。
「と……いうわけで……」
 申し訳なさそうに、菜織の父は力なく呟く。そんな父に対し、あからさまに失望のため息をつく娘。
「もうっ、役に立たないんだからっ! ……いいわ。ちょっとその本、借りてもいいでしょ?」
 そう言って菜織は半ば強引に父から本を取り上げる。
「まあ……別にいいが、破いたりはするなよ」
「誰もそんなことしないわよっ!」
 憤然たる菜織。
 正樹はそんな父娘のやりとりを苦笑まじりで眺めている。
「おおっと、正樹君」
「あっ、は、はいっ!」
 突然振られて愕然とする正樹。半ばぼうっとしていた思考回路が一気に正常値に戻る。
 菜織の父は真剣な眼差しで正樹を見ていた。それは娘を持つ、父親の目であった。頭の天辺からつま先まで、電気のように緊張が走る。
「もうすぐ夏休みの旅行に行くそうだね」
「あっ――――はい」
「娘のこと、よろしく頼んだぞ――――」
 まるで娘婿に対する挨拶の様である。
 婚前旅行などと言う、そこまで大袈裟な旅行ではないのだが、やはり若い者同士で行く"遠出の遊び"を心配しない親はいないだろう。
「もっ――――もちろんですっ! 菜織のヤツ・・・いや、菜織さんはオレ・・・いや、僕が必ず……」
 いつもより魂がこもった、正樹の返答。
「ちょっ……ちょっと二人とも何マジになってんのよっ!」
 まるで『娘さんを僕に下さいっ』と挨拶に来ている若い男と、娘の父親的な雰囲気になっている二人に、菜織は顔を真っ赤にしてその異様な雰囲気を壊しにかかる。
「マジも何もないだろう。娘の親として当然の心配だ」
「そうだぞ菜織。俺はお前を守らにゃいかん立場だ」
 父と正樹の表情と口調が一致する。
 似ている、この二人。
 と、菜織は別の意味でがっかりしてしまった。

St.エルシア学園――――図書館

 菜織に半ば強引に連れられて、正樹は図書館に来ていた。
 菜織は無理矢理にひとつのデスクを占有し、分厚い本を何冊も積み重ねている。
 歴史・伝記コーナーの本棚ががらんとしていた。
 周囲の怪訝な眼差しを一身に受ける二人。当然のこと菜織は気にする様子もなく、『まんが人物辞典』なるものを読みふけっている。
 かたや正樹は難しい、『平安~鎌倉・その時代と武士政権への変遷』なる難しすぎる活字本を強制的に読まされていた。
「とほほ……なんでこうなるの?」
 菜織の家での用件を済ませた二人。
 正樹は石段を下るとき、菜織に先日言っていた旅行への必要物資を調達するために、横浜に行こうと誘ったのだったが、菜織はいつになく真剣な表情で正樹の言葉を無視した。
 どうしたと尋ねるが、菜織は何かをブツブツと呟き、ひとりで納得したように頷く。
 また始まったかと一瞬思ったが、その瞳がいつものようにキラキラと輝いていたので、正気だと確信。
 そんなとき、菜織は毅然と正樹を睨視する。
(―――――ん?)
(正樹ッ、ちょっとつき合って)
 そう言った矢先、菜織は正樹の手首を鷲掴みにしてスタスタと歩き出す。
 どこへ行くんだよという問いかけにも、いいからという返事しかない。で、結局たどり着いたのはここだった。
 憮然とする正樹に対し、菜織は強気にこう言ってさっさと本棚を漁り始めた。
(もう、夢も何も関係ないわ。こうなったら自分で徹底的に調べ上げるっ! アンタにも責任があるんだから手伝いなさいよねっ)
 って、おいおい俺に何の責任があるってんだよ。
 訳もわからぬまま、取りあえず勢い任せに菜織は正樹を巻き込んだと言うことだ。
 こういう強引さは以前と全く変わっていない。

「ちょっとアンタ、ちゃんと読んでくれてる?」
 あくびをしかけ、口を開けかけていた正樹。菜織の声で、口が一瞬にして閉ざされる。
「えっ――――あ、ああ。でもな、難しいぞこれ」
「でも、大体わかったような気がするわ。親父の話も含めてどうやら私の見た夢って、実話ね」
 菜織が読んだ本(とは言っても、ほとんどが漫画形態のものだが)からして、夢の記憶がその内容とつじつまが合っている。言い方を悪くすれば、不気味なほど史実と一致することばかりだ。
 これは既に単なる偶然では収まることではない。
 科学で証明されない不思議なこととは、本当にあるものなのだと、信じざるを得ないことだった。
「だったら何だよ。その……菜織のご先祖様の怨念が八〇〇年以上も残っていて、今さらお前の夢として現れたって言うのか?」
「そんなこと……あたしの方が聞きたいくらいよ」
 そうだというのならば、随分とけったいな怨霊もいるものである。
 今さら何のために菜織の夢に現れて不安に陥れようとするのか。
 祖先のことは当然のこと、歴史の"れ"の字にも興味を示さない、現代っ子の菜織に・・・。
「何か、原因があるんだろうか……菜織のご先祖様を怒らせるようなこと、したのか……」
 結局、そう言うことになるのだが、どう考えても、どう悪事に結びつけようにも、菜織はご先祖様を怒らせるような事はしていない。
 バイト的感覚とはいえ、境内清掃も毎日行っているし、神事などにも参加している。
 まあ、あえて言うならば、正樹を強制的に境内掃除の手伝いをさせていることくらいか。
「なあ菜織? いつ頃から見始めたんだよ、その夢」
「うーん・・・・・・良く覚えていないんだけど・・・多分、アンタとつき合うようになってからだと思うわ」
 その言葉に正樹は苦い顔をする。
「お、俺とつき合うようになってから? それって、どういうことだ? まさか、俺のせいなのか?」
「そんなこと知らないわよ。こっちの方が聞きたいくらいなのに。・・・・・・あっ、もしかして――――アンタがご先祖様怒らせるようなことしていたとか」
 そう来るか。
「おいおい、俺がいったい何をしたって言うんだよっ!」
 全くの言いがかりだというのに何故か焦ってしまうのは何故なのだろう。
「うーん・・・そうね。例えば、境内掃除の時に集めた枯れ草をこっそりと社の中に捨てたとか、夜中こっそり来てお賽銭箱をひっくり返して、小銭五百円相当をポケットいっぱいに詰め込んで逃げ帰ってきたとか・・・」
 うーん、その手があったか。などと感心している場合ではない。
「コラコラコラッッ。どーでもいいが、勝手に想像してんじゃねえっっ!」
 思わずそう声を荒げた瞬間、周囲から一斉に『しいぃぃぃ』という声がかかる。
 はっと周囲を見回すと、誰もが皆、正樹に白い眼差しを向け、人差し指を唇に当てている。
 かたや菜織、まるで他人のようにデスクの上の本に目を落としている。
「おいおい菜織ィ、なに他人ぶってんだよッ」
 情けなく助けを求める正樹だったが、小悪魔的な笑みを浮かべた菜織があっさりと返す。
「んー? アンタ誰? あたし知りませーん」
 見放された正樹、さらに逆上するが、ますます墓穴を掘る結果となってしまった。

 なぜか精神に重ねて身体まで疲れてしまったのは、正樹であった。
 だるそうに図書館を出て外の空気を吸うとかえって生き返るようだった。
「何やってんのよ正樹。ほらっ、買い物に行くんでしょ? つき合うわ」
 当然のこと、菜織は疲れるどころか、ますます元気になっているような感じがする。
 そりゃあ、読む本は漫画形態のものと、活字はあるが、ピクチャー8割以上のものばかり。
 活字100%のものはすべて正樹が読まされた。疲れるはずがないではないか。
 全く、今朝『精神科に行くぅ――――』などとわめいていた姿はどこに行ってしまったのか。
「えぇ――――これから横浜まで行くのかよぉ……」
 力なく路上にへたり込む正樹。
 頭の中がぐちゃぐちゃ状態の彼にとって、これから横浜まで行くというのはほとんど拷問に近い。
「勘弁してくれよぉ。ただでさえ頭ン中で"義経"の文字が飛び回っているってのによぉー」
「なぁに言ってるのよっ。勉強不足のアンタにとっては遅れていた分、たった四時間で取り戻したと思えばいいじゃない」
 時計を見ると12:56の表示。
 何だかんだ言って四時間近くも図書室にいたんだな。我ながらすごい。
「ほらっ、そんなトコに座ってないで、行きましょ?」
 菜織の両手が正樹の腕を掴み、持ち上げる。
 仕方なさそうに正樹も立ち上がると、菜織を見てわざとらしく肩を落とすと、はぁと大きなため息をついた。
「なあに?」
「何でもありゃあせん」
 互いに顔を見合わせて言葉を交わす。
 端から見ると実に仲がよい恋人同士。公道に関わらずそんな雰囲気を見せつけるものだから、通り過ぎて行く人々はさもうらやましそうに二人を一瞥して行く。
「さあて、じゃあ・・・聞こうかな?」
「えっ? な、何だよ・・・」
 唐突な言葉に驚いたような声を発する正樹。
「ええと、そうね・・・じゃあ、源義経のお父さんの名前は何というでしょう?」
「はっ?」
 ぽかんと口を開ける正樹。
「『は?』じゃないわよ。あのくらい本を読んだんだから、わかるでしょ?」
「ま、まあな。そりゃあ――――」
「じゃ、答えてみて。誰?」
 正樹はしかめっ面を浮かべながら、必死に頭を探る。
「ええとな……確か・・・んー・・・よ、よ・・・」
 答えられなかったときはからかってやろうと思っている事がわかる。見え透いた笑みを浮かべている。
「よ・・・そうそうっ、"よしとも"って言ったな。"源義朝"だっ!」
 正解だったのが不満なのか、菜織は軽いため息をつく。
「へえ……やれば出来るのね。さすがだわ」
「ふっ・・・バカにすんない。それくらい俺だってなぁ」
 何とか答えられた程度なのに自慢げに胸を張る正樹。
「そうお? じゃあね――――伊藤家のご先祖様って、誰だったかわかる?」
「伊藤家? 伊藤って、俺のことか?」
「そうよ――――」
 真顔で頷く菜織。
「え? 俺ン家の先祖って、あったっけ?」
「あったわよぉ。まさか覚えてないのぉ?」
「うっ……ち、ちょっと待て。今思い出す。んーと・・・」
 必死になって首を傾げる正樹。
 しかし、そんな様子を笑いをこらえて見ている菜織。
 紅潮して行く正樹のこめかみに青筋が立って行く。
 さすがに悪がったのか、菜織は正樹がキれないちょうどいいところでクツクツと笑う。
「あはははっ! アンタって、本当に面白いわよねー」
「なっ――――」
 空気が抜けたような顔つきをする正樹。
 その瞬間、はめられたと感じたのは、もう習性のようなものである。
「残念だけど、アンタん家の事は載っていなかった気がするかなぁ――――」
「・・・・・・・・・・・・」
 いつものことだが、正樹はこの時、すごくいい表情をする。
 まるで顔の絵が描いてある紙をくしゃくしゃに丸め、それを開いた時ような表情。
 こういう時にしか見られない、菜織最高の楽しみのひとつ。
 だが、当の正樹にとってはたまらない。
「おめえぇぇぇぇよおおおぉぉぉぉっっっ!」
「きゃあああっ!」
 そして角と牙を生やした正樹が笑いながら逃げて行く菜織を追いかけて行くパターン。
 これはひと月に最低二回はあるというのだから、正樹も単純と言えば単純だ。

「よしっ――――こんなもんでいいかな」
 三島デパートで着て行くものや遊ぶものなど、取りあえず旅行の必要物資を買った二人は、それを宅配便に頼み、デパートを後にした。
「ねえ、何で宅配便に預けるのよ」
「おいおい、何でも何も、お持ち帰り出来る量じゃねえだろ」
 そう、菜織は衝動買いが得意である。
 しかも安価な古着に特にこだわりを見せる。たいして着もしないくせに掘り出し物だとして一気に大量に買い込む。
 つき合う以前、よく彼女に騙され(?)て買い物につき合ったことがあるが、その帰路、まるで漫画やコマーシャルのように、買い物袋や箱を何段にも重ねて千鳥足で市内を歩き、電車に乗ったことがある。
 今どき彼女の買い物の荷物を持ってあげる男は少なくなったとは言うが、彼氏彼女の問題ではなく、当時二人はただの幼なじみであったのだ。
 それはいいが、今回の量はそんな以前の比ではない。
 恋人として初めての旅行にかける意気込みからして当然だが、いつもより気合いが入りまくっている。
 袋、箱、その他菜織用のものだけ諸々を地面において積み重ねれば、ゆうに二メートル以上はあるだろう。
 これはさすがの正樹でも持ち帰ることは出来まい。
「もう・・・男らしくないわねぇ・・・」
 唇を尖らせてぼやく菜織だったが、これはもはやそう言う問題ではないだろう。
 いかに男らしさの代名詞的俳優"中倉健"であろうと、武術の大家"アンディ・フナ"であろうと、これを目の前にしたら有無も言わずに正樹と同じ事をするはずだ。
「・・・ところでさ、真奈美ちゃんは本当に帰って来るんだろうな」
 相も変わらずの『満員電車地獄』を抜け出し、一息をついた正樹が不意に漏らす。
「えっ、どうして? 帰って来るに決まってるじゃない。この前の電話でもそう言っていたし・・・」
「だよな……」
「ん? ――――どうしたの?」
 一瞬の表情の陰りを見落とさなかった菜織が、正樹に至近距離で顔を近づける。
 驚く正樹、身体が後にのけぞる。
「いや――――何かさ、本当に来てくれるのかなあって、ちょっと思っただけなんだけどね」
「えっ、どうして?」
 正樹にとってはどうしてもやはり捨てきることが出来ない部分というものがある。
 菜織と真奈美とは単なる幼なじみという言葉では済ますことが出来ない、強い絆で結ばれている。
 そう、いわば義兄弟とでもいうのだろうか。
 菜織にしろ真奈美にしろ、実の兄弟よりも正樹との信頼関係の方が強いと言っても過言ではない。
 だが、それがかえって足枷になることもある。
 菜織と身も心もひとつになった以上、真奈美とは一線を画す関係になることは否めない事実。
 それでも真奈美はミャンマーに戻って行く間際、菜織に対しこう言った。
(何があっても、私たちは幼なじみだよ――――)
 それは菜織と正樹の関係を承知した事を伝えたばかりではなかったような気がする。
 真奈美が自分自身にそう、言い聞かせていたと思う。
 マリア様じゃないのだから、全く菜織に対し恨みを抱いていないと言えば完全に嘘になる。
 思わせぶりな言動を繰り返してきた正樹に対しても、悵恨(ちょうこん))の念はあるだろう。
 だからこそ、すべてを許してくれると言った、真奈美の寛容な心に二人は救われた。
 正樹が心からはっきりと言えることは、真奈美に対しては恋愛感情はない。
 だが、真奈美はどうなのかと言えば、それはわからない。
 知る由もないまま、真奈美はミャンマーに戻っていった。
 もしかすれば、彼女はまだ正樹のことを想い続けているのかも知れないし、あるいは彼女も正樹のことはただの幼なじみとしてしか見ていないのかも知れない。
 はっきり言って、それはわからない。
 だが、どうだろう。
 もしも、正樹に対して恋愛感情を抱いていないと言うのならば、菜織が平泉への旅行に誘ったとき、承知するだろうか。
 大概ならば、二人に気を遣って嘘も方便の理よろしく断るのではないか。
 それとも……。
(考え過ぎか……)
 口の端に笑みを浮かべる正樹。菜織は唐突にその頬を軽くつねる。
「いてっ! ……なにすんでぃっ!」
「もうっ。人の話聞いてんのっ?」
 正樹の軽い怒鳴り声にも臆することなく、菜織のしかめっ面が正樹を突き刺す。
「あ? ――――だから何だよ」
 その言葉に、菜織は呆れたのか、それとも悲しくなったのか、やや泣きそうな表情で正樹を見つめる。
「そんなに真奈美のことが気になるの?」
「え――――」
 菜織のつぶらな瞳が潤み、光がゆらめく。さすがの正樹も声が出ない。
「そんなことは――――っていうか、ほら・・・約束していることだしな、ドタキャンされたらやっぱ悲しいし・・・」
 どこか菜織に対して申し訳ないと言ったような口調に受け取れるほど、正樹の語気に力がない。
 『そんなに真奈美のことが気になるの?』その時、菜織は正樹に対して言ったこの言葉を後悔した。
 そう、もともと真奈美を誘おうと言ったのは自分だ。
 正樹の気持ちを知りつつ、真奈美を誘ったのだ。
 正樹も承知してくれた。『幼なじみ同士』として旅行に誘えば、快く引き受けてくれると確信して。
 だが、時間が経つにつれ、自分の心の奥深くに無意識に立ち入ったとき、真奈美を誘ったことが、これから起こりうる『悲劇の幕開け』的要因になるのではないかという邪推が生まれていた。
 それが菜織自身の中で勝手に膨張し、いらぬ焦りを生み出す。
 それが自分の口から出たと言うことをわかっていながら。
「あはは……そう…そうよね。ゴメン正樹」
 態度一変、苦笑いを浮かべて謝る菜織。
「?」
 正樹は訝しげに菜織を見つめる。
「あっ――――そうだっ。ねえ正樹、今日のお礼にお茶でもおごってあげる」
「はぁ?」
 突拍子もない事を言い出す菜織。
 何かをごまかそうとしていることが、あまりにも露骨に伝わる。
「ねっ! 早く行こっ」
「な、菜織?」
 正樹に言葉を出させる島も与えずに、菜織は強引に腕をつかんで歩き出していた。

正樹の家――――喫茶店『ロムレット』

「――――って、ここ俺ン家じゃねえか?」
 呆れ気味に正樹は菜織を見る。菜織は無邪気な表情でこくんと頷く。
 正樹は大きくため息をついて項垂れる。
 まあ、おおかた予想はついていたが、たまには別な場所でゆっくりとしてみたいものである。
「なあに暗い顔してるの。いいじゃない、アンタも落ち着くでしょ?」
「はぁ――――」
 別にいやというわけではなく、自分の家にたどり着くと、やはり緊張がほぐれて一気に疲れが出てくるものだろう。
 菜織に先導されて喫茶店の扉をくぐる。
「いらっしゃいませ――――」
 扉の鈴の音と同じ様な玲瓏とした声が二人を迎える。
 正樹の妹・乃絵美が、いつものようにウェイトレスとしてカウンターに立っている。
「あっ、お兄ちゃん。お帰りなさい」
「ただいま乃絵美」
「菜織ちゃんもお帰りなさい」
「ふふふ。何か照れるわね。"お帰りなさい"って言われると、正樹の奥さんになったような感じで」
 心なしか、菜織の頬が赤らんでいる。
「そうだな――――いつかはそうなってもらいたいもんだよ」
 どこか投げやりな感じで正樹は呟く。
『けっ、何言ってやんでい』などと一蹴してしまうと、菜織のことだから容赦ない口撃が疲労がたまった正樹にトドメを刺してしまうことだろう。
 口先だけの言葉だったが、菜織は本気で嬉しそうに正樹を見る。
 そして思わずその腕にしがみついた。
「ホントにっ!? ホントにそう思ってるの?」
「あっ? う、うん」
 きょとんとした顔で頷くと、菜織は恥ずかしそうに視線を落として正樹の腕を包む手に力をいれる。
「こ、こら」
「……うれしい……嬉しいよ……」
 消え入りそうな声に感情を込める菜織。
 その時、正樹は思った。
 菜織はこう見えて意外と結婚願望が強い性格なのかも知れない。
 ともすれば高校を卒業したらば、押し掛け女房的に正樹のもとに来るかも知れない。
 そう思うと、今こうしている恋人がいつもよりも可愛く愛おしく感じ、思わず鼓動が高鳴る。
 だが…。
「あ…あの…」
 申し訳なさそうに乃絵美が声を出す。
 それに反応したのか、菜織が咄嗟に離れて真っ赤になった顔を隠すようにそっぽを向く。
「ご…ごめんなさい…」
「あ、あやまるこたぁねえよ乃絵美。こ、こんなとこでなぁ…そ、そりゃ…」
 正樹もどもりまくりながら照れを隠そうと無駄な抵抗を見せる。
「ごめんね二人とも…。座って?」
 乃絵美に促されて二人はおもむろにカウンターに座る。
「菜織ちゃんはいつものでいい? ――――お兄ちゃんは?」
「ブラック頼むよ」
「はい、かしこまりました。少々お待ち下さい」
 兄に対しても営業スマイルを見せるのは昔からである。それほど乃絵美はこの仕事が好きだという証。
 キッチンに下がっていった乃絵美。
 普段はこの時間帯になると客が犇めくのが通例だが、今日はまた推し量ったように正樹と菜織以外は誰もいない。
 まあ、客がひとりでもいれば、入り口のそばでいちゃつかれると、それは新手の営業妨害の一種であろうが。
 心静まるクラシック音楽がちょうどいい音量で店内に流れている。じっと座っているだけで微睡んでしまいそうだ。
「ねえ正樹――――」
 入りかけたときに菜織が正樹を呼び止める。
「ん?」
「今日も……またあの夢、見るのかな……」
 正樹が菜織に視線を向けると、彼女はミネラルウォーターの入ったコップをじっと見つめながら、指で撫でるようにしている。
「不安か。ご先祖様の夢みることが……」
「正直言うとね。……でも、夢の正体が分かってどこかほっとしたって言うか・・・、何か・・・また見たいなあって、思うの」
「ふっ、なんだそりゃ」
「やっぱり笑っちゃう? ――――でもね・・・今思うと、"うつぼ"って言う人、どこか私に似ているのよね」
「?」
「ほら――――うつぼは義経の幼なじみじゃない。小さな頃からずっと一緒で、義経のことを見つめつづけてきた。けど、義経は彼女じゃなくて、静御前のことがずっと好きだった……」
「それって、俺が義経で、真奈美ちゃんが静御前?」
「ふふっ・・・真奈美はともかく、アンタと義経を比べるのはどうかとは思うけどね。まあ、境遇としては似ているかなあ」
「へっ――――まあいいや。それで?」
「私ね・・・思うの。あの夢は、今の私たちに対する、ご先祖様の警告って言うか、お告げって言うか――――」
「ははっ。そりゃあすごい。菜織のご先祖様はずっと俺たちを見守り続けていてくれたって訳だ」
「むっ――――なんかバカにした言い方ぁ」
「はははは。それで?」
「うん――――それでね、今度の旅行、平泉にしようって思ったのは、きっとご先祖様のお導きじゃないのかなあって……」
 その発想にさすがの正樹も笑いをこらえきれなくなる。
「な、何がおかしいのよっ」
 声を押し殺して肩で笑っている正樹を、菜織は顔を真っ赤にして睨む。
「い、いやいや。なんかね、そう思うと"ふぁんたじぃ"だなあって・・・」
 完璧にバカにしている。それは正樹自身、そう思って言っている。
「何よぉ……だったらアンタはどう考えてるのよ。言ってみなさいよ」
 正樹は笑いが収まるのを待ってから言った。
「お前が平泉って言ったときは正直びっくりしたよ。おかしくなっちまったんじゃねえかなってさ……。でも、よくよく考えてみりゃ、お前は何度もその夢見ているわけだし、意識的であろうとなかろうと、平泉に行くってのはわかる気がするぜ。でもさ、それをおまぁ……"ご先祖様のお導き"って、ちぃと仰々しすぎない?」
「だって、そう思うんだもん……」
 拗ねる菜織。
「まあ、確かにお前の見た夢の話と、親父さんが見つけた古本や図書館で読まされた歴史の本の内容は気味が悪いくれえ一致してるけどさ、それってもしかしたらお前が小さかった頃に誰かから聞かされた昔話の記憶が何かの拍子に蘇って、夢に出たって事も考えられるじゃないか。」
「そんなこと言ったって、誰も話してなんかいないって、親父も言ってたじゃない」
「だからさ、おやじさんもお前も、忘れているだけだよ。何せ子供の頃の記憶だ。思い出そうって思っても、思い出せるもんじゃねえだろ?」
「ん……確かにそうね。アンタと出会う前の事はよく覚えてないけど……」
「ほら。きっとそんな頃に聞かされた昔話だよ。その時はきっとその話がインパクト強くて、忘れたと思ってても頭のどこかに残ってたんだな。そう思うと、お前が本を読むときに無意識に夢中になってたり、夢のせいじゃなくても、平泉に行きたいって言う気持ちは理解できるんだよ」
「う~ん……そうかなぁ……」
 どこか納得できないと言った感じに、菜織は唸る。
「そうだって。確かに、不思議な事ってあると思うよ。学園七不思議じゃねえけどさ、よくよく考えてみりゃあ、超常現象の類って、意外と人為的なものとか、忘れてしまった出来事とかが無意識のうちに蘇って、それを勝手に怪奇現象だぁって、騒いでいるだけなのかも知れねえじゃん。他意はないって。菜織、考えすぎはよそうぜ、な」
「う……うん……」
 正樹の理論を、ほぼ強引に納得させられた菜織だったが、やはりどこか奥歯に物が挟まった感覚に囚われていた。
「お待たせしました――――」
 そんなとき、タイミング良く乃絵美がトレーを持ち、キッチンから姿を見せた。
「お話、弾んでいるみたいだね――――」
 乃絵美はうらやましそうにそう言うと、菜織の前に『いつもの』である、ハニーレモンパイとハーブティのセット、正樹の前にロムレット特製オリジナルブレンドコーヒーを置く
「いったい何のお話なの?」
 兄が珍しく熱弁している姿に興味を抱いたのか、乃絵美はどうしても聞きたいと言った感じで二人を交互に見回している。
「大した話じゃねえよ。こいつの見た夢のことさ――――」
 そう言いながら、正樹は簡潔に事の経緯を話す。
 すると乃絵美は興味津々と瞳を輝かせて身を乗り出す。
「それじゃあ菜織ちゃんって、義経の子孫なの?」
「本当かどうかは知らないわよ? もしかしたらでっち上げかも知れないし……」
 そう言って笑う菜織。
「でも……年季の入った本にそう書かれているんだよね? 本当じゃないかなあ・・・」
「そうかしら――――見てみる?」
「えっ! 見せてくれるの?」
 うれしそうに乃絵美は身を乗り出す。菜織は微笑みながらバックの中から古文書を取り出す。
「あっ――――ほんとうっ・・・古いね・・・」
 乃絵美がまじまじとボロボロに近い表紙を眺める。そしておもむろに鼻を本に近づけて匂いを嗅ぐ。
「何してんだ、乃絵美?」
 その行動を怪訝そうに見る正樹。
「うん・・・やっぱり古い本の匂いがするね、これ。――――菜織ちゃん、この本バックにしまっていたんでしょ? バックの中、この本の匂いしない?」
 どうやら乃絵美はその事を言いたかったのかも知れない。
 菜織は『げっ』と、カエルを踏み潰したような声をあげ、慌ててバックを開き、鼻を近づける。
 そして満遍なく充満していた数百年の歴史の匂いに、菜織の顔がいい感じになる。
「お、お、お、お気に入りのおぉぉぉぉっっ!」
「くっくっくっくくくくく……」
 たまらず正樹が笑い出す。そして乃絵美のナイスアクションを賞賛する。

 乃絵美はしばらくその本に目を追っていた。
「読めるのか、乃絵美?」
 菜織の父でさえ詰まり詰まり読んでいた大昔の達筆を、乃絵美はさもすらすらと読んでいるように見える。
「うん。ちょっとだけどね」
 毛筆を習っていたことがあるとのことだが、それくらいで読めるものなのか。まあ、細かいことは気にするまい。
「へえ・・・菜織ちゃんって、すごいんだね」
 突然の言葉に驚く菜織。
「でっち上げでも何でもないよ。やっぱり菜織ちゃんは義経の子孫だよ」
「ええ?」
 思わず二人が身を乗り出して乃絵美が開いているページに視線を合わす。
「ほら。ここに家系図みたいのが載っているけど、順を追っていっても、つじつまが合うし、書き換えられた形跡もない・・・。菜織ちゃん、『氷川雅秀』って人、知ってる?」
「知ってるも何も、雅秀はあたしのおじいちゃんよ? おじいちゃんがどうしたの?」
 すると乃絵美が指差した部分は、家系図の一番最後にあった名前だった。
「あっ……本当」
 乃絵美は菜織の祖父の名前から上へ上へと名前と線をたどって行く。
 すると、確かに義経の名前とうつぼという文字がある。
 更にたどって行くと、八幡太郎義家、清和天皇の名まである。
 同じ事は菜織の父の自慢げな訳語にもあったが、乃絵美の話と照らし合わせながら、実際よくよく目を通してみると、それが事実であることがよくわかる。
「鑑定してもらわないと本物かどうかってことは私にはわからないけど、この本の古さからみても、絶対確実だと思うよ」
「や、やっぱりお前って・・・」
 正樹はまじまじと菜織の顔を見まわす。
「?」
 きょとんとした表情で正樹を見る菜織。
 正樹は菜織の顔かたちをきめ細やかに眺めるようにしてからうーんと唸る。
「な…何よ」
「やっぱり……お前ってどっか他人とは違う感じがしていたんだ。言われてみればさ、そうそう。おてんば姫様って感じね」
 突然そんなことを言い出す正樹に、菜織はひどく呆れたようにため息をつく。
「何を言うかと思ったら……くっだらないわねっ。よしてよ、そんなこと言うの」
「何でだよ。誉めてるつもりなのにな」
「今初めてわたしの顔見たわけでもなし…今までそんなこと思ったことあるわけでもなし…見え透いた事言わないでくれる? アンタらしくもない…」
「べ、別にそんなつもりで言ったわけじゃねえってっ!」
 これはまずい。喧嘩の予兆だ。
「アンタにとって、あたしが誰かの子孫だって事で想いが違ってくるの? 名もない農民や兵士がご先祖様より、貴族の方が大切なの?」
 菜織のトーンが更に高くなり、正樹を突き刺すように言葉の刺をぶつける。
「源氏でも平氏でも……あたしはあたしよ……そんな……他人とは違うなんて……言わないでよ……」
 電源を切ったように急速に菜織は落胆し、泣き声となる。
「菜織ちゃん……もう――――お兄ちゃんっ!」
 乃絵美の厳しい眼差しが、失言の兄に向けられる。
 悪気はなかった言葉も、不用意に出すと相手を傷つける事になることもある。
 まして、最近の女性に似合わず、菜織は特に傷つきやすい部分がある。正樹は悔いた。
「ご・・・ごめん菜織・・・謝るよ。今の言葉、撤回する…。でも・・・本当に悪気はなかったんだ」
 素直に頭を下げて謝罪する。
「・・・・・・」
「菜織の言うとおりだよ。確かに、菜織は菜織だよな…誰の子孫だろうが、そんなこと関係ない」
「・・・・・・ホントに、そう思ってくれてる?」
 半信半疑の眼差しを正樹に向ける菜織。
 さも、欲しい物をだだをこねて泣き腫らした子供が、ようやく買ってくれると言った親に、確かめるような感じだ。
「本当だよ。菜織は菜織。俺の菜織だ」
 がらにもなくシリアスにそう答えると、菜織の表情から陰りが消える。
「うん・・・・・・」
 納得してくれたようで正樹はほっと胸を撫で下ろした。
 しかし、たったひとつの言葉がこうも相手を簡単に傷つけてしまうこともあるものなのかと、正樹は改めて思い知らされた。
 言葉というのは、ある意味恐ろしいものである。もう、彼女と家柄を掛け合わすことはやめようと思った。
 だが、そんな菜織思いの正樹を、簡単に茶化すような言葉が、いたずらっぽい笑顔に変わった菜織の口から飛び出す。
「でも、これからは『源氏の子孫の権限』で、気兼ねなく正樹に色々と言いつけできるわね。ふふっ、従いなさいよ?」
「はぁ―――――――――」
 ガクリと肩を落とす正樹。
 全く、女という生き物はわからない。
 菜織は乃絵美と一緒に澄み切ったように笑っている。
 まあ、もともと明るくわがままな性格であるが、そこが何よりも愛おしい。
 だが、ちょっと疲れるのも事実。
 言い争いになると、確実に負けてしまう。それこそ、『お姫様』と『従僕』のよう。本当、男というのは辛い立場だ。
 その時だった・・・

 ――――カランカラン――――

 扉の鈴が乾いた音を発し、人影が扉を越える。
「いらっしゃいま――――」
 乃絵美の声が途中で止まる。途端に、その表情が驚きと嬉しさの混同した色に染まる。
「どうしたの乃絵美?」
 そう言って菜織がちらりと扉の方に振り返る。
「あ―――――」
 その瞬間、菜織も固まった。
 そして正樹が振り返ったとき、その視界に飛び込んだ人・・・。
 その瞬間、心の中で核爆発を起こしたように、心臓が音を立てて高鳴る。
 身体中から、冷たい汗が吹き出る。
 それは、全く予想もしていなかった、不意なる人物・・・・・・。
「ま、真奈美ちゃん――――」