(――――オレは結構、本気でその日が来るのを、楽しみにしてるんだぜ――――)
シャマル・クランバートルを始祖とするアルバート家の名声は、トロデーン・アスカンタ・サザンビークを始めとする世界各地に聞こえ、その名の通り、三国一の旧家なのである。
第五代クラウス・アルバートは子侯を蹈襲し、有職故実に精通した礼法の権威として確立し、世界中に子侯家の名を轟かせることになった。
王都に居を移し、栄耀栄華の隆盛を極めるはずだった一族だったが、主はそれを敢えて辞し、長閑なリーザスにあった。
閑静な小村にある世界的名家。それでも、アルバート家の存在は、不思議と違和感がなかった。
村人たちの長として慕われ、王侯貴族の賜与をくまなく村々に割譲しても、なお、村を一眸できる丘陵に、大きな邸宅を構えることができるほどだった。
そして、第九代当主ハンスが早逝した後、アルバート家は、嫡男サーヴェルトと、その妹ゼシカを後継に見据え、四十路に遠く満たない、ハンスの未亡人アローザが家名を守っていたのだった。
熟しても尚、美貌の誉れ高いアローザ。再嫁の話は星の粒ほどあった。しかし、彼女は、亡父と二人の子供たちの未来だけを案じ、独身を貫く決意をしていた。
サーヴェルトが、アルバートの未来を背負うべき逸材であることは、自分の息子だから贔屓するわけではなく、自他共に認められている。
サザンビークからの特別便は中央大桟橋には接岸しないという。中小の貨物船が碇泊できるほどのやや狭い西岸に、妙に絢爛な船がゆっくりと接岸し、碇を降ろした。
渡り板が通されるのを眺めている港湾作業員風の男たちが、埠頭に積み上げられている荷物を捌く手を休めて、そこに視線を向ける。
「おう、ネイビー見てみろよ。どうやら、御曹司が戻られたようだな」
「ああ。そういや、このひと月に、これでもう三度目だよな。ハッ、サザンビークも随分近くなったもんだぜ」
ネイビーの言葉に、男が失笑する。
「正直言って、太子殿下のワガママなんだろ。ああ全くサ、俊賢(クラビウス)王陛下も大変だよなあ」
呆れを通り越して、皮肉もここまで洗練されると、ある意味至高の様相だ。男の言葉に、ネイビーが乾いた笑いを返す。
「はーはー、くだらねえこと言ってんなよ。ああ。全く、辛えのは御曹司だろ。――――ケッ、どうせどこぞの“祀祭卿”サマが使いぱしりか。はっきり言ってやる。オレだったら、絶対ブチキレる。人を何だ思ってんだ、ってな」
同情よりも、相手国家に対する嘲笑に満ちた響き飛び交う埠頭を、一陣の薫風が駆け抜けた。
腰の下まで伸びているだろう緋色の髪は耳の上で二本に結われ、清楚な印象を受ける臙脂のリボンを通した白のブラウス、リボンと同じ臙脂と、滅紫のビロードを重ね合わせた、長いプリーツ姿の華奢な少女が、柑橘の香りを軌跡に残しながら、渡り板の前でそわそわと落ち着かなくステップを踏んでいる。
その少しだけ気の強そうな、凛々とした美貌は、誰もが振り返る。深窓の御令嬢これなんとしながらも、決してそんな気がしないことは、そんな仕草から見て取れる。
「これはゼシカお嬢さま、もしかしなくてもサーヴェルト子侯をお出迎えで?」
船から先頭を切って渡り板を下りてきた髭面の水夫がそう言って笑う。
そわつく美少女・ゼシカは、水夫の言葉に動揺し、握り拳を思いきり地に向かって突き立てながら、頬に一条の朱線を奔らせた。
「ち、ちがっ…………くは、ないけど――――」
「安心しなせや。間違いなく子侯は送り届けましたに。間ものう下りて来ますわ」
「う、うるさいっ! ちが……」
何故かムキになりかけるゼシカ。その時だった。
“帰港早々、妹の出迎えがこう騒がしいのは、本当に嬉しいものだぜ”
優しい感じだが、それでもどこか力強さを感じさせる美声に、ゼシカははっとなり顔を上げる。無意識に綻ぶ表情。
ゼシカよりも少し色合いが強い緋色の髪、ややつり上がった大きな瞳、すっと伸びた鼻梁に爽やかに結ばれた唇。細めに見えてしっかりとした体格。遠目から見ても、その人が美青年であると言うことが判る。
青年は、肩から靴の付け根まで繋がった白絹の宮廷服を鬱陶しげに気遣いながら、ゆっくりと、しなる渡り板を跨いだ。
「お帰りなさい、サーヴェルト兄さん!」
ゼシカは満面の笑みを浮かべて細い指を広げ、腕を差し出す。
「ああ。ただいま……ゼシカ」
少しだけ疲れたような感じの微笑みを返し、サーヴェルトは差し延べられた妹の掌を握る。
桟橋に降り立ったサーヴェルトはゼシカの手を離し、肩に提げられた荷物を下ろして息をついた。
「全く、宮廷服ってのはどうも窮屈で苦手だな。肩が凝って仕方がない」
「ふふっ、わかるわかる。道理で兄さん、死にそうな顔しちゃってるワケだ」
「参ったな。妹にそう言われたとあっちゃあ身も蓋もないぜ」
「冗談。さらっと流しちゃって。……でもホントに、疲れた顔してる」
ゼシカはわずかに眉を顰めながら、掌を兄の頬に当てるようにかざす。
「まあな。サザンビークへなんざ、あまり楽しい旅というわけではないからなあ」
サーヴェルトが苦笑すると、ゼシカは突然腕を組みながら形の良い唇を尖らす。
「用事があるなら、向こうの方から来りゃいいじゃない。それを何? 兄さんを呼びつけるなんて。それもひと月に一度でも多い位なのに、これで三度目よ、三度目! ふざけんのも大概にして欲しいってのよ、この――――クソ野郎!」
徐々に言葉づかいが荒んでゆき、声を張り上げながら、革靴で桟橋を思いきり蹴り上げる。土埃が遠い青空に舞い上がると、風に乗ってさらさらと海へ運ばれていった。
突然の激昂に、周囲の視線がゼシカに集中する。唖然とする人もいれば、また始まったかと言ったように、多くの人々の苦笑が、サーヴェルトを巻き込んで姉妹に向けられている。
「お前の気持ちは、非常に有難いんだが――――その……場所は辨えてもらいたいところだな」
サーヴェルトの言葉に、ゼシカはようやく逆八の字になった細く美しい眉毛を元に繕った。
「あ――――――――」
瞬間、周囲の生温かい視線に気付いたゼシカは慌てて令嬢を“装った”。サーヴェルトの失笑に、ゼシカは頬を膨らませた。
上馬を駆り、サーヴェルトとゼシカはその日のうちにリーザス村に戻った。途次、サーヴェルトは実に神妙な表情のままで、ゼシカが語りかけると、ただ寂しげな微笑みを返すだけだった。
「ご苦労でしたね、サーヴェルト」
アローザがサーヴェルトを労う。息子はおもむろに母の手の甲を取り、唇を当てる。
「母上もお変わりなく、祝着です」
「俊賢王には、お変わりもなくて?」
「はい。……ですが、今回の訪嘴は、ロンバード祀祭卿の内用向きが大きかったようです」
「祀祭卿殿の――――」
アローザがゼシカを一瞥する。面白くないとばかりに、ゼシカは顰め面を正そうとはしない。
「特にラグサット殿が、この話を一日千秋の思いで成り行きを見守りたいとの事です」
「再三に亘る催促でしたか――――ふう」
アローザがそっとこめかみをさする。
「ゼシカ。あなたの気持ちはどうなのです」
振られたゼシカは、あからさまに嫌な顔をする。
「はい? どうなのって――――、そんなこと、いちいち訊かないで下さいます? 答えるのも面倒よ」
ぷいと顔を背けるゼシカ。困惑したような表情の母に、苦虫を噛み潰したような表情で俯くサーヴェルト。
「しかし……祀祭卿殿としては、この話を是非にも進めたいのよ。あなたもいずれは――――」
「そんなこと関係ないわッ。私の生き方は、私自身で決めるの。……大体、なんでそんな、見たこともない――――……ああっもう、話すのもめんどくさッ!」
食事の用意を調えたという給仕の報告も無視して、ゼシカは一秒もその場の雰囲気に浸りたくないとばかりに、ずかずかと立ち去ってしまった。
本気で食欲をも失せてしまったゼシカ。結局、数日ぶりの家族団欒もすっぽかしてしまい、反って心身共に落ち込んでしまう。
怒られたときやひどく落ち込んだとき、サーヴェルト・ゼシカ兄妹は、決まって逃避する場所があった。
――――屋根――――
身近にある、灯台下暗しの絶好の隠れ家。これが意外にも見つかりにくく、且つ見晴らしが良く静かだ。至れり尽くせりのスポット。
誰にも知られることがないから、素をさらけ出せる聖域。
そう。それでも、ゼシカは泣きそうなほどの感情を堪えながら、膝を抱きしめ、背中を丸めている。
気丈な美少女が、気を緩めることが出来る場所。そこを護れる騎士は、サーヴェルトだと、信じ合えた。
「旋毛を曲げたお姫様よ、いかがお過ごしか」
サーヴェルトがそう声を掛けると、ゼシカは僅かに顔を傾けただけで、半ば兄を無視する。
「御陰様で、とてもブルーな気分ですワ、兄さん」
“言葉に棘がある”と言うことを、強く実感できる瞬間だ。
「それは大変。オレに出来ることはあるかい」
「…………」
それを返事に、サーヴェルトはゆっくりとゼシカの傍らに腰を下ろす。傾いているので結構、脚に力が入る。
兄を傍に感じたゼシカは、きゅっと膝に廻す腕に力を込めて、恨みがちに口を開いた。
「ひどいよ……。兄さんまで――――そんなに家のこと――――」
言いかけた言葉を、サーヴェルトは遮った。
「良い訳ねえな」
「…………兄さん?」
きょとんとなるゼシカ。瞳を兄に向ける。元々端正で爽やかである表情なのに、今は無理矢理な笑顔を作っている。唇の端が震えていた。きっと、奥歯で舌先を噛んでいるのだろう。
「妹が望まねえことを進めても、良いことはないさ」
サーヴェルトはごそごそと懐をまさぐり、菓子箱から掠めていた鯣を無造作に囓った。そしておもむろに、げそをぐいとゼシカに差し出す。
「…………」
行儀が悪いと言われそうだった。差し出されたげそを、ゼシカはパクリと唇に挟め取る。酢の利いた美味が、口の中いっぱいに広まった。
「お前は、官位栄達に執着がない。貴族様には手に負えない女だよ」
「……それってさ、誉めているんだか、貶しているんだか、わかんない――――」
まったく、言葉は不機嫌だ。
「ラグサットじゃ、役不足もいいところだな。……いや、へたすりゃ、世の令息どもは、演劇のエキストラにすりゃ、なれねえかもよ」
「じゃじゃ馬……」
ぼそりと、ゼシカが唇を尖らして呟いた。
その声を聞いたサーヴェルトは、思わず哄笑してしまった。
「絶対、バカにしてるんだから」
恨み節に、ゼシカは唇を尖らす。奥歯に挟んだ鯣をぎゅっと強く噛み切る。
「お前は本当に、素直な奴だよな。ははははっ」
サーヴェルトが絶笑するたびに、不機嫌になってゆく。
「きらい……。兄さんなんか、きらい――――あっち行って!」
本心じゃないのに、一時の感情でそんなことを口走ってしまうのだ。憤かる弱さも包み込む。サーヴェルトの不思議な爽やかさと包容力だ。
サーヴェルトは少しだけ困惑したように苦笑を浮かべると、ゆっくりと掌をゼシカの頭上に翳し、優しく頭を撫でた。その傍ら、額にほつれた前髪を、無造作にくしゃる。
「…………っ!」
ほんの少しだけ、鬱陶しく思った。だが、兄が良く施す、やや乱雑にする頭の撫で方が、ゼシカにとって何よりも好きで、癒された。そんな感情など、一瞬にして払拭される。
白い歯を覗かせて笑みを繕うサーヴェルトが、おもむろに口を開く。
「お前がこれからきっと出逢う。誰よりも、どんなことよりも大事に……大切に思える人間……。そいつのために、取っておけよ――――」
兄の言葉は、戯けているようにしか思えなかった。また、くだらないことを言っている。そんな気がした。
「なにそれ、バカみたい。妹にカッコなんてつけないでよ、ヘンなの」
兄の手を振り払い、ゼシカは心底呆れたようにそう言った。長嘆し、兄に視線を向けるのも、その瞬間、嫌った。
「…………確かに、バカ言ってるのかも知れねえな」
意外にも、神妙な口調が返ってきた。ゼシカは思わず、振り向く。
「お前は間違っちゃいない。お前は、お前らしい方がいいんだ。そうだろ」
サーヴェルトが、言葉に力を込めながら言う。
「意味不明だから……」
心の奥深くに届くかのような、兄の言葉の響きだった。しかし、ゼシカがわざとそう返すと、サーヴェルトは苦笑いを返す。そう、苦笑いだけだ。
鯣をごくりと呑み込んだサーヴェルトは、おもむろに、今度は少し恥ずかしそうに、ゼシカの頭をごしごしと擦った。抑えつけられるかのような力に、彼女の小さな頭がぐるぐると回る。
「ちょ、ちょおっと。な、何するの兄さ……」
「お前の、大事な人は誰だ」
「えぇ? 何それ、ちょ……」
「大事だと思う人はいるか」
兄の手を振り解こうと身を捩るが、サーヴェルトの真剣な口調に、思わず身を縮める。そして、やや思いを巡らせた後、少しだけ照れくさそうに答えた。
「そ、そんなの……、兄さんやお母さんに決まってるじゃない」
「……そうか――――」
不意に、サーヴェルトの声が優しさに溢れた。
「いきなりな、何なのよもう、恥ずかしいなあ。回りくどいこと言わないでよ」
父親であるハンス子侯が夭逝したためか、幼い頃から男性と言えば兄だった。サーヴェルトも、子侯家の嫡子としての気概も重なって、殊の外妹ゼシカを慈しんだ。
きっと端から見れば、仲睦まじい兄妹。サーヴェルトや、ゼシカの想いの底知らずや、微笑ましいリーザスの名家ここにありと。
ゼシカ自身、サーヴェルトを兄として慕っているつもりだったはずなのに、そのサーヴェルトの突然の言葉は、それ自体に疑問を投げつけているような、心の奥深くをえぐり出すような感じがして、正直苛ついた。
サーヴェルトは、そんな彼女の心がまるで手に取るかのように判るか否か、感情が昂ぶる時を宥めるときに見せる、あの慈しむかのような微笑みで、妹を真っ直ぐに見つめていた。
そして、額にかかるほつれ髪を一度くしゃくしゃと掻き回してから、言った。
「お前みたいなやんちゃん、手放すときが来るのが惜しい気もするな、少しだけ」
明るい声だった。唖然とするゼシカ。
「そんな時が来れば、お前はきっと、デカくなる。ああ、きっとな」
「……なーんか、ヘンな意味に聞こえるのは気のせい?」
否定も肯定もしないサーヴェルト。ただでさえ言葉尻を掴ませてくれない兄の雰囲気。それでは反論する余地もない。
「そん時、お前にとってリーザスなんて、きっと小さな村に思えて来るんだろうな」
そう呟いて苦笑するサーヴェルト。
「兄さん、さっきから全然話の主旨が見えない。大事な人だとか、でかくなるとか、村が小さくなるとか――――なに、わかんないよ」
ゼシカは少しだけ哀しげに言うと、サーヴェルトは、にいと笑みを浮かべて返した。
「要するにお前は、気付かないうちに、お前自身が大きくなっていると言うことだ」
「はあ――――」
とりとめがつかず、生返事のゼシカ。
「ゼシカ」
唐突に怒りが混じる声でゼシカの名を呼ぶサーヴェルト。
「は、はい……」
思わず、居住まいを正してしまう。しかし、兄はすぐに、いつものような、やや軽い感じの優しい口調に戻っていた。
「いいか。これからも、周囲の答えに惑わされるな。お前自身が納得する答えを探すんだ。……それがたとえ、母さん……そして――――オレが出した答えでもだ」
「兄さん…………?」
「そして、お前自身が出した答えは、どこまでも、とことん信じろ。信じて、諦めずに、負けるな。……いつかきっと、そこに悔いのない、お前自身の真実を見つけることが出来るはずだ」
「…………」
茶化した様子も、戯けた様子もない。いつも以上に、サーヴェルトの表情は真剣に見えた。
「なんか――――すごくシリアスっぽいんだけど……」
普段の兄らしからざる真剣な表情に、ゼシカは戯けることも出来ず、そう答えるしかできなかった。
「あはは、参ったなあ。こう見えても、けっこう真剣なんだぜ」
サーヴェルトの照れ笑いに、ゼシカは少しだけ肩の力が抜けてゆくような感覚に、自然と顔が綻んだ。
そう。それが兄との時間。自分を大切に思ってくれる、優しい人。
「そう? 兄さんの真剣な時なんて、すごく珍しいよ。滅多に見ないし」
「あははははっ。こりゃ、参ったね。やっぱり、お前にはかなわねえな」
サーヴェルトの大笑。何となく、その瞬間がそこはかとない幸福を感じ、とても愛おしく思えてならなかった。