ただの暇つぶしから始まったトランプゲームは、正樹の意地を賭けた白熱戦と化し、宇都宮を過ぎた頃、それはようやく終幕した。
東北圏。
風景は緑が目立つようになり、都会とは全く異なる情緒を醸し出す。
気合を入れて寝るぞと言っていた正樹だったが、結局トランプの興奮冷め遣らぬといった感じですっかりと目が冴えてしまっている。菜織や真奈美もどうやら右に同じくといった様子だ。
何気ない会話も、どうも時間を無駄に費やすといった意識があるのか、長続きがしない。
正樹はおもむろにバッグの中から『日本史小事典』を取り出すと、ぱらぱらとそれをめくった。
「おっ!」
不意に正樹が声を挙げ、菜織と真奈美が驚いて視線を向けた。
「どうしたのよ」
怪訝な表情を浮かべる菜織に、正樹はにやりと笑みを浮かべる。
「ちょっと、怖い話をしようか?」
「え……」
「怖い……話?」
一瞬、眉をひそめる菜織。おどおどとした感じながらも、一点に正樹の目を見つめる真奈美。
「そう。あらゆる人々の『絆』を呪い続けるという、世にも恐ろしき怨霊の話さ」
「なに、それ? アンタ、まさかいつぞやのミャーコみたいなこと言い始めるんじゃないでしょうね?」
と菜織。
「この本に書かれていることなんだ。嘘も何もないだろ?」
「ふーん……」
興味なさそうに鼻を鳴らす菜織。
「まっ、話さなくても別にいいんだけどよ」
「いいわよ。聞いてあげる」
ぶっきらぼうに菜織は言う。
「『絆を呪い続ける怨霊』かぁ……」
真奈美は意味深なため息を漏らす。
やがて、正樹は本の文章に目配りしながら、おもむろに語り始めた。
「こほん……えー……時は……」
顕仁(あきひと)は一人の少女を胸に抱きしめていた。
古今未曾有の白面の美男子。その容貌は三十七歳にして非常に若々しく、神々しさすら感じさせる。
憂いをたたえた瞳。長身痩躯は小刻みに震え、生ぬるい風が異様な妖気を運び、悪寒を走らすようだった。
「そなただけは……落ち延びよ」
「顕仁さま――――!」
薄汚れた貫筒衣を身に纏っている美しい少女は、傍目から見ても農家の娘であることが分かった。
少女はあからさまに身体を震わせ、顕仁の全身に電気を走らす。
「私が真に心許すは、そなたのみ……。故にそなたを死出の道連れにするわけには行かぬ……わかっていよう」
「わかっております……わかっては……」
顕仁の説得も虚しく、かえって少女は離れるのを潔しとせず、顕仁の胸に身体を預けてくる。
「夜明けには雅仁(まさひと)の陣に攻め入る……。我が身死せども、この魂までは消えはせぬ……」
「あ――――顕仁さまっ!」
「長経ッ!」
少女の言葉を無視し、顕仁は腹心の部下を呼ぶ。
長経は緊迫した様相で顕仁の御前に平伏する。
「美咲を――――頼むぞ」
「はっ」
そして長経は割れんばかりに泣きじゃくる美咲と呼ばれた少女を顕仁から引き離すと、帳の向こうへと消えていった。
徐々に遠ざかる美咲の哭泣。それが消えると、顕仁はひとつ震えるため息を漏らし、天を仰いだ。
(雅仁め――――貴様だけは……許さぬ……)
ぎりぎりと唇を噛みしめる顕仁。やがて、甲冑を身に纏った将士が御前へ現れた。
「帝――――万端整いまして、ございまする。何時でも、御詔を……」
「頼長―――為義――――忠正―――。そなたたちの忠義……決して忘れはせぬぞ……」
「…………」
三将は顕仁の言葉を聞いた途端、膝を折り、肩を震わせて慟哭した。
将士が一瞬のまどろみを覚えた時だった。
不吉なる鴉の大群が陣営の空に舞い上がり、その怪声にはっと目を見開く。
しかし、時は遅かった。
怪声鳴り止まず、続けざまに喚声が顕仁の脳裏を震わせた。
咄嗟に太刀を握り締める顕仁、しかし……
「申し上げますっ! 敵方の夜襲にそうらえ、左府頼長卿戦死っ! 源為義殿、鎮西八郎殿、平忠正殿、これを迎え撃ってございまするっ!」
愕然となる顕仁。
「おのれ雅仁めが……汚い真似を――――」
そのときの顕仁の変貌は言葉に出ない。
握り締める太刀をがくがくと震える両手で圧し折った。それを見た注進兵は恐怖のあまり失神してしまったという。
午前8時頃、すべてが終わった。
顕仁側の将兵たちはほとんど討ち死にし、大将である源為義、鎮西八郎為朝、平忠正らは敵の捕虜となっていた。
顕仁は煙立つ御座所に静かに座していた。そこへ敵と思われる大将が乱暴に足を踏み入れてきた。
「源義朝でござる。先帝とお見受けいたす――――」
顕仁は梔子とばかりに答えない。
「御竜体、御捕らえ奉る――――」
と、義朝が顕仁に近づいたときだった。
「佞賊が身の程をわきまえず朕に汚手を触れるかッ!」
と、顕仁が義朝をにらみつけ一喝した。一瞬怯む義朝。
「下司に言われずともこの顕仁、逃げも隠れもせぬわっ! 『弟』の卑賤なる顔(かんばせ)、とくとこの目に焼きつけようぞ」
顕仁は義朝やその配下の兵士たちを振りほどき、哄笑しながら自ら敵の軍門に下った。
「すとくてんのぉ?」
菜織が首を傾げる。
「聞いたことがないわね。真奈美、知ってる?」
菜織のふりに、真奈美はふるふると首を振る。
「怨霊って言えば、大宰府天満宮の菅原道真って人がそうだって言う話、聞いたことがあるけど……」
「あっ、あの『学問の神様』でしょ? ねえねえ真奈美、三年になったら一緒に大宰府行きましょうよ。大学受験もあるんだし……」
苦笑する真奈美。
「おいこら、菜織。話は終わってねえ」
「ん、なによ?」
あからさまに正樹の話を逸らそうとしている態度が見え見え。
「ははぁん、菜織ぃ、もしかしてお前、怖いのか?」
「な、何言ってんのよ、ばかばかしい。怨霊なんているわけないでしょ?」
「だったら、どうせだから最後まで話聞けよ。どうやらこれは満更でもなさそうだぜ? ミャーコちゃんの作り話なぞ足下にも及ばねえくらい……」
「あぁっっ、分かったわよ。聞いてあげる。聞いてあげるからとっとと話しちゃいなさいよ」
何故にむきになる菜織。目が泳いでいる。正樹はややからかうようにふっと笑うと、続きを話し始める。
後年、“保元の乱”という名で歴史に刻まれることになるこの戦いは、雅仁親王――――後に天下にその名の高い“後白河天皇”側の大勝利で幕が閉じた。
顕仁親王――――すなわち崇徳天皇は断罪され、崇徳に荷担した源為義・為朝父子、平忠正らは洛外で首を刎ねられた。
姦淫の胤――――。
崇徳は先々代・鳥羽帝の第一王子でありながら、生誕以来、そんな陰口に代表されるように悲運は御身に取り憑いていた。
その因は、すなわち崇徳の御生母、璋子(しょうし=たまこ)が、鳥羽の祖父・白河法皇と不義密通を重ねているという不明確な噂。
つまり、崇徳は曾祖父の子。父の鳥羽からすれば叔父と言うことになるのだ。
――――叔父御殿――――
鳥羽の長男でありながら、父親からそう呼ばれていたという崇徳の心情はいかばかりだっただろう。
才気煥発にして美貌を兼ね備えた皇子だったが、あらぬ噂は、その麗しき運命を容赦なく暗黒の淵へと陥としていたのだ。
かたや弟の雅仁は世評に『文にも武にも非ず』と酷評されるほどの不良で、女癖が悪く、饒舌で調子よい、現在で言えば超人気ホスト気取りの優男で、まかり間違っても皇位を継ぐ品格ではなかった。
だが、その素行に相乗り、野心は人一倍強く、有能な兄の凋落を画策。時期を計らいつづけていたのだ。
雅仁には、兄の噂は格好の好都合だった。朝廷内の文武官同士の確執や、皇族間の権力闘争が追い風になり、真綿で締め付けるように徐々に崇徳を追いつめ、挙兵に及ばせた。
崇徳上皇に荷担した武将・公卿は一掃され、崇徳については、さすがに死罪を追及するのを憚った朝廷によって、讃岐国へ配流奉ると決した。
崇徳を乗せた輦(れん)が朱雀門から大路へと姿を現したとき、都の人々はつとに崇徳院を慕う悲嘆の声を上げる者あり、かたや畏れ多くもあらぬ噂を信じ、罵声を浴びせる者もあった。
そんな都の様子を、崇徳はどんな思いで見送ったのか。
「…………」
二度と戻れないだろう故郷の地に寄せるのは、決して惜別というものではなかった。
語るに尽くせない憎悪に清冽な御心は赤く汚れ、麗しき殿上の美貌は冥府の皇子のように角が生え、真紅に染まった眼は、自分を破滅に追いつめた血族、そして魔の潜む都を血で沈めた。
弟・雅仁、すなわち後白河天皇は、衛門の番屋から密かに兄の輦を眼下に見下ろし、口の端に嗤いをたたえていたという。
それは、自分の奸智が面白いほど功を奏した事への愉快感からなのか、ただ兄一党に生き地獄を味あわせんと欲する、魔性が成せるものなのか、後白河しかわからない。
「何かイヤな感じねー」
菜織が眉を顰める。
「何が?」
「後白河って奴。要するに、自分が天皇になりたくて兄貴を策略に賭けたって事でしょ?」
「いや、策略かどうかはわかんねえけど、少なくても、それ以前から兄弟仲は悪かったみたいだな」
と、正樹は何か勝ち誇ったように声がややうわずっている。
「正樹君と乃絵美ちゃん兄妹は羨ましいほど仲がいいのにね」
真奈美が微笑みながらそう言うと、正樹は思惑的中とばかりに、輝かせた目を真奈美に向ける。
「ま、それよりも続きは? もう終わり?」
「こら菜織、何事もなかったように流すな」
と、言いつつも、結局真奈美も話の続きが聞きたいと言うことになり、正樹の妹想い話と銘打つ余談は二の次になった。
いかに罪を得ているとは言え、崇徳は上皇である。
讃岐の民は天孫の来国を篤く賀し、国衙ですらも内々に崇徳を手厚く遇した。
出生こそが悲運と言うしかなかった崇徳の半生の中で、ささやかなりとても、かような遇され方はまさに『人』としての自らの存在を確かめ、そして肉親に対する憎悪を少なからず忘れさせてくれるに十分だった。
崇徳に好意的だったのは、新木左馬允(あらきさまのじょう)という、国衙の役人だった。新木は崇徳の身の上を殊の外察し、口外はせずとも、ずっと崇徳を慕っていた。
罪人の身となり自身身動きがとれない崇徳にとって、御番(上皇監視役)となった新木との出会いは、讃岐における『第二の人生』に大いに弾みになるものだった。
「美咲殿ですか。しかと、承りました」
崇徳は新木の厚意を謝し、力となりたいという彼の切願に報いるべく、美咲――――。そう、崇徳が心から愛しあえた、だが、自分とはあまりにも身分が違いすぎる、名もなき農耕の娘の捜索を望んだ。
保元元年のあの日、腹心だった長経に託し、難を逃れさせた後の美咲の消息は知らない。ただ……
会いたい――――
崇徳は素直にそう思った。
幾たびの時は流れ、季節は移ろい、吹き抜ける風に冷たさを含む頃になった。
崇徳のもとに、一人の女性が姿を現した。それは音沙汰もなく、不意の来訪だった。
彼女は誰であろう、忘れたくても忘れられるはずがない、美咲という名の少女。
感動の再会だった。禁忌の恋がその界を超えて実を結び、二人は新たな人生への歩みを始め、そして静かに歴史の表舞台から身を退く筈だった。
だが、間もなく崇徳に報された、新木の死。
不慮の事故と言うことだったが、美咲が崇徳と再会した日に死んだ。それは偶然なのか。崇徳も美咲も、自分たちに好意的だった役人の死を大いに嘆き悲しんだ。
だがある日、新木の同僚の御番が崇徳に謁し、衝撃の事実を告げた。
「新木は靫負の手に闇討ちされたのでございます。また、藤原長経殿も程なく変死を遂げられました……」
靫負(ゆげい)。すなわち、朝廷の特捜隠密警察。検非違使別当の直属機関で、現在で言うSAT、もしくは暗殺部隊。
「朝廷に討たれただと……!」
崇徳は大いに驚愕し、新木はもとより、腹心の長経の死も、靫負による暗殺であることは傍目からも明らかだった。
「雅仁の仕業か……」
崇徳の心に忘れかけていた憎悪の念が再燃する。
内裏を追われ、戦に敗れ中央復帰の一縷の望みさえも絶えた崇徳。いわば死人にむち打つ後白河の所行。
かりそめなりとも安穏とした配所での生活を夢見、新木や長経のささやかな厚意に支えられて行くはずだった。それを、嘲るかのように、そして拷問のように崇徳の手足のひとつひとつを切り取って行く残酷な仕打ち。
「おそれながら……」
御番の話はそれだけではなかった。意味深に間を空け、崇徳を正視できない。
「どうした、申せ」
「はっ……」
「構わぬ。今さら何を言われても恐ろしゅうはない」
ひどく落ち着いた崇徳の声。だが、閉じられた瞼の奥の闇く揺らめく瞋恚の火種は、今まさに劫火となりて神州を灼き尽くせんばかりとなる予感がした。
どうやら気づかないうちに熱がこもった話し方をしていたのだろう。じっと正樹を見つめている真奈美と菜織。ふと周囲を見回すと、他の客ですら正樹の話に耳を傾けているかのようにしんとなっていた。
「……ちょっと、どうしたのよ正樹」
口が止まる正樹を見る目がみるみるうちに不満色に変わる。
「正樹君?」
「…………」
その正樹は小刻みに瞼を瞬かせ、首を傾げながら二人の顔を交互に見回す。
「ちょっと正樹、大丈夫?」
一瞬、嫌な予感が菜織の脳裏を駆け抜ける。反射的に両手を正樹の頬に重ね、瞳を見つめる。
「…………」
その様子を複雑な眼差しで見る真奈美。
「だはっ」
菜織の手首を掴んで引き離した正樹が奇声を上げて大きく息をつく。
「こ……声が嗄れる……。ちょいと休憩」
と、買っておいた缶ジュースに手を伸ばす正樹。思わせぶりな態度の末にこのオチ。程なく菜織のど突きが脳天に落ちたのは言うまでもない。
新幹線は福島を過ぎ、宮城へとさしかかっていた。
ずっとしゃべり続けていた正樹の声は嗄れ気味となり、ジュースで潤すものの、続きを話すのにはまだしばらく時間がかかりそうだった。
「うーん、よくわかんないわね」
何かを考えていた菜織がふと呟く。
「何か話を聞いていると、崇徳天皇が一方的に悲劇のヒーローって感じがするし、あたしが知っている範囲の後白河って、確かに節操のない奴だけど、それほど悪人には思えないし……」
「うーん……歴史ってわかんねーよな。でもさ、結局出来事を記録して行くのは人間だろ? 都合の悪い事実が消されて行くってのはいつの時代でもあるもんだろうさ」
「それはそうだと思うけど……」
「俺は歴史に善悪なんてあるのかなあって思うぜ」
「どういうこと?」
真奈美が正樹を見る。
「何となくさ。俺たちが知っている知らないは別にして、歴史に名前自体が残っていることがさ、善悪の界を曖昧にしてしまっているような気がするんだ」
「? よく、わからないよ」
「要するに、ヒトラーとかのような万国公認の大悪党は別にして、例えば崇徳天皇なら崇徳天皇の立場から見りゃ、後白河は悪人だし、後白河からしてみりゃ、崇徳は悪者だよな」
こくりと頷く二人の少女。
「つまりそう言うことさ。どちらが善か悪かなんて、決められるはずなんかねえさ。真実は当時しかわからねえんだし」
「確かに。アンタの言うことも一理あるわね」
「陸上だってそうさ。優勝すれば名前が残る。出来ねえとどんなに頑張っていたって名前は残りゃしねえ。そんなもんさ」
常に勝者が綴る歴史の糸。負ければそれまでで、どんなに輝かしい功績を残しても、一大決戦に敗れてしまえば、水泡に帰する。
たとえどんな言い訳をし、繕うとしても、敗者は永遠の敗者となる。
崇徳は保元の乱に敗れ、未来を失った。正樹はあの陸上大会に勝利し、菜織との未来を得た。善悪などはいざ知らず、歴史は、それだけしか見ない。
「何か余計な話しちまったな。んっ……これからが怖い部分だ。心して聞け」
と、正樹は襟元をただし、小さく咳払いをすると、再び語り始めた。
「実は――――」
御番の口はその先を言うことはなかった。
低い呻き声とともに口許から血の糸を垂らした彼の身体が、ゆっくりと前に崩れ落ちたのである。
「!」
愕然となり、思わず立ち上がる崇徳。見れば背中から一本の弓矢が見事心臓を貫き、鏃を真っ赤に染め、滴となっていたのだ。
「靫負かっ」
崇徳は駆け、障子戸を乱暴に開き中庭へと躍り出た。
ざざざざという冷たい風が散り葉をさらって行く音に混じり、曲者の気配を崇徳は察知していた。
「おのれ雅仁の回し者どもめ、この顕仁の命欲しくば私を狙えっ」
崇徳の叫びが風に運ばれて行く。気配は息を潜めているようだが、無防備の崇徳に対して微動だにしない。
やがて騒ぎを聞きつけた国衙の役人たちがぞろぞろと配所に駆けつけてくると、気配は煙のように掻き消えていた。
それからしばらくの間、崇徳の周辺は穏やかに過ぎて行き、京師も乱の傷痕をあからさまに見せつけるような様子もなく落ち着いているようだった。
しかし、嵐の前の静けさ、山雨来らんとして風楼に満つとはよく言ったものである。
その日も美咲と寝床を共にしていた崇徳は不意に眠りに落ちかけ、波が引いて行くように意識がとどまった。
「…………」
美咲の姿がそこにないのに気がついた崇徳は起きあがった。厠にでも行っているのであろうと思い、自分もまた厠に行くために立ち上がり障子戸を開けた。
煌々とした白い月が闇を照らす。眩いばかりの輝きに思わず目を細める崇徳。
きし……きし……
時折あくびをしながらゆっくりと厠への渡り廊下を歩く崇徳の耳に、潜むような声が聞こえてきた。
(出来ぬとは……)
(………………です)
(……命なるぞ、わかっているのか)
(もはや…………なのに)
(情が…………かっ)
潜み声のひとつが語気強く、何かに怒っていることを伺わせる。
崇徳は感づかれないように足音を殺すと、潜み声の源らしい植え込みの方へ忍び寄り、耳を凝らした。すると二つの声ははっきりと耳に捉えることが出来た。
「何のためにおぬしを院のもとに遣わしたと思うている」
男の声だった。
「お言葉ですが、死者にむち打つに等しい理不尽な主命かと」
女の声だった。
「顕仁の院に荷担した藤原長経、新木左馬允の二人を失わせただけでも十分ではありませぬか」
その言葉を聞いた崇徳は我が耳を疑った。
男の声はいざ知らずとも、女の声は聞き慣れた者の声だったのだ。
……美咲……
「誰もあの者たちのような雑魚を仕留めよとは申しておらぬ。院を弑し奉らぬか」
「…………」
「よいな。功を成した暁には、御上より篤く遇される。頼んだぞ――――美咲――――」
まさか聞き間違えであろうと自嘲していた崇徳の疑念は、無情にも的を射てしまった。男の声がはっきりと“美咲”の名を言ったからである。
……ばかな……長経や新木を殺したのは……美咲だというのか…………。
美咲は……美咲は靫負の手の者であったというのか……。
その後しばらくの間、崇徳自身、どのようなことを考え、行動していたのか憶えていなかったという。
ただ一つだけ、確固たる思いが崇徳の心を包んでいた。
――――憎悪――――
蔑まされつづけてきた人生。不義の子と言われつづけながらも懸命に父たちに従って来た。
そんな血の滲むような精神的努力を嘲り笑うかのように、弟雅仁は卑劣な手段で崇徳を追いつめ、挙兵に追い込んだ。
そんな中で出逢った名もなき農耕の少女・美咲。
崇徳が天子の座にあった者と知らずに、屈託のない笑顔と優しさで崇徳に接し、崇徳もまた、身分を越えてこの少女に接した。
二人は当たり前のように惹かれ合った。たとえ自分がどのようなことになろうとも、この女性とならば添い遂げよう。
崇徳は、美咲との出会いこそが、心から人を愛し、人を守って行きたいと思えた、最初で最後の女だった。
しかし、そんな崇徳の思いは踏みにじられた。
最愛最後の女にまで裏切られた心情を慮るには筆舌に絶えない。
断崖が崩れ、底無き奈落に真っ逆様に堕ちて行くかのように、崇徳の心は果てない闇の闇へと堕ちていった。
もはや――――何も信じぬ――――。
暗澹に妖しく光る眼、不気味なほど落ち着いた低い声。紫の式部が著した源氏の君に比べたもうほどの美しい顔が澄み渡る青空に突然現れた暗灰の雲のように翳り、冥府の主上のように変貌して行く。
その日は蒸し暑く、時折雨がぱらつく天候だった。風も強く、いずれひと嵐が来そうな予感がした。
国衙の役人も、民らに農作物の管理には重々注意するようにと促すために雨の中多忙を極めている。
そんな中、院配所では美咲が嬉々とした表情で崇徳の元を訪れた。
「どうした美咲、何か嬉しいことでもあったのか」
いつものような優しげな微笑みが、美咲に向けられている。美咲は恥ずかしそうに顔を赤らめ、逡巡している。
「いかがした、申して見よ」
優しげな口調で美咲の言葉を待つ崇徳。
やがて、意を決したように美咲が口を開いた。
「身籠もりました……」
「そうか……」
二度聞き返すことなく、崇徳は素っ気なくそう答える。一瞬、驚きの表情を見せる美咲。
「誰の子」
「え――――」
思いも寄らぬ言葉に唖然となる美咲。
「まあ――――よい」
と、崇徳はすくと立ち上がり、踵を返す。そして、すうと奥座敷の方へと歩を進める。一瞬、茫然としている美咲を残して奥座敷に姿を消してしまった。
「…………」
怪訝そうに美咲も崇徳に倣い立ち上がる。
板張りの床がきしきしと軋む。
遠雷が聞こえる。中庭の茂みに屯する蛙のさんざめきが耳に痛い。
ごろごろごろ……
灰色の雨雲に一面覆われていた空に、雷雲がさも水に墨汁を垂らしたかのように広がって行く。雷鳴が近づく。
きし……きし……きし……
ごろごろごろ……
その瞬間、軋音が雷鳴にかき消された。
白い閃光が巷を行き交う人々の視界を眩まし、どおおという天地を唸らす大轟音が聴力を奪う。
昼間なのに、まるで黄昏の如く暗い世界は、悲劇の予感を思わせた。
「上皇様、大事はござりませぬか」
御番が崇徳の様子を見に、座所へと足を運ぶ。暗さのために足下がおぼつかない中、板戸を開ける。
そして、雷光に照らし出された光景を見た御番は、瞠目し、悲鳴を上げた。悲鳴を覆うばかりに一際、轟音が天地を揺るがす。
「? 正樹?」
正樹は右手の拳を菜織の腹部に押し当てていた。
生唾を呑み、正樹の話に聞き入っていた二人。
菜織の不安げな表情がまっすぐに正樹を見つめている。
「いや……その先は言わないで、正樹君……」
真奈美が沈痛な声を上げた。よく見ると細い肩がかたかたと震えている。
「と、言っているけど……どうする、菜織?」
幽霊のような作り声の正樹がひひひと嗤いながら菜織を見る。
「もう、趣味の悪い笑いはやめなさいって。うーん……、あたしは聞きたいけど、真奈美が嫌だって言うなら聞かなくてもいいかな?」
「そんなこと言って、本当はお前も聞くのが恐いんだろ」
「そ、そんなこと無いわよ」
「無理すんな。むちゃくちゃどもってるぜ」
「な、な、なんですってぇ!」
動揺しながら怒る菜織。これでは恐くないと言っても全く説得力がない。
「まあ、いいや。この先は俺もあまり話したくないしな」
ふうと一息をつく正樹。
「それで、その後崇徳天皇と美咲はどうなったの?」
「それ以来、崇徳は髪の毛やひげを剃らないで過ごしていったらしい。手足の爪も切らなかった」
「…………」
顔をしかめる菜織。怯えた眼差しで正樹を見る真奈美。
「源氏の君に比する見目麗しい容姿は、閻魔大王すらも退く鬼面と化した……って書いてある」
「生きながらにして怨霊となった……っていうことかしら?」
「ちなみにこの日の数日後、関白・藤原忠通は突然錯乱して罷免された……て」
「それは偶然じゃない?」
「知らん。でも、何か意味不明なことを会議中に言い出して、突発的に解任されたらしいぜ」
「ノイローゼね、きっと」
と、いつしか推理モノのような展開になっている。
「とにもかくにも、崇徳院の後白河朝廷に対する怨念は想像を絶するものがあったらしいぜ。そりゃあ、心から信じていた人間に何度も裏切られれば、さすがの天皇でもキレるさ」
「……でも」
不意に真奈美が口を開く。正樹と菜織の視線が同時に真奈美に向けられる。
「美咲って女性……本当に顕仁様を裏切っていたのかな……」
「え、どうして?」
「うん、何か……正樹君のお話聞いていると、美咲さんが不憫に思えてしまって」
「そこが、善悪の矛盾って奴。美咲は悪くないかも知れないし、本当に悪かったのかも知れない。ま、同情の余地はあるけどさ」
真奈美は不意に胸に提げているペンダントを左手で包み込んだ。
正樹はつづける。
――――それ以来、崇徳は朝廷はもちろん、人の絆を呪う経文を自らの血で書き続けた。
そして、『われ深き罪におこなわれ、愁鬱浅からず。速やかにこの功力をもって、かの科救わんと思う膨大の行業を、しかしながら三悪道に投げ込み、その力をもって神州の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん』と言う血染めの呪詛を綴り、海に沈めた。
時は後白河の皇子、二条帝の御代。
その数日前、かねてから崇徳院の所業状に頭を痛めていた朝廷は、密使を讃岐国衙に伝えた。
「三木近保(みつき・ちかやす)、御上の叡旨にあらせらるる。謹んで御拝命せよ」
「つ、謹んで拝し……た、奉りまする……」
讃岐守はその武士に二条天皇の密勅を下した。その時の三木の顔は、蝋人形のようだったという。
御齢四十六。あの日以来、身だしなみを一切しない容貌は、まさに生きながらにして大天狗の様相たるに相応しい。
頭髪は無数の蛇のように地を這い、髭までをも虱に蝕まれ白く、寄らう人すら吐瀉するその体臭に、亡者に巣喰う虻蠅のさんざめかぬ日はない。
かつて源氏の君に比せられ、殿上の女性の心を捉えて止まず、贈歌(ラブレター)の無き日は無しとまで言われたうら若き顕仁親王の美貌の面影は、塵ひとつない。
七日七晩、不眠不休で呪詛の経文を綴りつづけることも珍しからず。この日も五ひろほどの長紙に血染めの経文を書き終えた。気がつけば、夜。
木戸の隙間越しに差し込む白い光に崇徳は戸を開ける。
「望月か」
見事なまでの満月だった。
崇徳は久しぶりに胸が落ち着いたか、生白い満月の光に誘われるように、御所の門外へと足を運んでいた。そして、自然と歩は北へと向けられる。
北へ四半時ほど歩めば、見晴らしのよい大きな池があるという。御番から聞いたことがあった。
水面に映る月を拝そう。いかに怨念に取り憑かれたとて、崇徳も殿上人、それも天照大神の血を引く天孫、風雅の血は騒いだ。
そして、崇徳に従う数人の従者の中に三木はいた。
崇徳院にとって、月下の池に映る自らの顔を恐ろしいとは思わなかった。むしろ、まだまだ閻魔の君たるに相応しからぬ柔和な顔とすら思っていた。
従者を止まらせ、夜風に僅かに波打つ池をじっと眺めていた崇徳の耳に、何か声が聞こえてきた。
風の音か、禽獣か。
ふっと、崇徳が振り返ると、そこにはどこかで見たような青年と童女がいた。
(離れたくなかったな――――)
(仕方のないことだよ――――逆らえないんだ、神様には――――)
(悲しかった――――信じて、もらえなくて――――)
(…………)
青年と童女はいつしか距離を置き、互いの瞳を悲しさに満ちた色で見つめ合っていた。
(もし、次があるとするならば、また出逢えればいいね――――)
(もし、次があるとするならば、そなたと同じ水を飲みたいものだ――――)
(叶うことならば、ふたり外つ国で――――地を耕しながら――――)
(叶うさ――――きっと――――)
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に あはむとぞ思ふ
青年の歌は脳裏に強く反響した。やがて、ふたりの姿がすうと夜の闇へと掻き消えて行く。
それは何が見せた幻だったのか。崇徳はその胸の深い淵に、漠然としたしこりをひとつ残す程度の感覚しかなかった。そして、ついに崇徳が闇き怨念から解放されることはなかった。
鴉がざわめいた。月を覆い隠すかのように無数の鴉が東の空へ飛んで行く。水面に漣が立ち、月光を散らす。
東の空へ飛び去って行く夜の鴉の群に、不気味な微笑みを向けていた崇徳。怨念は痛みすらも感じさせなかったのか。
「三木近保、謹み申し上げ御命廃し奉りまする!」
三木の叫びと共に、彼が構えていた長剣は、崇徳の背から胸をまっすぐに貫いていた。月を映す水面に、剣先から紅い雫がぽたり、ぽたりと落ち、波紋を作る。
「…………」
心の臓を貫いた。ほぼ即死状態だったはずだった。だが、崇徳はゆっくりと自分を弑したうら若き武士の方を振り向き、何か告げるように唇を動かすと、歩を進めて剣を身体から抜いた。
狩衣が瞬時にして紅く染まり雫を垂らす。そして、程なく崇徳はぴたりと動きを止め、それきりになった。
恐怖におののく三木が崇徳の正面に立つと、筆舌を絶するあまりの形相にその場で失神してしまった。
院は崩じて閻魔の大君に御即位遊ばされた――――。
天孫を弑し奉った三木近保は連日悪夢に魘され、遂にノイローゼとなり、妻子と別れた挙げ句に自害してしまった。崇徳の死から僅か七日後の事だったという。
崇徳院の死後も、不気味な事象が京師に次々にもたらされ、内裏を震撼させた。
真夏の猛暑にさらされながらも、崇徳院の遺体は全く傷むことなく、肌もまるで生気に満ちたようだったという。閉じられた瞼は今にも見開かれ、瞋恚の炎に見る者の魂すら焼き尽くさんばかり。
紫宸殿の屋根、そして二条帝の御寝殿、後白河院の座所に鵺が現れる騒動が起こったのも崇徳院崩御の直後からだった。
凶事は続く。
後白河院の腹心とも言うべき、前関白・藤原忠通が急死。更に忠通公の長男で、二条帝摂政・近衛基実が奇病に冒され重篤。廷臣の妻子一族にも訃報や罹病の報せがたてつづけにあり、治部の省は混乱を来し、激務の果てに死した役人も出る有様だった。
ここまで来れば、後白河院はさすがに崇徳院の怨魂が成す災禍を信じざるを得ず、讃岐国衙に白峯社の造営の院宣を下し、顕仁親王崇徳院の御霊をお慰め奉った。
人臣蒼氓、誰もが崇徳院の怨霊が成せし災厄と確信し、万民挙って院の御霊を慰撫奉らんとするも、崇徳院の怨念は鎮静するには及ばなかった。
だが、前関白の死、摂政の重篤と知らせが入ったその日以来、崇徳院の遺骸からは異様なる精気は薄れ、真の亡者と化しっていった。京師の末路を先んじて見据えたかのように、荼毘に付す崇徳の顔は願い叶えたりとばかりに綻んでいたように見えたという。
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ――――か」
真奈美が切なげにため息をついて、反芻する。そしていつになく、真奈美の胸に提げられているペンダントがざわめいているように思えた。
「いい歌――――胸にしみるよう――――」
真奈美は正樹の話云々よりも、すっかりその短歌の文句に惹き付けられたようである。
「……と、まあそんなこんなで、崇徳院上皇は絆を呪う怨霊となった…………とさ。めでたし、めでたし」
「バカっ! なにがめでたし、めでたしな恐い話なのよ」
と菜織がくってかかる。苦笑する正樹。
「ははっ、でも下手な猿芝居よか上手かっただろ?」
「違うわよ。恐いんじゃなくて、悲しいの」
「悲しい?」
「そうでしょ? だって……」
菜織にとっては絆の怨霊となったことよりも、愛し合っていた崇徳院と美咲が悲しい因果に遭ってしまった事への切なさ、悲しさの感情の方が大きかった。
新幹線は仙台に到着。
『御乗車のお客様にお知らせいたします。車体一部損傷のため、二時間ほど復旧作業にかかります。大変申し訳ありませんがご了承下さい――――』
東京駅と同じく当然、不満のどよめきが車中を覆う。
「じゃ、どこかで飯でも食べよか?」
「そうね」
「うん」
正樹たち三人は楽観なものだった。
「おい、なんだこのヒビは」
「ん、どうした?」
「何か、文字のようにも見えないか?」
「言われてみれば」
「とにもかくにも鋼鉄の車輪にヒビなどと――――信じられん」
「乗客を待たせるわけにはいかん。急いで交換するぞ」
ヒビの入った鋼鉄の車輪は、誰もいない倉庫の中でぱりんという音を立てて、割れていた。