Act.3 / 臣籍降下

 ……馬姫――――馬姫さま……

 ――――ミーティア――――

 もうひとりの自分がいる。馬車を曳く駿馬に成り果てた、可憐で美しい王女。
 彼の想い出に焼きついている、甘酸っぱい日々。主従を超えた、絆の形。

 ……なんで……どうして……
 彼の側にいるのは私――――あなたじゃない……
 そんな姿になって…………いつも心を縛りつづけていて……
 離れて……離れてよ…………

 彼を……彼を私から奪わないで!

(それくらい、叫びたいわよ……)

暗黒神滅亡より一年後――――夏

《トロデーン城南陵・フォンヴァーグ湖》

 良く晴れた日には尖塔から水に映える陽光の燦めきが見える。
 何か耐えられないことがあれば、密かに導き、刹那の開放感を楽しんだ。それも数えるくらいしかないのに、憶えている。
 妖精か水精霊の栖、或いは神の御水酒かと思うほどに美しいフォンヴァーグの湖は、その実何もない。林の奥に峻嶮な岩壁に覆われた湖、王家の避暑地。
 膝まで続く、真っ直ぐな黒髪に目を惹く、美しく気品に満ちた少女が、立ちこめる涼気にはしゃぐ。まるで普段の繕いを解いたかのように、少女は少女のままに、屈託のない笑顔を向けている。
「やっぱり、ここはとても気持ちがいい――――」
 西嘴地方、幽邃の森の中にある聖泉は、かつて呪に捉えた少女の容姿を刹那に取り戻す、癒しの場だった。しかし、それ以上に伝説の悲恋の主人公のように、逢えた喜びと、別離の悲哀がシャッフルする、複雑な空間。
 少女がトロデーン国王女・ミーティア姫として安心できたのは、彼と共に数年を共にしてきた、フォンヴァーグの湖だったのかも知れない。
「…ト、……イト」
「…………」
 微笑みながらも目が茫然としていた青年の視界から、ミーティアは颯然と消え、黒髪の香りを風に残し、青年の背後に回った。そして、細く、しなやかで少しだけひやりとした指で、素早く青年の両目を塞いだのだ。
「!?」
「“睿(えい)竜王”さま、何をボウッとしているのですか」
「あ……あっと……ひ、姫――――」
 驚愕の混乱に声が上擦る。背後を振り向けば、ミーティアの少しばかり不機嫌そうな表情が映る。
「ミーティアのお話、聞いていてくれました、睿竜王さま?」
「ひ、姫――――その名は御容赦下さい……」
「まあ。竜神王さまから賜った御高位をそんな……」
「申し訳ありません……少しばかり、考え事をしておりましたゆえ」
 ミーティアが低頭する青年の肩を、無意識にぎゅっと掴む。
「エイト――――あっという間に、この一年が過ぎたような気がいたします……」
「もう、そんなに経ちましたか――――」
 暗黒神ラプソーンを亡ぼしてからも、救世の勇者エイトは、やはり腰を落ち着けるゆとりはなかった。竜神族の憂慮を払い、サザンビークとの慶賀を破断させるなど、トロデーンの国利を大きく左右する事件を、エイトが背負わなければならなかった。
 サザンビークの皇太子チャゴス殿下はあれからすっかりと東宮に隠っているという。俊賢王クラビウスは、怒るどころか逆に不明を詫びてきた。
 蟠りを懸念した竜神王は、サザンビークの献太子エルトリオに“誠(せい)竜王”、その遺児であるエイトに“睿竜王”の称号を下賜した。
 “竜王”は天地を守護する竜神王の地位に尤も近いとされる、竜神族にとって人臣の最高位だ。竜神族の長老たちは勿論、エイトを最初から見守り続けてきたトーポ……いや、グルーノも“瞻(せん)竜王”の称号を持つ。
 サザンビーク王室の嫡流でもあり、竜王位を受けたことで、竜神族の後継にもなるエイトの立場は更に微妙になった。
 ミーティアをチャゴス殿下から引き離したことで、誰もがエイトこそ皇婿かと囃す。
 救世からミーティア奪還。世界中が狂乱するのも無理はない。ただひとつ、“エイト”という“存在”がその風に煽られて遥か彼方へと行ってしまったことを除けば、何かを取り戻し、守り抜いたという実感が湧いてくるのは事実だった。
「ここは、本当に心が安まりますから」
 十余年、過ごしてきた第二の故郷とも言えるトロデーン国の自然は、一時なりとも疲れを癒した。湖に注ぐ小川のせせらぎ、吹き下ろす乾いた風。住み慣れた地の暖かさは、やはり代え難いものだ。
「そうね……」
 心から安堵の表情を見せるエイトに、ミーティアも心が和んだ。
 護衛はない。エイトとミーティア、二人を包むのは、自然の音だけ。
 エイトが微睡みに漂う中で、ミーティアの心に、もどかしさが過ぎった。
 チャゴス殿下との婚儀が破断したとき、その既成事実として二人は唇を交わした。それは、慶賀に集った民衆は元より、杜嘴(トロデーン・サザンビーク)両主上もしかと見届けた、紛れもない事実。
 サザンビークの嫡流を棄てた献太子エルトリオの子とはいざ知らずとも、竜神王の血統を受け継ぎ、“睿竜王”の称号を持つことになったエイトとの婚礼を望む声は少なからずあった。
 当然、人の前、体裁道徳の裏で、エイトとミーティアがそういう関係になっていても何ら不思議ではない。トロデ王も、内々では認め、或いはそれを望んでいる様な言動がままあった。
 しかし、エイトは一切、ミーティアを肉体的に求めるようなことはしない。いついかなる時も人臣の身を辨えた、ある意味潔癖な以前のままのエイトであったといえる。
 浮いた噂のひとつもないエイトという“兄”の存在に、ミーティアは縋っていた。
「楽しい時って本当、あっという間……」
 感慨深げに、ミーティアが呟いた。
 エイトはそんなミーティアの様子に片笑むと、言った。
「今だから言えます。あの旅も、内心とても沸きたっていました。同じ目的のために心をひとつに出来た、みんなとの旅が……」
 空に響き届くようなエイトの言葉。
「ええ。ミーティアもやっと、エイトと同じ……そう思えるようになりました」
 彼にとっては辛い旅。彼女にとっては、その変わり果てた容姿や、置かれた境遇以上に、もどかしさが無意識的に積もり溢れた旅。
「良かった」
 不意に、エイトがそう呟いて微笑んだ。
「エイト。どうしたの、いきなり」
 少しだけ首を傾げるミーティアに、エイトは言う。
「姫の胸の裡が今、そう穏やかであるのなら……」
 あの旅、暗黒神との戦いも決して無為な事ではなかった。何よりも、誰よりもミーティアに自分と同じ気持ちでいてもらえたという事が、嬉しく思えた。
「ふふっ、おかしなエイト。突然そのような事を呟くなんて」
「ははっ。そうですね。何を言ってるんでしょう。お聞き逃しを」
 エイトが慌てて赤面すると、ミーティアはいきなりエイトに顔を近づけ、鼻の先がぶつかりそうなほどにその瞳を重ねる。
「エイトのもうひとつの顔、見つけました」
 そう言って微笑み、徐に腕をその首に絡めた。
「ひ、姫……」
 狼狽えるエイト。
「こういうときに“姫”はなしって、言ってるのに……」
「も、申し訳ございません」
「あ……ほら、もう……」
 その吐息がエイトの項を掠める。臆面もなくいちゃつくという訳ではないが、とかく二人の時になると、ミーティアは気兼ねなく身を寄せてくるのだ。
 唇が触れあいそうなほどの感覚を、エイトはやんわりとかわした。今までも良くあること、意識もそれほどしていなかった。
「あ。ご、ごめんなさい」
「あ、え……えと……私こそ」
 赤面し合い、俯く。どうして身を離した。なぜ、こうも普通に触れあえるのか。少しばかり、互いに気をもたせるような空気が立ちこめた。もどかしさなどという言葉は、ここにはない。
 無為とも言えるような沈黙が続く。結局、何かを踏み出せないままに、時は過ぎる。
 ミーティアの近侍・近衛士官の女性が迎えに訪れるまでの緩やかな時だ。姫を慈しみ、そこはかとなくエイトを煙たいそうな無粋な掛け声に、いつも苦笑する。
 “何故、そんなにエイトに冷たいの?”ミーティアの問いに、士官は答える。
“姫の幸福を守る事が本官の仕事ですから”
 全く、納得させられる。
「時にエイト殿。竜神の郷より、特使・禧(き)竜王さまが来朝されたとのことです。陛下がエイト殿にもお知らせをと」
「禧竜王……チェソンさまが――――」
 エイトが首を傾げると、ミーティアが言った。
「禧竜王さまがお訪ねに……。もしや、竜神族の郷に何か……」
「お会いいたさなければ――――姫」
「そうですね、お城に帰りましょう」
 目配せ合いが二人を主従に戻す。

リーザス村・アルバート家

 聖堂騎士団の面影どころか、救世の勇者の一人だという事実すら無為なる事なのか。一介の“素浪人風情”のククールは、久し振りに訪れたアルバート家にあって、ゼシカではなくその母アローザと談笑している。
「チャゴス王子は廃嫡こそ免れたが、准侯に格下げだ。頭を冷やして一から出直せと言う感じなんだろう」
 吐き捨てる様でもない、憐れむ様子でもない、事の真相を淡々と告げる
「ラグサット殿よりも格下になんて、俊賢王陛下もずいぶんと思い切った事をされますね」
 アローザの驚嘆ぶりは実に目を惹く。四十路そこそこの未亡人が見せる、まるで少女のようなそわつく表情を見れば、やはりゼシカの母親なんだと思う。とにかく似ている。そう実感させられる。
「まあ、半ば容認とは言え、国の祝賀をぶち壊したのですよ。さすがに沙汰止み――――とは行かないんでしょうね。王子も災難といや災難だあな」
「殿下もこれで少しは成長されると嬉しいのだけれど……」
 アローザの言葉に、ククールは失笑する。
「確かに。さすがの王子も准侯に落とされたとあっちゃ、プライドも何もあったもんじゃないようで、最近は良く部屋に籠もって書籍に親しんでいるとかいないとか」
「まあ。殿下もいよいよ目覚めてくれたって事なのかしら。だとすれば、陛下にとっても、民にとっても喜ばしい事ね」
「あの王子がどこまで本気なんだかは長い目で見ないと判らないが、人間理性があるなら、今までの放蕩ぶりは余程抑えられるだろうね」
 飲み干したアローザのティーカップにメイドがポットを傾け、ゆっくりと紅茶を注ぐ。
「ミーティアさまも少しは見直してくれればいいのだけれど」
「ま――――姫さまの気持ちはともかく、全ては王子の努力次第ってとこだろうな」
 亡夫の時代から親交の厚い俊賢王クラビウスの苦悩を気に掛けていたアローザと、世界を見聞するククールとの会話は盛り上がっていた。
「ところでアローザさん、ゼシカは……」
 やっと気づいたかのようにゼシカの様子を訊ねるククール。
「それがねえ……」
 ため息をつくアローザ。ククールに附託したいような眼差しを受けて、ククールは苦笑する。
「あまり足を突っ込みたくなくなるような状況とか」
「何とかして下さいませんこと?」
「いやー……あまり野暮な事はしない主義なんですが」
「あら。でも少しは気に掛けてくれているんでしょ」
「そりゃあまあ――――あの日以来、あからさまに表情が変われば気にもなりますが」
「なら、お願いね」
 ククールの長い言い逃れも、あのゼシカの母親の前では笑顔とひと言で封じられてしまう。無論、ククールに選択の余地はなかった。

 毒舌やツンとした態度というのは、異性に対する好意のあるなしでずいぶんと違う。
 聊かでも好意というものがあれば、そんな態度も愛らしく思えるものだが、それを感じなければ対するだけで実にきついものだ。
 如何に美男美女であろうとも、姉弟兄妹同士が互いに異性愛を感じないのと同じで、毒突き合いや、外面に向ける姿と本性が違うのを知っていれば、なお質が悪い。
 結構なほど女性遍歴を重ねてきたククールも、ゼシカだけは苦手意識が先行し、旅を重ねて行くうちに彼のゼシカに対する感情は、異性から、まさしく血の繋がった兄妹へと“昇格”していた。
 恋人といえど所詮は他人同士。
 ククールとゼシカの関係は、もはやそれすらを超越した、決して切れる事のない、肉親の情となったのだ。
 まあだからといって『おお、我が妹よ』などと言って対すれば、ゼシカに『バカじゃないの?』などと切り捨てられるだろうから、この感情は胸に仕舞っておこうと決めている。
 ゼシカの部屋の前に立った瞬間、まるで自動ドアのようにその扉が開いた。
 その隙間から哀しみとも恨みとも取れないような微妙な表情の美女。見慣れたツインのテールはなく、ほんのりとウェーヴがかった腰まで伸びた髪もどことなく草臥れた感じだ。「よ、よう。元気そうじゃねえか」
 そう声を掛けるククールに少しの間じっと怪訝な眼差しを向けていたゼシカ。開口一番。
「何よ。今度はお母さん口説きに来たの?」
 一瞬、身動ぐ不覚。まあ、アローザは許容範囲上限。《未亡人》はポイント高し。しかし、この女の母親じゃあ……。などと思っている暇はない。
「何だ、元気なようだな。――――んじゃ、まあそう言う事で」
 踵を返そうとした時、ゼシカの手がむんずとククールの袖を掴んでいた。
「何か話したい事があるんじゃないの?」
「お、察しが良いんじゃねえか」
「何にもなくて、アンタがここに来るわけがないでしょ」
 全く、身も蓋もない事を言う。案の定、ククールはただ乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
 雑然としていそうでこざっぱりとしているゼシカの部屋。女の子の部屋と言うのは何か独特の甘い香りがして、自然とこう雰囲気が良くなってくるものだとククールの持論。
 しかし、ゼシカの部屋は妙に色気がない。こう、華やかな部分が欠けているとでも言うのだろうか。女の子が見られて恥ずかしい小物のひとつでも放置されているなど、全くもってない。だから色眼鏡を掛けなくても、良い雰囲気になぞなれない。
 意味もなくため息をついて、勧められた木製の椅子に腰を落としたククールが前置き無しに口を開く。
「チャゴスが東准侯に降ろされた」
「え――――――――!」
 その瞬間、ゼシカの綺麗な眉が動じた。
「クラビウス王の叡慮だ。……ゼシカ、これがどういう意味か判るな」
「…………」
 ククールの真剣な眼差しに、ゼシカは視線を返し、鋭い表情を見せる。そして
「とう……じゅんこう……って……何?」
 まるで下手な喜劇でも有り得ぬとばかりなボケに、ククールは本気で椅子から転落しそうになった。体勢を立て直したククールが呆れ気味に言う
「オマエなあ……。要するに、チャゴスの奴は今までの素行を咎められて、東准侯……つまりサザンビーク東州域の副知事格に落とされたってことさ」
「ふーん、よく判らない。でもあの王子が、副知事クラスね。“まだ”偉いじゃん」
「お前の兄貴サーヴェルト子侯のひとつ上の官位だ」
「兄さんよりも高いの? へえ…………」
 あからさまに嫌味を込めた感嘆。しかし、ククールは言う。
「そういう事じゃねえんだよ。いいか、ゼシカ。チャゴスは王族だ。しかも、現国王の皇太子の地位にあった男だ。そんな奴が、臣籍降下されて、准侯に落とされるなんて、異例も異例ってもんなんだよ」
「別に良いんじゃない? 地位を傘に着せたあの王子にとっては良い薬でしょ」
 まるでどうでもいい話とばかりにあしらうゼシカ。
「あー……俺も回りくでえ事言っちまうなんてな――――」
「何よ、そんな話をする為にここに来たの? それともやっぱりお母さん目当て?」
「あのな……。要するにだ。チャゴスを臣籍降下させたってことはだな、ミーティア姫さまとのことに、けじめを付けさせたって事になるんだよ」
「え? ……ちょっと、どういうことよ」
 今度はさすがに興味があるようだ。

 ――――あの日の“花嫁強奪”事件以来、杜嘴両国は水面下で軋轢があった。そりゃあ互いのメンツが潰されたんだから当たり前の話だよな。
 しかし、姫さまはチャゴスの“素行品位”を忌み、俊賢王も、チャゴスの不徳があの“”事件”を引き起こしたとしている。
 俊賢王はあの時、エイトと姫さまの婚姻を“承認”したとは言うが、それじゃあ、チャゴスの立場はどうなる。
 ……そこで、トロデのおっさんと、俊賢王で話し合った結果、お姫さまには婚約破棄の黒一点、チャゴスには特に厳しい臣籍降下を下し、互いのメンツを辛うじて守らせたんだ。まあ、ぶっちゃけ、《痛み分け》って奴だ。

「え―――と……つまり……」
「おいおい、まだわかんねーかな。つまり、お姫さまは、周りに気遣う事のない、完璧なるフリーなったってこと。エイトもその気になりゃ、正々堂々とお姫さまを自分のものに出来るって寸法だ」
「………………」
 ククールの言葉をゆっくりと整理したゼシカの表情が再び、硬くなってゆく。
「でも……でもあの二人――――あの時、確かに――――」
 ゼシカの脳裏に鮮明によみがえる、サヴェッラ大聖堂の場面。過ぎるたびに、何か重たいものが積み重なって行くような気がする。
「国と国の祝賀行事ってな、そんな甘ったるくてベタベタした、生易しいものじゃねえってことさ。聞いたかゼシカ? あの後、チャゴスの奴、もー相当なもんだったらしいぜ」
 肩を竦めるククールに、ゼシカは小さく苦笑する。
「目に見えるようだわ」
 しばらくそんな会話を重ねて、ふとククールが言う。
「エイトのことはゼシカ、君がよく解ってるだろ」
「え……?」
「あいつと、お姫さまの事だよ」
「…………」
「あんな綺麗なお姫さま……俺だったら放っておかねえけどなあ」
 そんな言葉にも言葉が出ないゼシカ。
「……あいつはそう言う事には正直、当てになんねえからな。ゼシカ、君はどう思ってるんだい?」
「……どうっ……て?」
「ラプソーン倒したこの世界はさ、まだまだ捨てたもんじゃねえかもってことさ」
「意味わかんない……て言うか、回りくどい」
「後は自分で考えろ、レディー」
 引きつり笑うククール。
「ところでさ、ククール。アンタ、メダルール公女さまと……」
 通称“メダル王女”との関係を突かれたククールは、何故か冷や汗が文字通り滝のように流れながら、辿々しい口調で語り始めたという。まあ、それはまた別の話だが。