第1部 現代篇
第7章 陰陽の導き

1185年(文治元年)2月
京(現・京都市)
右大臣・九条 兼実邸

 九条兼実――――

  この世をば 我が世とぞ思う望月の
  欠けたる事も 無しと思えば

 そう詠むまで位人臣と栄耀栄華を極め、かの紫式部が著した『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとなった、太政大臣・藤原道長より七代の子孫である。
 そして、長兄・基実(もとざね)の近衛(このえ)家、次兄・基房(もとふさ)の松殿(まつどの)家と並び、九条家を興した人物。
 平治の乱で、父・忠通(ただみち)が勝利したものの、平清盛の台頭によって藤原摂関家を始め貴族たちの威勢は失墜した。
 それにも関わらず空威張りをつづける貴族たちを尻目に、兼実は『貴族』というプライドを捨て、源頼朝に好意を示し、武士との交際を精力的に行っていた、いわば武家と朝廷の橋渡し的存在となっている重鎮。
 『大天狗』とあだ名されている時の後白河法皇が弄した、平氏失脚の陰謀・『鹿ヶ谷の事件』で、兄である関白・松殿基房が当時、貴族にとっては死刑に相当する流刑に処せられた後、右大臣となる。

 しかし、兼実は院勢力に対し生理的嫌悪感を抱いていた。
 後白河のあの媚びたようなネチネチとした笑みを見ると、背中に毛虫が這うような感覚になるのである。
 いつの時代でも、大勢の人間の中にはイヤな奴というのはいるものだろう。
 だが、摂関家として次期摂政・関白を約束された彼の表情は、瞑想でも耽っているように瞳を閉じ、唇を真一文字に結んでいる。
 整然と生えた口と顎のひげがかすかにそよ風に揺れる。
「右府様、摩精(ましら)にございます――――」
 男の声が障子越しに兼実の耳に届く。
「うむ……」
 のどの奥で唸る。
「来月には……間違いなく……」
「これも時の流れというものか……して……」
 わずかに唇を奮わせる程度で透る声。摩精は意を覚ったように応える。
「ご安心を。仰せの通り、かの地へ導きましてございます……」
「ご苦労だった。下がってよいぞ」
「はっ―――――」
 摩精の気配が消えた後、兼実は小さくため息をつく。
「あの者どもの思うようにさせてたまるものか」
 その時、何者かの足音が小刻みに兼実の部屋へと近づいてきた。
「殿っ」
 障子ががらりと開かれ、姿を見せたのは兼実の室・葉子であった。
 ひどく慌てている様子に兼実は呆れたように長嘆する。
「何事か、無礼な」
「そのようなことを申している場合ではありませんっ。あの・・・その・・・」
 奥ゆかしき上流公家の姫君も、狼狽の前には礼儀作法も何もない。
「どうしたというのだ」
 息を切らしている妻を支える兼実。
 焦点の定まらないまま、妻は声を詰まらせながらも言った。
「み、皇子様が…………お、お、お越しに……」
 その瞬間、兼実の表情が途端に強張る。
「な、なにっ! 皇子が……ば、ばか者っ、それを早く言わぬかっ!」
 妻を放り、兼実は慌てて立ち上がる。狩衣でよかった。束帯であったらば必ず裾を踏みつけてしまい転倒していただろう。
 兼実は大慌てで玄関先に平伏した。
「あっ、兼実……」
 若々しい少年の声が兼実を呼ぶ。
「み……皇子。かようなところへ突然のお成り、何事でございまするか」
 顔を上げず、兼実は尋ねた。
「そなたに会いに来たのだ」
 と言いながら少年は兼実の側に駆け寄り、小さな膝を折る。
「お、おそれ多いことにございます……」
「構わぬ。面を上げて、わたしと遊んでくれ」
 少年は小さな手で兼実の手を取った。一瞬萎縮する兼実。そしてゆっくりと上体を起こし、少年を見る。
 本当にあどけない、年の頃五,六歳と言った感じか。
 微笑んでいるが、溢れるばかりの気品と神々しさは並の人間ではないことを感じさせる。
 それもそうであろう、この少年は誰であろう、後白河院が御孫、前の天子・高倉帝の第四子であり、今上・安徳幼帝の皇太弟である、尊成親王(たかひらしんのう)その人なのだから。
「皇子……」
 兼実は驚きと怒りのこもった視線を親王に送る。親王はわかっているのかややばつが悪そうにはにかむ。
「許してくれ兼実。しかし……窮屈な御所はイヤなのじゃ。お祖父様はいつも口うるさくて……」
 親王の小さなため息が吸い込まれてゆく。
 兼実は親王の気持ちがよく判っていた。
 自分ですらどろどろとした宮廷に一分たりともいることが窮屈に感じるのに、こんな幼い少年ならば尚更であろう。
 自分ならばその気にさえなればいつでも宮中を去ることは叶うことも出来ようが、この少年は親王、天皇の子なのである。
 宿命とはいえ、ある意味哀れな身の上なのだ。
「ただただ、おそれ多いことにございまする……」
 兼実は親王に対し強く御所に戻られよ、とは言えなかった。
 そして、微笑む親王の手を取り、屋敷へと戻った。

 尊成親王には四才年上の許嫁がいた。兼実の娘で『香子(かおるこ)』と言う。
 不比等以来、藤原氏出身の女子が天皇の后になることは一種の習わしのようなものだった。
 親王もまた、次期天皇としての地位がある。
 ゆえに、九条家の姫君が妃になると言うことは、親王が生まれる前から決まっていた。
 活動的で溌剌とした美少女の香子。
 もちろんのこと、時々九条邸に訪れるこの少年のことを、先帝の皇子であることなど知る由もない。
 人見知りをしない性格からか、親王とはまるで姉弟のように、すぐに仲良くなった。
 待ちわびたかのように香子と親王はさも平民の子供たちのように遊ぶ。
 そんな情景もおそらく今日が最後となるかも知れない。
 後鳥羽天皇として平家と共に西海の都に沈んだ兄・安徳幼帝の後を継ぐ、その日が現実となるのだ。
 しかし、少年たちの純粋な想いとは裏腹に、混沌とした薄暗い渦が静かに人の絆を呑み込み、複雑に絡ませてゆく。
「父上――――」
 兼実の子、良経(よしつね)が険しい表情で父の書斎へと駆け込んできた。
「近衛殿、土御門殿が――――」
 その瞬間、筆を握る兼実の手が止まる。
「来たか――――」
 そう呟き、兼実はゆっくりと立ち上がった。

喫茶店・ロムレット

 午後2時――――
 ドアベルの音に、微睡みから目覚めた乃絵美が瞼を軽く擦り、顔を上げる。
「こんにちは、乃絵美ちゃん」
 小柄で小太りのセールスマン風の若い男性が、親しげに微笑みながらカウンターの席に向かう。
「あっ……圭一郎さん、いらっしゃいませ」
 ぺこりと頭を下げる乃絵美。
 ロムレットの常連客、渡辺圭一郎は、近所にある自動車ディーラーに勤務する二十六歳のセールスマンで、ほぼ毎日のようにロムレットに休息に訪れ、乃絵美はもとより、正樹や両親たちとも昵懇の間柄である。
「あらら、ご休憩中だったかな? すまんね」
 小さな欠伸をする乃絵美の表情を見てはにかむ圭一郎。乃絵美は恥ずかしげに顔を赤らめる。
「ご、ごめんなさい。お客さんがいなかったものだから、つい……」
 慌ててオーダーを取る乃絵美。彼はいつものブラックを注文する。
「ふう……暑いね。こんな日くらい外回りは容赦してもらいたいものだよ、全く」
 と、彼は額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
「今日はどちらまで?」
「小田原まで行って来たよ。例によって課長(四十九歳)と得意先回りさ」
 入れ立てのコーヒーを啜りながら、ため息をつく圭一郎。
「ふふっ、でもあの課長さん、面白い方じゃありませんか」
「どこがぁ~。頼むからつまらんオヤジギャグ連発しないでくれって感じさ。まったくこのくそ暑いときに、何が明日は厚木行くから厚着してこいだよ。もう、勘弁!」
「あはははっ」
 今や『だじゃれ』とは言わない『オヤジギャグ』。本気で笑えるのは古今東西、乃絵美くらいか。
「そう言えば乃絵美ちゃん、正樹君と…ええっと、この間までバイトしていた・・・」
「菜織ちゃんのことですか?」
「そうそう、菜織ちゃんだっけか。確か、二人とも旅行に行くとか何とか話してた様な気がするけど」
「はい。お兄ちゃんたちは明日、平泉の方に出発するって」
 その瞬間、圭一郎の表情が驚きと歓喜の色に満ちる。
「へえ――――平泉なんてずいぶんと渋いなあ。高校生が行きたがる場所じゃないよ」
 おそらく圭一郎じゃなくても、正樹らの旅行先を10人に話せば、9人半は圭一郎と同じ反応をするだろう。正樹らの計画はそれほど奇特だというわけである。
「奥州千年の黄金楽土かぁ。いいねえ」
 しみじみと呟く圭一郎。
「そうなんですか? 私なんかそれを聞いたときびっくりしちゃって……」
「いやいや。僕から言わせればうらやましいというか、出来れば僕も行きたいねって感じだよ」
「ええっ。圭一郎さんって、そう言う場所が好きなの?」
 意外そうに表情を緩ます乃絵美。圭一郎はやや照れくさそうにこめかみを人差す指で掻きながら言う。
「好きだって言うか、僕はこう見えても日本の歴史ってやつが好きでね。名勝史跡っていうの? そう言うところを機会があれば色々と廻ってみたいって思っているんだよ」
「へえ……そうなんですか」
「僕の実家は静岡の三島ってところなんだけど、三島って源頼朝が旗揚げした地なんだって。小学校の頃だったかな、学校の授業でその話を聞いてからなんか好きになっちゃってさ、それ以来はまってるんだ」
 いつもより熱がこもる圭一郎の話。
 時折冗談も交えながらロムレットは歴史のミニ授業と化す。
 そのとき、電話のベルが鳴った。今や骨董品に近い、黒電話。ロムレットの歴史を感じさせる一品。
「はい、ロムレットです。もしもし? ……あっ……」
 どうやらデリバリーの注文ではなさそうだ。
 親しげに話している様子を見ると、どうやら乃絵美の友人らしい。
「えっ……? そんな――――だって急に――――うん―――うん――――でも……」
 突然、困惑したようにおどおどとする乃絵美。
 ときどき入り口の方に視線を向けながら声が小さくなる。
「やっぱり……えっ……あっ、ちょっ……」
 言いかけたのもつかの間、なにやら落ち込んだように受話器を置き、小さくため息をつく。
「どうしたの? 乃絵美ちゃん」
 圭一郎が心配そうに乃絵美を見る。
「えっ、あっ……ううん、何でもないの。ごめんなさい」
 寂しそうに微笑む乃絵美。
 なにやらこみ入った事情がありそうな様子だったが、圭一郎は深く追求しようとは思わなかった。
 会話が止まってしまうかと思われたそんなとき、勢いよくドアベルが鳴り響き、両手に荷物を抱えた少年が入ってきた。正樹である。
「ただいまぁ――――」
「あ、お兄ちゃん。お帰りなさい」
「すまね乃絵美、ひとつ持ってくんねえか」
「う、うん……」
 カウンターを出ようとする乃絵美を圭一郎が止める。
「僕が手伝おう」
 と、言うが早いか、正樹の顔を塞いでいる紙袋をひょいと取り上げる。
 正樹の顔が見えた瞬間、にやりと笑う圭一郎。
「わっ!」
「ひょええっ!」
 一瞬、魂を抜かれたような顔つきになる正樹。
 危うく荷物を落としそうになり、慌てて体勢を立て直す。
「はっはっは、隙が多いな正樹君」
「なっ……なんだぁ圭さんかよぉ。びっくりさせんなよぉ。マジ焦ったぜ」
「それにしてもずいぶん買い込んだんだね。長い旅なんだなぁ」
「違いますって。三泊四日のしがない旅っす……」
 彼にとっては本当に『しがない』場所ではある。
「余計なことかもしれないけど、こいつぁ荷物になるよ」
「えっ?」
「はははは。もしかして正樹君、平泉って何にもないところだって思ってたのかい?」
「そんなわけないじゃないすか。ちゅ、『ちゅうそんじ』とか、も、もう……なんとかじがある」
 どもる正樹に圭一郎は大笑する。
「言っておくけど、食べ物屋もあるぞ。こんな都会と違って、田舎の水は美味い。ああ、そうだ。向こう行ったら僕の知り合いの店を訪ねればいい。自慢じゃないが、うどんにかけては岩手一だっていう店だそうだ。安くしてくれるぞ」
 日本一と言わないところがなかなか謙虚だというか、つぼをついている。それよりも、正樹の考えを言い当てた圭一郎はすごい。
 そう、正樹は平泉、いや岩手という地が一昔前の原野的イメージがあって、レストランはもとより、娯楽施設などひとつもないという考えがあったのだ。
 情報誌を見て研究してはいたが、なにぶん場所がわからないので、そう言った先入観が先行してしまう。
「恐れ入りやした……」
 照れくさそうに頭を下げる正樹。
「まっ、育ち盛りの君たちのことだし、これくらいでも足りないかな? ははははっ」
 荷物を下ろし、しばらく雑談を交わす。
「おお、そうだそうだ。正樹君にこれを」
 と言って、圭一郎はスーツの胸ポケットから封筒を取る。
「少ないけど、餞別だ。なんかの足しにしてな」
「うぉっ、圭さん、気が利くじゃんっ!」
 無遠慮に封筒を受け取る正樹。早速中を見ると1万円札が1枚。にやりと笑みを浮かべる。
「お兄ちゃんっ! 失礼でしょ」
 乃絵美が眉をひそめて兄をにらみつける。
「すみません圭一郎さん、気を遣っていただいて。本当にありがとうございます」
 と、兄に代わって深く頭を下げて礼を言う。
「いやいや。いつも長々とお世話になっているからね。これくらいは当然だって」
「ありがとう圭さん。お土産、いいものあったら楽しみにしていて下さいよ」
 ぺこりと頭を下げる正樹。
「お兄ちゃん」
「えっ?」
「はい」
 乃絵美の呼びかけに顔を向けると、乃絵美は右手を差し出して微笑んでいる。
「なんだよ、その手」
「菜織ちゃんに預けてあげるから」
「えっ――――なんで?」
「お兄ちゃんじゃ絶対自分で使い込んでしまうか、忘れてしまうかもしれないから、菜織ちゃんに預かってもらう方がいいでしょ?」
 さすがはしっかり者の乃絵美である。
 正樹はやや自分の目論見が外れたことに表情を苦らせて封筒を妹に手渡す。
「はい、確かに」
 そんなやりとりを見ながら、圭一郎は屈託なく笑う。
「いいねえ、君たちは仲が良くて。うちの妹とは大違いだ」
「あれ? そう言えば恵理さんって東京の大学でしたよね?元気にしているんですか?」
 なぜか瞳を輝かせる正樹。
「まあ……それなりにね。国文学専攻って言う割には遊びまくっているらしいよ。全然、連絡も来ないし」
「そうなんすか。機会があればまた会ってみたいっす」
「ほう――――それはいいかもしれないよ。恵理のやつ、まだ彼氏はいないみたいだからね」
「ま、マジっすか?」
 そんな様子に乃絵美が小さく咳払いをする。
「菜織ちゃんに……」
「とっとっとっ…」
 正樹、危うく墓穴を掘るところだった。

「お兄ちゃん、圭一郎さんって、日本史に詳しいんだって」
「えっ、そうなんですか?」
「あのこと…聞いてみれば?」
 乃絵美に促され、正樹は今度の旅行先、平泉へ決まった経緯と、今日までのことを簡単に圭一郎に話してみることにした。
 いかに自分たちで図書館に通い、資料を読みあさっても、所詮興味のなかった分野。憶えたこともうろ覚えというものである。
 正樹の話を実に興味深げに聞く圭一郎。
「へえ……世の中、不思議な事ってあるんだね。菜織ちゃんのみた夢って、間違いなく源義経に関係する場面だよ」
「やっぱりそうか……」
「義経は平泉の高館(たかだち)って所で藤原泰衡に襲われて自害したって言われているんだ。三十一歳だったかな?」
 さすがである。
「平家を討った話、安宅の関……まるでドラマのようだね。本当に、今まで関係するテレビや小説とかに触れていないんだね?」
 それは自分も何度となく確認している。答えは紛れもなくノーである。
 圭一郎はうーんと唸る。
 さすがの彼も、菜織が見た夢の原因については推量できない。
 だが、その夢が不自然なほど史料や事実に合っている事に驚愕を隠しきれない。
 話は菜織が源義経の子孫なのかどうかに触れた。彼女がある意味で一番気にかけていること。
 自分の見た夢の登場人物に共感しているというのは滑稽かもしれないが、もしもそれが正夢だったとしたら、彼女も少しはほっとするかもしれない。
「その古文書、見てみたかったな。まあ……それはともかくとして、昔から義経には生存説がついて回っているんだよ。実際、青森や北海道にはいわゆる『義経北方伝説』を裏付ける石碑や祠があるって聞くし、あのジンギスカンも、実は義経だったっていう異説まであるくらいだからね」
 その生存説が事実とするならば、氷川文書の記述は完全に的を射ていると思っていい。
「まあ……今から八百年以上も前の話だから、さすがにどれが真実なのかは僕にもわからないけど、義経は高館で死んだと思うね。結局、今伝わっている平家物語や義経関連の本とかは後世の人が創作したものだから、ある程度事実がねじ曲がっている部分があるだろうし。なんて言ったって『判官贔屓』って言葉があるくらいだからね」
「ほうがん・・・びいき?」
「つまり、弱い者に同情してしまう気持ちのことを言うんだ。義経の通称が九郎判官だから、判官贔屓」
「ふーん……」
「おおっと、ごめんごめん。話がそれたね。……だから、義経に静御前の他にも恋人がいたとなれば、その女性との間に出来た子供の子孫がいても不思議じゃないということ」
「なんか……」
「確証はないなあ、もちろん。でも、少なくても十徳神社の古文書にそう記されているのならば多分、間違いはないと思うけどね。……それにしても、本当ならば義経の子孫が身近にいたなんて、ちょっと驚きだね」
「同じ事あいつに言ったら、すげえ怒られましたよ」
「そうなんだ。まあ、誰の子孫だろうが、今の世の中じゃ通用しないからね。彼女は彼女、君は君だ」
 渡辺圭一郎の話と合わせて、どうやら菜織の夢は伝えられている史書とほぼ合一されていることが確実になった。
 圭一郎は真奈美が見た夢と合わせて独自の見解も語る。
「頼朝と義経が不仲になる黒幕が北条義時だってことには興味が深いな。それと、由比ヶ浜から捨てられたはずの義経と静御前の子が生きていたとなると、これもまた面白い。鎌倉幕府が北条氏に乗っ取られたことを考えると、すべては陰謀だったって事が考えられる。そうか……歴史の悪は北条義時ねえ」
 これは歴史に造詣がある圭一郎らしい言葉。
「いやぁ、実に興味深い話を聞かせてもらったよ。仕事のせいでしばらくご無沙汰だったけど、また研究してみようかな」
 と、そのときピリピリと電子音が圭一郎の胸から発せられた。慌てて胸ポケットから携帯電話を取り出す。
「やばい、課長だ」
 と、受信ボタンを押して耳に当てる。
(渡辺、今どこにいる、いつまで油売ってるんだ!)
 離れていても彼の上司の怒鳴り声が聞こえてくる。必死に言い訳する圭一郎。
(いいから早く事務所に戻れ。これから浦和に行くぞっ!ウラワーウラワーウラウラワーだ!)
 がくりと力を落とす圭一郎。電話を終えた途端、長嘆する。
「お、オヤジギャグっすね……」
 正樹も苦笑する。
 圭一郎の苦労が寸分なりともわかる瞬間。
 腕時計を見た圭一郎、午後4時半近くを指している。気がつけば2時間半近くも話し込んでいた。
 自業自得だとはいえ、これから埼玉行って明日は厚木。徹夜しろと言うのか。しかもあの課長と・・・。
「んじゃ、正樹君、楽しんできてね」
「あ、ありがとう圭さん」
「またね乃絵美ちゃんも」
「は、はい。ありがとうございました」
 電話の後、急激にテンションが落ちた圭一郎を心配そうに見送る正樹と乃絵美だった。
「乃絵美、ちょっと菜織ン家行って来るわ」
「えっ、あ……」
 店を出ようとした正樹に言葉を詰まらせる乃絵美。
「ん、どうした乃絵美?」
「えっ……っと、ううん、何でもない。ごめんなさい」
「?――――まあ、いいや。行って来るから」
「うん。行ってらっしゃい」
 正樹が去ると乃絵美ははぁと長いため息をもらした。

十徳神社

 夕刻。
 慣れた足取りで三〇〇段の石段を駆け上がると、例によって巫女服姿の菜織が境内清掃に勤しんでいた。
「よう」
「あっ、正樹」
 彼の姿を確認すると菜織の表情が自然に綻ぶ。心底愛し合う者同士の、自然な姿であろう。
 藁箒を動かす手を止め、ゆっくりと正樹の方に近づく。
「俺の方は準備完了! 菜織もオッケーのようだな」
「えっ? うん。あたしの方もバッチリ――――なんだけど……」
 ふと苦みを帯びた微笑みを向ける菜織。
「ん? …何かあったのか?」
「う――――ん……大したことじゃないんだけどね」
 彼女は父が見つけた第二の古文書『池亜相記』の事を話した。
「今度は平氏の子孫かぁ。なんか、おあつらえ向きだな」
 失笑に近いため息をつく正樹。
「笑い事じゃないってばっ。もう……余計こんがらがっちゃって」
「まあ、いいじゃん」
 正樹は菜織を誘い、並びながら桜美町を展望できる高台の方へと歩く。
 夕陽に照らされた街がまるで大火に見舞われたように赤い。
「ひさしぶりな気がしねえか?」
「えっ……?」
 不意に呟く正樹の横顔をじっと見つめる菜織。
「見てみろよ、この景色」
 柵にもたれながら、夕紅に染まる地上を見下ろす。
 菜織も言われるまま、正樹の視線と合わせる。
 しばらく静かなひとときが過ぎる。
 やがて、正樹の口から小さな笑いが漏れ、おもむろに呟いた。
「もしかしたら、義経も、うつぼも、その平氏の子孫も、この場所からこの景色を見ていたんだろうなあ……」
「…………」
 菜織は何かに気づいたように瞳を大きく開く。
「なあ、菜織。きっとさ、誰だろうと、この景色見て、綺麗だなあって感じない奴はいないと思わないか?」
「正樹……」
「きれいなものをきれいだって感じる心に、身分の差なんてないと思うぜ。結局、同じ人間なんだしさ」
「…………」
「菜織、言ってたよな。誰の子孫だろうが、私は私だって。……結局はそうなんだよ、きっと。世界中探したって、昔にさかのぼったって、この先の未来だって、ここにいる氷川菜織はたった一人しかいないんだよな」
 ゆっくりと、問いかけるように正樹は語る。
「俺はそんなたった一人のお前を好きになって、愛している。それだけじゃ、不満かな」
 菜織は慌てて首を横に振る。突然、何を言い出すのか、そんなことあるはずがない。
 正樹にとっては愚問であることを承知で、菜織に投げかける。
「たとえ君が極悪人の子孫だとしても、俺はかまわない。だって、菜織は菜織だもんな」
 正樹は菜織を見つめ、優しく微笑んでいた。
 彼の瞳に夕陽が反射し、きらきらと輝いている。
 菜織はそんな彼の優しい想いに、無言で頷き答えた。
 そして、そっと彼の方に頭を預ける。
「ねえ正樹?」
「ん?」
「昔の人たちも、いつかこの場所で、こうしていたのかな?」
「ああ。きっと、そうだよ。こんな景色を見ながら、多分、同じこと言っていたかもしれないな」
 悠久の歴史。
 たぶん正樹と菜織は、その限りない歴史の中の、一節にも満たない存在なのかもしれない。
 だが、二人にとってはそれが何にも替えられない確かな足跡であった。
 早朝の出発を考え、二人はそこで別れた。
 正樹はそうそうに帰宅し、夕食を済ませ、入浴してからすぐに布団についた。午後9時に就寝。おそらくこの先、こんな時間に寝ることは、数えるくらいしかないだろう。
 菜織も正樹に倣うかのように、9時半には眠りの途についた。

1185年(文治元年)3月――――
熊野・那智神社

 熊野別当湛増は怪異な容貌を更に強くしかめ、配下の荒法師の報告を聞いていた。
 それは、言わずもがな、平家一門、壇ノ浦に滅亡すの悲報である。
「ご苦労であった。下がってよい――――」
 沈痛な色を滲ませ、湛増は振り返る。
 御神体を安置する上座に、ひとりの青年が座し、微動だにしない。
 腰まで伸びきった髪の毛が、周囲の床に散乱しうつむいているその表情を伺い知ることは出来ないが、どうやら眉目秀麗な雰囲気を感じさせるシルエット。
 背筋はぴんと伸ばされていて座していても背の高さを窺える。
「少将殿――――お察し申し上げる……」
 湛増は小さく頭をたれた。青年はわずかに身を動かしたが、言葉を発しない。
「これも世の常なれば、致し方のないこと……されど生きていればこそ再起の道も開けるというものでござる」
 湛増の言葉は我が息子を諭すように力強く、暖かかった。
 だが、青年は無反応である。全身が小刻みに打ち震えていることを除けば・・・。
「今やただ一人、小松殿の御血を引く貴公は生きなければならぬのじゃ。儂の言葉、解りましょう」
 源家を壊滅に追い込み、平家ひとりの天下となりつづけた近来。
 権力がひとつに偏れば腐敗する。
 そして、今や平家は滅び、源家の天下となれば、いずれまた腐敗する。湛増はそう、言っていた。
 だが、青年はしばらくの沈黙の後、突然奇声を発した。
 そして、脇に置いていた小太刀を取り上げ、鞘を抜き出す。
 愕然となった湛増は大声を挙げ、咄嗟に駆け込んだ配下の荒法師たちに青年を抑えつけさせた。
「はっ――――放せっ、放してくれっ。私も皆のもとに行かせてくれっ……」
 もがく青年。
 だが、険しい修行を乗り越えてきた荒法師たちの剛力に適うはずもない。
 湛増はつかつかと青年の前に歩み寄り、鬼のような形相で剣身を鷲掴みにした。そして、力任せに青年の手から小太刀を取り上げる。
 拳から鮮血が滴となり、床に斑点を作って行く。
「維盛殿……」
 湛増はわずかに顔を綻ばせ、優しい口調で青年の名を呼んだ。
「貴公が今こうして生きておられることはひとえに一宮のお導きであらせられまする。無下に命投げ捨てれば、平家歴代に対し顔向けできませぬぞ」
 ゆっくりと、諭すように湛増は維盛の興奮を抑える。
 ようやく力が抜けたことを確認し、湛増は維盛の手から太刀を取り上げた。
 その瞬間、彼は崩れ落ち、激しくむせび泣いた。
 頂点から地の底に凋落する心境は計り知れないものがある。
 ましてや、親兄弟親戚がことごとく壇ノ浦に滅んだという現実を知らされては、普通ならば自らも命を絶とうという気持ちが当たり前である。湛増がそれを止めたのは、ある意味で残酷なのかもしれない。
「さる御前の計らいで、ご貴殿を安全な地へお導きいたす。時を得た後、平家を再建なさるがよろしかろう」
 そういう湛増の言葉にも、維盛は無反応である。
 一門滅亡の衝撃から彼の精神が立ち直るのにはまだまだそうとうな時間がかかりそうではあった。
「如海、かの御仁をお連れいたせ」
「はっ」
 湛増の部下がいったん退席し、やがて覆面姿の人物を伴い、再び現れた。湛増はその人物に維盛を紹介する。
「こちらにおわすお方が前左少将平維盛殿でござる。手はず通り、お頼み申す」
 すると覆面の人物はわずかに瞳を伏せて答えた。
「承知いたしました。我が主の御名にかけまして、お守りいたしまする……」
 覆面に籠もり気味の声だったが、玲瓏とした女性のような響きである。
 維盛もその声に驚いたのか、思わず自分を『庇護』する覆面の人物を見つめた。

半年後――――

 平氏滅亡後、天下は事実上源頼朝の掌中に入った。
 壇ノ浦合戦から二,三ヶ月間、読み通り、源氏による平氏残党や落ち武者狩りが強化され、戦犯は次々と捕らえられ処刑されていった。
 かくいう高野山にも探索の手は伸びたが、湛増の権威は頼朝すらも一目置くものであったため、他所のような厳しい探索はされなかった。
 折しも、義経が平氏追討の功績をもって朝廷から検非違使左衛門少尉(けびいしさえもんのしょうじょう=現代で言う検事長格)に頼朝の許可なく任官されたことをきっかけに兄弟仲が悪化。
 世情もつかの間の幸せを楽しむゆとりなく再び暗雲の兆しが見せ始めていた。
 そんな世情のどさくさを好機と見た湛増は、配下の如海、覆面の人物以下、熊野の修験僧六人で結成された平維盛隠密行の出発を促した。

伊勢山中

 さすがに半年も過ぎると、維盛の心境も平静さを取り戻すようになった。
 時々だが、同行する修験僧たちとも冗談などを交わすようになり、落ち武者一行らしからぬ雰囲気を醸し出す。
 ただ、覆面の人物とだけは、一言も語り合うことがない。
 なぜか言葉を発しようとしないのだ。常に全身を法衣に包み、敵の気配を察知するように常に張りつめた霊気を漂わせていた。
 維盛自身も自分を身の安全を守ってくれているこの人物を気遣い、あえて何者かなどと聞こうとは思わなかった。
 その日、一行は途次の疲れをいやすため、山中の温泉場に逗留することになった。
 伊勢は先祖である平維衡以来、平氏の本拠地であったので、いかに平氏が滅亡したと言っても、残存勢力は根強く、源氏の追捕もそう易々とは伸びない、安全な地であった。
 維盛も久々に衣服を脱ぎ、垢を落とす。
 父や叔父知盛、重衡のように強靱な筋肉ではないが、公達の名に恥じない体つきをしている。
 だが、どうであろう。武人としての勲章である刀傷や矢傷がない。湯が玉となって滴る。
 女性のような肌と言えば極端かもしれないが、『桜梅の少将』と呼ばれた自分を、今にして思えば、それは揶揄の意味もあったのかもしれない。
 自然とため息が出る。
 武人として無能であったため、平家の転落を指をくわえて見つめ、嫡男でありながら、事もあろうに一門と命運を共にすることもなく、今こうして一人、落ち武者となりて生き延びようとしている。
「情けなや維盛――――」
 肩を落とし、顔を湯につける。
 そのとき、外部の方で物音がした。咄嗟に維盛は身を強張らせる。刺客だろうか。
 がさがさと何かが擦れる音が湯気の向こうから聞こえてくる。殺気は感じられない。
 音を立てないように、維盛は湯から上がり、物音のする方へ近づく。
 それは粗末な板張りの脱衣場から聞こえていた。板の隙間からそっと中を覗く。
「あれは・・・・・・」
 維盛の目に映ったのは、あの全身覆面の人物だった。
 何重にも巻き付けられた衣を、ゆっくりと一枚一枚外してゆく。手が顔面を覆う包帯をむき始める。
 鼻から口へ、徐々に肌が見え始める。薄い灯りに照らされたその肌は、驚くほど白い。
 維盛は目を見張った。
(女性(にょしょう)か――――)
 やがて、滑り落ちるように衣服が落ち、同時に地につきそうなほど長い髪が舞った。
 言葉にならないほど細く美しい裸身だった。
 幽玄の美とはまさしく今目にしているものなのだろうか。
 一瞬、見とれてしまった維盛だったが、咄嗟にその場を離れる。
「まさか――――女性であったとは――――」
 だが、遅かった。
 背後に気配を感じ、振り返ると、その女性がじっと、維盛を見つめていた。そっぽを向き、慌てる維盛。
「こ、これは許せっ。も、物音がしたゆえ、もしやと思うたら、そなたが……」
 だが、彼女は怒る様子など見せず、優しげに維盛を見ている。
「お気になさることはありません。申し遅れました。私、陰陽博士・源士(みなもとのまもる)に仕えます、安曇千影(あずみのちかげ)と申します」
 そう名乗った少女はゆっくりと湯へと歩を進める。
 さすがの維盛もしばらく瞼を伏せていたが、千影に勧められてその姿が湯気に隠れるくらい離れた場所に再び浸かる。
「安曇千影殿とやら、なぜに私を……それに今まで姿を見せぬ理由とは、これいかに?」
 維盛の問いに、千影はわずかに微笑むと答えた。
「すべては陰陽の導きによるものです。今日までこの身証すことを厭うておりましたのも、同じく……」
 陰陽――――大陸伝来の易学のひとつ。
 天文・暦学、万物は陰と陽によって成り立つという定義。平安朝中期の伝説的人物・安倍晴明(あべのせいめい)に代表される、一種の魔道・占術。
「主人・源士の命により維盛様をお守りするこそが私の使命でございます――――」
 それが定めかのように、十六歳の少女の言葉には力強さを感じさせる。
「陰陽師か……安倍晴明の高名は聞き及んでいるが、まさかそなたのような少女がかような人物とは……」
 維盛は感心したように、湯気の向こうにいる千影に視線を送る。
「木曾次郎様の生涯、鎌倉様の挙兵、平相国様の死……そして平家御一門のこと……すべては天に導かれた運命。何人たりともこれに逆らうことは出来ないのです」
 千影の引き込まれそうな声が響く。
「維盛様がこうして生き延びておられるのも、天……陰陽に定められた運命なのです」
 抽象的な言葉が、なぜか心地よい。麻薬にでも冒されたように、心が不思議と落ち着いてゆく。
「……はっ」
 ふと我に返った維盛は愕然となった。
 目前に千影が微笑みを浮かべながら、じっと瞳を捕らえるように見つめていたからだ。
「ち……千影殿」
 真っ赤になる維盛。
 いかに天下に名の聞こえた沈勇な武人だとて、裸の女性がいきなり面前に現れて狼狽しない男はいないだろう。
 赤みがかった千影の円らな瞳が、まっすぐ維盛を捕らえている。
「…………」
「…………」
 水の音だけがこだまする。
 維盛は千影から目を逸らすことが出来ない。身体だけ不思議な魔術にかかったように動かない。千影の妖艶さに維盛は釘付けになる。
 そして、おもむろに千影の細い両腕が維盛のうなじにからめられる。
「――――そして、維盛様が私を抱きたいと思うのならば、それもまた……運命――――」
 千影の瞼がゆっくりと落ち、薄く開いた唇が静かに維盛に近づいてゆく。維盛もつられるままに瞼を閉じかけたが、一瞬の正気がそれを止めた。
「す、すまぬっ!」
 バネのように後退する。
 鼓動が破裂しそうなほど高鳴り、上気した顔面がさらに紅潮する。そんな維盛を、千影はなおも微笑み見つめている。
「維盛様らしいですわ。でも……いつでも……」
 その反応すら知っているかのように、千影は冷静であった。

「ふぅ……」
 やや逆上せたか、維盛は粗末な山小屋の中に横になる。
 千影が枕元に座し、その表情を見つめていた。
 修験僧たちは警護のために巡邏していてそこにいない。
「しかし――――定めとはむごいものだな……」
 目を閉じながら、そう呟く。
「私がこのまま生きながらえたとしても、後の世いつまで我ら平家の血は続くのか……。永劫に続くならば意味があろうが、絶えうることならば、私の生涯は本当に無意味なものになってしまう」
 孤独感がそう思わせていた。
 考えてみれば、生まれた時からエリートを約束され、一族に支えられ、明るい道を目を閉じて歩いてきた人生だった。
 それが今それはなく、たった一人でこれから歩んでゆかなければならない。
 平氏の嫡流を絶やさぬだけに闇の道を歩んでゆかねばらならいのだ。
 頼れる者はない。
 『人の道』を、維盛は歩むことになる。
「ご心痛は無用です、維盛様――――」
 淡々とした口調で千影は言った。怪訝な眼差しを千影に向ける維盛。
「我ら陰陽道の力――――いずれ維盛様のお目に……」
 千影は穏やかに微笑んだ。