その姿を見た瞬間、三人を取り巻く時間が、一生忘れうることのない、あの日に戻って行く。
そう、二度と会えることは叶わないと、半ばあきらめ過ごしてきた6年間の空白をその一瞬で埋めてゆけそうと感じた、二ヶ月前――――。
菜織のハッパに押されるようにして陸上部の練習に参加していた日。
陸上部や他の運動部員たちが全て帰宅の途についた黄昏時。
疲れ切った脚を休ませようと、校庭に腰を落として初夏の涼風を感じていた正樹を、人影が一瞬、暗い闇を作った。
おもむろに視線をあげると、そこに立つ、見知らぬひとりの少女。
きょとんとした表情で見上げる正樹。
まるでガラス細工のような華奢な身体が残光に映える。
腰まで伸びた繊細な髪の毛を靡かせ、縁なしメガネ越しのつぶらな瞳には、吸い込まれそうなほど澄んだ光をたたえ、どこか彼女の裡に秘める不安と、正樹自身懐かしさを感じさせる不思議な少女。
癖なのだろうか、右の二の腕を軽く胸元に置き、上辺だけでは計り知れないと思わせる寂しげな微笑みが、何故か正樹の心を捉えてやまなかった。
(あの――――間違っていたらごめんなさい・・・)
少女はおそるおそる消え入りそうな鈴声で言った。
その時、正樹の脳裏に広がる想い出のダムが一気に解放されたが如く、甘く切ない幼少時の想いがあふれ出す。
そして、無意識に立ち上がり、少女を見つめていた。そして、自分もおそるおそると、しかし確信したように言った。
(もしかして――――真奈美ちゃん?)
すると、少女は体の芯から歓喜の炎を燃え上がらせたように、脳天からつま先まで余すことなくその想いを表現すると、大きく頷いて勢いよく正樹の胸に飛び込んだのだった――――。
そんなあの日と同じシチュエーションで、鳴瀬真奈美は扉の前に立っていた。
「ま……真奈美じゃないのっ!」
「ま……真奈美ちゃんっ!?」
「ま――真奈美ちゃん・・・・・・」
菜織・乃絵美、そして正樹の声が重なる。
すると真奈美はぺこりと頭を下げ、照れくさそうに言った。
「ただいま」
前触れもなく正樹たちの前に現れたあの日と似ている。
しかも、帰国予定日より一週間も早い。うれしい誤算。
本当に帰ってくるのだろうかと内心気が気でなかった正樹の心の薄雲が、一瞬にして消え去る。
「まな、まな、真奈美ちゃんっ、そ、そ、そんなとこに立ってないで、ここ座ってよ」
狼狽した正樹がなぜか自分の席を譲ろうとして立ち上がる。
「お兄ちゃん――――こんなに空いているんだから、何も譲ることないんじゃない?」
と、乃絵美の突っ込みは相も変わらず寸鉄人を刺す。
「あっ、そうだった」
「ばか。何焦ってんのよ」
菜織の突っ込みよろしく照れくさそうに笑って正樹は座り直す。
「それじゃあ、お言葉に甘えて・・・」
そう言うと真奈美は正樹の隣の席に腰を下ろす。
気分が落ち着いたとき、正樹は二人の美少女を両脇に、『両手に花』という言葉そのままの状況に置かれた自分に優越感を抱く。
「真奈美ちゃん、何にする?」
その時ばかり乃絵美はウェイトレスの表情に戻る。
「うん……それじゃあアイスカフェオレお願いしまあす」
「アイスカフェですね。かしこまりました。少々お待ち下さい」
オーダーを取った乃絵美が再びキッチンに向かう。
「真奈美っ・・・・・・アンタどうしたのよ。帰ってくるの、確か来週じゃなかったの?」
菜織もまたひどく驚愕していたのだろう。彼女自身が大いに焦っている。
「う・・・うん。そうだったんだけど・・・」
申し訳なさそうに頷く真奈美。
「もう……驚かさないでよォ――――」
ようやく無意識のうちにかかっていた身体の力が抜ける。
「ごめんね、菜織ちゃん。本当は来週のハズだったんだけど、お父さんやお母さんが『せっかくの夏休みなんだから、真奈美も一日も早く日本に帰って友達と遊びたいだろ』って言ってくれて・・・」
どうやら真奈美の両親は、娘のためにと二日分の仕事を一日で仕上げるペースで片づけ、その結果、帰国予定より一週間も早く、ヤンゴンを引き上げることが出来たのだという。
今どきの親には珍しい。本当、世の中の子を持つ親たちに見習って欲しいものである。
「でも嬉しいよ。予定より遅くなるよりも、早くなったことに越したことはないからね」
正樹がそう言って真奈美を見つめる。
思えば、六月の末に帰ってきたときは、まさかわずかひと月ほどで再び帰って行くとは思わなかった。
まるで台風のように、真奈美はそのひと月の間にいろいろなものを残し、そして気づかせてくれたのだった。
菜織に対する想い、そして幼い頃からずっと培ってきた三人の不変の絆。
そして、正樹と菜織が彼女に対する共通の念、慚愧。
(何があっても、私たちは幼なじみだよ――――)
再び去って行く時に彼女が叫んだその言葉は、決して忘れうることが出来ない、心の支えとなっている。
そして今、正樹と菜織が何よりも心配なことがある。
「真奈美ちゃん。また、ミャンマーに戻らなければならない可能性もあるんだ・・・よ・・・ね?」
正樹の質問に、真奈美は優しく首を横に振る。
「ううん・・・ご心配なく。今度はお父さんもお母さんも帰ってきているし、お父さんの会社の方からも、当分の間は海外出張もないから、しばらくゆっくりして欲しいってことだから・・・そうね・・・短くても二,三年は大丈夫だと思うわ」
「えっ――――ホントにっ!?」
思わず菜織が叫ぶ。
「うんっ! 今度こそ、ほんとうよ」
それは正樹や菜織にとって、億万の金銭を手にすることよりも嬉しい話だった。
金では決して買えない、かけがえのない友情の絆。
今の世にあってこんな甘くさい人間がいてもいいだろう。
今、こうして真奈美と直に話すことで思う。
彼女がいなかったこのひと月弱が、十年も二十年にも長く感じていたのだと。
そして、本当に今度こそは、新しい三人の想い出を、築き上げて行くことが出来るということを信じよう。
それからしばらく、時の経つのも忘れるほど話は盛り上がった。
静かで落ち着いた雰囲気を持つレトロな西洋風の店内が、その時ばかり笑い声溢れる流行のファミレスと化す。
「そう言えば聞きたかったことがあるの」
真奈美が菜織を見て言う。
「なに?」
「うん・・・あのね。今度の旅行の行く先、『平泉』ってことなんだけど――――」
「そうよ」
「その・・・えーと・・・」
なぜか言葉が詰まる真奈美。その様子に正樹がふっと微笑んで代弁してあげる。
「どうしてまた、平泉なのかなあって。菜織ちゃんの発想では思いつかないほど、しぶい場所だよね――――と?」
図星を当てられて真奈美ははにかむ。
「それはね、真奈美ちゃん。実はふかぁーい訳があるのさ」
菜織が話せば終始自分が妥当といった感じで脚色されてしまうため、正樹が途中何度も菜織の茶々をかわしながら、今まで起きた経緯ありのままを代弁する。
すると真奈美は微笑みを浮かべながら不意に呟いた。
「吉野山 峰の白雪踏みわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき――――」
「?」
唐突な言葉にきょとんとする正樹たち。
真奈美は虚空を見つめるようにしながら、また呟く。
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なす由もがな――――」
「なあにそれ、真奈美?」
菜織がきょとんとした顔で真奈美を見る。
「なんか、俳句か和歌のような感じだね」
正樹がそう言うと、真奈美は恥ずかしそうに微笑んで小さく頷いた。
「うん・・・これはね、静御前が吉野山で捕まってしまった後に、頼朝の命令で鶴岡八幡宮で舞を舞ったときに詠った、義経への恋歌なの」
「あ、そう言えばそう言う記述もあったような気がするわね」
と、菜織は読みあさった漫画本の吹き出しをたどる。
「へえ――――さすが真奈美ちゃんだよな。俺たちよりも詳しい」
正樹や菜織には真奈美が言った静御前の二首の歌の意味をしみじみと考えるという風雅は持ち合わせていない。
乃絵美は瞼を閉じて唇を小さく動かしている。真奈美は照れくさそうにはにかむ。
「そんなことはないけど――――でも、不思議ね。菜織ちゃんもそんな夢見たんだ」
その言葉に驚く菜織。
「えっ――――? "も"って、どう言うこと?」
「うん。実はね、私も同じような夢、見たの」
おっとりとした調子で言う真奈美だったが、菜織も正樹も愕然となった。どう言うことだろう。
「それって、いつ頃見たの?」
「うん・・・菜織ちゃんから旅行の誘いを受けた日かな。菜織ちゃんのように何回もじゃなかったような気がするけど、静御前の夢だったから妙に印象が強かったわ」
春盛りの境内は桜が満開だった。
桜吹雪とまではいかないが、暖かなそよ風が吹き抜けるたびに降る小雨が仮初めの平和を彩っているようだった。
春の慶賀。
千葉常胤(つねたね)
土肥実平(どいさねひら)
和田義盛
三浦義澄(よしずみ)・義村父子
安達盛長(もりなが)
大江広元
比企能員(よしかず)
梶原景時(かげとき)
小山朝政(ともまさ)・結城朝光(ともみつ)兄弟
八田知家(ともいえ)
畠山重忠らそうそうたる鎌倉の腹心たちが列席を連ねる。
そして、本宮には執事・北条時政、義時父子が控え、いよいよ鎌倉殿夫妻の登場を待っていた。
「鎌倉殿、御出座――――」
その声が響きわたると、居並ぶ重臣たちが一斉に平伏する。
十数秒の沈黙が場を包み込み、緊張の度合いを一気に高める。
そして、本宮の木扉が軋み開かれると、ゆっくりとその二つの人影が春光に現れた。
衣冠束帯という最高の礼装を身に包みながらも、どこか冷酷な雰囲気を醸し出している美男子。
さも笑ったことがないかのように、能面のような耽美さを思わせる。
眼光鋭く人を突き刺す勇猛さを秘め、目を合わせるだけで萎縮してしまいそうな威圧感は、ここに居並ぶ名だたる将たちのトップにある人物だと知らしめている。
誰であろう、この人物こそ平家滅亡後、事実上武門の棟梁の座に上り詰めた、左兵衛権佐(さひょうえごんのすけ)・源頼朝その人であった。
その隣には頼朝の正室である政子。北条時政の長女であり、義時の姉である。
頼朝は一度視線を周囲に回すと、おもむろに前に進み、用意された座に腰を下ろす。政子夫人も隣に据えられた座につく。
軽く息をついた頼朝が義時を睨むように見ると、義時は承伏したように頭を下げる。
「出ませいっ!」
義時の声が八幡宮の境内に延々と吸い込まれて行く。
その声に驚いたのか、鳥たちが一斉に羽ばたいて行く。
羽音が止み、一瞬の静寂が戻ったとき、参道の向こうから、純白の直垂・漆黒の立烏帽子、腰に白鞘巻の刀を差した華奢な人間が、従者に伴われてゆっくりと姿を現した。
群臣の視線は一点に集まる。
憂いをたたえた澄んだ瞳はやや伏せ気味に大地を向き、腰まで伸びていよう黒髪は束ねられてはいるが、どこか乱れている。
薄紅を差したくちびるは真一文字に閉じられて動かず、ただでさえ透き通るような白い肌が、更に透明に輝き、死人の様な痛々しささえ感じさせる、現世にない美しさを醸し出している少女であった。
「ほう――――これは・・・・・・」
頼朝が父と敬う千葉常胤さえも、その少女の美しさに思わずため息が出る。
「なるほど――――九郎殿が惚れる訳もわかる」
感嘆か揶揄か。土肥実平がにやりとしながら呟く。
「さすがは都の白拍子ですね、兄者」
「うむ・・・私もかような女性(にょしょう)と想いを通じ合いたいものよ」
結城朝光の言葉に、兄の小山朝政が唸る。
「これはいかん――――この者は魔性を秘めておる。そなたもかようなおなごに惑わされぬよう気をつけよ」
と、しかめつらで少女を見たのは三浦荒次郎義澄。言葉は息子の義村に発せられたものである。
「…………」
だが当の義村は頷くことも首を横に振るようなこともせず、無表情に少女を見つめている。
気のせいか、少女は一瞬、義村を見たような気がして義村ははっとなり身を正す。
だが、彼が改めて少女を見たときは、背中だった。そのまま少女は前に進み、頼朝夫妻の前で跪く。
「そなたが『静』であるな――――」
義時の卑下するような声が静を突き刺す。
正面の頼朝は眉間にしわを寄せ、冷たい光をたたえた目で静を見下している。
かたや政子は正反対に同情とも言える優しい眼差しを注いでいる。
「ふむ・・・・・・なるほど。九郎殿が思い入れることはある。確かに、美しいな」
義時の言葉は完全に彼女を蔑んでいた。目と口の端に嗤いを浮かべている。
「九郎殿も災難なことですな。御身ひとりで西国に赴けばよいものを、そなたを引き連れたばかりに目論見が外れるとは・・・因果と言おうか何と言おうか。希代の英雄も、美しき女性を斬ることは出来なかったか。――――要するに、九郎殿は神でもなければ聖(ひじり)でもなく、我らと同じ、"男"であったということですな」
その言葉に群臣の間から一斉に嘲笑の渦が巻き起こる。
この上ない屈辱。現代で言えばセクハラを一身に受けながらも静はじっとこらえている。
逃げ出したくもなるだろう。
このまま抜刀して頼朝や義時に斬りつけたくもなっただろう。
だが彼女は身じろぎひとつせず、ただじっとそれを受けている。その精神力は人を超えているといえよう。
ただ一人の愛する人のためと思えば、人は地獄のような辱めさえも耐えうることが出来るものなのか。
「・・・・・・」
頼朝・政子を除き、肩を揺らして哄笑している群臣の中で、ただ一人だけ笑うこともせず、哀憐の眼差しを静の背中に向けている青年。三浦大介義村であった。
頼朝のそばで静に恥辱の言葉を浴びせ、笑っている北条義時を、憎悪の目で睨みつけているのも、彼だった。
「静まれ――――」
低く響きわたる声で喧噪を止めたのは、頼朝であった。
一瞬にして静まり返る場。
静に向けられていた卑猥な視線は、一転緊張に変わり頼朝に向けられる。
頼朝は能面のように無表情のまま眼差しだけを静に向ける。その瞬間、静の背筋に冷たいものが奔った。
「面を上げよ――――」
その命令に、静は何も言葉を発せず、おもむろに上体を起こす。
「・・・・・・」
静は瞼を伏せ、頼朝の顔を見ようとはしなかった。
兄弟というのは、ここまで憎しみ合えるものなのか。
あれほど兄を慕い敬い、兄のために平家一門を完膚無きまでに叩きのめした弟を、もはや用済みとばかりに非情な手段で追いつめた男。
それだけならばまだいい。
静にとっては、何よりも愛する義経と自分を引き裂いた、憎しみという言葉だけではあまりある、百鬼羅刹の権化・頼朝――――。
しかとその鬼のかんばせをその目に焼き付ければいい。
純粋無垢な義経が、最後の最後まで信じつづけていた、兄という名の鬼の姿を――――。
だが、静の瞼は閉じていた。
それは今、目の前の頼朝を見てしまうと、義経が愛したおのが瞳の美しさが、瞋恚(しんい)の炎で灰燼と帰してしまいそうな気がしたからだった。
鎌倉の群臣ごときの誹謗中傷、嘲笑などは静の桜貝のような耳には届かなかった。
今や彼女の心に響く声は、母・磯禅師の慰めと、九郎義経の甘い愛の囁きだけである。
「目を開き、余を見よ」
まるで傀儡のように、言葉だけが静の身体を動かす。
頼朝の声で瞼は開くが、瞳に生気はなく、よどんだ色で視点が定まっていない。
まるで異教の秘薬でも服しているような様相だ。
纏物を全て剥ぎ、この場で全裸になれと命じれば、躊躇なく彼女は十八歳の肉体を群臣の前にさらすだろう。
「ふっ――――」
冷酷に、頼朝は口で笑った。
普通ならば今の静のような態度は無礼以外のなにものでもない。
だが、頼朝はあえて咎め立てるような事をはするなと義時や重臣たちに言い含めていた。
言わずとも彼女が抱いている気持ちはわかるとでも言うのだろうか。
いや、わかると言うよりも、見え透いたことをいちいち言わせることもないだろうというだけなのかも知れない。
「聞けばそなたは、京随一の白拍子とのことらしいな」
「…………」
「そなたの舞は花を恥じらい、望(もちづき)を雲に隠すほどの秀麗なものと聞く。今日は平家追討成就御礼と、天下一統の祈願のために参詣した。そなたの美しき舞を奉納すれば、満願成就も夢ではあるまい」
頼朝の繕った言葉など、静の耳には届かない。
なおも虚ろな瞳の先に見えるものは、義経の優しい笑顔だけである。
聞こえるのは、義経の腕に包まれていたとき、耳元で恋しいと囁いてくれた、心からの言葉だけである。
そんな情景を思い出したのか、静は心の中でそっとその人の名を呼んでいた。
(九郎様・・・・・・)
義村はじっと静の後ろ姿を見つめていた。
父に何と言われようが、不思議と静を蔑む気にはなれなかった。それどころか、憐れみの心の方が大きくなっているのが、義村自身気がついていた。
頼朝の言葉ひとつひとつに息を呑み、義時の態度ひとつひとつを嫌悪する。
今すぐに御前に飛び出し、静を庇いたいという気持ちに駆られるが、それは到底叶えられることではない。
やがて、頼朝は静に舞を舞うことを命じた。
静が初めて鎌倉に送られてきたとき、彼女はもはや自分は白拍子などではなく、"源氏の御曹司・九郎判官義経の妻である"というプライドから評判の舞を舞うことを拒絶していた。
だが、義経を直接窮地に追い込んだ、梶原平三(へいざ)景時や、北条義時らが彼女を脅した。
"言うことを聞かなければ、義経の命は短くなるだろうぞ"と。
そして、義経の母親常磐(ときわ)が、仇敵・入道相国清盛の妾となった"不貞操"なことまであげて、静の心の傷をえぐっていった。
やがて静は心を閉ざしていった。
いや、それまでの出来事が却って義経への恋心を強めていったというのだろうか。
鎌倉の監視下にあって、静の目に映るものすべてのものが義経との蜜月時代に触れたものに見えたのだろうか。
流れる雲に彼の面影を浮かべ、舞い落ちる名残雪に吉野の山を思い、咲く花は彼と逢う度に贈ってくれた野草に重ね、舞う蝶、小鳥のさえずり、全てが義経の姿、義経の声となり、彼女に哀しい微笑みを与えてくれていた。
義村は時々、そんな彼女の姿を見てきた。
初めは、逆臣・義経の妾程度にしか思わなかったが、何度もそのような姿を見てゆくうちに、いつしか同情の念が芽生えていったのかも知れない。
感情の失せた静が命じられるままに立ち上がる。
"立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花"という形容よろしく、群臣はいちいちどよめきを起こすが、義村にとっては耳障りでもあった。
静は正殿に対し一礼をすると扇を開く。と同時に、雅楽隊が鼓や笙の演奏を始める。
荘厳な雰囲気がその場を包む。音曲に合わせて彼女が舞い始める。
誰もが天女の降臨を見た感覚に囚われていた。
不思議なことに静の歌舞、伴奏にあわせるかのように、鳥獣が啼き、風がそよぎ、花びらが舞台を彩る。
坂東武者たちにとっては初めて見る都の白拍子の舞。
圧巻されているとでも言うのか、天女の姿にただただ唖然としているだけなのだろうか、"武士の鑑"と謳われている朴念仁・畠山次郎重忠ですら、ぽかんと口を開けて見つめている。
見守るような微笑みを浮かべて見入っている政子。
不敵な頬笑みを浮かべて眼差しを向けている義時。
ただ頼朝だけは、その表情がわずかずつ険しくなって行く。
短歌を詠いながら、静の舞は一層箔がかかる。
躍動が、風の精霊をふるいたたせ、境内に暖かな風を運ぶ。
そして……
「よ――し――の――や――ま――」
瞬く間に、静の瞳に生気が蘇る。
正殿の頼朝夫妻を見つめる眼差しはそこにあらず、愛しい人の幻を見ているような、恋する目をしていた。
「み――ね――の――し――ら――ゆ――き――ふ――み――わ――け――て――――」
扇が天から大地に舞い落ち、そしてまた勢いよく舞い上がる。
単調だが玲瓏とした歌声に、群臣たちは身動きすることさえも忘れている。
「い――り――に――し――ひ――と――の――――」
気のせいか、静の瞳に一粒の宝石が光ったのを、政子は見た。
「あ――と――ぞ―――こ――い――し――き――――」
「吉野山……峰の白雪踏み分けて……入りにし人の跡ぞ恋しき……か」
大学で法律学を教える立場の明法(みょうぼう)博士として代々その名を知られ、この人は頼朝の知嚢としてその名の高い、公文所別当・大江広元(おおえのひろもと)。
史上名高き法学の名士・大江匡房(まさふさ)の子孫である。
彼は癖である顎を撫でながら、むうと唸っていた。
「いかがなされた、大江殿?」
臨席の和田義盛が小声で尋ねる。
「おそれ多くも源家の氏神である八幡宮の御前で謀反人である九郎殿を恋い慕う歌を詠うとは……」
「九郎殿を……?」
愕然となる義盛に、広元は小さくため息をつく。
「佐殿は黙っておられまい――――」
眉を顰める広元。
父・三浦義澄を間に挟んで列席している義村の耳に、その言葉が聞こえてくる。
「…………」
急激な不安感が義村を覆い、表情があからさまに険しくなる。
静の魅入るような舞を、不安と慈愛の眼差しで見つめ続けている義村。
大江広元と和田義盛の会話に、更に不安を募らせる。
怖さ半分に頼朝を一瞥すると、頼朝は能面のような表情を保ちつづけている。
群臣の前ではあまり感情を出すことの少ない頼朝だから、それが却って不気味でもある。
そんな義村の心を知る由もなく、静は二首目となる歌を舞う。
「し――づ――や――し――づ――――し――づ――の――を――だ――ま――き――く――り――か――え――し――――」
しかし、誰も鎌倉殿の目じりが小刻みに痙攣していることに気がつかない。
「む――か――し――を――い――ま――に――……」
気がつけば、静はぽろぽろと落涙していた。
表情はそのままに、なぜか大量の涙があふれ出す。
「な――す――よ――し――も――――が――――な――――…………」
泣いていたのは、静だけではなかった。
先ほどまで彼女を嘲弄していた家臣たちまでもが、感動し涙を浮かべている。
「……だまきくりかえし……昔を今に……なす由もがな……はっ、これはいかんっ!」
広元が驚いて目を見開く。
義村も突然、強い危機感を感じた。
しかし、その不安は的中したのである。
ドカッ―――――!
突然、強い音が響きわたり、その音に驚き、集結していた鳩がいっせいに空に舞い上がる。
誰もが愕然となり声を失う。
舞を彩っていた雅楽の演奏も、衝撃音と同時にぴたりと止んでいた。
一転して重苦しい静寂の中、静がゆっくりと視線を脇に向ける。
するとそこにはめちゃくちゃに砕けた床几が転がっていた。
「…………」
しかし、それに動ずることなく、彼女が徐々に視線を正殿の方に動かす。
すると、静の目に映ったのは、鬼神に擬した鎌倉殿が仁王立ちになり、まっぷたつに割れた笏を震える手に握りしめながら、それを両手で更に折り裂く暴怒の形相だった。
「おのれ無礼者ッ!」
頼朝は腕を振り上げ、四枚になった笏を勢いよく静目がけて投げつける。
まるで散弾のように木片が散り、静に襲いかかるが、彼女は除けようともしなかった。
彼女の華奢な体に二つほどぶつかり、一枚は反れ、一枚は雪のように白い頬を掠めた。うっすらと、赤い線が走る。
表情ひとつ変えず、素のまま頼朝を見る静。
割れんばかりの大声で、頼朝は怒鳴る。
「この賤婦、黙って聞いておればつけあがりおって。―――別れた男を恋い慕うならばまだよしとしても……『昔を今になす由もがな』とは……この頼朝に対する当てつけかッ!」
頼朝にとっては、静が詠った義経への純粋な恋心を誤解したようであった。
兄弟が富士川で再会したときに、頼朝が浮かべた涙。
そのときは確かに、血の分けた弟に対する愛があったのかも知れない。
だが、今やそんな思いも、頼朝にとっては汚点以外の何ものでもない。
静が詠んだ昔を今に……は、兄弟愛を捨て去った頼朝の傷をえぐり返す言葉であったのだ。
だが、静は何も言い返さない。
死を覚悟でこの檜舞台に立っている。なんて思われようが、自分はただ義経だけに愛を注ぎつづけていたかった。
「おのれ……おそれ多くも源家の守護神を祀る御前で余に対し恨み言を言うかッ!」
こんなに激昂した頼朝は見たことがないと、群臣一同、皆そう感じていた。
妻である政子も、夫の感情むき出しの怒りを受けたことはない。
平家を滅ぼし、武士の頂点の座に就いた頼朝の激怒を満身に受けながらも動じない静は、その華奢な身体に似合わず神経が図太いと思わざるを得ない。
「平三(へいざ)ッ!」
静を睨みつけたまま、頼朝は腹心・梶原平三景時の名を呼んだ。
「はっ!」
卑猥な笑いを浮かべているような顔立ちの梶原景時。
彼は頼朝が打倒平家の旗揚げ・初陣のとき、石橋山の戦いで平家の郎党・大庭景親(おおば・かげちか)に惨敗したときは景親の家臣であったが、洞窟に身を潜めていた頼朝を見つけるもわざと見逃して寝返り、以来頼朝の懐刀として、謀略を重ね、義経は元より、先には上総(かずさ=現・千葉県)の大族・上総広常(ひろつね)や、上野(こうずけ=現・群馬県)の豪族・新田義重を始めとする御家人たちを破滅・失脚に追い込んだ卑劣な男であり、他の御家人たちから『ゲジゲジ』とあだ名されているほど嫌われている。
「この者を斬り捨てよっ!」
「御意――――」
躊躇うことなく、景時は席を立ち、太刀を抜き檜舞台に向かう。
「!」
義村はたまらず席を立とうとしたが、意図を察知した父義澄に制せられた。そのときだった。
「お待ちなさいっ!」
ひときわ甲高い声を放ち、立ち上がった人物がいた。
誰であろう、頼朝の妻・北条政子である。
「殿。殿のお怒りはもっともでございます。ですが、静は殿に対し恨み言などひとつも詠ってはおりません。九郎殿を恋い慕う心、殿にはお解りにならぬのですか――――」
怒りにおののく夫を叱咤する政子夫人。まるで我が事のように彼女は頼朝の怒りを鎮めようとした。
それは静の心境が痛いほどよく解ると言えば、語弊がある。
政子にとっては、同じ女として、静が義経を恋い慕うという気持ちに、かつての自分を重ねていたのかも知れない。
政子夫人の懸命な説得に、頼朝は不本意ながらも怒りが収まりかけていた。
だが、不運は容赦なく静に襲いかかった。
「――――――――っ!」
突然、静は扇を落とし、その手で口を覆いがくりと膝を折ってしまったのである。
突然、気分が悪くなったのかと、誰もがそう思ったのだったが…。
「くっ……」
義村の脳裏に過ぎった不安と、政子夫人の不安はほぼ同時に芽生え、それは間を置かずに鎌倉殿に伝わる。
「!」
そのときの頼朝の形相は語る言葉がない。
あまりの怒りに言葉が支離滅裂で、身体中の毛髪が逆立つような鬼気が立ち、激しい痙攣に似た震えが、はっきりと判る。
ようやく聞き取れる声で、頼朝は血走った目で伏せる静を睨み付けた。
「お…おのれどこまで愚弄するかこの売奴ッ! 不浄の胤を孕んだ身で神聖な舞台を汚すとは……」
もはや頼朝の耳には、政子夫人の諫言など届かない状況だった。
悪阻を催した静の背後には、冷然と太刀の鞘に手を添えている梶原景時がいる。
「こやつを斬り――――」
その時だった。
列席の御家人の一人が、猛然と立ち上がり、鎌倉殿の面前に駆け伏した。義村である。
「何事だ大介ッ、控えおろうっ!」
北条義時の怒鳴り声もものともせず、義村は顔面を真っ赤にして大声を挙げた。
「おそれながら佐殿にもの申し上げたてまつるっ!」
突然の出来事に、さすがの頼朝も固まる。
――――平家追討の成就祝賀の場におき、女性を斬らばこれすなわち不吉の兆しとなり申す。
諸国の豪族には未だ平家のご恩受けし者多く、平泉には藤原秀衡が健在にて、虎視眈々と我ら鎌倉の隙を狙うております。
ましてや静殿は叛臣とはいえ、佐殿の御弟君であらせられる九郎殿の妻妾なれば、これを誅するは九郎殿やその郎党の激昂を買い、窮鼠猫を咬むの理、我らが危うくなることも必定。
「無礼者ッ! 貴様、理に寄せて九郎判官を庇い立ていたすか。それ以上もの申すと、貴様も斬るぞッ」
義時の冷たい怒鳴り声が響く。だが、義村は動じない。逆に、義時を睨み付けながら言い返す。
「元よりお咎め覚悟で申し上げていること。されど、この場を血で汚すはそれこそ家人諸侯の離反を招く事態になろうとは思わぬか。貴殿も佐殿に仕える身ならば、それくらいの分別も出来ようが」
「な、何を――――っ」
あからさまに嫌悪の表情を義村に向ける義時。
「それよりも何か――――佐殿の命なればたとえそなたの妻子であろうと斬れるとでも申すか」
「き――――貴様――――ッ!」
鎌倉殿の面前で火花を散らす、三浦義村と北条義時。
あわや静をさておいての刃傷沙汰にならんとしたその時、大江広元がすくと立ち上がり、二人を止めた。
「義時殿も大介殿もそこまでになされよ。佐殿の御前ぞ」
すると、二人は互いにふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
広元は二人を宥めてひとつため息をつくと、唖然としている頼朝に向かい、一礼する。
――――佐殿。お怒りはごもっともなれど、ここは三浦大介殿のご意見通りでござる。
九郎殿の胤を宿した身で舞台に上がるは許し難きことなれど、この場で誅されば畏れ多くも八幡様の御面前を血で汚すことになり、信奉厚き諸家人の心象を悪くすることになり申す。
また、静殿は京随一の白拍子としてその名を知られており、法皇は元より、関白・九条(兼実)卿も静殿に執心であると聞き及んでおり申す。
ここで静殿を討たば、上方との関係も危ぶまれかねます。
ゆえに隠忍自重こそ肝要。佐殿の度量を試されるときと心得めされよ。
さすが頼朝がわざわざ京都から招聘したほどの明法博士・大江広元の言は大きい。
「くっ――――そなたらがそこまで申すのならば――――」
翻意したのかと、誰もが安心しかけた。だが、そうではなかった。
頼朝はかっと眦を上げて群臣の末席に視線を向ける。
「安達新三郎ッ!」
大声で叫ぶと、名を呼ばれた壮年の武士が半ば慌てて御前に向かう。
「この者の身柄、その方に預けることにする。よいか、生まれてくる赤子が女児ならば命は取るまい。しかし、男児ならば海に投げ捨てぃ!」
恐々とする安達新三郎に対し、頼朝は高圧的にそう、命じた。
その瞬間、その場にいた人間たちの表情が一気に恐怖の色に変わる。
「と……殿ッ!」
あまりの命令に言葉も出ない政子夫人。
「………………」
そして静も、ただでさえつぶらな瞳をさらに目玉が飛び出そうなほど大きく開き、さも般若のような形相で頼朝を睨視する。
返事にどもり、揺らめく視線を下に落とし小刻みに震えている新三郎。
だが、頼朝は躊躇うことなく、念を押す。
「よいか新三郎――――妙な考えは起こすまいぞ。よもや九郎の子の命を救うたときは……その方のみならず、九族皆の命、ないと思え」
「は…………ははぁっ……」
ガチガチに震えながら、新三郎は地に額をこすりつけた。
「殿っ!」
諫言しようとする政子夫人を、頼朝は冷たい視線で制止する。
「これ以上もの申すと、たとえそなたであろうと容赦はせぬぞ」
さすがの政子も、それ以上は何も言えなかった。
頼朝はふんと鼻を鳴らすと袴と束帯の裾を投げ払い、正殿を降りてゆく。
義村は悔しげに瞼をきつく閉じ、唇を噛む。
広元はふうとため息をつき、小さく首を横に振ると席に着く。
静は横を通り過ぎて行く頼朝を見ようともせず、見開かれた目は頼朝が居た場所だけを一転に睨み付けている。
そして、義時はそんな静と義村を蔑むように見下ろし、不敵な嗤いを浮かべていた。
そして、その日のうちに、静は御家人・安達新三郎の屋敷に預けられ、幽閉の身となったのである。
「へえ――――ずいぶんリアル感のある夢だったのね」
「なんかさ、本当に見てきたような感じだよ。菜織(こいつ)の話よか、詳しく憶えているよね」
真奈美の話に感心する菜織。
真奈美の話に感心したように見せかけてわずかに菜織を貶す正樹。
だが、その瞬間、正樹の後頭部に菜織の平手が舞う。
「いっ――――痛てえなぁっ!」
「わあぁるかったわねッ、よっっく憶えてナクテ。どーせあたしは真奈美みたいに頭良くありませんよーだっ」
それにしてもよく息の合った漫才コンビではある。くすくすと笑う真奈美。
「そんなことないよ。さっきも言ったけど、静御前が出てきた夢だったから、印象が強かっただけ。その後も何か夢を見たような気がするんだけど、はっきりとは憶えていないの」
「ほうらごらんなさい」
なぜか勝ち誇ったように顎を突き上げてふふんと嗤う菜織。
「ちぇ。真奈美ちゃんも気なんか遣うことねえのに…」
唇を歪めて舌打ちする正樹。
「あの……」
三人のトークを微笑みながら聞いていた乃絵美が、急に真顔に戻る。
三人の視線は食器を拭きながら停止している乃絵美に移る。
「どうした、乃絵美?」
正樹が尋ねると、乃絵美はカウンターに置かれた古文書に手を添えて言った。
「偶然かも知れないけど……菜織ちゃんの見た夢と、真奈美ちゃんの見た夢――――つじつまが合うと思わない?」
「え―――――」
その時、四人の視線がそれぞれ交錯する。
そして、しばらくの間、何も言葉を発することなく、何かを考え込むように顔をしかめる。
淡々と流れるクラシックのBGM。客は来る気配がない。
「菜織が、うつぼの夢で――――真奈美ちゃんが、静御前の夢――――そんで、真奈美ちゃんの話と、菜織の話を合わせると――――」
そう呟く正樹。
そして閃いたのか、突然、ぱんと手をうちなした。驚愕する三人。
「な、何よ!」
「??」
「…………」
憮然とする菜織、きょとんとする真奈美、真顔で兄を見ている乃絵美。
三人の視線を受けながら、正樹は言った。
「これはだな、きっと菜織がうつぼの生まれ変わりで、真奈美ちゃんが静御前の生まれ変わりなんだよ。その思いが見せている夢なんだな。だから、話のつじつまの合う事もわかるわけだ」
「…………」
驚いた表情に変わる真奈美。
「はっ――――?」
かたや呆れたように瞳を半開きにして正樹を見る菜織。
「あははっ……」
さすがの乃絵美も笑いをこらえきれぬ様子。確信を込めてそう断言した正樹であったが……。
「でも真奈美、アンタだったらきっと歴史の勉強得意だから、そんな夢見てもおかしくないわよね?」
「そ、そんなことないよ。確かに、その頃のお話は教科書とか、図書館でちらっと見たことはあるけど……」
「でも真奈美ちゃん、あの時は一生懸命日本のこと覚えようとしていたから……」
「それに、どこか真奈美って、静御前に似ている雰囲気あるし。結構好きなんじゃない? 静御前のこと」
「う、うん。日本の歴史の中の女性では、静御前は好きよ」
「ほうら、だから夢見るのもわかる気がするわ」
と、菜織・真奈美・乃絵美だけで会話される。
「おいおいおい。俺の話は……」
蚊帳の外で自分を指差す正樹。
「あら? アンタいたの?」
わざとらしく、菜織が言う。
「て、てめえっ!」
「ゴメーン。だって……あまりにも"くっだらなさ"過ぎるんだもん」
「な、な、な、なんだとぅ!?」
顔を真っ赤にして震える正樹。だが菜織は呆れ口調につづける。
「はぁ――――何を言うかと思えば、あたしがうつぼの生まれ変わりで? 真奈美が静御前の生まれ変わり?」
「…………」
「だったら、アンタは誰の生まれ変わりかしらね? まさか、義経だって言うんじゃないでしょうね?」
「うっ………」
す、鋭すぎる。と、正樹は思った。
菜織は笑いもせず、ため息をつく。
「アンタね……子供じゃないんだからもう少しまともな発想できないの? 生まれ変わりだなんて……はぁ……もういいわ」
言葉に出来ないとは正しくこのこと。
菜織が真剣に自分の見た夢に悩んでいたことを茶化すような正樹の言葉。
冗談にしろ、言っていい冗談と悪い冗談がある。
「な、何もそこまで言わなくてもいいじゃねえかっ!」
だが、正樹はそんなつもりで言ったわけではなかった。純粋にそう思ったことを言ったまでなのだ。
再び険悪な様相を見せる二人。真奈美や乃絵美という仲介がなかったら痴話喧嘩が離別の要因になる喧嘩に増長してしまうところだった。
「まあまあ。二人とも……」
真奈美の宥めに落ち着く正樹。ひとつ大きく嘆息してから笑顔に戻る菜織。
「でも……そう解釈すると、菜織ちゃんの見た夢が謎になってしまうね」
乃絵美の言葉はもっともである。
真奈美が見た夢が、彼女の言うように読んだ本の印象が見せた夢だとするならば、菜織の見た夢と前後の流れが不自然なほど一致するのはおかしい。
正樹の言うように、彼女が小さかった頃に聞かされ、忘れ去られた記憶が蘇って見させた夢だとすれば、漠然として、つじつまが合うことはまずあり得ないだろう。
ましてや、物心つくかつかぬかの年に聞かされた昔話。当時それを鮮明に解釈していたとは思えない。
真奈美が話した夢は、かえって菜織の夢の原因を謎の淵に落とすことになってしまった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
今度は恐怖がもたらす沈黙が四人を包みこむ。
タイミング良く、クラシックのBGMが終わり、完全な静寂がより一層、空気を重くする。
「――――まっ、よそうぜっ」
しばらくして正樹が軽快な声を発する。
「せっかく真奈美ちゃんが帰ってきたんだ。堅苦しいことは考えねえで、真奈美ちゃんの帰国祝おうじゃんっ!」
その言葉に少しの間唖然として正樹を見ていた菜織だったが、突然、輝くような笑顔が戻る。
「そうね。そうよね。真奈美が帰ってきたんだし。変な話は忘れて盛り上がりましょうよっ。乃絵美、何か繕ってきて。四人で真奈美の帰国祝いよっ」
「は、はい」
菜織に圧されるように、乃絵美は慌てて厨房に向かって行く。
「真奈美っ、お帰りなさい。これからは正真正銘、一緒にいられるわね」
菜織が真奈美の肩を抱き寄せてうなじに頭を預ける。
「とにかく良かった、良かった。真奈美ちゃん、今度こそおかえり。これからもよろしくね」
あたたかな微笑みで真奈美を見つめる正樹。
「えっ……う、うん。ただいま……」
二人の雰囲気ががらりと変わり、真奈美は戸惑いながらも、流れに流されるように幼なじみの祝いを受けていた。