「ふぅ――――お腹いっぱぁい」
「ホント、美味しかったよねー真奈美?」
しかし、この“おなご(女子)”たちはよく食う。正樹はわずかに呆れ気味に失笑を浮かべながら自室に向かって廊下を歩いていた。
ちなみに作者はこの地元の食の名物について有名どころを知らない。つーか、聞いたことがない。平泉なのに『わんこそば』も無かろう。いや、地元人のプライドとして、正樹たちが何を食してそう言ったか、あえて割愛させていただく。では横槍を失礼。
「満足?」
それは愚問。菜織が瞳を輝かせて声を張り上げる。
「もう、満足も満足、大満足よぉ」
「そりゃ、良かった」
ここまで喜んでくれると、宿の女将ではなくても嬉しい気持ちになる。
「正樹君、菜織ちゃん?」
不意に真奈美が二人を呼び止める。振り向く二人。
「あのぅ――――」
肩をすぼませて言葉を詰まらす真奈美。
「ん、どうかしたの真奈美ちゃん」
正樹がまっすぐに真奈美の瞳を見つめる。
「真奈美、もしかしてどこか具合でも悪くなったの?」
食後に洒落にもならないことを平然と言う菜織。
「えっと――――のど、渇かないかなぁ――――なんて」
がくっ……
同時に“ヒザカックン”を喰らう正樹と菜織。このノリは慣れてはいるが、些か開放的な外界にあってか、より一層ボケぶりに拍車がかかっている気がする。でも、突っ込むに突っ込めないオーラ。要するに真奈美には敵わない。
「そ、そうだね。何かのど、渇いたような気が……」
苦笑する正樹。
「それじゃ、私と真奈美で何か飲み物買ってくるわ。アンタは先に戻ってて」
菜織の言葉に頷く。そして、二人は楽しそうに背中を向けて歩いていった。
てくてくと部屋に向かって廊下を歩く正樹。曲がり角にさしかかった時、猛然と駆けてくる足音が近づいてきた。咄嗟に身を避けようとしたが……無理だった。
どんっ!
「うわっ!」
「きゃぁん、ゴメンなさいぃ!」
正樹はよろけて尻餅をついたが、相手はふらついただけで駆けてゆく。
「な、なんだよ……」
と、正樹が振り返ると、異様に見慣れた形の髪型が、エビのように跳ねながら遠ざかってゆく。
「………………………………」
正樹は思わず目をこすり、無言のまま立ち上がろうとした。その時だった。
たったったったったった……
再び猛然と駆ける足音。そして……
「待てコノヤロ、てめえっ! 待ちやがれっ!」
どんっ!
「あっ、すまねぇ! 大丈夫だよな? じゃ!」
と、一方的に倒れる正樹を無視して先ほどぶつかった人間を追いかけていった。
「………………………………」
何となく、それ以上に正樹の中にわき起こる不安。
「うん、見なかったことにしよう。これは気のせいだろう」
そして受難の曲がり角を越え、部屋の扉に手を掛けた瞬間、隣の部屋の扉が開いた。思わず視線がそこに向く。
「もう、サエちゃんとミャーコちゃん……どこに行ったのかしら……」
その人物を見た瞬間、正樹の顔は、イースター島のモアイ像や、秦の始皇帝陵の埴輪よりも、世界遺産的顔つきになっていたという。ギャグマンガのように、鼻水がつつーと口に流れ、白目になって茫然となる。
「もう……」
そして、その人物と正樹、目が合ってしまった。
「あっ――――」
瞬間、世界中の時間が止まり、映像がネガ反転する。
「………………………………」
「………………………………」
埴輪状態のまま、正樹は扉を開き、自室に消えようとした。
「お兄ちゃんっ、待って」
耐えきれずにその人物は正樹を呼び止めた。
「……って、どうしてアンタたちがここにいるわけ?」
すでに部屋の片隅で現実逃避状態の正樹を放り、菜織が怒り心頭に田中冴子、信楽美亜子、そして正樹の妹乃絵美を詰問している。菜織の傍らでは苦笑の真奈美。当の美亜子はばれてしまったかという表情、冴子は観念、乃絵美はすまなさそうに肩をすぼめている。
「にゃはははっ、あのね菜織ちゃん、別に黙っていた訳じゃーないの。商店街の福引きでぇ――――」
と、美亜子は商店街の福引きで東北旅行を引き当てたことを告白。
「もしかして、ここにきた時、三泊の予定が七泊になっていたというのも……」
「だってぇ、ちょうど六名様七泊八日のチケットだったし、これは丁度いいかなぁなんて」
何と都合のいい賞品なんだろう。まるでお誂え向きだ。菜織は半ば失望気味にため息をつく。
「あっ、でも良かったんじゃない? 宿泊代が浮いたわけだし……」
などと真奈美は脳天気気味に言う。
「そう言う問題じゃないわよ。もう、真奈美ったら」
と、菜織が再びため息をつく。
「ほらっ、正樹。アンタもいつまでもボケッとしてないで。来ちゃったものはしょうがないでしょ」
と言いながら菜織は正樹の背中をぽんと叩き、正樹を正気にさせた。全く、世話女房とはかく言う彼女のことなのかも知れない。
「こぉらぁ! 何でオマエらがこんな所におるんじゃい!」
「正樹――――遅すぎ」
と、冷めた声で冴子が呟く。確かに、憤懣たらたらと怒鳴りつけても、乃絵美でさえきょとんとしている。
「まあいいじゃん! 修学旅行のつもりだって思えばー。ね、乃絵美ちゃん」
などと言いながら美亜子が乃絵美にふる。
「え? ――――う、うん。あはは」
答えに窮して苦笑いする乃絵美。いつぞやの肝試し騒動を思い起こす。
始めは正樹と菜織の二人きりの旅行。それが真奈美を加えての夏休み旅行、果てには乃絵美はともかく、お騒がせメンバーを巻き込んでの、有志の旅行になってしまった。これは誰のせいか。
「それにしてもミャーコちゃん、俺たちがここに来るって、良く判ったね」
確かに、東北旅行と言うだけで、何も平泉に来るとは限らない。どうせならば、若者ならば仙台とか、少々大人臭いが、日本三景松島あたりが妥当な東北旅行だ。いや、冴子ならばともかく、美亜子だったら、必ず仙台あたりにフィットするはずだ。
正樹の疑問に、美亜子は視線だけを正樹に向け、ニヤリと嗤うと、人差し指を小さく揺らして得意げに胸を張った。
「チッチッチ。ミャーコちゃんの情報網を甘く見ちゃだめだよん☆ 正樹君たちの計画くらい、簡単にお見通し☆」
あな、恐ろしきはエビフライヘッド。正樹は顔から血の気が失せるのを感じた。と、その時。
「ってゆーか、正樹、お前いつだったか、教室ででかい声出してただろ? ひらいずみ……が、どうとかこうとか」
冴子が言う。
「あ――――」
そう言えば、以前、思わず教室中に聞こえるくらいの大声で“平泉”と叫んだ記憶がある。
「ま、まさかアンタ……」
今度は菜織が苦笑気味に美亜子に反応を促す。
「にゃははははっ☆ レポーターたるもの、たとえ繁華街に飛ぶ蚊の音でも聞き逃さない! そこに、史上稀に見るダイダイ大スクープがぁ――――」
負けた。なるほど。
「なら、冴子ん家で会った時も?」
「うん、すべてお見通しぃ」
げにかなわなきは森羅万象の神と、信楽美亜子なりけり。
不本意とは言うものの、そこはやはり親友同士。女性陣はすぐに事を忘れて雑談に花を咲かせる。
「遊びだけで来ている訳じゃないんだからな」
と、正樹はいちおう釘を打ってから外へ涼みに向かった。ドアノブに手を伸ばした時、菜織の声が正樹を捉えた。
「あっ、正樹、良かったら青リンゴサワーとイチゴサワーと……」
「未成年はお酒は飲めませんっ」
瞬答で廊下に出た。
東北の夏は暑い。平野とはいえ奥羽山脈と北上高地の間にある盆地の末端。熱しやすく冷めやすい気候とは言え、真夏ともなれば、さすがに暑さは夜に残る。
昆虫や蛙たちのさんざめく中、旅館外観に出た正樹。地元の花火大会があると女将から聞いていて、ここは一番見晴らしが良いと言っていたように、平泉の町の夜景が見える。夜景と言っても、所々の外灯と、民家の灯り程度のものだったが、空を見上げた時、都会人は誰もが圧巻する光景が広がっていた。
そこは満天の星。澄んだ空気の中、夏の大三角が強いほど瞬いていた。そこを流れるような天の川が、ゆらゆらと光の水を伝えている。
「もしかすると、こういうところも、良いかも知れない――――」
正樹は素直にそう感じた。
時々素肌を撫でてゆく風が実に心地よい。深呼吸をすると、氷川神社境内と同じような緑の薫りが肺を清めてくれるようだった。
ぴた――――
「わっ!」
突然、冷たい感触が頬に触れ、正樹は驚きの声を上げた。
「きゃっ!」
相手もさすがに驚いて身を退かす。正樹が振り返ると、見慣れた微笑み。
「乃絵美か――――」
わずかに首を傾げ、小さな舌先を唇から覗かせる乃絵美の表情は、悪戯っぽくも見え、すまなさそうにも見える。
「はい、お兄ちゃん」
と、汗を滴らせるコーラの缶を差し出す。
「お、さんきゅ乃絵美」
正樹はそれを受け取ると、早速開ける。
「あの……隣、座ってもいい……?」
恐る恐る聞いてくる。
「ん? ダメ」
「……」
意地悪く答えると、乃絵美は本当に辛そうな表情をする。
「うそ」
「……」
からかわれたことに拗ねる様子もなく安心したように、乃絵美は兄の隣にゆっくりと腰を落とす。
ぷしゅ、と、炭酸が吹き出す音が正樹の耳に届く。
「ねえ、お兄ちゃん……」
コーラを一口含んだ乃絵美が、じっと空を見上げている正樹の横顔を見つめる。
「ん?」
「ごめんなさい……あの……あの……」
どうやら、今回の美亜子たちの行動についてのようである。
「いつからそんな悪い子になったんだよ、乃絵美」
笑顔で空を見上げながら、正樹は人差し指で乃絵美の頬を優しく小突く。
「ごめんなさいっ……あの……黙っているつもりは……あの……なくて……」
端から見ると可哀相になるくらい、健気な少女。乃絵美を思えば、つとにあの柴崎の神経がわからなくなる。
「だからいいよ、もう。飛び入りだけど、俺も菜織たちも悪い気はしてないから」
「うん……」
「それに本心言えば、俺たちだけじゃ心細かったんだ。だから、乃絵美たちが来てくれて、嬉しかったよ」
「え……? お兄ちゃんたち……心細かったの?」
不安そうに正樹を見る乃絵美。
「そりゃあ、遊びだけで来ている訳じゃないからね」
正樹の言葉のわずかな陰りに、乃絵美は敏感に反応する。
「菜織ちゃんが見た……夢のこと――――?」
無言の肯定。乃絵美が二度目のコーラを口に含んでから、消え入りそうな声で呟いた。
「私も――――最近――――見るの……」
「えっ?」
正樹は愕然となり、星空を見上げることも一瞬で忘れたように乃絵美を見つめる。
「見るって、何を……?」
不安色満面に、正樹は妹に訊ねる。答えは薄々わかってはいたが、もしも違っていたらと言う期待があった。
乃絵美はひとつ、長い息をつくと、小さな肩を正して話した。
「十二単……そう、衣冠束帯、烏帽子とか。何か貴族の世界に、私がいるの。――――そして、男の子とか、偉いおじさんとか……そう……ちょっといやな感じの人とか――――いたよ」
正樹は乃絵美の言葉に神経を集中させていた。
「じゅうに……ひとえ……いかん……そくたい……――――それって、公家……もしかして、朝廷のことか」
そのひらめきに、乃絵美はゆっくりと頷く。
「菜織と真奈美ちゃんが見た夢……そして、乃絵美が見たのが、朝廷の貴族たちの夢……まさか……」
その時だった。
――――かたん――――
正樹が物が落ちる音に振り向くと、乃絵美の持つコーラが、地面に吸い込まれていた。
「…………」
「乃絵美?」
その瞬間、正樹は乃絵美の様子がおかしいことを感じた。
「…………ナイ……」
「え?」
顔面蒼白、まるで生気を失った瞳が、うつろに西方を見つめている。
「……アブナイ…………カネ……スケ…………」
「乃絵美っ!?」
新たに地面にコーラを飲ませた正樹が、反射的に乃絵美の両肩を掴んでいた。その瞳を真っ直ぐに見つめても、まるで催眠にでも掛かったように、乃絵美は虚ろな眼差しを、ただ西方に向けているだけだった。
「お帰りなさいませ、兼資さん――――」
「ああ」
鳳凰院殿・平兼資(たいらの・かねすけ)は浮かない表情のまま、自邸へ帰した。正室(本妻)の紗奈が恭しく夫を出迎える。
「今日は遅うございましたのね――――」
御年十六歳の妻は、自分を一度も見ようともしない夫を、まっすぐに見つめつづけている。
「良経と大炊御門卿に会うていた。待たせてすまぬ」
「父に――――」
紗奈はあからさまに驚いた表情をする。
「大した話やない、酒肴を馳走の上の四方山話や――――。いささか酔っているようや」
とは言いながら、足下はしっかりとしている。
「兼資さん――――」
紗奈の顔色がみるみるうちに不安と怯えの色に染まってゆく。震える声で、夫の名を口にする。
「近ごろ、洛中には穏やかならざる噂が囁かれているとか……」
「ほう、それは奇怪なこと。……それで、何の噂か」
兼資が声を低くして聞き返す。
「…………」
紗奈は言葉を詰まらせた。恐ろしいものでも見るような眼差し。
「……まぁ、よい。――――しかし、紗奈」
「はい……」
「あまり余計な事に気を使うな。そなたは大事な我が妻や。御身にまかり間違いが起きてはこの兼資、大炊御門卿に申し訳が立たぬゆえな」
兼資の表情が穏やかになり、紗奈の肩を優しく包む。だが、それはほんの一瞬のことだった。
「兼……資……さん……」
すぐに突き放すと、兼資はそそくさと奥へと消えてゆく。
「兼資さん――――」
紗奈は半ば泣き顔で夫の寝所に姿を見せた。
「紗奈か。いかがしたのや、そのような顔で」
褥に胡座をかき、書簡を見ていた兼資が、真顔で幼妻を見上げる。紗奈は弱々しく兼資の許に歩み寄り、ゆっくりと腰を落とした。真っ直ぐに兼資の瞳を見つめる。
「お願いがございます――――」
「なんや、そない改まって」
わずかに微笑みを浮かべているように見えるのは、兼資の顔立ちによるものだ。実際、兼資は笑ってなどいなかった。それどころか、妻を忌むかのように、言葉尻に棘すら感じさせる。
「…………」
無言のまま、紗奈はただ夫を見つめている。やがて兼資は呆れたように小さくため息をつくと、投げやりげに言った。
「何も案ずることはないぞ。ただ、近頃はそなたの申すとおり物騒な噂が絶え止まぬゆえ、私もいささか……」
繕うように明るく振る舞おうとする兼資。言い終わらぬうちに、紗奈はひしと兼資にしがみついた。愕然となる兼資、目を見開き、書簡が手元を離れ、床に転がる。
紗奈は満面が激しく紅潮していた。さも火が出るほどに熱くなっている。慎ましやかな貴族の女性らしからぬ行動が、そうさせていた。
兼資と紗奈は夫婦である。若いとはいえ、それでも二年の間連れ添った。
だが、まるで突然のように、まるで初めてのように、二人の心の鼓動が高く打つ。
「紗奈、どうしたのや。ふるえているぞ」
無言のままの妻を、兼資は優しく抱きしめ、宥めるかのように背中をさする。
「…………けを…………頂戴しとう…………ございます……」
それこそ蚊の泣くような声だった。
「…………お情けを…………頂戴……しとう…………ございます……」
聞き返した兼資に対し、紗奈は羞恥を押し殺すように、勇気を振りしぼってそう告げた。
「なに…………!」
兼資は愕然となった。その言葉の意味とともに、女性の口から、それも妻から発せられたと言うことに、兼資は言葉を失っていた。
茫然と妻を見つめる兼資。しかし紗奈は夫を心の底から愛しながらも、どこかしか憎しみの色すら滲ませている瞳で、毅然と見つめ返す。
心交わらぬ装いで見つめあう夫婦。やがて、兼資がおとがいを外した。
「何を言っているんや紗奈。私とそなたは二年前に契りを交わした立派な夫婦。随分とおかしな事を……」
だが、紗奈は顔色ひとつ変えずに夫を凝視する。
「……九条家の姫に心寄せる兼資さんとは……真の夫婦とは言えませぬ」
「――――な、なんやと!」
紗奈の言葉に取り乱しかける兼資。
「香子さんは……やがて入内されますというに……あなた様は――――」
紗奈の瞳に揺らいでいた憎しみの色が全面にあふれてゆく。
「紗奈、そなた何を申しているのか、わかっているのか」
「兼資さん――――!」
鎖で絡めるかのように、紗奈はか細い両腕を夫の頸に回す。十六歳の少女は、ただ純粋に夫である兼資の愛を乞うていただけだったのかも知れない。単衣越しにわずかに震える躯、熱を帯びる吐息。清楚な雰囲気を醸し出す少女が見せるアンバランスに、たとえ天上の帝でもその情欲をかき立てられるはずであった。
「やめよッ!」
兼資は木の葉のごとく、妻を突き放していた。どっと床に倒れ伏す紗奈。
「かような戯れ言、何処から聞き及んだのや。笑止のほどもある」
だが、明らかに動揺の色を隠せない兼資。
「誰からも聞いておりませぬっ! しかし……この二年、あなた様の心の裡に、紗奈はひとときたりとておわしましたか」
きっと夫をにらみつける紗奈。
「…………」
返す言葉に戸惑う兼資。それが全てを代弁していた。
「妾(わたくし)は……、紗奈は…………あなた様の許に嫁いで参りしその日より、あなた様を心からお慕い申し上げております……」
触れれば今にも号泣してしまいそうな表情で、紗奈は切々と兼資への愛情を告白する。
「――――たとえあなた様の心に紗奈がいずとも……紗奈はひとときたりとて兼資さんのことを……」
しかし、そんな想いを聞いていた兼資はやがて身をがくがくと震わせたかと思うと、拾い上げた書簡を床に力一杯叩きつけた。
「去(い)ね、紗奈ッ」
夜半にはあまりにも大きな怒声だった。紗奈は目を見開いて茫然とする。
「黙って聞いていれば愚かしいことばかりやな紗奈。私はそのような女々しき甘言が嫌いなのや」
「…………」
紗奈の悲痛に満ちた顔に、兼資の怒りが容赦なく浴びせられる。
「そなた、この兼資を見くびるな」
「兼資さんっ!」
「言うな。去ねやッ」
妻を振り払う兼資。遂に紗奈の瞳からぽろぽろと涙が溢れ出した。
「兼資さんっ! 妾は……妾はただ――――」
「誰かある。紗奈を連れ出せ、心落ち着かせよ」
兼資が叫ぶと、大炊御門家から付き添っていた紗奈の侍女が慌てて駆けつけてきた。そして、ただならぬ様子の紗奈に驚き、介抱する。兼資の言葉に一応に頷くものの、兼資に向ける侍女の眼差しは、失望と軽蔑に満ちていた。
そして、放心状態の妻が連れ出された後、兼資はどうと褥に倒れ込み、大きくため息をつきながら、天井を見つめていた。
(何も……解らぬようになったのかいな、私は……)