(ふわあぁぁぁ―――――ぃっと!)
大きく欠伸をした正樹がぐいと腕を突き上げてむくりと上体を起こす。
(うぃっ!?)
一瞬、全身に震えが走る。
恐怖ではない。寒かったのだ。
いかに盛夏であろうと、いかに陸上で鍛え上げられた肉体であろうと、着衣がなくシーツ一枚だけだと寒い。
(…………)
ふと横に視線を落とすと、幸せそうな寝息を立てて、左腕を正樹に預けている菜織がいた。
(こいつ……)
照れくさそうにはにかむ正樹。
今日は寝相は悪くねえな・・・などとは思わなかった。
汚れを知らぬ無邪気で、純粋な子供のような寝顔を見つめながら、彼は心底菜織が可愛いと感じている。
そして、頬にかかっている髪をそっとかき分けて、正樹は唇を寄せた。そっとキスをしてから起きあがろうとしたのだったが・・・。
菜織の顔を見た途端、正樹は驚いてしまった。彼女の吸い込まれそうな瞳が、じっと正樹を捉えていたのだ。
(お、起きてたんかっ)
顔を真っ赤にする正樹。
菜織は二度ほど瞼をぱちぱちとしてから正樹に微笑みを向ける。
(あっ・・・いや・・・その・・・あ・・・・・・お、おはよう・・・)
しどろもどろになる正樹。
照れと寝込みを襲ったという罪悪感が通り抜ける。
久しぶりにお互いを強く感じ合えた昨夜の余韻さえも、恋人の視線が羅刹女の芭蕉扇となって吹き飛ばされる。
その菜織は、やや切なげに息をもらすと、やや渇いた感じの唇を開く。
(ねえ正樹――――――………)
(えっ?)
寝起き直後のかすれ声は聞き取れなかった。この状況で聞き返すのは恥ずかしい。
(もういちど………して?)
(お、おいっ)
間を置かず、菜織の腕が正樹の首に巻き付き、ぐいと引き寄せる。
そして、なすがままに正樹は恋人の上に沈んだ。
と、まあそんな八月二日――――。
東北・平泉への旅行出発の前日になった。
あれ以来、不思議と夢を見ることのなくなった菜織だったが、なぜか午前中まで正樹の家に居たのだった。
(夢見ないなら安心だろ。そろそろ家に帰った方がいいんじゃないか?)
そう言う正樹に、菜織は苦笑いを浮かべた感じで答える。
(うーん……でも、ひとりになるとまた夢を見そうな気がするし……自分でも何をするかわからないから。それでもいいって言うなら、帰るけど)
一種の脅迫のようでもあるが、要するに菜織にとっては一日中正樹といられるチャンスを逃したくないと言うのが本音なのだろう。
まあ、正樹自身にしても菜織と思いは一緒なのだが、さすがに何日も外泊しているとなれば心配しない親はいない。
一日二度は電話するか、家に戻っているにしろ、夜夜中に不在であれば当然のことである。
(明日出発なんだし、取りあえず今日は家に帰ってやれよ)
(う――――ん……それもそうね)
と、いささか名残惜しそうに言うと、菜織は正樹の家を出た。
(おいっ、荷物は……)
正樹の部屋に置きっぱなしのバックを手に持ち、正樹が玄関を飛び出す。
(明日出発でしょ? いいじゃない、置いていっても)
と言い残し、菜織は笑顔で両腕を大きく振りながら小走りに自分の家に向かって去っていった。
夢はなぜか見なくなった。
いや、見なくなったと言うよりも、もう何度も見ているから慣れてしまい憶えていないだけなのかも知れない。
一種の超常現象も、毎日の日課のようになってしまえば、精神に免疫のようなものが出来て、受け容れてしまうものなのだろうか。
三〇〇段の石段をなれた足取りで駆け昇り、そのまま自宅の玄関へと向かう。
「おお、帰ったか菜織」
引き戸を開けようとしたとき、軽快な声が菜織を呼び止めた。父である。
「あっ、おやじただいま」
父は相変わらずの宮司姿。
普段着である丹前姿すら風呂上がりの時に見るくらいである。だが、決して宮司スタイルフェチではない。
「ちょうどいいところへ帰ってきた。面白い話がある。聞かんか」
数日ぶりに帰ってきた娘に対し心配する言葉を投げかけるどころか、まるで友人を前に話しかけような口調。
まあ、一人娘ならば反応は全く違うものなのだろうが、一応血の繋がった娘なのだから、それ相応の心配を表面に出して欲しいものだ。
「何? 面白い話って、――――どうせおやじがお祓いしたお客に御利益があったとか何とか言うこじつけ話でしょ?」
一瞬言葉に詰まる父。
家内安全・交通安全・学業成就・安産祈願云々。どこの神社でもありそうな話題。
悩める十徳神社の参詣者に菜織の父は希望でお祓いをする。
後日その中の何人かが"いいことがあった"とお礼を言いに来ることがある。
そんなよくある話をこじつけがましく、事大げさに家族に自慢したがる。
ついこの前、朽社から見つけた古文書の自慢訳語そのままの感じか。
「違うぞ菜織。実はな、お前や正樹君の話を聞いてからお父さんもこの神社の歴史について興味がわいてね。あれから色々と調べてみたのだ」
「へえ――――珍しいわね。……で、何かわかったの?」
「ああ。実に興味深い話を見つけてきた。聞くか?」
「ん……そうね。別に聞いて損になる訳じゃないから、聞くわ」
「それでこそ我が娘だ。はっはっは」
この軽さが治れば菜織も父親をもっと尊敬していただろう。
「でも、明日旅行に出るんだから、あんまり長話はしないでよ?」
「わかっている、わかっている」
「この前見つけた『氷川文書』には、義経公とうつぼの子の『十徳』が開祖とあっただろう」
「私はよくわからなかったけど、親父はそう言っていたわね」
「実はな……もうひとつ、開祖と言われる人物の名が出てきたのだ」
「え――――? 十徳……じゃないの?」
驚いた表情の菜織。父はいささか神妙な顔つきで一冊の本を取りだした。
『氷川文書』と同じくらいの古いボロボロの本である。
「二、三日前に社を整理していたときに見つけた本なのだが、『池亜相記』というやつだ」
「"いけのあしょうき"??」
首を傾げる菜織。彼女の目の前にクエスチョンマークが飛び交う。
「池亜相……つまり"池大納言頼盛(いけのだいなごんよりもり)"の日記らしい」
池大納言・平頼盛――――。
刑部卿・平忠盛の五男であり、清盛の弟。通称池殿と呼ばれた人物である。
彼は源氏の棟梁・源義朝が殺された後、平家による源氏に対する血の粛清の際に、まだ幼かった頼朝の命を救おうと懸命に奔走した池禅尼の息子で、後に平家が京都を追放されたとき、その時の恩義から頼朝に命を助けられ、鎌倉に下向し手厚いもてなしを受けた、平氏一門中ただ一人の人物である。
「ちょっと待って。それじゃあたし達って、源氏じゃなく平氏の子孫って事になるの?」
なぜかムキになる菜織。苦笑いする父。
「待て待て。まだ何も話していない。最後まで聞け」
「…………」
「この日記には、『平維盛』という名が出てくる。知っているか?」
「たいらの……これもり……? え――――と……」
正樹と図書館に行ったときに読んだ漫画本の絵と吹き出しをたどる菜織。
「あっ、知ってるわ。すごい美男子だったんでしょ?」
なぜかにこにことなる菜織。漫画好きな彼女らしく、ひときわ美しく描かれていたキャラを思い浮かべて小さくため息をもらす。
「ま、美男子かどうかはわからんが……その維盛が屋島の戦いで行方不明になった後、世間の言い伝えでは高野山に入って出家した、熊野大社に匿われた、那智の海に入水自殺したとか言われているらしいが――――」
「そうそう……嗚呼、なんて可哀想なヒト……カッコイイ人って薄倖なのね……ウルウル」
文字通り菜織のつぶらな瞳がうるうるしている。父は苦笑まじりに菜織の呟きを無視してつづける。
「その維盛が、実は関東に落ち延びて、ここにいた――――と、言うのだよ」
「え――――?」
はっきり言ってどうでもいい話題だったが、菜織は不思議と気になっていた。
平維盛――――。
穏和で人柄がよく、誰からも好かれ、その上武勇は人を超えた猛将であり、世の人々から『小松の内府様』、『灯ろうの大臣(おおきみ)』と称讃された、内大臣・平重盛(しげもり)の長男で、清盛の嫡孫。
現代で言えば平家の『サラブレッド』。言い方を悪くすれば『おぼっちゃまのボンボン』。
そう言えばつい数年前、バブルに浮かれていた時代があった。
風潮のひとつとして、『高学歴』・『高身長』・『高収入』の、いわゆる『三高』が、女性たちの理想の男性像だったそうだ。
平維盛は、いわば平安末期におけるその『三高』を、すべて兼ね備えた貴公子だった。
顔かたちは桜や梅の花すらも散ってしまうと言われるほどの美貌で、世に『桜梅(おうばい)の少将』と呼ばれ、高学歴ならぬ高官位も、正三位左近衛中将にまで昇進。
一九〇センチ以上の高身長、高収入は平家の天下にあって言うに及ばない。
だが、挙兵した源頼朝ら関東軍を討伐するために総大将となった維盛は、富士川の会戦で、夜明け前、水鳥たちが一斉に空に羽ばたくその音を、敵襲と勘違いして戦わずに逃げ帰るという汚名を浴び、更には北陸に進出してきた源義仲と、倶利伽羅峠(くりからとうげ)に総大将として戦い、牛の角にたいまつをくくりつけ、大軍に見せかけるという義仲の奇襲戦法にハマり大敗を喫してしまうと言う、武将としては全くの無能な人物でもあった。
その維盛は、平家都落ちの際に妻子を京に留め、単身で一門と都落ちしたが、度重なる源氏軍の攻撃の中ではぐれ、行方不明となった。
紀伊の国――――つまり、現在の和歌山県に熊野三社のひとつ、熊野那智神社がある。
全国にある熊野神社系の総本山的存在であり、その宮司の権威は絶大なものがあった。
当時、その熊野新宮の別当であった湛増(たんぞう)は、源氏側についていた。
しかし、以前は親平家派とは言わずとも平氏の治世に貢献。
平氏凋落の時期にあったとはいえ、彼自身は心から平氏を滅ぼしたいとは思っていなかったようである。
一門とはぐれた平維盛は、流れに流れて熊野にたどり着いた。
菜織の父の言うように、一般の伝承ではそれから間もなく、那智の海に舟を漕ぎ出し、身を沈めたとか、出家して仏門に帰依したとか言われているらしいが、十徳神社に眠っていた、平頼盛の日記は、謎に満ちた維盛の後半生をかいま見るようである。
まあ、維盛の話はともかくとして、彼にまつわる平頼盛の日記は、十徳神社、そして氷川家のルーツ根本から揺るがす話に発展するきっかけになった。
熊野別当湛増に匿われた維盛は、確かに自害しようとしたらしい。
だが、思い留めるよう説得され、壇ノ浦の合戦後まで熊野に過ごし、源頼朝・義経兄弟の確執に揺れる世情のどさくさに紛れ、熊野の修験者たちと共に、伊勢(現・三重県)、美濃(現・岐阜県)、信濃(現・長野県)、甲斐(現・山梨県)経由で密かに相模の国に入り、ここに身を落ち着かせたという。
維盛の大叔父にあたる頼盛は間もなく亡くなったようで日記の記述はそこまでであったが、菜織を驚かす記述が、初めの方のあるページに書かれていた。
「うつぼ?」
瞠目する菜織。そこには、確かに『うつぼ』という名があった。誤字でもなければ、見間違えでもない。
そして、父は何度も確かめるように、その一節を呟く。
【――――空穂(うつぼ)女御、これすなわち小松殿の御胤なり。
鞍馬の神人氷河宿禰(ひかわのすくね)に養われる。
則(すなわ)ち、左少将維盛殿、三位中将資盛(すけもり)殿の御妹君なり。
然りながら少将殿、中将殿とも杳として存ずることなし――――】
何と、うつぼは平重盛の娘、つまり入道相国清盛の孫娘であり、生後鞍馬山の神官・氷川宿禰のもとで育てられたという記述だった。
そしてつまり、彼女は維盛とその弟、資盛らの異母妹であり、うつぼは無論のこと、彼らは妹の存在は知らなかったというのである。
「それじゃ……義経とうつぼって……」
平家を仇敵とする源氏の御曹司義経。
そして、その平家の棟梁・重盛の娘、うつぼ。
決して相容れない血縁の二人が、何の因果であろう、幼なじみとして幼少期を過ごし、そして愛し合えたのだろうか。
神代の昔から、宿怨同士の男女が幸せな結末を迎えることはあり得ない。
不毛の愛とは良く言ったものである。
たとえ結ばれたとしても、最終的にはそれが悲劇に繋がる。それはどんなにあがいても、避けられない運命なのだ。
うつぼ自身が、平家棟梁の娘と知っていたかどうかなど、今となっては知る由もない。
だが、もしも何かがきっかけで知ってしまっていたとするならば、想像を絶するくらい悩み苦しんだだろう。
そう思うと、菜織自身も胸が痛くなる。
いつの時代でも、恋愛に対する人々の悩める気持ちというのは変わらないはずだ。
「ここを読んでみろ」
父はページをめくり、指差す。
菜織は瞳をぱちぱちさせてから姿勢を正してその節を読む。とは言っても、菜織には読めないので、父が訳語する。
――――維盛には長男・六代がいたが、六代は鎌倉に捕らえられた。
だが一命だけは助けられ、文覚上人の弟子となり出家した。
相模の国に落ち延びた維盛には、正室との子・六代の他に、"とある女性"と恋仲になり、生まれた男子がいた。
名を雅盛(まさもり)と言う。
熊野の修験僧に守られ、神道に徹し、源家の追捕を逃れるために、この地に社を構えるに至る――――
それは完全に、『氷川文書』とは180度違う記述だった。
つまり、十徳神社を開闢したのは、うつぼではなく、平維盛の子、雅盛というのだ。
要するに、義経とうつぼの子である『十徳』が開祖としている『氷川文書』は、菜織が源氏の子孫と言うことになり、この『池亜相記』によると、菜織は維盛の子孫、つまり平氏の子孫ということになる。
「これって、どういうことなのよ。」
あの夢がきっかけとして、それまで全く興味のなかった歴史の知識を上辺だけでも頭に叩き込み、我が家の起源をも辿った。
そして、うつぼや義経、静の三人の関係に自分と正樹・真奈美に重ね、思いを巡らしてきたのだ。
だから、自分がその人たちの子孫であるということに、誇りのようなものを感じていた。
それが突然、自分はうつぼや義経の子孫ではなく、平氏……それも彼らに全く関係のない平雅盛という人物の子孫であると言われると、正直言ってショックである。
「まあ――――どちらの記述が正しいにしろ、いいことだろうが、実に面白いと思ってな。」
そう言って笑う父を、菜織は怒りの面もちでにらみつける。
「どこが面白いのよっ! 冗談じゃないわ。うつぼと義経がご先祖様であるって、おやじそう言っていたじゃない」
菜織の剣幕に呆気となる父。
「それを今になって全然違う、たいらの何とかっていうやつの子孫だなんて……そんな話……」
菜織自身、なぜそんなにムキになるのかわからなかった。
ただ、何か期待を裏切られた時のような痛烈なショックが、菜織の心を強く打ち据えた。
誰の子孫であろうが、そんなことは関係がない。
だが、菜織自身の中で、きっと数え切れないほどの傷みや苦しみ、そしてそんな中で一粒の幸福感を愉しみ、乗り越えてきただろううつぼや義経の血を引いていると言うことに、心強さと勇気がわいていたのだ。
そう、だからこそあの夢も
(きっと、私たちは見守られている……)
と、信じる気持ちがあった。
「ま、まあ・・・この日記も、この前見つけた古文書も、八〇〇年も昔の物らしいからな。どこまで正しいかは私にもわからん」
菜織の父は苦笑した。
娘の怒りは、そんな思いがもたらしていることなど知る由もないからである。
まあ、父の言うように、『氷川文書』ならばまだ自分の家の記述がなされていることから信用性に値するが、平頼盛と言えば、平清盛の弟としてれっきとした史書にも登場する有名な人物である。
そんな人物の日記が氷川家に伝わっているとなれば、これははっきり言って歴史的発見である。
謎に満ちた歴史のベールが、一枚取れるほどの物であるはずだ。
ゆえに、眉唾物であるとは一概には言い切れないが、氷川文書ほどの斬新さは感じられないのは確かである。
「ま、要するにお前自身の心の持ちようだろうがな」
「…………」
源氏か平氏か。どちらの子孫であるかなど、はっきり言えば、確固たる証拠はない。
父は菜織自身が意識するのならば、どちらの子孫にもなれると言っているようだった。
しかし、菜織自身どうしても源氏の末裔だとこだわってしまう部分があった。
そんなとき、結局父の話は、固まりかけた菜織の心に再び水射すようなものにしか過ぎなかった。
「大当りぃ~~~~~~~~っっ!」
呼鐘のけたたましい音が鳴り響く。
買い物客やら、通りすがりの人々が興味深げに八百屋の店先に円陣を作って行く。
「いやぁ~~~~相っ変わらず運がいいねぇ。特賞だよ」
江戸っ子ノリの主人が小皿の上に落ちた金色の玉を高々と掲げながら大笑している。
「~~~~~~~!!」
歓喜しているのは一見、エビフライを思わせるようなツーテール頭が印象深い高校生くらいの少女だ。
あまりの嬉しさに声も出ないと言う感じで、弾みをつけて真上に跳躍する寸前のように身を縮こませている。
「今年初めてだぁっ! この夏休み、若い娘にぴったりの豪華賞品、大いに楽しんでくれぃっ」
ズームインのポーズを取る主人。それと同時に少女は飛び跳ねる。
Tシャツの【HELL HOUND】の文字が太陽に映える。と、同時に円陣から一斉にどよめきと拍手が巻き起こる。
目録を胸にしっかりと抱きしめながら、少女はにやにやとしている。
「にゃはははっ。棚からキリモチ猫にゴハン! かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ! あたしってどこまで運がいいのかしらねん?」
甲高い声。かなり間違った上に絡脈のない諺を並べ立てて喜びを表現しているようだ。
「どーしよっかなー……」
少女は一度立ち止まり、頭の回路を巡らせる。
やがて何かが閃いたのか、妖しげな嗤いを満面に浮かべる。そして突然、駆け出した。
「一三〇〇円になるね……はい、ありがとう。おまけしといたよ」
「あ、すみません、いつも……」
正樹は明日の出発に備え、新幹線の中で軽く食べるおやつにと、同級生であるサエこと田中冴子の家に寄っていた。
冴子の実家は江戸川の寿司屋だが、エルシアに入学してからは祖母が営んでいるここに下宿させてもらっている。
「どうだい正樹ちゃん、ちょっと寄っていかないかい?」
冴子の祖母は優しい微笑みを浮かべながら言った。
男勝りで江戸っ子・娘岡っ引き口調の冴子とは似ても似つかない穏やかな雰囲気を醸し出している。
「あっ、ありがとう婆ちゃん。でも俺、明日親戚の迎えで羽田に行かにゃあならねえから、今日は色々と忙しいんだ。ごめん」
「おお、そうだったねえ。どうだい正樹ちゃん? その迎えに、冴子も連れて行く気はないかい?」
さり気なく冴子の祖母は言うが、無茶苦茶な話である。が、正樹は苦笑する。
「はっはっはっは……さすがに今からじゃあ、冴子の分まで切符は取れないでしょう。また、次の機会にでも考えときますよ」
と、かわす。
冴子の祖母は正樹のことをよく知っているようだった。
まあ、乃絵美や両親が馴染みの客として正樹の話をしていることもそうだろうが、冴子自身も学校の出来事を話していたからだろう。
特に、正樹が陸上の県大会で優勝したときなど、『今どきの若者にしては根性がある』と絶賛し、すっかり正樹のことを気に入ってしまったよう。
気が早いというのか、さすがは大正から昭和初期を青春期に過ごした女性とでもいうのか、冴子の婿には正樹がいいと広言して憚らない。
正樹は元より、冴子までもが顔を真っ赤にして冗談じゃないと否定はしているのだが、冴子の祖母の思い入れは微動だにしない。
「そうかい。残念だねえ。でも、その気になったらばいつでも声をかけておくれ」
「はっ、はい……」
胸に抱えた大きな紙袋越しに、正樹は困惑の笑いを返すしかない。
礼を言って振り返った瞬間、正樹は人間と接触した。
「うわっ!」
「きゃっ!」
幸い正樹は転倒しなかったが、相手は転けた様子。
「す、スミマセンッ! だ、大丈夫ですか?」
咄嗟に紙袋を置き、倒れた人を支えようとした。
そして、一目見りゃ忘れることはない、その独特な髪型に正樹の表情はつまる。
「むみゅぅぅぅ……いたた……」
腰をさすりながら少女はゆっくりと起きあがる。
「み…ミャーコちゃんじゃねえか。げっ……」
招かざる者にでも遭遇したかのように正樹の口許が一瞬、歪む。
「はにゃあ…正樹君かぁ。こんにちは」
「こ、こんにちは。アハハ……」
信楽美亜子(しがらき・みあこ)――――
通称『ミャーコ』と呼ばれている、正樹たちのクラスメイト。
プラス思考、天真爛漫をそのまま実体化したような性格で、一緒にいれば落ち込んだ気持ちも明るくなってしまうようなムードメーカー的存在。
エルシア学園報道部に所属し、暇さえあればマイク片手に特ダネなるものを追いつづけている。
当然、桜美町発・時代の最先端情報に精通。情報のためならばパンチラすら辞さないその執念はクラス公認である。
エルシアの生徒たちから『流行をつかむならばミャーコに聞け』とまで言わしめたほど。独特の『ミャーコ語』を駆使し、友人は多い。
「どうしたのん? 汗かいてるよぉ?」
まじまじと正樹の顔を見回す美亜子。
彼女は誘導尋問のプロである。
正樹は美亜子や冴子たちには東北旅行の事は言っていない。
それというのも、言ってしまえば十中八九ついてくるだろうから。
せっかくの菜織との夏休み旅行を、お騒がせムードにはしたくない。
だが、まさか旅立ちの前日になって大きな危機が正樹に降りかかろうとしていた。
美亜子は心なしかにやりとして、正樹が買った煎餅が詰まっている紙袋に視線を移す。
「ズイブンとたくさん買ったんだね。にやー……こんなにたくさん、どうするのかなぁぁ??」
始まった。
ここで下手な言い訳をしたり無口になったりすると、人並み外れた感の持ち主である美亜子のことだ、旅行を勘ぐられてしまう。
「親戚や従兄弟が来るんだよ。冴子ン家の煎餅、すげえ美味いから買って来てくれって頼まれてさ」
冷静に冷静に、どもらないように嘘をつく。
ただし、田中煎餅店の胡麻せんべいは紛れもなく特に絶品だ。美味いと言うことに嘘はないが。
「ふうぅぅうぅん――――?」
下がり目で美亜子は正樹の表情を観察している。
覚られてしまったか。心の中で動揺と冷や汗が溢れる。
「まっ――――いいでしょ」
意外にも美亜子はそれ以上突っ込まなかった。拍子抜けしてしまう正樹。
「おばあちゃーんっ、サエ居るかなぁ?」
正樹を無視して美亜子は冴子の祖母に話しかける。
「奥にいるよミャーコちゃん。……しかし、相変わらず元気がいいねぇ。若い子はうらやましいよ」
「にゃはははっ。おばあちゃんだってまだまだ若いですよォ――――」
彼女はお世辞は言わない質だ。調子良さそうに見えるが、決して八方美人ではない。
「あ、あの――――ミャーコちゃん……?」
「あっ、正樹君。あたしちょっとサエに用があるんだ。引き留めちゃって、ゴメンね」
美亜子はひとつウインクを送ると、そそくさと店の奥へ歩を進めていった。
「な……何なんだ……」
いつもの美亜子ならば、くどすぎるくらい根ほり葉ほりなのだが、今日に限ってあっさりし過ぎている。
何か差し迫った用事があるのだろうかと思いつつ、正樹は紙袋を持ち直すと改めて冴子の祖母に挨拶し、店を出ていった。
美亜子が縁側の通路を通り、茶の間の近くに来ると、突然障子越しに強烈な音が突き抜けた。
さすがの彼女も驚き、思わず転倒しそうになる。
「はにゃ? なになに?」
美亜子は身を伏せ、茶の間の障子をわずかに開き、中をのぞき込む。
「…………」
卓袱台を挟み、そこには少女と、もうひとり、若い青年がいた。
少女は何やら棒のような物を口にくわえ、頬を膨らませている。
青年の方は笑いながらそんな彼女の姿を見ている。
(むむむむっ。これは超レアモノのスクープかもっ!)
美亜子は卑猥げな笑みを浮かべて妖しい想像を膨らます。四六時中、『EBCレポーター』魂を忘れない。
「わははははっ、サエちゃん下手やなあ」
関西弁の青年が卓袱台を叩いて哄笑する。
「笑ってないで、ちゃんと教えてよヒロちゃんっ!」
「ちゃんとって言われてもなぁ――――さっきゆうたやろ? 縦笛吹く要領でいいんや」
と、青年はサエと呼ばれた少女の握っていた『棒』を取り上げ、自らくわえる。
「見てな」
サエに微笑むと、青年は頬を小さく膨らませた。
ゆっくりと、透き通った音色が響き出す。
それはどこか懐かしい、哀調を帯びた旋律。
身を伏せて中の様子を窺っていた美亜子も、頭の芯に響きわたるものを感じる。
演奏を終えた男はゆっくりと棒を外し、サエを見る。
「どうだい? これが篳篥(ひちりき)の音色や」
青年は微笑みながら棒・・・ではなく、篳篥をサエに渡す。
「ヒロちゃんみたいには吹けないって」
「大丈夫やて。いいセンスしとるよ? な、そこにいる人」
と、青年は障子の方に視線を送る。
(はにゃ!)
勘づかれてしまったか、美亜子の明るい顔が途端に苦い表情に変わる。
「そこにって……おいっ、誰かいるのか?」
驚いたようにサエは立ち上がり、勢いよく障子を開く。
そして、一度周囲に目を通した後、視線を下ろすと、腹這い状態の美亜子を見て唖然となる。
「み、み、み……なっ、てっ、そっ……」
美亜子を指差して口をぱくぱくさせるサエ。
「ミャーコッ、何でてめえがそんなところにいるっ!」
腹這いのまま美亜子は口調を真似る。
「だから通訳すなっ!」
いつでもどこでもこの二人は漫才師顔負けのやりとりをする。
このショートカットのボーイッシュな少女こそ、サエこと田中冴子である。
数分後、美亜子の脳天にたんこぶが出来た。経緯を語れば長くなるから割愛しよう。簡潔に言えば、似たようなことは以前にもあったのだ。
「むみゅうぅぅぅ……何もそんなに殴らなくてもいいじゃないよォ――――」
「おめえが出歯亀みたいな事すっからだろっ!」
と、冴子の軽い一撃が再び美亜子の後頭部を襲う。
「はははは。おもろい娘やなサエちゃん。友達か?」
けたけたと笑う青年。
「まっ、クラスメイトで――――」
「こんにちはっ、サエちゃんと同じクラスの、信楽美亜子でーすっ! ミャーコちゃんって呼んでねっ! よろしくっ」
冴子に割り込んで美亜子が自己紹介する。
キンキンとした声色に冴子は顔をしかめて両耳を塞ぐ。
「あはは…元気がええなぁ。僕は仁科裕一(ひろかず)。サエちゃんの従兄です」
「へえ……サエのイトコだったのん? みゅうぅぅ・・・ちょっと残念」
「おいミャーコ、何だよその残念って言うのは……」
「だってさぁ、あのカタブツ・サエがなななな、何とッ、真っ昼間から世間に隠し通してきた謎の恋人と自宅で密会ッ!し・か・も……ピー道具を使って愛のレッスン――――」
皆を言わないうちにまたまた冴子の平手が舞う。顔中にシャープマークを浮かべ、頭の周りまでそれが飛び交う。
「お前……今すぐ退学してその手の雑誌社に就職しろ」
「冗談なのにぃ~~~」
そんなやりとりを見て笑う裕一。
「ミャーコちゃんだっけ? ははは、あて外れて残念やったね。愛のレッスンじゃなくて、これをレッスンしてたんや」
と、裕一は冴子が手にする篳篥を指差す。
「はにゃ? 今ごろ小学校で使った縦笛なんか練習して何すんの?」
きょとんとした目つきで篳篥を見つめる美亜子。冴子のため息が茶の間に響く。
「これだから無知な奴は困るよ。こいつは縦笛じゃなくて、"ひちりき"って言うんだ。これはな、ええと…」
言葉に詰まる冴子に変わって裕一が言う。
「大和朝廷時代から伝わる中国伝来の楽器で、雅楽にはなくてはならないものなんや。ま、確かに縦笛ににとるけど、音は全然違うんや」
と、裕一は篳篥を奏でる。
ドレミファソラシドさえも、力強く吸い込まれそうな旋律。
確かに、どこかで一度は聴いたことのある日本の音色。日本人にはやはりお米のご飯が合うように、どんなに流行している外国の音楽よりも、しっくりと心に響く。
思わず美亜子は拍手する。照れくさそうにはにかむ裕一。
「ねえねえ仁科さんっ。どうしてその――――ひちりきを演奏するようになったのですか?」
美亜子のレポーター魂は健在。
「そやな……俺の家にこいつが伝わっていた……ってことも理由のひとつなんやけど、西儀秀樹に憧れていることが一番の理由かな?」
「おおっっと。今若い女の子たちの間で密かに人気急上昇中! 狂言の和泉智弥氏と並ぶ日本雅楽界の貴公子、あの西儀秀樹氏ですかっ。」
裕一は大学で邦楽部を開設しているそうだ。
これが意外と人気が高いらしく、部員は二十余名。今度の文化祭では初公演を控えているらしい。
「ご多忙のようですね。よろしいのですか? 練習の方は」
「はははは。この間のゴールデンウィークに来たときだったかな? サエちゃんの前で演奏したらハマってしまってな。後で部のやつ一本貸したんやけど、上手く吹けんてゆうてきてな。夏休みやし、挨拶がてらやって来たゆーわけや」
田中冴子、邦楽にハマる――――。
人は本当に何がきっかけで、意外なる物事に打ち込むかわからない。
ハンドボール一筋だったはずの冴子がまさか篳篥にのめり込むとは、美亜子としてはちょっと滑稽だ。
「おいミャーコ。お前もちゃきちゃきはしゃいでばっかいねえで、邦楽でも習ってみろ。少しは落ち着いていいかもしんねえ」
と、冴子の言葉。
「あははっ…それもええな。どうだいミャーコちゃん。よかったら今からでも教えたる」
冗談交じりか、裕一の笑顔が美亜子を圧倒する。さすがの美亜子でも、関西のノリには圧され気味のようだ。
「にゃははは。遠慮しときまーす」
冷や汗じわり。美亜子は小刻みに首を振るたび、頭のエビフライが前後に跳ねる。
「そうか? もしその気になったらいつでもゆうてや」
その時、突然ピーピーという電子音が鼓膜を破る。
携帯電話の着メロ。しかも『六甲下ろし』
「はい、仁科」
裕一の携帯らしい。
「彼、バリバリのタイガースファンだね、サエ?」
美亜子が物珍しそうに裕一を見ている。
「大阪の大学行ってからファンになったって言ってた」
淡々と答える冴子。
「ちなみにサエはどこのファン?」
「あたいか? そりゃジャイアンツに決まってるだろっ」
「ふーん……」
「そう言うお前はどこなんだよ?」
「ベイスターズ」
「そのままじゃねえかっ。少しはボケろっ!」
なんやかんやと言って美亜子との漫才を無意識のうちに望んでいる冴子。
数十秒のやりとりの後、電話を終えた裕一がおもむろに立ち上がる。
「東京のダチから呼び出し食らったわ。スマン、ちょっと出かける」
ショルダーバックを肩に掛ける裕一に冴子が笑顔で答える。
「うん、わかった。ありがとう」
「多分、夜通し飲み明かすかもしれんから、帰るのは明日の夕方やな」
「オッケー。婆ちゃんにも言っておくから」
「それじゃミャーコちゃん、またな」
「ばいばーいっ!」
両手を突きだし左右に振る美亜子。
裕一はそれに応えると、そそくさと茶の間を出ていった。よほど急ぎの呼び出しだったのだろう。
「サエが邦楽ねぇ――――」
篳篥を手にしながらそれと冴子を交互に見回しながらニヤニヤしている美亜子。
「べ、別にいいじゃねえか」
やはりイメージにそぐわないものは笑ってしまう。
じっと美亜子からそんな視線を受け続けていると、冴子自身もなぜか照れくさくなり、自然と顔が紅潮する。
「と、ところでミャーコ。何でお前がここにいるんだ?」
ようやく冴子が美亜子の姿を見た瞬間に思い浮かんだ疑問を口にしたのは、一時間後のこと。
「はにゃ? ――――何だっけ?」
事も無げに首を傾げる美亜子。とぼけているわけじゃない。
「何だっけって――――おいっ、用事もないのに人ン家に押し掛けてくるような奴だったのか、おめーはっ!」
数秒のシンキングタイムを経た美亜子、ぱっと閃いたように輝かしい笑顔を浮かべた瞬間、突然冴子の眼前で手を大きく打ち鳴らす。
「わあっ! な、何すんだてめえっ!」
驚愕して背後に倒れ込む冴子。
「にゃははは、思い出したぁ。にや~~~」
怪しげな嗤いを口許に浮かべた美亜子が身を乗り出して冴子に近づく。
「な……何だよ……」
引きつり顔で冴子は近づいてくる美亜子を見る。
「よいから耳かして」
と、美亜子は冴子の耳元に唇を近づけた。
「……………………………………………………」
「はっ!?」
愕然となる冴子、思わず顔を九〇度回転させる。美亜子と鼻がぶつかり、慌てて顔を背けた。
「だからぁ――――、………………………………」
ニヤニヤしながら美亜子は冴子の耳元に囁く。
美亜子の話に冴子の表情は次第に唖然と呆れたように歪んで行く。
「………………………ってゆーわけ。オッケーでしょ?」
「お、お前なぁ――――本気で言ってるわけ?」
「嘘なんかゆわないよん」
「だ、だってよぉ――――あんまりにも急じゃねえか、それって」
「そこはこのミャーコちゃんに任せて、ねっ、いいでしょ? どうせすることないでしょォ――――サエ?」
下がり目で冴子を見る美亜子。憮然とする冴子。
「わ、悪かったなっ。することなくて……」
「それに気になるじゃん?」
「そ、それは……ま、確かに……気に……ならねえと言えば嘘になっけど……でもなあ……」
「よいじゃんよいじゃんっ。"膳は急いで食え"って、一休ちゃんものたまっていることだしぃ」
「それを言うなら"善は急げ"だろ。ん……わかったよ」
冴子のうなずきに美亜子の表情が無邪気な笑顔に変わる。
「そーこなくっちゃッ」
「それで……? あたいらだけなのか?」
冴子の問いに、美亜子は人差し指を唇に当てて上目づかいをする。
「んー……とっ。…………あっ、そうだっ!」
美亜子のひらめきに今度は冴子も身を乗り出し、示し合わせた。
「よしっ、これで準備は完了。後は明日天気になってくれさえすりゃ、上々だな」
背中、両手に抱えきれない荷物を買い込んだ正樹が心地よい汗を感じながら帰路についていた。
「菜織ン家にでも寄ってくか……」
その前に荷物を家に置いてきた方がいいと、呟いた矢先、思った。こんな荷物を抱えた姿、誰かに見られたらやばい。
背水の陣・火事場の何とやら、正樹は途端、重い荷物も何のその。自然に足早になり、自宅へと歩調を進めた。