「!」
一瞬、奈落に叩き落とされるかのような感覚に、エイトは全身を震わせて吃驚する。
がくんと、力が抜けた首の骨が軋む。思わず目を見開くと、光度を落とした小灯の火(あかり)さえ眩くて瞼を細めてしまう。
ハワード卿特製のアロマ・セラピーも尽き、その残り香が未練がましく鼻腔の一片をつく。
混線した意識を何とか整えたエイトは、昨夜からずっと看てきた、目の前の寝台が蛻の殻であることに愕然となる。
「……ゼシカ――――!」
意識に残る淡い靄も一瞬にして吹き飛び、エイトは剣を握ると部屋を飛び出した。
夜気がこんなところまで立ちこめている。もう既に夜も更けてきたのだろうか、静寂の中に革靴の乾いた音がやけにうるさい。
もう休んだ主人不在のカウンターをも振り返らずに扉を抜け出そうとした時、エイトは気付き、引き返す。
隣の部屋。がさつな山賊と美貌の破戒僧。先日の戦いで傷を負ったもの同士。疲労の極地に昏睡しているのかと思いきや、どうも違うようだ。彼らはまるで合唱団のような均等なリズムで、幸福そうな寝息やら鼾やらを放っている。
そんな少しばかりとぼけた感じだが、実は異変が起これば、エイトよりも気付くのが早いのだ。彼らが安眠を貪っているというのならば、エイトの杞憂も消し飛んだ。
南嘴地方。いわゆるサザンビークとは違い、北嘴地方は表情を変える。
詩人の創造を超える天然の橋梁。峙つ嶮峻な岩壁を両側に、リヴルアーチはその直下、一万ウィールの海溝に続く海の谷と、空を突き刺すばかりの剣山のただ中に営む、石工の街だ。
苛酷と優雅という水油が実に調和する独特な空気。人は一途に石工に魂を費やすかと思えば、その実情熱を求め、人柄は極めて温かい。いや、まことに気持ちが悪いほど、居心地が良い。
ゼシカを呪いから解き放ち、彼女は三日、眠り続けた。エイトはずっと、その傍を離れなかった。
(エイトがきっと、助けてくれるよね!)
仲間になって間もない頃、ゼシカは冗談めいてそう言った様な気がする。何故だろう……今になってそんな他愛もない会話を思い出すなんて。
海峡と、北に極寒山岳地方が広がり、高台に到ればこれが結構、風が強い。
だが今宵は非常に穏やかだ。勢力の極めて強い高気圧が北嘴一帯を覆い、風を起こさない。
空はどこまでも澄み遠く、円い月が皓々とこの厳しい風景を幻想的にライトアップする。
そして、朝方になればとことん冷え込む。冷え込みが降霜し、朝陽に輝きこれがまた美しい。
リヴルアーチ中階に連なる街唯一にして最大の酒場。ここはいつも賑やかだ。しかし、当然と言えば当然。彼女がこんな場所で大酒をかっ喰らい、豹変するような質ではない。
(見晴らしのいい場所って、すごく好き)
ゼシカは絶景を見つける天才だった。旅をしていて、色々な風景に出会う。彼女が見つけた場所に立ち、俯瞰すればなるほど、世界はこんなにも美しいものなのかと、改めて思ってしまう。
そして、その場所から景色を見渡す彼女の表情からは、混じり気のない喜びを感じるのだ。
極寒山岳地方へと続く街道へ抜ける関門の手前に、眺望公園がある。
今は殆ど見られなくなったが、良く海峡を抜けてベルガラックやポルトリンクを往来する船舶の雄姿を拝むことが出来たのだという。石工の街にあるロマンティックな場所。そこも今やそこはかとなく寂しい。
駆ければ少しだけ息が弾む石段を上がりきる。唇の間から、僅かに白んだ息を吐き、エイトは木柵に凭れながら海峡の穏やかな海面に映る月の光をじっと見つめている人影を見つけ、ふうとひとつ、息をついた。
普段とは違って、頸の後ろから控え目にふたつ結ばれた、緋色の髪。腰の辺りまで長いはずの髪、それがよく解る。
そして、背中からでも目を引く、その身体の線。背は肩から肩胛骨、前は世辞抜きで豊満な乳房のほぼ半分を露出する、いささか過激な服。
一瞬、逡巡した。ククールのように自然とまでは行かずとも、わざと戯けてみせるか。
「ゼシカ」
あまり間を置かず、エイトはそれを選んだ。呼びかけると、ぴくんと華奢な肩がぶれた。
振り返らない代わりに、肩を窄め、折角の皓月から瞳を逸らす。
エイトは山吹色のスプリングコートを徐に脱ぐと、近づき様にそれを彼女の肩に掛ける。 ふわりと夜気が遮られ、人肌の温かさがゼシカの肩を包み込んだ。
「結構、寒いかも」
エイトが躊躇いがちにそう呟きながら笑みを浮かべる。
「……ありがとう…………」
そっと、コートの袖口を掌に握りしめるゼシカ。
「心配するからさ――――」
黙って宿から抜けたことを、柔らかく咎めた。ゼシカは、小振りで形の良い唇をきゅっと窄め、肩を竦めた。
エイトはやや困惑したかのように瞼を瞬かせると、徐にゼシカの横に並び、木柵に手を掛け、ぐいぐいとゆする。しっかりと固定されている木柵はぴくりともしない。
「でも……これで確信したかな」
そう呟き、くすと笑うエイト。
「?」
ゼシカが怪訝な様子を向けると、エイトは飾り気のない口調で言った。
「君のこと、やっと……取り戻せた――――って」
ドルマゲスを討つまではそこはかとなく不安だった。
出会ってから、ずっと近くにいても、側にいて笑っていても、何かが彼女とエイトたちの間にあるような気がした。少しでも目を離せば、いなくなってしまう様な危うさを、塵粒ほどに感じていた。きっと、思い過ごしかも知れない。
「…………」
隣からの息遣いのぶれを感じ、エイトが振り向くと、エイトは槍で突かれたように、胸がずきっとなった。
肩や唇を震わせながら、ゼシカはそれでも必至に嗚咽を堪えていたのだ。
リーザス像の塔以来、決して見せなかった彼女が今、感情を抑えきれずに泣いている。
理由は訊くまでもなかった。張りつめていた糸が、ぷつんと切れたことか。そして、漠然としたままの感情。やりきれなさの後に残る、重い脱力感。
エイトは何も言わず、そこにいた。いつもならば、物思いにひたっている彼女を気遣い、さり気なく去り、ひとりにさせた。
しかし、この時は迷いなく離れることを選ばなかった。今離れれば、きっと後悔する。シンパシーが、エイトの足を止めていた。
「ありがとう。ありがとう、エイト……。ごめんね、私ちょっと……。あはっ……何かブザマー」
自嘲するゼシカ。この期に及んでなおも自分を取り繕う、彼女の心の涙をエイトは隣で静かに受けとめる。
「サーヴェルト兄さんのこと、思ってたの」 しばらくして、落ち着いたゼシカが話し始めた。
「アルバート子侯の……」
それはエイトにとって、不思議と聞き慣れない名前。彼女の口から発せられるたびに、僅かながらこそばゆさを感じる。
「今までも忘れたことなかったけど……今日はずいぶんと鮮明に思い出すな――――。兄さんの顔や、声……」
気丈で物怖じしないその声が、妙にクリアに響く。エイトはそれが少し気になった。
「ねえ、エイト……」
不意に名前を呼ばれ、エイトは少し驚いた。
「私……、討てたのかな。仇……」
ゼシカの瞳は揺れていた。躊躇いと決意。疑問と確信……、様々な色で混沌としているように見えた。
「君はどう思ってるの?」
訊き返す。
「ドルマゲスは確実に斃れたよ。君自身が、それを良く知っているだろ。……アルバート子侯を手に掛けた男は、君が倒した」
「わたし……私は――――」
胸を覆う、得も言われぬ苛立ちに、ゼシカは思わず絶叫しそうになる。
エイトは言った。
「目的は果たせたんだ。正直、君がこれ以上僕等と旅を続ける理由はないと思う。違う?」
温和な口調なのに、強く突き放す。そんな言葉がゼシカに浴びせられた。
「そ……それは……」
思わず言葉に詰まるゼシカ。そんな彼女の惑う様子を、エイトは目を離さず、ただ真っ直ぐに彼女の瞳を捉える。
「君と一緒に旅をしていて、ずっと思っていたことがあるんだ――――」
「…………エイト……?」
ぴくんと、一瞬彼女の肩が緊縮する。
そして、どこかぎこちなく、純粋で温和な微笑みと共に、彼の口からは胸の隙間を外すことなく突き刺す言葉が発せられた。
――――君の瞳の先には、誰がいるの――――
ゼシカの表情が強ばった。
君は誰を、見つめている? 共に歩み、共に戦いながら、瞳はいつも遠くにあった。
表面にだけ見せる君の明朗(あかる)さが、いつも苦しく思える――――。
「エイト……わたし……私はッ――――!」
それは誤解だと言わんばかりに、彼女はまるで縋るような勢いでエイトに向く。
「うん……」
焦るゼシカとは対照的に、彼は温和な表情を崩さず、泰然と彼女の言葉と思いを受け入れる準備を整えていた。
らしくない焦りに、ゼシカ自身戸惑ってしまった。
そう。いつだって、彼はそうだった。いつでも、いつも待ってくれていた。心をさらけ出して、素のままを見せることを。
そして、今この時も。エイトはきっと、ゼシカの言葉を待ちつづけるのだろう。今まで、心の引き出しの奥深くにしまい込んできた、ありのままの想いを。
だから、思いを巡らせるには十分すぎるほどの、夜の闇。
――――あの時から、わたしは……
「すんませんしたー!」
上東連絡船のデッキ。一瞬、荒くれかと見まごうばかりの勢いで、グラマラスなその美少女は両腕を構え、大股に両脚を開いて首を垂らし、破れた襤褸布のような濁声で謝罪した。
エイトとヤンガスが呆気に取られるのも無理がない。
オセアーノンを鎮撫しているときは息を呑んで身を潜めていた。気勢が高い割に、本当はリーザス村の高家の令嬢らしき柔弱で、従順なのかと思う。
ところがどうだ。半ば強引一方的に旅を共にすると言った挙げ句、塔での一件の謝罪がこうも豪快だと、呆気に取られる一方で、返す言葉もない。
東洋に伝わる力比べの巨漢豪傑のような身構えで、そのグラマラスさも微塵に消し飛ばし、濁声を発する美少女の気迫に、しばらく唖然としていたエイトは突然、青空に向かい頤を外した。
「…………?」
突然の哄笑に、思わず眉を顰めて上目づかいにエイトを睨むゼシカ。
「いいよ。すごくいいかも、それ――――」
誹謗しているわけでも、揶揄しているわけでもなかった。エイトは屈託のない笑顔、そして、表裏がない、ありのままの言葉を口にしただけなのだと、何故かゼシカはその時思った。
酒場の酔客、兄を呼びつけたどこぞの国の男も、アルバート家の親しい海の男たちも、皆ゼシカを欲気の眼差しで見る。
そりゃあ、十代の瑞々しさに加えて、人並み以上に、まるで夏の積乱雲のような勢いで発達して行く女の魅力が、人を惹きつけるのは当たり前だろう。
男なんて、皆こういうものなのかと割り切っていた。“ゼシカ=アルバート”という名の、自分と言う存在を、しっかりと見てくれているのは、やはりサーヴェルトしかいないんだと。
正直、ゼシカは自慢だった。周囲を見廻しても、少し離れた国や街を訪れても、どこへ行っても注目の的。確かに、周囲を見廻しても、人の噂を耳にしても、自分ほどの身体を持つ女性はいなかった。
男はこんなものかと、あしらう思いと同時に、そんな自分を、彼女は気に入っていた。その気になれば、本気で兄を困らせるようなことだって、容易に出来るからだと……。
しかし、そんな彼女の鼻柱は、やがて折れてしまった。
ポルトリンクでの二度目の出会い。その時は多分、そうだったのだろう。
しかしそれ以後、彼は決して、瞳以外を長く見ようとはしなかった。話すときはいつも、真っ直ぐに瞳を見て、彼女の話に笑い、彼女の過去の片鱗に触れて哀しみ、仲間たちの失敗や失言にはにかんだ。
そうじゃないときも、彼は自分と同じ視線を見つめ、話した。
初めはきっと照れているのだろうと思った。いずれ、共にいることに慣れれば、きっと欲気に満ちた視線を密かに注ぎ込んでくるはずだろうと。
期待と幻滅。それを楽しみに感じている自分自身が時々、途轍もなく嫌らしい存在に思える。
だから、いつまで経ってもその気にならないエイトを、彼女は苛立たしく思えてならなかったのだ。
(なに、こいつ……。まさか、私に興味がないって言うの? ……あ、そう言えば、いつもヤンガスと連んでいる。まさか、こいつって……そっちのケがあるんじゃないの……?)
我ながら馬鹿なことを言っていると思った。
それほどまでにエイトのことが気になってしまっている自分自身が、不思議に思えてならなかった。
ゼシカの疑念を知る由もなく、エイトは普通に、ゼシカにも、ヤンガスにも接している。
ククールのことは全く意に返さなかった。この優男の場合、初めは本気で煩わしかったが、慣れてしまえばそれほど気になるわけではない。リーザスに出没していたラグサットに較べれば、はるかにましなほうだった。
てくてくと、馬車を守るように街道を進む一行。星の周回軌道的な確率で、微妙にヤンガスやククールとの距離を隔てた瞬間に、ゼシカはエイトに向く。
「ねえ、エイト」
「ん――――――――?」
振り返るエイト。歩幅が緩むが、彼は相変わらず、ゼシカの瞳を見つめるだけだ。
「あのね……あの――――もし、もしもなんだけど」
「…………?」
「この先、もしも私が窮地に陥ちてしまったら――――、エイトは私を救ってくれるんだよね」
何故、その様なことを訊いたのだろうか。
共に旅をする間……仲間なんだから、いちいち訊かなくてもそんなことは当たり前のことだろうと思った。
「ん――――そうだね……」
短い間に、ゼシカの脳裏には雷光のように様々な憶測が飛び交った。
そんな中で、エイトは小さく唸りながら思考を巡らせている。考えるまでもない事を考える。決して、彼女の望む言葉を選んでいるわけではなく、答えを先延ばしにする意味もない。彼は良く“考える”。
やがて、彼はゆっくりと彼女の瞳に微笑みをかけて、こう答えた。
「そうだねえ。救えたら、いいかなあ……」
曖昧で頼りない返事だった。
ゼシカは半ば失笑。エイトに対する感情が、明らかに違っている。こういうところが、根本的に違うんだ――――。安堵と失望が、交錯する。
心の片破れがあった。ゼシカ自身、それを誰よりも実感していた。夜になる度に、そしてひとりになる度に、欠けた心の部分がちくちくと刺激する。無性に、熱いものがこみ上げてきてしまいそうだった。
しかし、エイトは決してそこに立ち入るようなことはしない。判っていても、敢えて距離を置いているように思える時がある。もしかすれば、彼女が考えている以上に彼はあらゆる事に対して無頓着なのかも知れない。
正直な気持ち、エイトにとってドルマゲスという存在が、彼女にとってサーヴェルトの仇という事は、意味を成さないものなのだろう。
判っている。エイト。そしてその主公・トロデ王にとっては、ドルマゲスがトロデーン国の人々の仇敵、ひいては世界にとっての仇にもなると言うことを。
そんな強大な敵に立ち向かっているエイトたちにしてみれば、あまりにも狭い。
“兄の敵・ドルマゲス”を討つために、彼らと共に旅をしていた自分。
そうだ。そうなんだ……。彼らと自分とじゃ、目的があまりにも隔たりが大きい。
エイトの言葉は解る。そうだ、そうだよね。
…………私はずっと……サーヴェルト兄さんのことを――――
西嘴の幽邃な森に沸く霊泉。ポルトリンクで運命を共にしてきた、秀麗なる白き駿馬の正体を垣間見ることが出来る仙境。エイトは、“馬姫”と語らう。ゼシカにも、ヤンガスにもククールにも見せたことがない、ナチュラルな表情。
そんな彼に、心穏やかならざる事を懐ける資格があっただろうか。
エイトは、ドジで呆けている時もあるが、いつだって泰然としている。今、こんなふうに、いつまでも言葉を待ちつづけられる、何か天性の心の広さがある。彼ならば極端な話、今ここで頸に刃を当てて自害をすると言っても、狼狽せず、彼らしい優しさで思い留まってくれる言葉をかけてくれるだろう。
そう。繕った言葉なんて、要らない。肩の力を抜き、言葉を悪くすれば胡座をかきながら、ありのままに自然に。だから、彼女は素のままでエイトに対せたはずじゃないか。
「サーヴェルト兄さんしか、いなかったわ」
そう叫んだゼシカに、エイトは微笑みを崩さなかった。
「私の心の奥には……今までずっと……ずっと兄さんしか、いなかった……だから――――!」
サーヴェルトを手に掛けたのは、“ドルマゲス”。その名の男は討ち果たした。ゼシカが、とどめを刺した。それは鮮明な事実で、記憶に刻まれた。一生、忘れることはないだろう。
しかし、その“ドルマゲス”の意識に取り憑かれ、身体の自由を失ったとき、ゼシカはあの惨劇以上に、本当の意味での絶望感を味わったのかも知れない。
“仇敵”を滅ぼした直後の虚無感を奪われて、図らずもドルマゲスという存在と同じ轍を踏むかも知れない立場となっていた自分自身。
そんな奈落から救ってくれたのは、誰だったのか。
「……でも…………いまは…………」
心の移ろいなんて、あり得ないと思うほど人は脆い。いや、脆さというのか、それが人としてのクリアな精神とでも言うのか。
俄仕立てだと言われてしまうだろうか。何も知らない者が聞けば、見え透いた思いだと笑われてしまうかも知れない。
そんな言葉でも、彼だからこそ言える。
「エイト……エイトッ――――! あなたがいるのよ!」
「うん……。そうか」
それでもいつもと同じ、親身に耳を傾けてくれている彼の優しい表情が、逆にゼシカの苛立ちを募らせていた。