第1部 現代編
第10章 暗雲の古都

岩手県・一関市

 北東北・岩手――――。
 近年では、原敬・斉藤実・米内光政などの歴代首相、新渡戸稲造、宮澤賢治、石川啄木などの文化人を多く輩出している、本州最後の多自然の地。四方を見渡せば田畑が広がり、特にこの時期は青々とした稲が風にたなびき美しい。
 仙台駅で新幹線のトラブルの為に二時間ほどロスしたために、一関駅に到着したのは、結局夕方近くになってからだった。
 寝むりかけていた正樹と菜織だったが、アナウンスの声に気がついた真奈美によって起こされ、乗り過ごしの危険は何とか回避できた。
「着いたのね――――ふわぁぁ」
 大きなあくびをつく菜織。早朝に起きて色々と準備をしてきた。眠いのも当然である。
「ねえ正樹、早く宿に行きましょうよ。眠くて……」
 六時間あまりの移動の末に、夕方から観光巡りをするほどタフではない。正樹も真奈美も、暗に右に同じくという表情をしている。

 一関は江戸時代、仙台伊達家六十二万石の支藩・田村家の城下町として繁栄。郊外に豊かな田園風景を望み、中心街も、賑やかさを比べれば正樹たちの地元横浜地方には遠く及ばずとも、街並みは整然とされ、どこか落ち着く。
 都会では、いよいよこれからが本格的に始動する時間にさしかかる頃、この街は静かな眠りにつく。
 初めて観光に訪れた都会の人達は、こぞって午後九時頃にはしんとなる町に驚きの色を見せるよ――――と、正樹が手配した旅館に向かうために乗り込んだタクシーの運転手はそう言って笑った。

 正樹が手配した旅館は、一関から国道4号線を北へ15分ほど進んだ、平泉町中尊寺の近くにあった。
 菜織から旅行の行き先を平泉と告げられた後、宿泊先の条件に、なぜか『温泉』を入れていた正樹は、検索しているうちに『栗駒国定公園・須川温泉』という温泉場を見つけていた。
 秋田・宮城の三県に跨る栗駒山系にある、硫黄の匂いぷんぷんと立ちこめる湯治の名泉。年寄り臭いと言われそうだが、陸上をこなし、身体を酷使する正樹にとって、温泉は十日ぶっ続けの熟睡よりも効果覿面の旅行先である。
 だが、須川温泉の宿泊確保は問い合わせた直後から断念せざるを得なかった。
 本州一広い県土を誇る岩手県は、四国とほぼ同じ面積を持つ。それは決して見栄でも伊達ではなかった。
 市内から須川温泉までは約六〇キロ。しかも、山沿いの狭い道が交錯し、片道早くてざっと二時間かかるという。それでも、同じ一関市にあるのだから、都会人からすれば感覚が違うだろう。
 往復四時間(順調に行って)もかかる様だと、日がな一日を移動で費やさねばならなくなる。

 おそるべし、田舎の面積――――。
 正樹は須川温泉を諦めた後、そう実感した。

「ようこそお越し下さいました。伊藤様でございますね?」
 『樋爪旅館』の女将らしい和服姿の壮年の女性が正樹たちを出迎える。東北訛りの独特のイントネーションが、田舎情緒を醸し出す。
「お待ちしておりました。七泊八日のご滞在の間、ご満足いただけるよう――――」
 その瞬間、正樹の顔色が変わる。
「ちょ、ちょっと待って」
「はい?」
 女将はきょとんとした視線を正樹に向ける。
「な、七泊八日って、あの……確か三泊四日って予約したんだけど……」
「あら、そうでしたっけ? でも確かその後にやっぱり七泊に変えて欲しいって連絡があった気がしますが……」
 女将は心底困惑した表情を浮かべる。しかし、正樹はまかり間違ってもその様な電話を入れた記憶はない。
 意見の食い違いで長々となりそうなその場にふうとため息がこだました。
「まったくもう……そんな話は後にしてよ正樹。来て早々無粋よ」
 と菜織の声。途轍もなく重大な勘違いを糺すその場の雰囲気すらも、彼女の一言で淡泊と化すのだから恐ろしい。
「その話はまた後日――――。すみません、すぐに夕飯にしてもらえますか――――?」
 と、その話を切り上げたのは正樹だった。
「あ、はいはい。ごめんなさいね。えっと、夕餉の支度は一〇分ほどで済みますが、その前に温泉でもいかがですか――――?」
「温泉っ!」
 疲れ眼も青白い輝きを放つように見開いた菜織と真奈美が同時に声を上げる。どうやら、選択肢の出現の余地もなさそうである。
 菜織と真奈美は荷物を正樹に押しつけると、仲居の案内で浴場へと直行し、正樹は三人分の重い荷物を抱えながら、女将の案内で部屋へと向かった。
「それにしても、あんたたちのような若い人が平泉に旅行なんて珍しいね。どっちかっていうと、海とか山の別荘とかに興味があるもんじゃないかい?」
 やはり、誰でもそう思うのだろう。多分、この先も今回の旅行について聞かれたとき、同じ様な質問に遭遇することを覚悟した。
 正樹は何度となく言い慣れた問いの答えを流す。
「へえっ! 義経の夢を見て平泉に? そら、たまげた。いい夢見ましたねあんたさんの彼女は」
「え? は、はあ……いい夢かどうかはわからないけど、当の本人の意思だから……」
「まあ、あんたさんは最後まで乗り気じゃあ、なかったと」
 図星である。
「まあ、でも可愛い彼女のためなら我慢も必要だよ、男はね」
 と、女将は笑う。女将は遠回しに、確かに平泉は正樹たちのようなうら若い人間が休息する場所ではない、はっきり言って期待以上につまらない場所である……と言っている。正樹は苦笑するしかない。
「でも、こんな何もない場所だからこそ、良いこともあるかも知れないよ」
 と、部屋を退出するときに言った女将の言葉が、なぜか印象的だった。

 とかく、女子の風呂は長い。
 特に菜織は無類のうどんと温泉好きでもある。
 浴衣に着替え、部屋に設置されている、古ぼけた14型テレビに映る、つまらないバラエティ番組を何気なしに眺めていた正樹が、不意に壁時計を見てため息を漏らす。
 針は8時5分を差していた。
「はぁ――――まったく……一時間近くも入ってるなよ」
 と、呆れながらテレビを止め、横にしていた上体を、弾みをつけて起こす。
「喉渇いた――――」
 ロビーにある自動販売機に向かうため、スリッパを履き、廊下に出る。
 確かに、都会のホテルや、有名どころの観光地の旅館とは違って、静かである。
 宴会場らしい広間からは、それは賑やかな喧噪やら、カラオケの音が聞こえてくるとは言え、それ以外はむしろにぎわいを恋しく感じるほど、落ち着いた静けさだ。気味が悪い静けさではない。耳を澄ませば虫の声が微かに聞こえる、そんな静けさ。
「はぁ――――」
 そんな雰囲気に、思わず正樹が息をつく。このため息、癖になりそうだ。
 がこんというジュースの缶が落ちる音がやけにうるさくさえ感じ、なぜかはにかみながら部屋のドアノブに手を掛けたときだった。
(てめぇ、なんて事いいやがる……俺……だろ)
(に……はははっ……きゃー……ろされるぅ!)
(まぁ……まぁ……ふたりとも落ち着いて……)
 隣の部屋であろう、ドア越しに喧噪が響いてきた。
「?」
 二人か、三人か、それとも数人の内の何人かの言い争いがする。ただのじゃれ合いか、酔ってのことか。
 こうも静かだと、そんなどうでも良いことを無意識に考えてしまう。喧噪に首を傾げながら、正樹は部屋に戻った。
 小うるさいだけのテレビを消し、何気なしに窓際の籐椅子に腰掛ける。
 すると、蚊取り線香の匂いがほんのりと鼻をくすぐり、さんざめくコオロギや鈴虫の声。時々国道を通り過ぎてゆく車の音、別室の笑い声。。
 桜美町や、東京横浜附近では決して味わえない、田舎の夜。気づかないままでいた、小さな音がちょっとした音楽を奏でているようだ。
「こんなのも、たまには良いかな?」
 乗り気ではなかった正樹が、そう感じ始め、ワインならぬオレンジの缶ジュースを煽ると同時に、入口のドアが開き、湯上がりの都会娘二人が意気揚々と戻ってきた。
「まっ・さっ・きっ。お腹空いたから早くご飯にしましょうよぉ」
 と菜織が妙に甘えた声を出す。
 お前らの長風呂が――――などと返せば話が長くなりそうだ。本当は正樹自身もひと風呂浸かりたいところなのだが、ここは菜織の言葉に素直に頷いておく。

京・四条坊門
陰陽博士 源士本宅
早暁・卯の刻

 祭殿の間から呪文の唱えが坦々と聞こえてくる。
 俗人っぽい後白河院だが、意外にも加持祈祷の類を信じてやまない質である。かつて、兄・崇徳上皇の事件が彼の心傷となっているのかは知らないが、何かにつけて院庁(いんのちょう)から陰陽寮に依頼が来ると、昼夜を分かたずに忙しくなる。
 源士も陰陽博士の地位にある陰陽寮の重鎮として、陰陽頭・安倍泰成(あべのやすなり)の信任が厚い。
「誰ぞある」
 護摩の炎に照らされた士の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「お呼びでございますか」
 家人らしき男が障子の向こうから返事する。
「うむ……九条内府殿に認めたこの書状、夜明けまでに届けてくれ」
 すると家人はひどく愕然となった様子で返す。
「夜明けまでですと。そわ、何故にでございまするか」
「常に速駆けせねばならぬことは承知の上で頼んでいる。事は急を要する」
 士の語気は強く、何やら切迫した空気が障子越しに家人を包み込んだ。
「しょ……承知いたしました」
 士は近侍の家人伝に書簡を障子越しの家人に渡す。家人は一礼して去った。
 そして士は近侍の家人に向かって告げる。
「……そなたは他の者たちと共に今すぐ泰成様の別邸に移るのだ」
「ご主人様?」
「二度言わせるな。良いから言うとおりにするのだ」
 家人は言葉を封じられ、そのまま士の言葉に従い、邸宅の使用人たちを集め、主人の言葉を伝えた。

 半時後、邸内は人の気配ひとつなくなった。
 士は安堵したように微笑むと、火の消えかかった護摩壇に向き直り、瞳を閉じて気を集めた。

(千影……後のこと、よろしく頼む。すべては世の民草のため、そして恋するも儚き男女のために……)

 その瞬間だった。
 ――――だんだんだん!
 門の木戸を強打する音が屋敷の奥に位置するこの場所まで響いてくる。士はすくと立ち上がり、門前に向かった。
「検非違使別当・一条能保(よしやす)、上意によりまかり越した。源士殿、慎まれよ」
 と、一条能保は庁宣の書(検非違使別当が発する公文書で、現在で言う『逮捕状』・『判決文』・『弾劾書』などの効力を有し、絶大な権威があった)をかざした。
「陰陽博士・源士、逆心の罪により御身、拘束いたす。神妙にされたし」
 しかし、士は冷静に微笑み、その馬前に鎮座した。
「お役目、ご苦労にございます。手向かいは致しませぬゆえ、何卒ご容赦」
「むう……さすがは安倍晴明の教えを汲む陰陽師・源士殿。こうなることを見越してござったか」
 能保が皮肉る。
「そうなれば、晴明が末裔たる泰成卿までには手出しできませぬのう」
 そう言ってくくくと嗤う。実に感じの悪い男だ。だが、士は飄然と捕り手の縄に両手を背後で縛られた。
「連れて行け」
 と、一変悪鬼のように表情を曇らせ、能保は配下にそう命じた。
 源邸の護摩の残り火は、主人が門外に引きずられたと同時に、すうと消え、一条の煙がまっすぐ天上に伸びた。

美濃国(現・岐阜県)某所

「はぁっ……!」
 西の空を見つめていた千影が苦しげにあえぎ、目を伏せた。愕然とする平維盛ら一行。
「千影殿っ、いかがなされた」
 維盛が力無く崩れ落ちかけた千影の身体を抱き留める。女性にしては格段に大柄な千影、維盛の腕に感じたことのない重みがのしかかる。
「…………」
 だが、千影は失神したように反応がない。維盛は千影の身体を両腕で抱き上げると、近場の草地へと彼女の身体を横たえる。
 維盛は自ら冷水を汲み、行者から薬湯を受け取り、千影の看護に当たった。額に汗し、衣服の裾を土にまみれるその姿は、平家の世にあっては全く想像がつかない。
 熊野那智から旅立って幾日。『前(さき)の中将維盛卿』は、『いち男子(おのこ)維盛』となっていた。
 夜半――――
 千影ならば追々合流するゆえ、先を急ぐべしと言う行者たちの意見を退け、彼女の身を案じた維盛の献身が功を奏したか、昏睡していた彼女の瞼がゆっくりと開いた。瞳は維盛を映し、不思議なほど優しげに微笑んだ。
「気がつかれたか――――心配したぞ」
 維盛はほっとしたように安堵のため息をつく。
「維盛様――――」
 と、千影は不意にふふと笑った。唖然とする維盛。
「何を微笑むのだ千影――――案じていたのだぞ――――」
「父の声が――――聞こえました――――」
「ん?」
 維盛の腕に身体を預けながら、千影はどこか冷たい光を放つ瞳で、維盛の瞳を見つめている。
「父の――――遺言です――――」
「な、何と申されるっ!」
 千影は異常なほど淡々とした口調で自分の使命、そしてあらかじめわかっていた、養父・源士の運命を語った。

 ――――私は洛外の大樹の下に捨てられていた孩孺(ちのみご)。実の父や母は判りません……。
 冷たい夜風に晒され命尽きようとした頃、私は養父(ちち)・源士に拾われたのです。
 父は私を千影と名付け、慈しんで下さいました。
 物心ついた頃から、私も源家の家業である陰陽道に親しみ、神力を得、今こうして父の言葉……森羅万象の息吹を聞くことが出来るようになりました。
 ――――父は事を見越して、家人を安倍泰成さまの元に逃れさせたようです……。
 父の機転で……父の命ひとつで、事は済みました……安心です……。

 千影はそう言って小さな声を上げて微笑んだ。
「何を笑われる千影殿っ! そなた、それでも人か、女性か。父の命奪われ、微笑む者がどこにいるのだっ!」
 思わず、維盛は千影を抱きしめていた。抵抗することもなく、維盛の腕に身をまかせる千影。
「すべては判っていたことです――――。覚悟はとうの昔に、出来ております――――」
 まるで意思のない人形のように、千影は言った。
「偽りを申されるなっ! それほどまでにそなたを慈しんでくれた士殿があらぬ罪状で命奪われ、嘆かぬ者があろうか。たとえわかっていたとしても、運命が変わることを裡に思うが人というものだ。千影殿、心を偽られるな。父の死を悲しまれよ」
「定められた――――運命です――――」
 そう言う千影の瞳からは精気を感じない。これが陰陽師たる者なのかと、維盛は思った。しかし、それ以上の感情が、維盛の胸を締めつけていた。
「千影殿っ!」
 維盛は千影の身体を地面に押し倒し、覆い被さるように強く抱きしめていた。千影の抵抗はない。
「…………」
 それもまた、運命とでも言うように、千影は美しい顔に、妖しげな微笑を浮かべる。
「この様なときにすまぬ……されど私は……いつしか、そなたのことが誰よりも愛おしく思うようになった……。そなたのために、生きたいと思う。そなたの身を、護りたい――――」
 それはむしろ、当然の成り行きであった。一瞬、千影の瞳の光が戻る。そして、一瞬、微笑みを浮かべると、維盛の頬に両手を当てて、言った。
「私を――――抱いてください――――」
 その瞬間、維盛は身を沈めた。

京・朱雀
飯屋『おこぜ』

 狩衣と烏帽子から微かに解けた髪の毛を荒々しく風に靡かせながら、年若い白面の公卿が暖簾をくぐる。
「おいでやす――――これはこれは九条さま――――」
 出迎えの女将の言葉を無視するように、公卿はきっと女将をにらみつけた。
「兼資は――――」
「はいはい、奥座敷の方で――――」
 公卿は忙しなく沓を脱ぎ捨てると、足音高く奥の間へと向かった。
「鳳凰院殿、鳳凰院殿っ!」
 怒鳴りつけるように、公卿は連呼する。
「おう、ここだ」
 その声が聞こえてきた板戸を、公卿は半ば乱暴に開ける。
「ふぅ――――誰かと思いきや、良経さんではあらしゃいませぬか」
 右手に持つ杯に、酌婦が注いだ酒を呷り、良経と呼ばれた公卿を、御所訛りの言葉に余裕の面持ちで見上げる貴族の若者。
 杯を置き、左手に握られた扇子で、右手の平を軽く撲つ。
「兼資。この様なところで暢気に酒などを飲んでいる場合ではない」
「ほう……さてや香子殿の御身に、何かあられたか」
 ニヤリと笑みを浮かべる兼資。良経はあからさまに不快の表情を浮かべて。
「酔客の悪しき推測だ。違う。私の前で二度とその様なことを申されるな」
「おお、これは失礼。お前には禁じ句であったな。……して、いかがなされたのだ」
「いかがなされたのか――――ではない。そなた知らぬのか。陰陽博士源士殿が命、奪われたのだ」
 良経の言葉に、兼資は意外にも平然としていた。
「……そは、何と物騒な。近頃洛中もおちおち出歩けのうなったなぁ」
 兼資の淡々とした様子に、業を煮やした良経が怒鳴りつける。
「禁裏は殊の外の騒擾。だのにそなたはこの様なところで何をしているのだ。そなたも賢きどころに仕える朝臣のひとりならば、急ぎ参内すべきではないか」
 すると兼資は、ふっと笑みを浮かべると、瞳だけを素に戻して返した。
「私はお前や近衛摂政殿、西園寺殿らのような堂上(とうしょう)家ではない。出世も昇殿も許されない地下(じげ)の出だ。慌てても、何にもあらしゃいません」
「……しかし、源士殿は院の信任厚い、安倍泰成殿の片腕だぞ。お前も重々知っているだろう」
 兼資は嘲りを含んだため息を漏らすと、良経をきっと睨みつけた。
「“関東”の差し金と見え透いておるのを、この場になって参内し、帝の御前で何を話し合えと云われる」
「な、何だって――――!」
 良経は耳を疑った。
「士殿を討つようし向けたのは、関東が一枚噛んでいると言うことだ」
「関東――――よもや九郎判官殿の兄、左衛門佐頼朝殿か」
「ははははっ。これやから禁裏に詰め、諸国蒼氓を知らぬ堂上の方々は――――まあ、それはよいとしよう。よいですか、頼朝殿が士殿の命、奪うたところで、何の利益もなければ、得もあらしゃいません。かえって源家の血筋、絶やす遠因になりますわいなあ」
「そなたの言う意味がよくわからない。はっきりと申せ」
「…………」
 良経の問いつめに、兼資は小さく笑う。
「何がおかしいのだ。……よもや、そなた……」
「ほっ、藤原の名門九条良経ともあろうお人が、短絡的な考えやな。そないなことでは頼朝殿の思惑を避けられぬどころか、香子殿を護れませんぞ?」
「!」
 良経の表情が一変する。しばらくの間の後、兼資はそれを冗談と言わんばかりにおとがいを外した。
「などとな。洛中は御上を憚らぬ噂が飛び交っていて実に楽しい。お前もたまには洛中に出でて羽目を外してみてはどうだ」
 唖然としていた良経、やがて見る見るうちに顔面が紅潮し、ばさりと裾を乱暴に払い身を翻した。
「お前を訪ねたのが間違いであった。ああ、気分を損ねた。失礼するっ!」
 乱暴に襖戸を開け、良経は去っていった。
「綺麗なかんばせされてるのに、なんと気の短い奴やな」
 兼資に侍る酌婦が開け放たれた襖戸を眺めながら呟いた。
「堂上の方々は頭が固い。あいつくらいは話のわかる奴になってもらいたいものだがね」
 兼資は飄然と杯を呷る。
「あらぁ――――兼資さまはわかりやすすぎて困ってしまいますけど―――――」
 嬌声を発しながら、兼資の腕に腕を絡めてくる酌婦たち。最後の杯を呷り終えると、兼資は酒の付け足しを断り、杯を置き、立ち上がった。
「急な所用を思い出した。今日はここまでや」
 扇子をうち鳴らし、不満げな表情を見せる酌婦たちの髪に触れ宥めると、『おこぜ』を後にした。

大炊御門殿
前左大臣・藤原 経宗邸

 柔和な表情に一転、険しさを滲ませ、兼資は朝廷の元老で太政大臣・大炊御門経宗(おおいみかど・つねむね)に面会した。
「経宗小父殿、事の子細をお聞かせいただきましょうか」
「ん、何のことだ兼資」
 手持ちの扇子で手のひらを打ち、何度も音を立てて問いつめる兼資に、経宗は長いあごひげをなぞりながら惚ける。
「聞き及んでおります。源士殿の事を」
「その事ならば禁裏にて事の次第を院の御前で述べた通りぞ。そなたも聞いておっただろうが?」
「私、禁裏には出仕しておりません」
「また、洛中にて酒肴に興じておったのか……。そなたの父資遐(すけとお)殿も嘆いておろうぞ」
「はぐらかされるな。私の身のことよりも士殿の経緯だ。九条良経は誰の差し金かなどと憤懣やるせない様子で駆けつけて参りましたが、洛中ではもっぱら、関東の誰かが、こたびのことに糸を引いていると噂しております。経宗小父、近衛殿や土御門殿に肩入れされているわけではないでしょう」
「ほ……ふぉっほっほっほっほ」
 経宗はすきっ歯を覗かせながら笑う。
「何がおかしいのです。少なくとも、狭隘な内裏の論議よりも、洛中の巷説の方が真実に近いものと推察いたしますが?」
「兼資」
「はい……」
 兼資を見る経宗。微笑んではいるが、眼光が冷たく、兼資を突き刺している。
「我が娘、紗奈の婿であるそなたに、一つ申しておく」
「…………」
「人臣に越した詮索や追究は、災いを招かぬとも限らぬ」
 兼資は生唾を呑んだ。経宗の威に圧されたか、額にじわりと脂汗が滲む。
「紗奈を悲しませたくは、ないものよのう――――」
「脅されるか小父殿……この平兼資、今更何を怖れることやある。禁裏の争い事などどうでも良い」
 唇を歪め、吐き捨てるように兼資は言う。対する経宗は悠然と扇子を開き、口許を覆いながら、欠伸を隠す。
「ほう――――ならば何故、そこまで叛意を抱く源士に興味を寄せるのかいな」
「小父殿は知らぬのか。士殿は現(うつつ)に夢見られぬ恋する者たちを、卦や術によって微かなりとも光明を与え、明日に生きうる道標となっていたのだぞ。内裏のおぞましき政争など無縁のお人なのだ」
「ほう――――彼の者はその様な下らぬ事をしておったのか」
 と言い捨てざまに鼻を鳴らす経宗。
「帝に仕える身でありながら任を軽んじ、酔狂に傾倒するとはの。ならばむしろこの度の庁宣は、帝の叡慮に沿うものや知れぬぞ」
 不敵に笑む経宗。兼資はあからさまに不快な表情を向ける。
「畏れながら、そう思われるのは、法皇ではありませぬか」
「…………」
 その瞬間、経宗の表情が固まる。
「崇徳院の――――」
 言いかけた兼資を怒鳴りつける経宗。
「口が過ぎるぞ兼資――――命、まことに惜しゅうないか……」
「…………」
 経宗の威圧は本気だった。兼資は不敵に口の端で嗤うと、立ち上がる。
「これ以上、無用な詮索は私の命に関わりますね。経宗小父、忘れて下さい」
 そう言い残し、兼資は去った。
「…………」
 兼資が去った後の静寂の一室で、経宗は静に瞼を閉じていた。
 やがて――――

 ――――大炊御門さま――――

 一室に響くような幼い少年のような声。経宗はじっとしている。
(――――いかがされましたか――――)
「この先……思いやられるのうと、思うておったのよ――――」
(…………)

 悲しみと希望と言う名の時間の螺旋は、平安と現代を徐々に繋ぎつつあった。