「お兄ちゃん、6時だよ。起きた方がいいんじゃない?」
シーツをはぎ取り、沈んでいる正樹の身体を強く揺さぶる。乃絵美にしては強引な起こし方だ。
「うにゃ……わりぃ……あと5分……」
『緊張』のあまり、寝つく時間が遅かったという言い訳が後に語られるのだが、この様子を見るとどうも緊張感に欠ける。
「菜織ちゃん、もう来てるよ」
「むぁっ! ……な、何だってっ!」
全くの嘘だったが、正樹を起こす呪文のひとつに、菜織がある。がばりと身体を起こし、充血した目が大きく開かれる。滑稽な表情に乃絵美はくすくすと笑った。
「ほら、もう支度しとかないと」
「あ、ああ」
寝ぼけ眼を覚ますためにシャワーを浴び、旅装に着替える。桜美駅九時半出発。考えれば慌ただしい。時折欠伸をしながら朝ご飯を摂るために、正樹はキッチンに向かう。香ばしい匂いに正樹の表情が輝く。
「へえ……今日は朝からすごいな。どうしたの?」
今日はパンと牛乳、ハムエッグというメニューではなく、炊き立てご飯、味噌汁、野菜炒め、焼き魚、酢の物、納豆、焼き海苔、などなど、日本文化を象徴するようなメニューが食卓を埋めている。
「お兄ちゃんの旅の無事を祈って今日の朝ご飯は腕によりをかけようって、昨日お母さんと話してたの。どう?気合い入っているでしょ?」
「ああ、ホントすごいよ。びっくりした。う~ん、美味そうだ」
正樹のうれしそうな顔に、乃絵美は照れくさそうに頬を染める。
「いただきますっ!」
急激に腹が減ったのか、正樹は言うが早いか、箸をつかみ炊き立ての米にむしゃぶりつく。これぞ特上の美味と心底思うのは、やはり正樹も根っからの日本人であると実感する瞬間だろう。
「おかわりっ!」
「あっ、はい」
うれしそうに茶碗を受け取り、おかわりをよそる乃絵美。平和な家族の朝の一コマとはこういった感じなのだろうか。
テレビからは朝の定番、『ズームアウト朝!』の福川朗が元気な司会ぶりを発揮している。
『……以上、愛知からでした。お次は岩手の平尾さーん?』
『はーい、岩手です』
中継ニュースのコーナーらしく、岩手からの中継に、正樹は思わずテレビに目を向けた。
『昨日の夜半過ぎに県南で発生した竜巻なんですが、倒壊した建物や森林、死傷者などはなく、警察・消防・気象庁関係者はとまどった様子で現場検証などを行っているようです』
『平尾さん、平尾さん。福川ですが、竜巻があったんですかぁ?』
『そうなんですよ。結構、大きな竜巻で、ものすごい轟音がしたそうなんですが、地元に被害はひとつもなかったらしいです』
『何かの見間違いじゃないんですかぁ――――?』
『ええ。ですが関係者に話を聞きますと、あれは間違いなく竜巻であったと……』
「おいおい、物騒だな」
正樹は唖然としてテレビを見ていた。
「大丈夫なんかよ、おい」
「どうしたの? お兄ちゃん」
「ああ乃絵美。いや、岩手の方で竜巻あったって、今テレビで……」
乃絵美がテレビを見ると、ちょうど岩手の中継が終わるところであった。
「大丈夫よお兄ちゃん。向こう、快晴じゃない」
「まあな……」
「天気予報見た? 今日は全国的に晴れだって。大丈夫よ、良かったね」
「ま、まあな。雨じゃなくて良かったって感じだし。本当のこというと、天気だけが心配だった」
さほど気にすることもなく、正樹は朝食を平らげる。すっからかんになった食卓を見て乃絵美は驚嘆する。
「すごいお兄ちゃんっ! 私やお母さんの分まで食べちゃった」
「あっ……すまんっ、つい……」
「ううん、いいよ。ふふっ、うれしいな」
頬を赤らめる乃絵美。
「ごちそうさま、乃絵美。マジ美味かったぜ。おかげで幸先がいい気してきたよ。ありがとうな」
「おそまつさまでした。ありがとう、お兄ちゃん」
見つめられて恥ずかしそうに睫を伏せる乃絵美。
ピーン・・・ポーン・・・
玄関のチャイムが鳴る。正樹が小走りで玄関に向かうと、そこに旅行鞄をぶら下げた菜織と真奈美が立っていた。
「おはよう正樹君」
「おはよっ、正樹」
「ああ、おはよう。グッドタイミング。今、飯食い終わった所なんだ。とりあえず入れよ」
正樹に招かれ、菜織と真奈美が靴を脱ぐ。
「準備できた?正樹」
菜織が正樹の全身をきょろきょろと見回す。
「任せときなさい。伊藤正樹、この日のために下準備を……」
胸を張る正樹。ぽそりと呟く菜織。
「洗面用具一式……」
「…………」
ぴたりと固まる正樹。タオル、歯ブラシ、整髪料……触った記憶がない。上半身だけ石膏のように固まり、カニ足で居間を出てゆく。
「はぁ――――この先思いやられるわ」
「あははっ、さすが菜織ちゃん、鋭いね」
感心したように微笑む真奈美。
「いつものパターンよ。真奈美もこれからあいつとつき合っていけば分かるから」
「そうなんだ――――」
「あっ、菜織ちゃん、真奈美ちゃん。おはようございます」
乃絵美が顔をのぞかせる。
「おはよう、乃絵美」
「おはよう、乃絵美ちゃん」
「いよいよですね――――。旅行、楽しくなればいいなあ」
乃絵美の言葉に、菜織が答える。
「そうね――――あいつが変なことしなければいいんだけど……。乃絵美も一緒に来てくれれば安心だったかなぁ? ゴメンね――――」
その瞬間、乃絵美は慌てて苦笑する。
「う、ううん。私は……その、い、いいよ。あはっ、あははっ」
「お土産、楽しみにしていてね、乃絵美ちゃん」
真奈美が優しく微笑む。
「あっ……それよりお兄ちゃんは?」
「最終準備中」
菜織が呆れたように答える。
「もう、コーヒーも出さないで。準備万端って言っていたのに」
「あっ、おかまいなく乃絵美」
乃絵美がキッチンの方へ去ってから、菜織と真奈美は少しの間、沈黙が続いた。菜織がちらりと真奈美の方へ視線を送ると、彼女は首から提げているペンダントを愛おしそうに見つめながら、手のひらで転がしていた。
「どうしたの? 真奈美」
「えっ……あっ、うん……」
照れくさそうにはにかみながら、真奈美は言った。
「何か――――不思議な気持ちがして……」
「えっ? 不思議なっ――――て?」
「うん……何て言ったらいいか分からないけど、今度の旅、心なしかわくわくするの」
「それって、生まれて初めて見る場所だからじゃない?」
「うん。それもあるけど、なんかもっと違う意味でね……。何て言うのかなぁ、言葉が出にくいんだけど」
それは本当だった。
『平泉』という、今時の高校生の遊び先にしてはあまりにも奇特な場所への期待感。胸が躍ると言えば極端かもしれない。だが、気持ちの片隅で自分でも気がつかない高揚感に似た感情が、ミャンマーで手に入れたペンダントに増幅されるように、真奈美の心を奮わせていた。
菜織にとっては、真奈美の言葉の意味を深慮しようとは思わなかった。
お互いに正樹に対する気持ちを知り合えたから、どのみち彼女を抑えつけるようなことを言うのは野暮というものだろう。
それに、そんな気持ちだったとするならば、初めから真奈美を誘おうなんて思わなかったはずである。
菜織はふっと微笑んだ。
真奈美の帰国で一度は波乱に巻き込まれ、正樹の気持ちを勝ち取った。だが、真奈美に対しての本当の勝負はこれからだ。三泊四日という、いわゆる短期決戦。この間、正樹・真奈美、三人の間で何が起こるのだろう。
何も起こらなければ、それでいいのだろうが、そう言うことはないだろうと、菜織は直感的にそう思っていた。
勝負は、自分自身の性根の弱さとの戦いでもあった。
「お待たせしました。――――あっ、そうそう菜織ちゃん、昨日、うちの常連のお客さんからお餞別いただいたの。お兄ちゃんじゃ心許ないから、菜織ちゃんに」
と、コーヒーカップを乗せたトレイをテーブルの上に置いた乃絵美が、圭一郎から預かった封筒を菜織に手渡す。
「へえ、渡辺さんから。さすが誰かと違って、律義よね」
と、不在の正樹を皮肉る。苦笑する乃絵美と真奈美。
「確かに、お預かりしまーす。渡辺さんにお礼言っておいてね、乃絵美」
「うっ――――うん」
なぜか戸惑ったように言葉を詰まらせる乃絵美。だが、二人とも気がつかない。
「はははは……」
と、そこへ苦笑を浮かべた正樹が、旅行カバンを抱えながら現れた。
「あっ、正樹。ちゃんと準備できた?」
すっかり母親口調になる菜織。
「ああ、バッチリだ。任しときな」
「ホントに? ……じゃあ――――」
と、菜織がひとつひとつチェックする項目にいちいち頷く正樹。
十分後、すべての支度は整った。
「よしっ、そんじゃ、そろそろ出ようか」
午前九時――――三人の予想を超えた出来事が起きる奥州・平泉への旅立ち。見送りの乃絵美と共に、伊藤正樹、鳴瀬真奈美、そして氷川菜織は、ロムレットを後にした。
東京駅行き列車のアナウンスが、けたたましくホームに鳴り響く。
「気をつけてね」
乃絵美が窓越しの正樹たちに声をかける。
「お土産待ってな、乃絵美」
「留守中、何かあったら旅館に電話しなさいよ、乃絵美」
「帰ってきたらゆっくり遊びましょう、乃絵美ちゃん」
それぞれ四日間の別れを惜しむ。大げさなようでもある。
警笛が耳を突き刺す。同じように出会いと別れを惜しむ人たちが、ゆっくりと車窓から後退してゆく。
「じゃあなっ!」
「じゃ、お願いね――――」
「またね、乃絵美ちゃんっ!」
ゆっくりと動き出す列車。乃絵美は両腕を天に突きだし、大きく振る。そして間もなく、最後列の車両がプラットホームから消えていった。
「はぁ――――」
ため息をつく乃絵美。
階段を下り、改札口を抜けると、乃絵美の前を塞ぐように、人影がぬっと現れた。
「あっ……」
「考えてみれば、同じシチュエーション、二度あったなぁ」
正樹がにやにやしながら呟く。
「それって……」
と、菜織が真奈美の方に視線を送る。戸惑ったように瞳をきょろきょろと動かし、頬を染める真奈美。
「何となくだけど、真奈美ちゃんの気持ちが分かるような気がするよ」
「そ……そうかな……」
照れくさそうにはにかむ真奈美。
六年前と先月。二度、正樹の前から姿を消し、遥か遠いミャンマーに向かった時、この列車の車窓を流れる景色を見つめながら、彼女はどんな心境だったのだろうか。
真奈美にしか、それは分からないが、今こうして正樹といる事を、真奈美はしっかりと胸に焼きつけているようであった。
「あっ、こんなのも持ってきたんだ――――」
菜織が勝手に正樹のバッグをあさっていると、『日本史小事典』なる本が現れた。
「菜織ィ、勝手に開けんなよ」
恥ずかしそうにぼやく正樹。
「へえ――――あんたにしては結構ましな本もってきてるんだね」
「あっ、『あんたにしては』っていう部分が余計だっちゅーに」
まるで屈強な体育会系の男の部屋に一冊だけあったベタベタ少女漫画を見つけられたような狼狽ぶりを見せる正樹。
菜織がペラペラとページをめくる。歴史の出来事、人物、史跡・旧跡などが事細かに記されている。
「旅行中も勉強しようって気になったんだ。偉いわよ、正樹」
感心する菜織であったが、正樹の本意は今度の旅行先の史跡などを得意げに解説し、二人にいいところを見せようなどと言う健気なものであった。しかし、見つかってしまったからには意味がなくなってしまう。
「いろいろと教えてね、先生?」
と揶揄する菜織に正樹は無気力げにふんと鼻を鳴らした。
「ああっ! 菜織ちゃん、かっこいい」
突然、真奈美が嬉々とした声を上げる。
「ん?」
反射的に正樹の視線が真奈美の膝元に向けられる。
「ちょ、ちょっと真奈美ィ、勝手に人の……」
真奈美の膝の上にのせられていたのは菜織のサックであった。
「おい、菜織……なんだそれ」
と、ぶっきらぼうに正樹はサックに手を突っ込み、棒のようなものを取り出す。
「これは……扇子? 何年か前流行った、ぼでこんねーちゃんの必需品?」
正樹の大きな声に、顔を真っ赤にして慌てふためく菜織。
「ちょ、ちょっとぉ。そんな大きな声ださないでよ、バカ」
「何だってお前、こんなもん持って来てんだ?」
と、正樹は器用に片手で扇子を開く。
そこらへんで売っているような安物の扇子ではない。能や歌舞伎で使われるような、本格的な扇子だ。
開くときに独特の抵抗感があるため、慣れないと片手で開くことは難しい代物。
「なんでって、暑いときに煽るために決まっているじゃない」
「ま、聞くまでもねえか。…それにしても、ずいぶんと年季の入った扇子だなこりゃ」
と、まじまじと扇子の図柄を見る正樹。
松の木と鳥が飛ぶ絵、そして昔の衣装を纏った人物が会話しているように並んでいる絵云々。『ナントカ絵巻』の一部を模したようである。
「昨夜旅行の準備ついでに部屋を片づけていたら出てきたのよ。ちょうど良かったから持ってきただけだってば」
何故か語気が強くなる菜織。
「ふーん。ま、巫女服着てこいつをパタパタさせれば、お前もそれなりに見えるかな」
正樹が菜織に向かって扇子を煽りながら笑う。
「いいから返しなさいっ」
憮然として扇子を取り上げる菜織。『おーこわ』と、わざとらしく身震いをする正樹。
そんなこんなで、窓を流れる見慣れた感じの都会の風景をよそに、東京駅に着いた正樹たちは、東北新幹線盛岡行のプラットホームへと向かった。
乗り込むのは『やまびこMAX』。二階構造の車両である。
予約が早かったのと、お盆休暇の前ということもあって、景色の見られる二階の座席を確保することが出来たのだ。
「うわぁ――――風景が見られるね。すごいなあ」
真奈美がはしゃぐ。
「真奈美、疲れるんだから、寝ておいたほうがいいわよ」
と、たしなめる菜織自身も初めての経験に高揚感を抑えきれない様子である。
「さ、長丁場だ。二人とも気合い入れて寝るぞっ」
むりやり瞼を閉じる正樹だったが、しばらくの間菜織と真奈美の屈託のないかしましさに、睡魔も近づけなかった。
長いまつげと穏和な目。整然と伸びたひげに、常に微笑みをたたえた口元。現代で言えばもてるタイプじゃないが、それなりにきれいな顔立ちをしているのがいかにも上流貴族らしい。かいつまんで言えば、単に言う普通っぽい美青年。優しげな光を秘める双眸は、じっと障子の方を向いている。
彼の名は前関白・基実の長子・基通。
後白河院の寵臣であり、二十六歳の若さで安徳帝の摂政を務める。
後年、九条家・一条家・二条家・鷹司家とともに、『五摂家』と称された、現代で言う政治・官僚のキャリア組の名門筆頭・藤原一族のひとつ、近衛家の第二代当主であり、右大臣・九条兼実の実甥である。
やがて、廊下から人影が部屋の前で止まり、沈む。
「……失礼します」
障子がゆっくりと開き、一人の少女が姿を現す。基通はおもむろに瞳を少女に向ける。微笑みのまま無表情だ。
「近衛様――――もうじき父上がお越しになられます。今しばらく、お待ち下さりませ――――」
座礼する少女の仕草を、基通は眼球だけで追う。
「お手数をおかけします、祥子殿――――」
穏和な容貌に似合った、妙に落ち着き払った声。機械のように、感情を思わせない淡々とした口調。
「近衛様にはご機嫌……うるわしく」
十四歳とは思えない、どこか艶がこめられたような声色で、祥子は、やや顔をそむけ、流し目を基通に向けている。
だが、基通はなおも表情を崩さず、まっすぐに障子を見つめている。さも、慣れ親しんでいるかのように、微動だにしない。
沈黙が続く。言葉を交わさずとも、何かが通じ合っているかのように、近衛家御曹司と土御門の姫は傍目から見ても近づきがたい雰囲気を漂わせていた。
しばらく時が経ち、廊下を突き抜ける足音が次第に近づいてきた。やがて、障子越しに衣冠束帯のシルエットが基通の目に映ると、ゆっくりと座礼する。
「お待たせ致した摂政殿」
小柄で痩身の体躯に、偉容あふれる衣冠束帯がミスマッチである。年を取っているのだろうか、容貌のいたるところに痘痕があり、皺も多く刻まされている。瞼もやや弛み、一見、怪しげな老人。
「おお、祥子。そなたもいたのか」
「お帰りなさいませ、父上」
祥子が恭しく頭を下げる。
この御仁、村上源氏(村上天皇の子孫)の頭領、源通親。
邸宅のある地名から、『土御門通親』と名乗る、ノンキャリアの上流貴族。官位は右近衛大将・東宮傅(とうぐうふ)。東宮傅とは、皇子の守り役。つまり、皇継尊成親王の教育係である。
おもむろに基通と向き合って腰を下ろした通親が、上体を前に傾け、口を開く。
「月輪(つきのわ)殿ははいかな様子かな?」
「相も変わらず、関東と誼を通じておられるご様子でして……」
表情も変えず、ため息をもらす基通。
「さもありなん。かの御仁はわが神州を東夷に売り渡そうとしておるのだ。我らが何度となく物申しても、いっこうに聞き入れようとはせぬゆえのう」
「我が叔父とはいえ、右府の重職にありながら畏れ多くも天子を蔑ろにしようという野心は見え透いています。このままでは鎌倉の意のままに……」
「……かと申して、月輪殿にはさしたる落ち度もなく、なみいる功績ゆえに、公卿どもはほとんどが毎夜月見酒などしゃれ込むほど月輪殿一色じゃ。院も信用されておる。我らがとやかく申したとて、御仁の足下はぐらつかぬわ」
イライラしているのか、右手に笏を握りしめ、先端を何度も左の手のひらに打ちつける通親。
「……しかし、先手を打たねば、いずれ我らの居所がなくなってしまうかも知れません」
「それは言わずとも分こうている。ゆえにこうして摂政殿をお呼びいたしておるのじゃて」
通親が声を荒立てる。
「先帝が西海にお隠れ奉った今、慣例に従い、私も摂政を辞さねばなりませぬ」
ため息まじりに基通は言う。清盛の娘・徳子が産んだ安徳帝の摂政を務めていたとはいえ、権力は当然、帝の外戚である平家一門が牛耳っていた時代。いかに摂政・関白とはいえ、御堂関白(道長)の御代のような権威は露ひとつないのだ。
皇太弟・尊成親王が践祚、即位した後はいやがおうにも九条兼実に摂政が移る。
今や平家はなく、親鎌倉派の筆頭兼実が朝廷のトップに立てば、朝廷の権威ますます失墜し、ともすれば政権自体が前代未聞の京から鎌倉に移ってしまう事態になりかねない。
「すべては右府殿の思惑通りと言うことか――――」
通親の声が震えている。時の流れとはいえ、もはやなすすべもないといった風に聞こえる、弱気なため息をもらす。
そのとき、突然基通が喉の奥でくっくっくと笑い声をあげた。驚く通親と祥子。
「何がおかしいのだ、このようなときに」
憤懣な面もちで通親が基通をにらみつける。基通はなおも穏和な表情を崩さないまま、優しい視線を向けている。
「時流に身を任さざるを得ぬとは笑止。……内府殿、ここは機先を制してみましょうや」
「機先じゃと――――?」
怪訝そうに眉をひそめる通親。
「御免―――」
と、基通が唇を通親の耳元に近づける。
「………………………………」
愕然となる通親。まさかといった表情で基通を凝視する。
「そわ、まことなのか。信じられぬ」
「手筈は私が整えいたします。内府殿は吉報をお待ちしていただこう」
「う、うむ……」
戸惑うように目をきょろきょろさせる通親。
「怖れていては事が進みませぬぞ。ここまで来た以上、内府殿もお覚悟を決められませ」
基通の優しい瞳の奥に、冷たい蒼色の閃光を放ったように見えた。
とある住宅街の一角。
ひときわ目立つやじろべえ型の髪の毛に、紫がかった大きなサングラスを装着した怪しげな少女が、人目をはばかるかのように周囲をきょろきょろしている。
本人は目立たないように変装でもしているつもりなのだろうが、道行く老若男女は訝しげに一瞥してゆく。巡回の警察官が彼女を見つければ、挙動不審者として否応なく署に連行されてしまうだろう。
「もう――――おっそいなぁ――――」
忙しそうに腕時計を何度も眺めながら少女はぶつぶつと呟く。
やがてその肩を背後からぽんと叩かれ、驚いた彼女が振り返る。
「よう、何やってんだ? ミャーコ」
肩に大きなショルダーバッグを提げたショートカットの少女が、不思議そうにミャーコこと信楽美亜子を見ている。
「あっ、サエ? にゃはは☆ ばれちゃった?」
サングラスをずらしていたずらげに輝く瞳を、サエこと田中冴子に向けた美亜子が笑う。冴子はため息まじりに失笑した。
「ばれるもばれないも、おめえしかいねーだろ、そんなカッコして歩くのは……。それにしても、はぁ――――」
と、冴子は美亜子の周囲に置かれている荷物の束を見て長嘆。
「なぁ? 本当にやる気なのか?」
不安げな口調で、冴子は言った。
「あったり前じゃんっ! なに? もしかして怖じ気づいたのォ――――サエ?」
「そ、そ、そんなことはねぇけどよ。ただ――――ばれたら半端じゃねえ……」
「にゃははは、大丈夫、大丈夫だって。怒られるどころか、かえって喜ばれるよ」
「そう思ってるのはおめえだけかも……」
美亜子の嬉々とした口調とは裏腹に冴子の声は沈みがちだった。
「そう言えば、彼女はまだ――――」
美亜子が気づいたように周囲を見回す。
「さっき電話したから、もうすぐ来ると思うぜ?」
「もうっ、急がないと間に合わなくなっちゃう」
そわそわするように身体を揺さぶる美亜子。
やがて・・・。
「あっ、来た来た」
冴子が道の向こうからトボトボとした足どりで近づいてくる人影を見つけ、両手を振り上げ大声を上げた。
「お~~~~~~いっ! のえみぃ~~~~~~っっ!」
乃絵美は冴子の声に気がついたのか、手荷物を落として両手を振り上げる。
「乃絵美ちゃ~~~~~~んっっ、おっそ~~~~~~いっ!」
と、憤懣気味の美亜子。
「んなこと言ってねえでおめえも手伝えっ!」
美亜子の背中をどんと押して冴子は乃絵美の元に駆けつけた。
「おはよう。サエちゃん、ミャーコちゃん」
乃絵美ははにかみながら挨拶する。額にうっすらと汗をにじませている。
「ミャーコもそうだけど、乃絵美――――お前も何だよ……その荷物」
呆れ気味に乃絵美が抱えていた二つのバッグを見回す冴子。大きさはそれほどでもないが、何が入っているのか、結構な重さである。
「なんだかんだ言って、楽しみにしてただろ?」
冴子の的を射た質問に乃絵美は頬を赤らめて小さく笑う。
「さあさあっ、もう時間がないよォ。チョッパヤで行こー!」
と、美亜子が大きく腕を天に突き上げたとき。
キキキキキ――――――!
「うわっ!」
「きゃっ!」
どこから現れたか、三人の間に割り込むようにタクシーが急ブレーキで停止する。
「あっ、アブねーじゃねえかっ!」
「……………………」
怒鳴る冴子、胸バクの乃絵美。
「ほらほらっ、話は後、後」
と、美亜子は開かれたトランクに自分の荷物を詰め込んで行く。
勢いに負けた冴子と乃絵美も荷物をトランクに詰め込む。三人の荷物のおかげで、トランクはジャスト、満杯になっていた。
「それじゃ『ヤッ』チャンッ! 『タキオン』よりも速くお願いねぇん?」
「うぉう! 任しちき!」
美亜子のウインクと指ぱちに、運転手はアクセル空ぶかしで答え、急発進をかました。
「どわぁっ!」
「きゃっ!」
その衝撃にシートに背中を打ちつける冴子と乃絵美。かたや美亜子は『にゃはははは☆』と笑っている。
「み……ミャーコ……。し、知り合いか?」
苦笑しながら冴子は小声で訊く。
「うんっ! うちの店のジョーレンさんで『疾風のヤッチャン』。交機上がりの運チャンだよ?」
「よろしくっ!」
と、美亜子に負けない妙なノリで、運転手はひげ面の口元からきらりと白い歯を覗かせた。
美亜子曰く、疾風のヤッチャン、四十二歳厄年。
通常一時間の道程を三十分で到達させる凄腕(?)の運転手。どういう手段を使っているのかは知らないが、ゴールドカードを引っ提げた超人だという。
冴子と乃絵美、美亜子の人脈はだてじゃないと思い知らされた瞬間だった。
「よっしゃぁ! 着いたぜ!」
急ブレーキと同時に『ヤッチャン』の声。
間髪入れずに美亜子たちはタクシーを降りる。
「お願いっ! ヤッチャンも手伝って」
「おうよっ」
急停車からそれぞれの荷物を肩にぶら下げるまでの所要時間、約一分。素晴らしきは火事場の馬鹿力らしからぬ、火事場の俊敏力。
「間に合えばいいなあ……」
美亜子の呟きに、冴子が声を荒げる。
「んなことよりも急げよっ! ほらっ、乃絵美も走るぜっ」
「う、うん……」
ヤッチャンに荷物を預け手ぶらの乃絵美が、どたどたと足を速める美亜子と冴子の後を続いた。
出発の時刻になった。だが、出入り口がなかなか閉じられない。正樹たちがおかしいと思った瞬間、車内アナウンスが響き渡った。
『ご乗車の皆様にお知らせいたします。現在、機関室の制御装置損傷のため、修復中。誠に勝手ながら、出発時刻を延長し、0時30分発車となります。大変、申し訳ございません。繰り返します……』
そのアナウンス直後、車内はどよめきとブーイングに包まれた。
「おいおい、ちゃんとしろよー」
こういった公共の乗り物というのは、まさしく人の命運を左右するものだ。
たった一分でも遅れたもので、重要な仕事先に向かうサラリーマンなぞはその身を滅ぼしかねない。不慮の事故が発生したともなれば、一ダイヤ・一車両違うだけで生死を分ける。
車内での携帯電話使用を禁じられているとはいえ、そのアナウンス直後は無法地帯と化す。
あちこちでサラリーマンたちの声が飛び交い、その喧噪さに微睡みに入りかけていた菜織と真奈美は重い瞼を上げる。
「あっ――――正樹、どうしたの?」
「う……うんんん……」
半寝ぼけ顔の二人に、正樹はアナウンスの内容を話す。
「ふーん……まっ、いいじゃない。どうせ今日は向こう行ったらそのまま旅館直行なんだし。ゆっくり名残を惜しみましょうよ」
菜織が眠たそうにそう言うと、正樹と真奈美は無言で肯定する。
「はあぁぁぁ……暇だ」
と、正樹がガラス越しの構内に視線を送ったときだった。
「!?」
正樹は驚き、思わず目を見開く。眠気が一瞬にして吹き飛んだ。
「あっ、あれ?」
その声に菜織と真奈美が不思議そうに正樹を見る。
「どうしたの? 正樹君」
真奈美がきょとんとして声をかけると、正樹は両目を人差し指で擦りながら振り返る。
「かさ――――」
「え?」
真奈美の頭の上にクエスチョン・マークが飛び交う。
「かさ――――かぶってない?」
意味不明の言葉に、真奈美は返す言葉も見つからない。
「なあに寝ぼけているのよ、正樹」
菜織の突っ込みに正樹は目をしばたたかせながら再び窓へと目を向ける。
「え? ――――うーん……」
首を傾げながら正樹は小さく唸る。
「気のせいか……」
ひとり呟き、ため息をつく。
「疲れてんなぁ――――オレ」
両手の指をからめて腕を大きく突き上げ背伸びをする正樹。そんな彼をじっと見つめる真奈美、ぷっと吹き出しそうな顔で見ている菜織。
「気合いを入れて寝るんじゃなかった?」
「何だかわかんねえけど、目が覚めてしまったぜ」
意志に反して爛々と輝く正樹の目を見た菜織がさも『しょうがないわねぇ』と言わんばかりにため息をつき、棚の上からバックを引きずり出すと、中からトランプのカードを取り出した。
「暇つぶしに、やる?」
「お約束だな。……ま、眠くなるまでならいいか」
半分乗り気ではないと言った感じの正樹だったが、何々、やればはまるものだ。
『ばばぬき』、『大貧民』、『ポーカー』えとせとら・・・。さすがに『七並べ』や『神経衰弱』は出来ないが、三人でしのぎを削る大勝負と化す。駅弁のおごりを賭けるともなれば、さもあろう。
『えー……大変長らくお待たせいたしましたー……東京駅発やまびこ××号盛岡行ー間もなく発車となりますー駆け込み乗車は大変危険ですー……』
構内アナウンスとサイレンがけたたましく流れる。
腕時計を見ると12時27分。どうやら今度はまともに発車するようである。
「いよいよだねー」
真奈美はうきうきしている。
「楽しみだなぁ」
菜織もまた、無意識に身体を揺さぶって嬉々としている。
「…………」
とかく正樹は言葉が出ない。わなわなと身体が震え、トランプのカードをじっと見つめている。発車の瞬間の雰囲気なぞ、味わう余裕すらないと言った感じだ。
やがて、出入口の扉が閉じられ、駅員の笛の音が構内に響き渡る。
ゆっくりと動き出す新幹線。
流れて行く東京の風景に、無邪気に歓喜する菜織と真奈美だったが、正樹の視線は白地にスペードのマークにあった。
午後十二時三十分。
三人を乗せた新幹線は、ゆっくりと、東北の地へ向けて動き出した――――。