第1部 現代篇
第5章 流転の兆候

 翌日、正樹は桜美駅に菜織を引き連れていた。
 時計を見ると午前10時。心なしか彼の眉毛が八の字になっている。
 そして彼の背後に立っている菜織はさも眠そうに時々大きな欠伸をしていた。
 と言うのも、先日の真奈美の突然の嬉しい帰国に否応なく話が盛り上がり、菜織は正樹と真奈美に久しぶりにカラオケにでも行こうという話を突きつけたのだ。
 正樹は帰ってきたばかりの真奈美を即行自分たちにつき合わせるのはどうかと渋っていたのだが、菜織はいつものパターンで押し切った。
 当の真奈美は当然、快諾。喫茶店ロムレットでの仮帰国祝いはつるべ落としのように終幕したのだった。
 しかし、今回の旅行先についてもしかり、先月、真奈美と三人で三島デパートのミャンマー展に行くと言ったこともしかり。言い出しっぺの菜織が自ら約束を守ろうとしたことはまずない。
 正樹に対してあれほど口うるさくやれクラブ活動に出ろとか、やれ境内掃除を手伝えとか言うくせに、自分に対しては特に時間と約束に対してルーズな部分がある。
 正樹がフォローしていなければ、完全に菜織は人から嫌われてしまうタイプであっただろう。
 昨夜もまた、菜織は正樹の部屋に押し掛け、気を紛らわすかようにトーク攻撃を容赦なく浴びせてきた。
 ただでさえ活字てんこ盛りの頭の栄養食品をむりやり食わせられ、ダウン寸前でベットに横たわっていた正樹に安眠という薬を与えてくれるどころか、更にどうでもよいような話題のメニューを突き出してトドメを刺してくれた。
 何時頃かはわからないが、さすがの菜織も話し疲れたのか、正樹の横で夢を見る事もないくらいの爆睡に墜ち、ご先祖様の夢は幸いにも見ることはなかったようだった。
 しかし、不運は正樹にやってきた。
 朝方、菜織の足が正樹の尻を強く蹴り、彼をベットから転落させたのだ。当然、正樹は目覚めてしまうのだったが、菜織は素晴らしく寝相が悪かった。
 若手お笑い芸人『TIN』の持ち芸『命!』ではないが、真上から見た菜織はさも漢字の『力』を大きく崩したような形で、着衣も大いに乱れていた。
 正樹の衣装箪笥からくすねたぶかぶかのTシャツが、へその上あたりまでまくれ上がり、腕の裾からは肉づきのいい乳房が覗き、六十度ほど開かれたスレンダーな両脚のショートパンツの付け根からは白い下着が露わになっている。
 よく、全裸よりもこうした寝乱れ姿や、着衣のままの方が特にいやらしさを感じるとはいうが、寝起き直後の梅干しをしゃぶったような顔で、もしゃもしゃ頭をかきむしっていた正樹も、菜織のそんな姿に、眠気は最強のカフェインを服用したよりも速効で醒め、あまっさえ鼻血が吹き出てしまいそうなほど瞠目してしまっていた。
 まあ、巫女服を纏ったままの彼女と、あのひとときを過ごした正樹が今さら何を操立てているのかと思われるだろうが、これはまた違った嗜好があるというものだろう。
 それよりもそんな彼女の姿に、やはり何よりも淫靡な色気を感じ、よこしまな欲望を一瞬なりとも抱いてしまった自分に幻滅。朝っぱらから最近お得意のため息が出てしまう。
 二度寝しようにもそれを見てしまってからは叶うはずもなく、風邪を引かぬようタオルケットを菜織に被せてやると、階下に降りてコーヒーなぞを啜っていたのだった。
(まったく――――精神がもたね……)
 とは言うものの、これも皆正樹自身がまいた種であるのだから、何も言えない。
 傍目から見れば何とも羨ましい生活、シチュエーションだと思われるだろうが、これが理想と現実は180度違うものだという事を、正樹が身体と精神を張って教えてくれていた。
 朝8時。
 乃絵美の声でようやく目覚め、菜織は眠そうに笑いながら伊藤一家と朝食のパンとハムエッグを平らげる。そして、おもむろに立ち上がり、正樹の部屋に戻ろうとした彼女に、正樹の憮然とした声がかかる。
(おい菜織。十時、桜美駅だぞ。憶えてるか?)
(あ――――うんうん、ダイジョーブ、ヘーキヘーキ。チャンと憶えてるわよォ)
 全然信用性のない返事。
(二度寝すんじゃねえぞ)
(もう――――信用がないのね。着替えてくるだけよォ)
 そう言って一時間が経過。
 こめかみに十字路交差点マークを浮かべた正樹がつかつかと我が部屋のドアを開けると、案の定、菜織は蓑虫のようにタオルケットを巻き付けて寝息を立てていた――――。

「ったく、いい気なもんだぜ」
 尻目使いにあくびを立てている菜織を見てため息をつく正樹。
 かたや菜織はあくびのせいで浮かんだ涙を人差し指でふき取りながら、たははと笑っている。
「真奈美ちゃん、こねえな――――」
「電車は15分でしょ? 来るのが早過ぎただけよ」
 そう言って菜織は責めるような視線を正樹に向ける。
 さも、『もう少し眠らせておいて欲しかったなあ』と言っているようである。
「けっ。いつも遅刻するか、時間ギリギリにやって来るお前がよく言うぜまったく。たまにはこうして待つ身のことも考えやがれい」
 この言葉にはさすがの菜織も反論できないのだ。再びあくびをしてそれを返事に代える。
「おうっ、伊藤に氷川じゃんっ!」
 突然、さわやかな声が二人の耳に届く。
 正樹と菜織がその声の方に振り向くと、ひとりの若者が笑顔で二人の方に近づいてきた。
「よお、あーるじゃねえか」
「あーる君っ」
 彼は鈴木有人(すずきあると)。通称『あーる』。正樹たちのクラスメイトで、正樹と同じ陸上部に所属している。
 頭も良くて見た目さわやかと来ているから、女子たちにはめっぽう人気が高い。
 サッカー部のエースで、乃絵美が恋心を抱いていた柴崎拓也も人気があったが、女癖の悪いことでも有名で、この前正樹とは、乃絵美のことで殴り合いの喧嘩をした事もあった。
 あーるは人気の面では柴崎には及ばないが、性格はまるきり正反対。正樹とも馬が合い、よく連んでいた。
「どうしたんだお前ら。こんなトコに突っ立って」
 きょろきょろと二人を見回すあーる。
「それよりもあーる、おめえこそ何やってんの? そんな格好して、どこぞに旅にでもでるんか?」
 逆に聞き返す正樹。
 確かに、彼は大きなリュックサックを背負い、何かがぎっしり詰まったスポーツバックを手に提げている。
「まあな。これからちょっくら、京都旅行」
「はぁ? きょ、京都ォ!?」
 正樹は素っ頓狂な声をあげて驚いた。
 どう見ても湘南ボーイ(死語)のあーるの口から出る地名ではない。
 物々しい格好しているからどこかに旅行すると言うことは言わずとも見当がつくが、瞬時の予想では沖縄か、グアム・ハワイ辺りだろう。
 そんな彼が京都とは。どう見ても、どう考えても、この爽やか野郎に、京都情緒は似合わない。
「そんなに驚くことはねえだろ」
 ややムッとする表情をするあーる。
「だだだ、だってよ――――」
「おいおい、俺が京都見ちゃ何か不都合なことでもあんのかい?」
「そ、そんなことはねえけどさ―――――ああ、ところで、お前ひとりで行くのかよ」
 その言葉にやや照れくさそうにはにかむあーる。
 すると菜織がにやにやしながら正樹の前に歩み出る。
「そんなわけないでしょ? ほうら……」
 と、菜織が顎を突き出して指す方向に目を向けると、あーるを待っているかのように、ショートカットの少女がそっぽを向いてもじもじとしている。
 頭を突き出し目を細めて少女を見る正樹。
 やがて愕然と憤懣の織り交ぜたような顔つきであーるを見る。
「おいあーる。あの子、『友村理美(りみ)』じゃねえの?」
 図星と言わんばかりにあーるは白い歯を覗かせて微笑み、握り拳に親指を立てて正樹に突き出す。
「えっ、ホントに?」
「ま、まじかよぉ~~~………」
 驚きの表情をする菜織。
 かたや情けなく落胆の顔つきになる正樹。
 それは『エルシアのヒロスエ』と称されるほど、学園一の美少女、友村理美。正樹たちと同じ二年。
 無論、全校男子生徒の憧れの的であり、何を隠そう正樹自身も浮気心とまでは言わないが、彼女に執心した時期があった。
 かの柴崎でさえも一目置いていたと言われる友村理美が、ゆうにことかいてあーるとそういう関係になっていたとは、嫉妬ではないが、妙に腹が立つ。
「てめぇ~~いつからだっ」
 口許を歪ませた正樹があーるに食ってかかるが、あーるは顔の綻びをこらえて言う。
「そ、そりゃあアータ、ずっと前からだよ」
 どうやら、あーると彼女は、小学三年の頃からの幼なじみであったらしい。
 つきあい始めたのは中学三年の頃であったそうだが、学園内では微塵もそんな素振りを見せなかった。
 二人が恋人であったと知らなかった正樹を含め、執心した男子たちはいい木偶である。
「どうしたのォ正樹くぅん? 死にそうな色しちゃって」
 真っ青になっている正樹の顔をのぞき込んだ菜織がにやりとしながら揶揄する。
 半ば上体を崩しかけていた正樹が両手をあーるの肩に置き、その爽やかすぎる顔を恨めしげに見上げた。
「あーる。親友として、一生の頼みがある」
「ん?」
「京都行ったら……真っ先に清水の舞台から飛び降りてくれ」
「は―――――」
 唖然とするあーる。正樹の口調はどうやら本気が入っているようだった。その言葉を聞いた菜織、呆れたようにため息をつく。
「ちょっと正樹、バカなこと言ってないで。邪魔しちゃ悪いわよ」
 そう言って正樹の袖を引っ張る。
 だが正樹は子供のようにだだをこねる感じでつづける。
「あーるっ! そうじゃなかったら三条河原で――――」
「ハイハイ。ごめんねー……あーるクン?」
 菜織の手のひらが正樹の口を押さえつける。そして、もがく正樹を強引にあーるから引き離す。
 そんな様子の二人にあーるは屈託のない笑いを送る。
「さすがに飛び降りもハラキリもしねえけど、土産くらいは買ってきてやるぜ? 楽しみにしてろよ」
「ありがとー。楽しい旅になればいいわね」
(むご~~もが~~!!)
 じたばたともがく正樹を抑えつけながら菜織は苦笑している。
「サンキュ、氷川。……ところでお前ら、相変わらず仲がいいな。つきあい始めてからますます夫婦漫才に箔がかかったって言うのか」
「ちょ……その『夫婦漫才』ってのはやめてもらいたいわネ」
 顔を赤くしてはにかむ菜織。だが、正樹を押さえつける手はゆるめない、さすがである。
 そんな様子の二人に、あーるはにやりと笑った。
「そうか、これから二人でデートかい? はははは、喧嘩するなよ」
「違うのよォ――――実はね……」
 と、菜織は正樹を抑えつけたまま簡潔に経緯を話す。
「へえ、鳴瀬帰ってきたんだ。そりゃ良かったじゃん。そんじゃこれからは本当に正真正銘、三人一緒って訳だ」
 と、あーるはもがいている正樹をちらりと見て苦笑する。
「鳴瀬が帰ってきたとなれば、氷川もいくらか負担は軽くなるな」
「そーだといいんだけどね。……もうっ、マサキッッ、いつまでじたばたしてんのっ、お・ち・つ・き・なさいっ!」
(むむむ~~もご~~~)
 当分ダメなようである。
「あははは。そんじゃ、俺そろそろ行くわ」
「うん。ゴメンね――――引き留めちゃって」
「いやいや…。じゃあな伊藤。あんま氷川に苦労かけさせんなよ」
 正樹の腕をぽんと叩くと、あーるは背を向けて恋人の方に小走りに向かっていった。そして二人は寄り添うように駅舎の中へと消えていった。
 あーるたちの姿が見えなくなったのを確認してから、菜織はようやく正樹を解放する。
「ぶはぁ……げほぉ……はぁはぁはぁ……お、おい菜織ッ、てめえ、俺を殺す気かッ!」
 息を切らしながら正樹は怒鳴る。
「アンタが子供みたいにわめき散らすからでしょ~」
 人差し指を正樹の鼻がしらに当てながら語尾を伸ばす菜織。
「だ、だからと言って鼻と口抑えつけるかよッ! 窒息しちまうじゃねえかっ!」
 そう、正樹のもがき声の九割五分は苦しさの訴えだったようである。
 菜織はちょっとやり過ぎかなと思い、いたずらっぽく舌を覗かせて謝った。
「しかしなぁ、『夏はさわやか海男』って感じのあいつが夏休みの旅行に京都たぁ、意外だぜ」
 首を傾げる正樹。
「人は見かけによらないものよね。あたしだけじゃないって事が、判った?」
 にやりとする菜織に正樹はふっと鼻を鳴らす。
「お前の場合はれっきとした原因があるだろ」
 そう、昨日真奈美が見た夢の話で、菜織が見た夢の話がかえって謎のベールに包まれていった。強引に話は逸らしたが、やはり気になることには違いがない。
「うん……そうよね……」
 不安がぶり返す。菜織の表情にやや翳りが見えはじめ、正樹は焦った。
「そ、そんなことよりそろそろ真奈美ちゃん来るぜ」
 正樹は苦笑を浮かべながら菜織の肩をぽんと叩く。
 もとの立ち位置に戻って間もなく、人混みの彼方から真奈美が息を切らしながら駆けてきて、二人の姿を確認すると右腕を大きく振り上げながらやって来た。

「こい~~しくぅてぇえぇぃえいぇぃえぃ~恋ィ~~しぃくぅてぇいうぇいぇい~~♪」
 決してエコーではない。
 伴奏などそっちのけで音程外しまくりの歌を自己陶酔で歌いまくる。これが菜織流のカラオケなのだ。
 その上、どういうイカサマを弄しているのか、採点機能付きのマシンで歌えば(とは言うものの、菜織は採点機能以外のルームを選ばないのだが)、高得点を出す。
 少なくても菜織よりは音痴ではないと自信を持つ正樹でさえも、対決すると得点で負けてしまう。
 今のところ258戦中、20勝238敗。この20勝も、菜織が途中で曲を止めたか、本当に調子が悪いとき(風邪で熱があるのにもかかわらず、カラオケに行き、マイクを離さないという強者なのだ)に得た勝利なので、正々堂々と勝ち得た勝利ではない。
 つまり、実質的に正樹は全敗している。
 一旦帰国した真奈美と三人で行ったときも、思わず真奈美をそっちのけで彼女にいいところを見せようと敵ボスに挑んだが、ことごとく惨敗してしまった。
 今回はそのリベンジのつもりなのだったが……。
「うまーいっ! 菜織ちゃんって、ヘビメタも上手いのね」
 と本気で感心する真奈美。
「いや……これはラブ・バラードの筈なんだけど……」
 苦々しい表情で片耳を塞いでいる正樹が本来の曲を解説する。
 菜織の歌はポップスを演歌に変え、バラードをアニメタルに変えてしまうので、まだ日本に疎い真奈美に対し間違った知識を植え付けかねない。ゆえに補足しておく。
「う~ん、我ながらいい感じに決まったわねっ」
 ソフトドリンクを美味そうに呷った菜織が勝ち誇ったように正樹を一瞥。
「どこがじゃ。てめえ、あいっっ変わらずむちゃくちゃな歌いおってからに。真奈美ちゃんが間違って憶えたらどう責任をとるんじゃいっ!」
 正樹の言葉にも菜織は怯むどころかますます得意げになる。
「ふふん……そう言うことはあたしの高得点見てから言って欲しいわぁ」
 と、モニター画面にスロット形態で数字が表示される。ちなみに今日は1000点満点のマシンである。そして…。
「なぬっ! ……は、886点っ!?」
 呆けた顔つきの正樹に対し、菜織の高笑いが延々と響く。いつもこんな感じである。どんなに正樹がうまくいっても、菜織に対し1点差で負けてしまう。
「お、おのれ…機械の分際でおべっかを使うか……」
 そんなことはないだろう。
「ふふん。実力よ、実力。アンタもあいっっ変わらず往生際が悪いわね。素直に負けを認めなさい」
 女王様気取りに腕組みをして正樹を見下ろす菜織。
 かたやこの下僕はムキになって顔を真っ赤にモニターをにらみつけている。
 純粋に菜織の出した高得点に拍手喝采を送っている真奈美。それがかえって正樹にとっては辛い。
「く、くそっ! こうなったら得点なんぞ関係ねえ。無心で歌ってやる」
 伴奏が始まる。ゆったりとしたピアノソロ。
「ふぅぅん? アンタもバラードで対抗するつもりなんだ?」
「おめえのはバラードの欠片も残ってなかったじゃねえかっ。いいか、俺がバラードの真髄ってもんを教えたるから耳かっぽじいてよく聴いておけっ!」
 静かな伴奏に正樹の怒鳴り声。
「ほらほら正樹君、始まるよ?」
 と、真奈美の宥めにようやっと落ち着き、襟を正してマイクを握り直す。
「♪ゆうひが……ま――ち――を――そめてゆくと――きに――――なき――ながら―――あるいて―――いた―――♪」
 いきなりの高い声域の出だしにも正樹の歌声はよくついていった。
 初めはにやにやしながら正樹を見ていた菜織も、無口になって聴き入ってゆく。
「♪い――つ――ま――で――も――そ――ばに――き――み――が――い――るだけで――ぼくは――つよくなれそう―――な気がした――♪」
 左手にマイクを持ち、右手を胸に当てながら歌っている正樹を愛おしげに見つめているのは、何だかんだ言っても彼を愛しているからなのだろう。
 また、その曲も自分と正樹のこれまでの経緯を如実に表現しているようであり、正樹の歌声が続くたびに、胸が熱くなるのを感じる。
 やがて間奏。
 真奈美の盛大な拍手に乗せて、菜織もゆっくりと感情を込めた拍手を送る。
「うま――――いっ! 正樹君、本当にうまいよ」
 真奈美の賞賛の声に、正樹ははにかみながら右腕を突き出してブイサインをする。
「ま、まあまあってとこね」
 などと言う菜織は、照れくさそうに顔を赤くしている。
「♪ぼ――くは――いままで――き――づかなかった――きみのめに――う――つ――る――あ――い――に――♪」
 第二パートが始まると、正樹は更に感情を込めているのかなりきり歌手のように身振り素振りが顕著になってゆく。
「ねえ、真奈美?」
 ふと、菜織が真奈美に声をかける。正樹を見ていた視線を菜織に向ける真奈美。
「なに? 菜織ちゃん」
「ん……」
 一瞬、菜織は瞳を逸らす。だがすぐに向き直り、わずかに微笑みを浮かべる。
「♪あいうぃじゅう――――ぼ――く――の――こ――い――が――♪」
 正樹の歌声が響いてゆく。
「アイツの……ことなんだけど……」
「え、正樹君?」
 驚いたように、真奈美は一瞬正樹を見る。
 彼はモニターを見ず、瞳を閉じて歌っている。歌詞も見ずに歌えるとはよほど練習していたことがわかる。
 まあ、モニターを見ながらただ単に歌うことで好きな人に伝わるラブソングはないだろうが。
「真奈美は……ミャンマーに帰るとき、ああ言ってくれたけど……」

(何があっても、私たちは幼なじみだよ――――)

「でも―――本当は――――」
 それは、菜織自身ずっと心に引っかかっていたことであった。
 正樹との何気ない会話の中でも、『真奈美』という名前が出てくると無意識に胸に小針が刺さったような痛みを感じる。
 杞憂に過ぎなかったが、正樹が真奈美のことを考えているとき、真奈美の身の上を案じるときは、やはり彼女のことが好きなんだと思いこみ、塞ぎがちになることしばしばだった。
 勿論、好きという意味は、いち女性としてではなく、幼なじみとしての好きということだが、真奈美は無論、正樹自身も六年、いや、それ以上に想い合って来たのである。
 自分とは『幼なじみ』という一線を越えてからまだ二ヶ月足らず。しかも、真奈美に再会してから目覚めた愛なのだ。
 そう、彼女が帰ってこなければ、今正樹とこうしていたとは考えられない。
 きっと、彼はいつか別の恋人を見つけ、そして自分も自分の心に正対することのないまま、別の恋人を見つけていたかも知れないのだ。
 言いかえれば、真奈美が帰ってきてくれたおかげで結ばれた二人。
 六年以上も積み重ねてきた、真奈美の思いを利用して結ばれた二人――――。
 良心は人としてなくてはならない感情だ。
 良心に麻痺したとき、人は血も涙もない人間になる。
 しかし、良心というものは時として人を苦悩の深淵に突き落とす厄介なものだ。
(正樹は本当にあたしでよかったの?)
(あたしがいなければ――――きっと……)
 そんなことを言えば、正樹は烈火の如く怒るだろう。それに、真奈美自身も怒るだろう。自分でもわかっている。
 だが、菜織自身の優しさと良心が菜織自身を呵責の渦にのみ、卑屈にさせるときがある。
 時々正樹に投げかける不安。
 一人でいるときは、それが何倍にも膨れ上がることしばしばだ。真奈美が不在の分、それは尚更であった。
「菜織ちゃん――――」
 真奈美が穏やかな微笑みを浮かべながら口を開く。
「ごめんね――――」
「えっ――――っ」
 菜織は愕然となった。なぜ、真奈美は謝るのだろうか。
「本当……あの日。やっぱり、正直に話した方が良かったと、思っていたの」
 菜織は哀しげに言う真奈美の表情をじっと見る。
「本当はね……少し…ううん、すごくショックだった」
「…………」
 無言の菜織。真奈美はつづける。
「うすうすはわかっていたけど……でも……」
 何よりも正樹の変化を見抜いていたのは、真奈美自身だった。
 それは、三人が六年ぶりの邂逅を果たしたときから、そう感じていた。
 正樹は六年前と同じ優しさを真奈美に向けてくれていた。
 振り返れば幼少の頃、真奈美は両親の都合で叔母夫婦の家で世話になっていた。
 ある日、彼女は都会の雑踏の中、捨てられた仔猫を憐れみ胸に抱き、自ら仔猫を飼えない事情から、必死に飼ってくれる人を求め、往来に声をかけつづけていた。
 だが、物や情報が有り余りすぎ、ただ仕事に追われるばかりのつまらない現実や、日々のせせこましい煩雑の連続に、本来の優しい心を失ってしまった大人たちは、彼女の純粋な叫びを気にとめることなく、無表情に通り過ぎていった。
 そんな灰色の街の片隅で、幼い少女は哀れな仔猫を胸に抱きながら、ただひたすら、純粋に、叶いもしない願いを、心なき往来に投げかけていたのだった。
 そこへ、声をかけてきた、一人の少年がいた。正樹だった。
 正樹は事情を聞き、同情した。
 そして、自分も叔母夫婦を説得するから諦めるなと言う言葉に胸を貫かれた気持ちになった。
 同い年ほどの少年とはいえ、今の時代に困っている人に対し、ここまでしてくれる人がいるのだろうか。
 憤懣露わな叔母夫婦の厳しい言葉にも怯まず、ただ少女の願いを聞き入れて欲しいと説得する彼に、真奈美は自然に、そして何よりも早く、そして強く彼に惹かれていった。
 生まれて初めての初恋。それは決して淡い想いではなかった。
 そして……その日から二人は親密になった。
 時にいじめっ子からからかわれていた真奈美を、正樹は払いのけた。
 息を詰まらせて嗚咽する彼女に、正樹は優しく髪を撫で、慰めと励ましの言葉を語った。
 はた目から見るとドジで意気地なしの彼女を、正樹はいつも庇い、支えつづけた。
 そして、正樹はこの手折れそうな可憐な少女を守りつづけたい――――自分が守りつづけなければならないと思い、真奈美もまた、正樹という存在が自分にとって何よりもかけがえのない人になっていった。
 この頃は純粋な、子供らしい想いであったのかも知れない。
 その想いが六年という長い、長い歳月を経ても変わらないままでいる。
 いや、薄れるどころか、ますます思いが募ってゆくことなど、この時は二人とも知る由がなかった。
「わたしも……悪かったから……仕方がない……」
 正樹と共に刻むはずだった明るい未来。
 しかし、現実という名の渦流は、容赦なく二人の想いすら冷酷に呑み込んでしまった。

 ――――海外への移住――――

 真奈美は反発するように家を飛び出し、十徳神社の朽社に身を潜めた。
 このまま自分がいなくなれば、親たちも諦めるかも知れない――――。
 ささやかな抵抗に過ぎなかった。
 だが、それが真奈美に出来る、ただひとつの想いの現れだった。
 だが、ふとしたことがきっかけで、彼女は閉じこめられてしまった。
 その瞬間、彼女は破裂してしまいそうな孤独と絶望感に押しつぶされそうになった。
 狭く幽暗とした空間。
 それはただ単に閉じこめられたというだけの恐怖心だけではなかった。
 慣れ親しんだ地を離れ、見知らぬ土地へ旅立たなければならない不安と孤独。
 そして何よりも、正樹と離れてしまうことに対する辛さが、幼い少女に悲慟をもたらしていた。
 無意識のうちに正樹の名を叫んでいた。
 そして、それに応えるかのように、彼女を真っ先に発見したのは、正樹であった。
 いつも自分を支え、励まし、慰めてくれた正樹は、さながら十徳の祭神に導かれるかのように、彼女の元へと駆けつけてきてくれた。
 だが、それから間もなく真奈美は去っていったのだ。
 正樹に対する想いを、彼自身に口で伝える島もなく、彼女は成田行きの電車に消えていった。
 正樹が走り出す列車に追いつこうと、プラットホームを駆けた日。
 正樹にとって、多分一生忘れられることの出来ないあの日。
 空は雲ひとつなく晴れていた。
 そして、すべてのものを、碧に輝かせるような、哀しくも美しい日であった。
「伝えられなかったから――――正樹君のこと――――悲しませちゃったから――――仕方がないの――――」
(!―――――――)
 その時、菜織の目の前に一瞬、閃光が走った。まるでストロボのようなパシッという音と共に、彼女の目の前にある光景が瞬間的に過ぎった。

(わたし――――下りたくない――――しゃなおうさまのそばにいたい――――)
(わがままを言うでないぞ――――そなたは、のとのかみさまのお目に止まったのじゃ――――ゆえに、是が非でもゆかねばらなぬのじゃ)
(いやっ――――ぜったいにいや――――)
(あ――――しずか――――!)
(しゃなおうさまぁ――――)

「……どうしたの? 菜織ちゃん……」
「えっ……? あ、ううん。何でもない、ゴメン」
 電流が走ったように身体をびくつかせた菜織に驚く真奈美。だが、菜織は微笑みながら真奈美の心配を払う。
「ん―――――」
 ひとつ、小さなため息をつく真奈美。
「……だから――――正樹君と菜織ちゃんが――――」
 真奈美は内罰的な性格だ。何があっても、決して他人を責めるようなことはしない。
 だから、正樹と菜織の関係も自分のせいだと思いこんでいたのだ。
 追いかけた。追いかけて、追いかけて、追いつけなかった、背中。
 そんなあの日の碧色の景色が、セピア色に移ろう。
 正樹は走り出した。
 何も告げずに遠い彼方へと去っていった、一人の少女の面影を目指すように。
 そして、そんな彼の側には、菜織がいた。
「…………」
「…………」
 ふと瞳を伏せる二人の美少女。正樹の歌がつづく。
「♪ゆうひの――で――じゃぶ――の――け――しきの――な――か――で――ぼ――くを――なぐさ――めてくれた――♪」
 正樹は真奈美に憧れていた。
 そして、菜織はそんな彼を支えてあげることに自分の喜びを感じていた。
 そう、最初はただ、それだけだったのかも知れない。
 幼なじみという型枠の中で、真奈美が去っていった後、正樹と菜織はそれで良かった。
(わたし――――正樹君が好き――――)
 そうあの時、真奈美が正樹に告げていたら、どうだったのだろう。
 歴史にイフがないように、過去にもイフはない。だが、少なくとも、何かが違っていたことは確信できる。
 せせこましい日本を離れ、ミャンマーに移った真奈美。
 ビルマからミャンマーに国号を変えてから九年経ったその地は、穏やかで、人々は誰もが心優しく、笑顔に満ちあふれていた。
 純粋な真奈美にとって、その地は心安らぐものであった。
 それは、彼女が正樹に抱いた想いが薄れることなく、光り輝きつづけられる、聖地に見えた。
 あれほど日本を離れたくないと慟哭した頃が嘘のようだった。
 ゆっくりと流れる時間。
 時には正樹を想い涙し、いつかまた再会(あ)えるその日を夢見、時と共に正樹への恋心を培っていった。
 しかし、真奈美の想いは甘い理想に過ぎなかったのだった。
 六年が過ぎ、真奈美は弟健一と共に日本へ帰郷する機会を得た。
 懐かしさと甘く切ない想い出あふれる日本。
 だが、真奈美の過ごした六年間と、正樹と菜織が過ごした六年間の隔たりはあまりにも大きすぎていたのだ。
 二人に再会を果たした真奈美が見た現実。
 どんなに言い繕っても、六年前のような関係に振る舞っても、隠せない、正樹と菜織の関係。
 二人は無意識なりとも、お互いを必要としていた。
 時に怒り、時に茶化し、時に喧嘩腰に対する菜織。
 それを煙たく感じ、あしらい、嫌そうな顔で従う正樹。
 真奈美の目に映った幼なじみたちは、もはや六年前の少年達ではなかった。
 真奈美が思っていた、『たった六年間』は、彼等にとっては『長い長い六年間』であったのかも知れない。
 不変の想いを信じ続けてきた正樹自身の心も、何かが動いた。地球上の海岸線が、一年に数センチ、確実に動いているように、目立たずとも多分、何かが動いていたのだ。
「正直言うと……わたし……」
 真奈美が間を置いて話す言葉。言わずともわかっている。
 正樹に対する想いは、彼女自身、何一つ変わっていなかった。たとえ告げられずとも、それが正樹に対する愛と知り得たとき、真奈美は真奈美らしくいられるのだ。
 そう……
(私は――――正樹君を愛しているの――――)
 六年以上も想い合いつづけてきた一人の男性。そうそう諦められようはずがない。
 菜織は不思議と戸惑いを感じなかった。むしろ、安堵感の方が、心を優しく包み込んでゆく感覚だった。
 それが当然の感情だと思う。菜織の心に引っかかっていた、真奈美への罪悪感が、露のように消えてゆく清々しさが、わき上がる。
(何があっても……私たちは幼なじみだよ………)
 真奈美が発した言葉の意味は深い。
 この一ヶ月足らず、菜織が深慮したこの言葉の意味を、ようやく理解した。
「ふふっ――――それじゃ、私たち、ライバルね――――」
 微笑みを見せた菜織がそう、告げる。
 真奈美は一瞬、驚いたような表情を見せたが、菜織の言葉を理解し、彼女も微笑んだ。そして、言った。
「わたし……いやな女になるかも知れない……」
 真奈美らしからぬ発言に、菜織は一瞬、どきっとした。だが、真奈美は微笑んでいた。
 幼なじみからライバルへ――――。
 そして、幼なじみから佳き親友へ――――。
 一人の男性を恋い慕う二人の少女が暗黙に認め合った想い。
 この時は菜織も真奈美も、それで良かった。
 六年間、互いの心に刺さっていた棘が取れ、わだかまりが消えたという思いに、雲間から太陽が覗く心境にあったのだ。
 しかし、後にこの美しき三人の絆が想像を絶する痛苦の軋みを生じることなど、知る由もなかった。

「♪こ――れ――か――ら――も――ずうっっっっと――ウォウウォオオオオ――――あ――い――してい――る―――――♪」
 まるでハードロック歌手のように、うずくまりながらラストパートを力の限り声を張り上げ歌い終えた正樹。
 楽曲を通じて彼の想いが電流となり、菜織の全身を奔りぬけた。
 伴奏がフェードアウトすると、割れんばかりの拍手喝采……ではないが、真奈美から力強い歓声と拍手が舞い上がる。
 菜織は魅入られるように、おもむろに立ち上がる恋人を見つめ、額にうっすらと浮かび、顎へ伝わり落ちる汗の玉を追っていた。
「すご~いっ! 正樹君、最高だったよ。今までで一番上手かった」
 真奈美の誉め言葉にわずかに顔を赤くして照れる正樹。
 そして、ちらりとぼう然とした顔つきの菜織に視線を送ると、自慢げに言った。
「おい菜織ッ、これがバラードの真髄ってもんだ。わかったかっ!」
「えっ――――?」
 正樹の声に呼び覚まされたかのように菜織はきょとんとする。呆れる正樹。
「えっ―――って、おめえまさか聴いていなかったって、ゆーんじゃねえだろうな?」
「えっ……あはは、そんなぁ。チャンと聴いてたわよォ。ウンウン、アンタにしてはなかなか上手かったんじゃない?」
 いつもの調子で惚けてみせる。チッと舌打ちする正樹。
「まァ、いいや。点数見てあわてんなよ菜織ィ」
「あれぇ? 得点なんて関係ないっ、無心で歌ってやるって、息巻いていたの誰だったかしら?」
「ふっ……それは歌う前の話よ。今度こそぜってえ、勝ってやるぜ」
「ふ―――――――ん?」
 下がり目で正樹を見る菜織。口の端にひきつり嗤いを浮かべている正樹。結審の時は近い。
「あっ、採点が始まるよ?」
 真奈美の声がかかると、正樹はさっと身構えてモニターに神経を集中させる。
 一方、菜織は半ば無関心げに視線だけをモニターに向ける。
 下一桁から数字が点灯する。
 ――――9
「おっ!」
 眉毛が上がる正樹。
 ――――9
「おおっ!」
 唇がOの字に開く正樹。そして、長い間の後に、三けた目が点灯する。
 7か、8か、さてまた事実上最高の9か。
 この一瞬の緊迫感がたまらないものだ。
 ――――8
「うおっ!  うおおおおおぉぉぉぉぉ!!」
 『899点』。
 その瞬間、正樹は諸手を挙げて跳び上がる。
 天井に腕をぶつけてしまうかと思うほど、正樹は全身で喜びを感じた瞬間だった。
(勝った――――娑婆に生を受けて十七余年……今日この日、この刹那ほど無上の喜びを感じたことはない……。正義は必ず勝つことを証明したのだ……)
 などと一人感動に耽っていた正樹だったが……。
「あっ……」
 真奈美の声が正樹の瞼を再び開かせる。そしてモニターには……
【と、したいところですが、やっぱりこうです】
 とか言う文字が映った直後、ジャンと言う効果音と共に、再び三けたの数字が映った。
「ご――――ごひゃく……ろくじゅっ……てん……?」
 斬り死に寸前の人間のような声とともに、正樹の周囲を包み込んでいたバラの花園が、一瞬にして廃墟の景色に変わる。
 しかもご親切に『チャラリーチャラリラリーラー』という音楽まで流れる。
「…………」
 床に崩れ落ちた敗者。
 苦笑しながら正樹の側に寄る真奈美。
「まあ――――得点はともかくとして……ホントに上手かったよ正樹君。ね? 菜織ちゃん?」
「ま、まあね。ホント、点数抜きで見れば、良かったわよ、アンタの歌」
 そうフォローする菜織が、なぜか立ち上がり、正樹の背後に歩み寄る。
「くっくっくっくっく…」
 しかし、正樹は肩を震わせて痙笑している。
 そして、案の定、彼はキれた。
「うぉ――――うぉのれぃ! き、機械の分際でフェイントかけて更にぬか喜びまでさせるたァ、いい度胸だァ! てめえ、表に出ろいっ! この落とし前、キッチリつけさせてやるっ!」
 マイクを放り投げて大型モニターに襲いかかろうとする正樹を抱きすくめる菜織。宙に舞ったマイクは真奈美がナイスキャッチ。
「∞※〒◎%§♯±仝@★Μφ!!」
 訳わからないことをわめき散らす正樹。
「もう、正樹ッ、い~加減にしなさいッ。機械に喧嘩売っても仕方ないでしょッ」
 四肢を雁字搦めにされた正樹。さすがに動けない。
「真奈美ィ――――アンタもコイツ押さえて。しばらくしないと収まらないから――――」
「あっ。は、はい」
 カラオケマシンに罵声を浴びせつづける正樹の正面に苦笑した真奈美が立つ。
 そして、二人の美少女に前後からサンドウィッチされた正樹が強引にソファに座らされ、両者の宥めを受ける。
 本当にこの男はこういうところが子供のままである。
 当然、後の時間は無駄になってしまった。

 夕方――――

 真奈美と別れた菜織と正樹は、肩を並べながら家へと向かっていた。
 カラオケルームを出た後から、正樹はしゅんとしている。当然だろう。
 それとは正反対に、菜織はスキップ調の足取りで時折正樹の正面に回り彼の落ち込んだ表情を見る。
「ホントに――――アンタって小さな事ですぐにムキになるんだから」
「だ、だってよぉ――――どう考えても、ありゃねえだろ」
「もう……そんなに点数のことが悔しいの?」
「え――――そ、そりゃあ……まあな……」
「あたしや真奈美が『上手い』って誉めたことよりも、機械が出した点数の方が気になっちゃうってわけ?」
「はぁ……」
 ため息をつく正樹。
 菜織もまたひとつ息をついてから口を開く。
「ねえ正樹。あたしが今まで本気でアンタと点数勝負していると思ってた?」
「あぁ? ……そうじゃないのかよ。いつも俺に勝つと、まるで天下取ったように大はしゃぎするじゃねえか」
「そう言うトコ、素直なのよねアンタって」
 小さく笑う菜織。
「それって、言いかえれば俺はバカって事か?」
「ほらほら、そう言って自分を卑下しないっ。他意はないわ。本当に、素直だなぁって、思っているだけ」
「はぁ……それで? 本気じゃなかったら、他にどんな理由があるんだよ。」
「理由なんてないわよ」
「へっ?」
 菜織の横顔を見る正樹。彼女は真顔で正面を見ている。
「理由なんてないわ。ただ…、アンタの歌声を聴いていたいだけ」
「…………」
 夕陽に照らされ、菜織の瞳が金色に輝く。
「点数なんて、ただのお楽しみにしか過ぎない。あたしは初めからずうっと、正樹の歌を楽しみにしていたのよ?」
 そう言って彼女も振り向き、正樹を見つめる。微笑んでいた。
 夕陽に映える彼女の顔の光と影のコントラストが、どこか哀愁を感じさせ、菜織の美しさをより一層引き立てる。
 思わず顔が赤くなる正樹。夕方で良かった。
「それって――――菜織……」
「あたしにとって、正樹の歌はずうっっと、百点満点なのよ……」
 その言葉に、正樹は一瞬、胸が何かに貫かれたような感覚になった。
「どんなヒット曲よりも……正樹が歌ってくれる歌が……私にとって最高のヒット曲なんだぁ――――」
 やや照れくさそうに、菜織は言った。
 ぴたりと立ち止まる正樹。菜織もまた、彼につられるようにぴたりと立ち止まる。
 黄昏時の住宅街。人通りのない道。暗くなってゆく赤い光が、夜の世界へ変わってゆく景色と共に、二人を名残惜しそうに照らす。お互いの姿すら夕闇に溶けてゆく。
 そんな中で、正樹の瞳は、まっすぐに菜織の瞳を捉える。
 彼女もまた、彼の瞳だけを捉える。
「最高だよ――――正樹――――」
「…………」
 道の真中で、正樹はゆっくりと菜織の背中に腕を回す。
 菜織は抵抗せず、正樹に身体を預け、自らもその細い腕を彼の広い背中に回す。
 そして、二人の影がひとつになる。不思議なほど静寂が包む。二人の為だけの演出を作り出す、
 変わらぬ街の風景……。周囲が完全に闇に溶けこむまで、それは離れることは、なかった。
「でも……あの機械、バカね」
「え――――何で?」
「いくら何でも、五六〇点はひどいわよ……」
「ははっ……ワリィ菜織。実はあれ、替え歌だったんだ」
「え――――替え歌って?」
「うん……菜織への気持ちを替え歌にして、歌ったんだ。だから……点数なんて関係ないって、言ったんだけど……。」
「そうなのっ? 正樹のことしか見ていなかったから、全然気がつかなかった――――」
「俺の気持ちは、機械の奴にはわからんかったってわけだな――――ははっ……」
「もうっ――――そんな…………でも………ありがとう…………。うれしいよ、正樹……」
「なお………」
 再び正樹の唇を柔らかい感触が塞ぐ。

 ――――ぴしっ――――

(くろうさま――――わたし――――)
(うつぼ―――わたしには――――)
(わかっております――――でも――――わたしは―――わたしは――――)
(うつぼ――――――――――――)

 ………………………………。