第1部 現代編
第12章 兼資無惨(一)

1185年(文治元年)10月
摂政・近衛 基通邸

 書斎で写経に勤しんでいた近衛基通に来客を告げる家僕。
「ほう――――誰か」
「関東の御使者のようでございます――――」
 ぴくりとこめかみを動かす基通。やがて口元に笑みを浮かべる。
「通しなさい」
「はっ――――」

 邸内の離れにある講堂に一人の武士が控えていた。
「待たせましたな――――」
 顔を伏せながらも毅然とした雰囲気の武士とは対照的な、殿上人らしい態度で接する基通。
「お久しぶりでござる、近衛様」
 その声に基通の顔が心なしか明るく映える。
「おお、その声はもしや大江広元卿ではござりませぬか?」
 顔を上げた武士に基通は懐かしさと喜びに満ちたように声を高ぶらせる。
「…………」
「おお、まことに広元卿や。文章院で教えを賜って以来ですね」
 恭しく穏和なトーンで挨拶をする基通。
「近衛摂政におかれましてはご機嫌麗しく恐悦至極。佐殿に成り代わり、お慶び申し上げまする」
 形式に則った挨拶。そして鎌倉からの贈り物を記した目録を基通に差し出す。
「鎌倉殿におかれては、相も変わらずご丁寧なこと。院や帝もさぞかしご満悦のことでしょう」
 基通もそれに倣って返礼をする。だが、ただ頼朝からの献上品を摂政に届けるための役割として、鎌倉の重鎮・大江広元が派遣されたわけではないことくらい、基通はわかっている。
「さて……本題と参りましょうか。鎌倉殿……いや――――」
 そこで言葉を止める基通。一度瞳を伏せてから広元に目配せする。
 広元の背筋に、一筋わずかに冷たいものが伝った。穏和な眼差しの中に秘められる深い野心。頼朝に仕えて幾年。京の公家が日の出の勢いである鎌倉に下向し心身共に武士となったはずの広元が、朝廷の最高権力である摂政と対すれば口籠もってしまうのはむしろ血の伝統か。それとも、明法博士として名を馳せた法曹の正義心が広元の関与を食い止めようとしていたのであろうか。
「……いかがされた、広元卿」
 一度言葉を詰めた基通が、やや凝り固まっている広元を訝しげに見る。
「あ――――いや。申し訳ござらぬ。長旅でいささか疲れておりまする。懐かしい京に心奪われて、休むことも忘れておったようですな」
 苦笑でそう答える広元。
「ははは、なるほど――――。それで、いかがでしたかな久々な卿の故郷は――――」
「そうですなあ……すっかりとかつての平穏な世を取り戻したものと推察つかまつる。これも偏に九郎殿のお力による――――……!」
 言いかけて広元は口を噤めた。
 しかし、基通は満足そうに微笑みを浮かべている。
「まことに、その通りです。九郎判官がおらずれば、今頃我らは西海の京へと道連れとなっていたやろ」
「…………」
「九郎判官には院も殊の外お目に掛けておられる――――」
 言葉は穏やかだった。だが、その瞳の奥に燻る黯(くら)い焔を、広元は見逃さなかった。
「まこと――――九郎判官は、ようやってくれましたな」
「…………さて――――」
「申し上げます」
 広元が何かに押されるように再び口を開いたとき、家僕の声が重なった。
「何事か。大事なお客人や、後にしなさい」
 基通の窘めに戸惑う家僕。
「は……それが……大江様にご用があると言われる武家の方が……」
「某ですと――――?」
 怪訝な眼差しで振り返る広元。
「誰であろうかな。私のことは気にせずに」
「は……はっ。……ならば中座、失礼仕る」
 家僕に案内されるように渡り廊下を玄関口へと向かう広元。
 そして、門前に立つ若い武士を見た瞬間、広元は愕然となった。
「き……貴殿はっ――――な、何故……!」

「…………う……ううん……」
 もぞもぞと瞼を動かす乃絵美に、正樹たちは心なしか肩を撫で下ろす。
「あ、気がついたか乃絵美」
「…………お、お兄ちゃん……?」
 うっすらと開けた瞼に映った人の名を呟く乃絵美。
「あ……わたし……ここは……?」
 正樹たちの部屋に敷かれた布団に寝かされていることに気づき、慌てて起きあがろうと上体に力を入れる乃絵美。
「おっと乃絵美、起きない方がいいぜ。きっと疲れてんだよ。何てったって、誰かさんのせいで強行スケジュールだったしなっ!」
 冴子が語気を強めながら美亜子を振り返る。かたや飄然を装う美亜子だったが、額から伝う冷や汗と苦笑いだけは隠しようもない。
「ミャーコ……どうでも良いけどアンタね……」
 菜織にとって乃絵美は名実共に妹のような存在になったのである。そんな彼女を東北の片田舎への過酷な労働に突然駆り出し、昏倒に追い込んだ張本人、信楽美亜子に対する怒りは笑い話では済まされない……はずだったのだが。
「あっ……待って菜織ちゃん……それにみんなも。身体は大丈夫。それよりも……聞いてもらいたいの。私の話」
 正樹たちの心配が杞憂であると示すように、ひょいと上体を起こす乃絵美。
「ねえお兄ちゃん、菜織ちゃん、真奈美ちゃん……。ミャーコちゃんたちにあの話、しても良いかな?」
 乃絵美の言う“あの話”とは、正樹たちが当地平泉に旅行するきっかけとなった、奇怪な夢のことである。
「ん……まぁ、来てしまったのはしゃあねえとして。俺はどっちでも良いけど、菜織、真奈美ちゃんはどうよ?」
 しかめっ面の正樹の言葉に、菜織はあきれ顔にため息をつき、真奈美はいつものように困惑したような表情を浮かべている。
「本当ならこのこと、一番知られたくない人間だったんだけどね」
 と言いながら菜織は冴子と美亜子を交互に見る。
「あっ、ひっどぉーい菜織ちゃん!」
「お、おい菜織っ。あたいはコイツに……」
 すかさず反発する美亜子に、弁明しようとする冴子。しかし、菜織は二人の言葉を聞き流すように続けた。
「あたしは構わないわ。だって、ここまで来て隠し通す事なんて出来やしないと思うし、もしかしたらって思うもの。……真奈美はどう?」
「う、うん……私も構わないわ。聞いてもらおうよ、正樹君」
 と真奈美。正樹は軽く息をつくと、乃絵美を見つめる。
「と、言うことだ」
 やや照れ笑いを浮かべる乃絵美。
 そして一息をついてから、菜織の夢から正樹たちが平泉への旅行計画に発展した経緯を順に話す。
「はにゃぁ! そう言う事情があった訳ねぇん? むむっ、これはエルシア学園七不思議よりも特上級のレア情報入手!」
 一人はしゃぐ美亜子の後頭部に、冴子の軽いチョップがヒットする。
「バカッ、この時くらいマジメに聞けねーのかオマエはっ!」
「うみゅぅ……何も殴らなくてもいーじゃん!」
「ミャーコ、せっかく話してあげようとしているんだから、ちゃんと聞きなさい」
 いつものやり取りをする二人に菜織の軽い叱咤が飛ぶ。これにはさすがの美亜子も黙るしかない。
「しかし、そんな事って現実にあるのかよ。どうも信じらんねーぜ」
 意外にも冴子は平然としている。
「何だ冴子。お前こういう話超苦手なんじゃねーのかよ」
 軽い正樹の揶揄に、一瞬冴子は唾を呑む。そして顔を赤くして美亜子の肩を押し、軽い剣幕を立てる。
「だからあの時はこのバカの妙な作り話のせいでなぁっ! ……と、それは良いとして、何かオマエらが嘘とか作り話をしているように思えなくてな。それに、何て言うかその……聞いていて興味が沸く……っつーか何てゆうか」
「ははっ。そりゃ、作り話でこんな所まで来やしないぜ」
 苦笑する正樹。
「ねーねーみんなぁ」
 冴子と菜織が掛けたはずの口封じの柔な封印が自然消滅し、美亜子は身を乗り出して会話に加わろうとする。
「何、ミャーコちゃん」
 それでも正樹は優しく迎えた。
「んと、よくわからないんだけどね? でもぉ、それってすごく謎。謎だよぉ?」
「ん――――? どういう事だよミャーコ」
 冴子の言葉と同時に、皆の視線が美亜子に向けられる。
「うん。だって、菜織ちゃんが見たって言う夢と、真奈美ちゃんが見た夢。それと、乃絵美ちゃんが見た夢。時代はほとんど一緒なんだよね?」
「うん……」
 乃絵美がわずかに眉を顰める。
「菜織ちゃんが見たっていうその“うつぼ”って人の夢と、真奈美ちゃんの見た“静御前”って人の夢は、えっとぉ……その“九郎義経”に共通している女の人だよね?」
「聞いたまんまじゃねーか」
 冴子の横槍に不快な表情を見せる美亜子。
「もう、うるさいなぁ。……でも、乃絵美ちゃんの見た夢って言うのは、京都の朝廷の夢……だよね」
「そう……みたい……」
「あたしって全然そっち系はわからないけどね? 単純に考えて、三人が見た夢……ううん、乃絵美ちゃんの夢は、菜織ちゃんと真奈美ちゃんが見た夢に関係があるって思えないよ」
「…………」
 その言葉に、正樹と菜織、真奈美、そして乃絵美は息を呑んだ。確かに、美亜子の見解は的を射ている。菜織が見た義経とうつぼの夢に導かれてやって来た平泉。そして、乃絵美までもが見た怪異な夢は、平泉。ひいては桜美町から遠く離れた京都平安京を舞台としている。一見全く無関係である。
「それじゃ何だミャーコ。乃絵美が見た夢ってのは、要するに苦手なホラー映画見たその日の夜に夢に見るようなもんだって、そう言いたいのか?」
 冴子の言葉に美亜子は意味深に長い息をつく。
「そうだぁっ! ……って、断言は出来ないけど。でも、それじゃ余りにも出来過ぎだよぉ。……さる超大国の政府高官が、敵国日本の機密情報を得るために、特殊科学部隊を隠密裏に派遣し、菜織ちゃん、真奈美ちゃん、乃絵美ちゃんにそんな夢を見させるように、アルファー波を操作した――――! ってゆうのならわかるよぉ?」
「要するに、人為的じゃない……と」
 正樹が半ば失意の色を滲ませて言う。
「あっ。気を悪くしないでね正樹君。ミステリィな展開はダイダイ大スキなんだけどね……」
「ううん。ミャーコちゃんの言う通りなのかも知れないよ」
 どこかしか落胆の色滲ませて乃絵美が口を開く。
「確かに、私は菜織ちゃんと真奈美ちゃんの話に興味を抱いたの。そして不思議なんだけど、菜織ちゃん家の古文書も読めた。……でも、よくよく考えてみるとサエちゃんの言うような事なのかも。事実、古文書の字が読めたのも、知識としてあったわけだし……」
「乃絵美…………」
 正樹は兄としての憂色の表情を妹に向けていた。
「ちょっと待ってよ」
 菜織が完結に向かい始めている会話の流れに歯止めを掛けた。
「だったらどうして、乃絵美だけ全く違う朝廷の夢なんか見るの? あたしたちの夢は、直接朝廷には関わりないことよ? 平家や源氏にまつわることなら納得行くけど……」
「確かに……」
 なよなよした宮廷装束を纏った人間が中心となって夢舞台を演じた話など、二人の夢にはない。乃絵美が見た夢と、菜織たちが見た夢の関連を辿ろうとすればするほど、それほど知識があるわけではない一同にとっては、主題から脱線し、混乱する要素に過ぎなかった。
「…………」
「…………」
 黙り込む一同。

「ねぇねぇっ!」
 しばらくの沈黙をうち破るような美亜子の声。
「わぁっ、何なんだよミャーコぉ」
 耳の側で甲高い声を上げられ、思わず耳を塞ぐ冴子。
「そう言えばロビーに卓球台があったねぇん?」
「……そ、それがどうしたんだよ」
 苦い表情で美亜子を見る冴子。
「サエ? 温泉と言ったら、やっぱコレだよねぇ」
 美亜子はにやりと笑みを浮かべながら、人差し指と中指を合わせてスマッシュの素振りをする。
「は……はぁ――――」
 いかにも面倒臭そうな表情を見せる冴子。だが、美亜子のペースに慣れ親しんだ彼女がそれを拒否する島はない。
「やろうよぉ、菜織ちゃん、真奈美ちゃん!」
 すでに冴子を通り越したメンバーの勧誘に躍起な美亜子。
「あ、あははっ……」
 相も変わらずと言った感じの美亜子の強引さに苦笑しまくる真奈美。
「もう、こんな時に……仕方ないわねミャーコったら」
 と言いつつも、菜織はまんざらでもない様子。
「正樹、どうする?」
「あ? ああ、行って来いよ。俺は乃絵美のこと看ているから」
 それは約束された展開だったのかも知れない。
「ん――――じゃあ、ちょっと遊んでくるわね。真奈美、サエ、行こっか」
 本気か否か、はしゃぐ美亜子を先頭に、気乗りせずの冴子、戸惑い気味の真奈美が部屋を後にし、最後に菜織が部屋を出る。扉の前で一度振り返り、正樹と視線を交わす。感謝と陳謝が入り交じった瞳の会話。お互いの意思がそれで伝わる、実に素晴らしい恋人同士。

 虫や蛙たちの合唱だけが聞こえてくるだけの閑かになった部屋に、兄妹の息づかいが残る。
「…………」
「…………」
 互いの気遣いからか、しばらく無言の二人。やがて兄がその静寂を破った。
「……乃絵美」
「っ! ……あっ、な、なに、お兄ちゃん」
 不思議な緊張感のためか、兄の声に過敏に反応する乃絵美。
「ホントに、大丈夫か」
 菜織の件も絡めて正樹は尚更、乃絵美のことが気がかりだった。ただでさえ身体が丈夫ではない乃絵美が、奇怪な夢に憑かれて体調を崩すことがあっては居ても立ってもいられない。
「うん、平気。本当だよ」
 と言ってにこりと微笑んでみせる。そんな儚げな笑顔が実に可憐であるのだ。
「あのねお兄ちゃん……」
「ん?」
「続きがあるの……聞いてくれるかな……」
「続き――――?」

 紺色の布で覆面した若い武士は、広元にそのまま旅籠屋に戻るように諭すと、そのまま近衛邸に上がる。旅の埃払うこともなく、基通の居る書斎へと家僕に案内させた。
「…………」
 格子戸に映る影法師を、近衛基通は穏やかながらも、深く冷たい眼差しで追う。そして、ぴたりと立ち止まったそれに、小さく鼻で嗤いを向けた。
「入られませ、遠慮は要りませぬ」
 間を置かずに、木戸ががらりと開き、覆面の若い武士が基通の近くに歩み寄り、ゆっくりと腰を落とす。大江広元のことはすでに蚊帳の外のような様相だ。
「時の摂政殿下ともあろう公卿が、得体の知れぬ覆面武士と密会とは……あまり芳しくなかろうもの」
 覆面のために声がこもるものの、低く透る声がよくわかる。彼は名乗りもせずに突然無礼にも等しい言葉を基通に向けた。
 しかし、基通は平然とした様子で微笑する。
「それも時期に解任となりまする。近衛基通、旧例に倣いいずれ官職を辞して仏門にでも帰依致しましょう」
 すると武士はくくくと冷笑する。
「心にも無きこと仰せあるな。佐殿にはそのような猿芝居、通じませぬぞ」
「それは困ったもの……」
 閉じた扇子を口元に当てる基通。
「さて……摂政殿下。与太話はまたいずれとして――――」
 武士の口調が厳しさを秘めた。
「…………わかっておりまする。この基通も愚かではない。ただ……、そなたさんほどの知恵は持ち合わせておりませぬがな」
「戯れ言ですな。……しかし、殊の外たやすく事が運ばれたようで何よりです」
 軽い笑みの後、武士は労うようにそう言った。
「…………」
 しかし、基通の口からはわずかにため息が漏れる。
「ん――――いかがなされた? 一条卿よりも成就の報、受けておりますが、何か」
「そなたさんはわからぬかも知れませぬが――――こう……京の秋は、特に孑々(ぼうふら)の残りが生気盛んのようで、耳元を騒がし、夢見もよろしゅうありませぬわ」
 基通はそう言って穏やかに笑う。
「ほう…………孑々とな。ふっ……、神州を統べる摂政殿下の言葉らしゅうもない。放っておかれてはいかがか」
「……鎌倉はではあまり煩わしゅうないようですな。ははっ……京の蚊は、高貴な血を殊に好むゆえな。御宸襟を煩したくはありません」
 基通がそう言って苦笑気味に語ると、武士も
「某は伊豆の片田舎育ちゆえ、京の方々の風雅な譬えは解りませぬが――――」
「解りませぬが――――?」
 基通が武士の目を見つめる。きらりと、武士の瞳が妖しく光った。
 そして、澄んだ笑い声まじりに、武士は言った。

「水を枯らしてしまえばよろしいではありませぬか――――」

 覆面が緩み、わずかにその口元が覗いた。

鳳凰院・平 兼資邸

 いつもように狩衣に着替えて傍目から見て無為な一日を過ごそうとする兼資。朝餉を摂ったのは、妻・紗奈よりも半時遅れだった。紗奈の方が普段より早く、朝餉にありついたと雑仕女の話は、もう十日も聞いている。
「主様、お履き物を――――」
 沓を調える家僕に、兼資は優しい口調で言った。
「今日はもうしばしゆっくりとしよう」
「は、はっ――――」
 さっさと乱暴な素振りで沓を履き、洛中に繰り出すいつもの兼資らしからぬ態度に戸惑いを隠せない下僕。
 光孝帝の末裔を名乗り、平姓鳳凰院などと大層な姓を得ているが、藤家占有の堂上公家とは比べ物にならない身分。朝臣でありながら任を嫌う奔放な人格。
 閉鎖的な宮廷から一線を画して垣間見る天上界は、実に権力闘争の坩堝と化し、黄金の壺の中はどす黒いへどろで埋め尽くされているようだった。
 街行く庶民に触れ、若い娘たちを口説き、笑顔で会話を交わす人々に参加してゆくことで、兼資の中で、今までとは違った新たな想いが芽生えていた。
「だめやった――――九郎さん…………」
 ふっと、兼資の口からその名が漏れ、慌てて口を塞ぐ。
(この兼資も……どこまでが限りか……)
 澄んだ秋の青空にゆっくりと流れてゆく雲を見上げていると、人はいやがおうにも心安らぐ。
 幾ばくか時が過ぎたのを感じた兼資は、改めて邸の玄関に続く廊下を歩む。そして、角に差し掛かったときだった。
「…………っ!」
「むっ!」
 危うく鉢合わせになるところだった。驚きのあまりやや体勢を崩し掛ける兼資の妻・紗奈。心臓がぱくぱくと鳴っているのか、遠慮気味に胸元に手を当てる紗奈。
「………………」
 しかし、夫の顔を一瞥しただけで顔を逸らす。
「久しぶりやな紗奈。……同じ邸に住んでおるのに、この様な挨拶はけったいや」
「………………」
 それに答える代わりに、わずかに肩を落とし、ため息を漏らす紗奈。やはり、あの日のことが強く胸に焼き付いているのだろうか。
「紗奈。あの時はすまなかった。この兼資、取り乱していたとはいえ、そなたに辛く当たってしもうたこと、悔いている」
「………………」
 それでも、紗奈は夫の貌を見ようとはしない。
「だがな、そなたの言葉はひとつだけ間違っていたのや――――」
 そう言うと、兼資はすっと腕を伸ばし、紗奈を背中から包み込むように抱きしめたのだ。
「!」
 突然の夫の行動に愕然となる紗奈。身体が硬直する。それは、今まで紗奈が感じた抱かれ方では無かったからだった。

「この平兼資、生涯において愛する女性(にょしょう)はただ一人、紗奈――――そなただけや――――」

 九条家の香子のことは言わなかった。言い訳じみた言葉になるのを、兼資は嫌った。
「兼……資……さん……」
 ようやく、紗奈が口を開いてくれた。十日ぶりに発する第一声は、戸惑いながらの夫の名前。
 そして今、その仮面夫婦は素顔を見せて抱き合い、唇を重ねた。それで、万事はうまく行くはずだったのだった――――。

「おお、良経さんやないか」
 門の前で遇った九条良経に軽快な挨拶を送る兼資。
「良経さんやないか――――ではないぞ、兼資」
 偶然ではなく、鳳凰院兼資に会うためにやってきたことを強調する良経。
「いかがなされたのや。今日はいつにも増して、険しい顔つきやな」
「何を呑気なことを言っている。……そなた、これからどこへ行く気だ」
「どこへなどと……いつもの様に、気の向くまま風の向くままや」
 と言いながらすうっと朝の空気を吸い込む兼資。

「止めておきや、兼資」

 突然、良経の怒りに満ちた声が兼資を制した。愕然となって朋を見つめる兼資。女性のような風貌に目一杯顰め面を浮かべていた良経が、すぐにいつもの顔つきに戻る。
「す、すまない……つい大声を上げてしまった」
「い……いや……それはそうと、いかがしたのや良経さん」
 呆気にとられた様子の兼資に、良経はひとつ長いため息をつくと、目元に小さな微笑みをたたえて言った。
「禁裏の叡慮が近々兼資殿に下されるとのこと。陸奥権介従五位下(むつごんのすけ・じゅごいのげ)、鎮守府判官(ちんじゅふほうがん)とのこと」
 瞬間、兼資は凝り固まった。
「……な、何やと――――」
「院におかれては、そなたの才を無官のまま埋もれさすること心許なし。平家凋落の世情、奥州藤原秀衡こそ朝廷の脅威。よって平兼資をして陸奥権介とし多賀城に赴き、朝廷の威光を保つべしと――――」
 まるで用意された勅諚を棒読みするかのような良経に、兼資は語気を強めて割り込んだ。
「笑止なこと申されるな。廃れたとはいえ、我が鳳凰院は、権中納言従三位を極官と成す家。この兼資も一時とはいえその朝恩に預かった。今は全ての官位を返上し自由にしていきたいと考えております。それを何故に今」
 しかし、その言葉は再び良経に止められる。
「兼資、そなた自身の胸の内に訊きゃれ」
「…………」
 しばらくの間黙り込む兼資。
「そなたがいかに思おうが、そなたは朝廷の臣。あまり羽目を外せば、我が叔父基房よりも厳しい処断が下るやも知れぬぞ」
 良経の叔父・松殿基房が受けたのは流刑。それは誰もが記憶に新しい。しかし、兼資は鼻で笑う。
「ふっ。それもよろしぃな」
「兼資ッ!」
 良経の怒号が京の青空にこだます。
「…………」
 緊迫した空気が立ちこめる。良経がふっと視線を兼資の後ろに向けると、怒号に驚いたのか、兼資の妻・紗奈が声も掛けられず、ただ怯えたような表情を二人に向けていた。
「兼資。何があったのかはわからぬが、今洛中はどこか風向きが悪いようだ。ここは黙って陸奥(みちのく)の気を浴びて来い」
「…………」
 黙ったまま良経を見据える兼資。
「これ以上、紗奈殿を悲しませるな。そなたの妻やないか」
「…………」
 答えない兼資、後ろでは思い詰めたような雰囲気をたたえている紗奈。
 やがて、緊迫した沈黙を破るように、兼資は哄笑した。
「わかった、わかった。何や知らんが今日は止めや。……そうか、陸奥のう。悪い話やないなぁ」
「…………」
 突然の豹変に唖然となる良経。
「しかし、どうも性分的にじっとしているのが苦手なんや。……良経さん、つきおうて下さるかいな」
「あ、……ああ。今日はそのつもりで参った。とことん、語り合おうかな、兼資」
 気分高揚とばかりに良経の手を取る兼資。夫を心配していた紗奈の腕を、単衣の上からぽんと叩くと、笑顔で言った。
「酒(ささ)や、酒。今日は良経さんとの語り合いや、はははっ」
 妻に見せる屈託のない夫の笑顔。
 しかし、晴れたばかりの紗奈の心の奥に、再び暗い雲が沸き立ち始めていた。
 雨降りて地固まる。
 しかし、梅雨の晴れ間は、人々に悪戯に期待を持たせて裏切る。
 そして人は、長梅雨がもたらす洪水に呑まれ行く木の葉であるのだろう。