忌まわしき荊呪に被われた風光明媚なる宮城も、嘗ての姿を取り戻していた。
賢祖穆成王――――。後の史書にそう名声を記すことになるトロデーン初代国主トロデが、ミーティアの母でもある、オーレリア王妃や六賢臣達と共に建てた文治国。
その英主・トロデ王は外見だけを見れば矮躯の醜男だったが、為人は性謹厳で良く冗談を語り剽軽。柔和で笑顔絶やさず、仁慈に篤い人物として民の信望を集め、女性は苦手だったが、当時絶世の美女と謳われていた貴族の娘、オーレリアが惚れに惚れ込んで妃となった。所謂“押し掛け女房”的な経緯だったとされている。
そのトロデ王とオーレリアの間にはなかなか子供に恵まれなかったが、三十も過ぎた頃に、ようやく一人娘のミーティアを授かった。
結果として、トロデ・オーレリアの鴛鴦夫妻にはミーティアしか子供はいなかったのだが、故に王夫妻の愛情は止事無いものだったと言えよう。
しかし、好事魔多しとは良く言ったものである。
オーレリアはミーティアが物心をつける前に薨殂。
“穆成王、その悼歎行筆に誌し難きなりて”
そう伝えられるほどだったという。
それでも、トロデは国民への慈恵の念を忘れることはなく、賢主の誉れは著しく、サザンビーク俊賢王と比せられた。
玉座にトロデ王は坐さない。オーレリア存命中から、意識をして玉座という場所に坐することを、トロデ王は避けてきた。
『何となく性に合わない。背が低いからのう』 トロデ王はそうはぐらかすが、単純に照れ隠しのようなものだろう。ゆえに、玉座は試し座りをしたときのみで、今もなお新品同然なのだという。
そしてこの時もまた、トロデ王は紅絨緞の脇、廷臣が居並ぶ列席にあり、ようやくやって来たエイトとミーティアを、微笑を浮かべて出迎える。
「おお、やっと来おったな」
「王さま、遅くなり申し訳ございません」
「お父さま、ただいま帰りましたわ」
エイトは拝礼し、ミーティアが服の裾を摘み、親しみの挨拶をする。
「湖で遊んできたのであろう。それは良い。……と、それはともかくとして、エイトよ。そなたに客人じゃ。高貴なる方ぞよ」
トロデ王が対面に掌で指す。エイトがトロデ王の指す方角に視線を移すと、白綸に赤茶の竜紋を象った刺繍の束帯を纏い、黒の短杖を手に掲げた、見た目の年の頃三十前後の女性が、温和な表情でエイトに視線を向けていた。
エイトはすかさずその場に跪いて拱手する。
「禧竜王チェソンさま――――お久し振りです」
エイトの挨拶に、その竜神族の女性もまた、恭慎と拱手する。
「睿竜王さま、ご無沙汰しております……」
挨拶を交わす竜神族の裔。
「あ、瞻竜王さまも……」
と、チェソンはエイトの腰ベルトにあるポケットを覗き込むが、トーポことグルーノは何故か顔を見せない。
「恥ずかしがる間でもないでしょうに……」
エイトがそう言うと、チェソンも一緒に苦笑する。
「然れどトロデ王、このチェソン、一竜族の末尾。高貴とはいささか心外でございます」
「いやいや、他意はない。我らにとって竜神族の方々は、千載不磨の存在たるものじゃて。滅多にお目にかかれるものではないゆえ、崇めさせて頂きたいものじゃ」
トロデ王の持ち上げにいささか戸惑いの色を隠せないチェソン。それでも、エイトの傍らに静かに立つミーティアに視線を移すと、倏然として凜となる。
「ミーティア姫、初めて御意を得ます。私は竜神禧竜王のチェソンと申します――――」
いささか緊張の面持ちのチェソンに対してミーティアは泰然としている。
「国王トロデの娘、ミーティアでございます。禧竜王さま、拝謁の栄誉恭悦でございます」
ミーティアの拝跪に、チェソンはやや気圧され気味に畏まった。
「……時に禧竜王さま、突然のご来朝、竜神族の郷に危急の事態でも……」
エイトが不安そうに眉を曲げてチェソンを見る。その問いにトロデ王やミーティアも耳目を傾ける。
「……睿竜王さま。それにトロデ王、ミーティア姫……。これを申し上げるのは竜族の存亡の危難と思し召しの上にて……」
「何が、あったのですか!」
エイトは前置きはよしとばかりに詰め寄る。
チェソンは困惑の表情を隠しきれずに、熟々と述べた。
「竜神王――――忱(しん)竜王ヴィーヴルさまが、突如御退位の叡慮をお示しになられまして……」
「りゅ……竜神王さまが――――!」
エイトは愕然となった。あの試練で、暗黒神ラプソーンを堙滅せしめしエイトらを悪戦苦闘に追いつめた、あの竜神王・ヴィーヴル忱竜王の身に、一体何があったというのだろうか。
エイトたちが矛を交え鎮めた竜神王は、その名をヴィーヴルと云う。竜神族の尊号は忱竜王。先代の竜神王・懿竜王の入壤(竜族の死)の後継として竜神王の地位に襲封されたのは、久遠の昔。ヴィーヴルは見た目こそ謹直な青年竜神族の王だが、その真価実力はエイトが身に染みて感じている。
「何故です、禧竜王さま。もしや、竜神王さまの身に何かが……!」
すると、チェソンは小さく首を振ってから答える。
「いえ……決して悪しき報せ、と言うわけではないようなのですが、殊に最近竜神王さまは物憂いの様相なので、私たちも気がかりなのでございます」
「それで禧竜王殿、エイトへの差迫った用向きとは何かの」
トロデ王が訊ねる。どのような返事が来るのか、トロデは理解している感じではあった。
「トロデ王。はい……、誠に申し上げ難きことですが、竜神王は誠竜王エルトリオさまと、ウィニアさまの御子であられる睿竜王さまへの譲位を――――」
その瞬間、エイトは驚愕絶句に思わず身動ぐ。ミーティアもまた、思わず瞠目し、口を両手で塞いでしまった。
「……つまり、エイトを竜神郷へ召喚したいと――――こういうことですかな?」
チェソンが拱手する。
「ご明察、恐れ入りますトロデ王」
するとトロデは明らかに困惑の溜息をつき、エイトを振り向く
「どうじゃエイトよ。竜神の眷族として、睿竜王の称を得た者として、どのように思うておる」
「は、はい……」
困惑するエイト。そんな彼にトロデ王・ミーティア・チェソンの眼差しが集まる。
……父・エルトリオのことはよく判らない。南嘴王家の嫡流として、本来は俊賢王ではなく、エルトリオが嗣子となるはずだった。そこまでは聞いている。
母・ウィニアについても、伝承の域を出なかった。
考えてみれば、幼い頃から瞻竜王グルーノ――――こと、トーポと共にトロデーン国にあって、トロデ王・オーレリア王妃の慈愛を受けてきた。
六賢臣の一、グエンナディ卿に師事し、臣道をたたき込まれてきたエイトだったが、トロデ王夫妻からは実子のように可愛がられ、またミーティアが生まれてからも、変わらずに接せられてきた。
ゆえにミーティアからは兄のように慕われ、それでもエイトは臣道から外れることはなかった。
しかし、ラプソーンが斃れ、竜神族の郷に続く途次にそれまで意識を良くしてこなかった実の両親の話や、秘匿されてきた真実を知るにつけ、エイトは本能的に複雑な感情を抱くようになっていったというのも、不思議な話ではなかった。
竜神族はエルトリオとウィニアを認めず、それぞれの故山を虚しく胸裡に秘めて逐われた。両親が非業の最期を遂げたことを知った時、エイトは顔も温もりも知らぬ両親に対する想いを、正直な話実感することの現実性が判らなかった。
それほど、トロデ王とオーレリア王妃の愛情の深さは推し測れるものではなかったからである。
だが、実の父母の存在と、その生涯に無機質でいられるほど、エイトは割り切れるわけではない。
人間と竜神族。由緒ある南嘴(サザンビーク)王国と、竜神族の血を引く存在たるエイト。正直、その話だけを聞き、率直に問われれば、きっと両方とも憎まずとも、好きにはなれないだろう、と答えるはずだ。エイトは、好きにはなれない、とまでは至らない感情だったと言える。
だからこそ、答えに窮するのは至極当然の話ではあった。
いや、そうした個人的な想いを除いても、エイトの立場は非常に微妙なのである。
曰く――――
ミーティア姫の夫、つまりは王婿としてトロデーン国穆成王トロデの後継たり得ること。
曰く――――
本来の南嘴嫡流たる恭孝献王太子エルトリオ誠竜王の嫡子として、また俊賢王クラビウスが後継として、不行跡を咎められ蹉跌したチャゴス王子に代わり、南嘴王国を嗣ぐ王位継承第一位であると言うこと。
曰く――――
禧竜王チェソンの伝奏に在りし如く、竜神族の宿老たる瞻竜王グルーノの娘・ウィニアの子であり、エルトリオの遺腹の子として、竜神王の闕位を紹継する資格を十分に有していると云うことである。
斯く三至上の高位を受け継ぐ資格を有するエイトだったが、そのような立場であったという自覚は、それまで全くと言っていいほど無かった。
チェソンの伝えた言葉というのは、ラプソーン討滅後の平和を謳歌する日々を過ごすエイトの心を再び、あの世界を廻る旅に立つ心境に近いものへと導くに十分だったのかも知れない。
喉奥に粘質の唾が絡むような重々しい口調で、エイトは口を開いた。
「竜神王さまのご真意が分からなければ、軽々しい返事は出来ません――――」
その言葉に、チェソンは小さく頷く。
「仰せご尤もです。……しかしなが――――」
言いかけたところに、エイトが言葉を挟む。
「ただ、このエイト。天啓を得たものとは言え、睿竜王の尊号を戴し身。恩ある竜神王さまの胸中、無下に出来ません」
「おぉ、ならば――――!」
期待に身を乗り出すチェソン。尖った耳を欹てる。
「禧竜王さま、しかしながら、それはあまりにも唐突厖大な話です。少しばかり、考えるお時間をこのエイトに与え給うことを――――」
チェソンが軽く肩を落とす。
「言うまでもありません。事は大事――――。トロデ王は、いかがでしょう」
トロデ王はじっと瞳を閉じ、ちょこんと腕を組みながら、静かに答える。
「これは、エイト自身の問題じゃ。国家の体裁よりも、まずはエイトがいかにしたいのか、じっくりと考えてみる時が要よう」
そう言って、トロデ王はエイトではなく愛娘であるミーティアの方を見た。
「どうかな、姫よ」
そう訊ねられたミーティアが、しゃなりしゃなりとした様相を保ちながら、真っ直ぐエイトの方を見つめて言う。
「ミーティアはあ…………ミーティアは――――エイトの意志の通りに――――」
冷静を装いながら、あからさまに吃る。それがどういうことなのかは自明の理であった。
「禧竜王殿、委細は明日のこととして、いかがかな、下界に竜神族の貴人が来臨されたことは正に嘉幸の極みじゃ。今宵は細やかなれども祝宴を張りたいと思う。ご相伴いただけますかの」
トロデ王が咄嗟の機転を利かせてエイトとミーティアの間に発しかけた空気を断った。
夜半――――。
トロデーン城の鸞台と称される程、風光明媚な王城の展望。時計塔を兼ねる高楼に、エイトはそよぐ海風を受けていた。南に城下の夜色、北は茫洋たる海原に満天の星を映す。
洗朱のバンダナの裾が風に棚引く。その清澄な鳶色の瞳は、瞬く北辰を捉えてやまず、唇は泰然と一文字に結ばれ、静黙たるものだ。
禧竜王チェソンを迎えた晩餐は、トロデ王の言葉通りに簡素ながらも有意な款談の場となった。トロデ王は持ち前のユーモアを遺憾なく発揮して自ら場を盛り上げ、チェソンを大いに楽しませた。さりながら、その場に竜神王の意向を匂わせるような所作座興を入れなかったのはさすが賢君である。
酩酔仕掛けながらも、エイトとミーティアの感情を読み、重い本質へのリンクを、宴の場から切り離した。だから、エイトもミーティアも、宴席では屈託のない笑いを湛えることが出来ていたのである。
「ははっ……王さま――――くくっ」
エイトがまた宴席でのトロデ王が戯けた言動に思い出し笑いをする。
その時だった。
コッ……コッ……
エイトがまさにいる高楼頂上へ続く螺旋石段を踏み上がる靴音。やがて、その靴音が風音にかき消される。
「…………」
北辰を見つめ続けているエイトの視界が、柔らかく滑らかな温かさと共にすうっとフェイドアウトした。
「エイト――――」
優しい暗闇の中で、鈴の音のような声。
「姫――――」
エイトはそっと、自らの瞼を塞ぐ華奢な掌に、指を重ねる。再び、エイトの視界に星空がフェイドインした。
若干、ミーティアの掌が震え、また気温は高くないのに、少し汗ばんでいるように感じた。
「エイト……」
ミーティアが然りげにエイトの手を両手で握る。エイトもまた、ミーティアに指を絡めてしっかりと握る。
「姫……私はこの国が好きです。私を迎えてくれた王さまや王妃さま。その鴻恩を隠してでも、それ以上にこのトロデーン国そのものが、このエイトの故国だと、思っております……」
エイトが何かを抑えるかのように、呟く。ミーティアは、返事をする代わりに、優しく握る手に力を込めた。
「竜神王さま――――トーポ……いや、グルーノ老……竜神郷は私の母の里。そして、父が目指し、仆れた地。愛おしくもあり、でも……心のどこかで、複雑な思いもあって――――」
エイトが見上げる北辰が、一段と瞬きを激しくする。
「そして、父はサザンビークの嫡嗣を棄てました。父の行動でサザンビークの臣民達の嗟歎はどれほどのものだっただろうと思うと、クラビウス王に対し、顔向けも出来ません――――」
「…………」
「しかし……あの竜神王さまが――――。あまりにも突飛なご意志で……」
そう言った後も、エイトは口籠もるような様子で何かを呟いている。
ミーティアはしばらくエイトの表情を観察していたが、すっと握りしめていたエイトの手を放すと、その隣にぴたりと寄り添いながら、エイトと同じ、北辰を見上げ言った。
「竜神郷へ、行きたいと――――言うことね……エイト」
ミーティアの言葉が果たしてエイトの本心だったのかどうかは分からない。ただ、ミーティアのその言葉の真意を捉えることが出来ないほどに、エイトは置かれている状況に対し、亡羊の嘆となっていたのかも知れない。
「正直……私自身も、私の気持ちが分からないです――――。姫の傍に居なければならない気持ちと……、王さまや、クラビウス王への報恩の念と共に……」
あの旅路の頃に見せていた屈託無き笑顔が、憂悶の色に満ちていることを、ミーティアは感じていた。
馬の姿だったが、エイトと共に過ごしてきた、あの日々。幼い頃からエイトの考えていること、お腹が空いた事、今日は何が食べたいと思っているのかまで知っていること。
弾指の為種までと言えば極端かも知れない。しかし、ミーティアはエイトの僅かな表情の変化を見逃すことはなかった。
「エイトは――――再び、“旅”に出たいと、思っているのね……」
それは、おそらくミーティアでなければ出てこない言葉だったのではないだろうか。そして、エイトを深く識り、また想うミーティアだからこそ突ける、核心。
エイトは、驚きにまた放心したような表情で、ミーティアを見る。心なくもその言葉に対して、肯定も否定も出来なかった。
「エイト。ミーティアはどんなことがあっても、エイトへの気持ちは変わりません」
「姫――――」
「でも、ひとつだけミーティアの願い、聞いてくれますか……?」
ミーティアは一歩、エイトと距離を置くと、風に少し乱れた長い髪をひとつ掻き上げてから、言った。
「トロデーンを旅立つというのならば、ミーティアも、お伴します」
「え……?」
愕然となるエイト。
「ふふっ、嫌だとは言わせませんわ、エイト。ミーティアも、人に戻って更に見聞を開きたいと思っていたの。丁度良い機会ですわ」
まるで好機到来に不敵に笑うかのような、ミーティアの笑み。
多分、それはラプソーンを討伐せし流浪の旅路とは一転した、身を分かちたきと思う程に切なくなる悲壮にも近い重き足取り。
世界は暗黒神の堙滅によって秩序を取り戻した。その世界巡行の旅に見るのは、おそらくミーティアが想像しているような幸福に満ちた人々の姿ばかりではないような予感がするのである。
それでも、ミーティアはエイトの気持ちを先読みし、衷心からワクワクとしていた。確かに、呪詛で馬に変えられ、馬車を曳いていた頃。夢裡の邂逅の刻であった流浪の旅路とは違って、今は元の人間のまま、エイトとは手綱ではなく、手を繋ぎ歩くことが出来る期待だった。
「結論が先ではなく、もう一度世界を見聞してみてから、エイトが良いと思った答えを出せば良いと思うわ」
「姫――――」
ミーティアは微笑み、頷く。
「私も、お父様も……エイトが出した答えならば、きっと異存は無いと思うわ。だから……取りあえず、旅立ちでしょ!」
話をしているうちに、宮城暮らしから脱却したいと思っているのはミーティアの方ではないか、という思いが強くなった。
半ば気圧されるような形で背中を押され、エイトはひとつの決断をすることになった。
「そうですね。……一度、竜神郷へ――――姫も、共に……」
エイトの言葉に、ミーティアは無言で微笑んだ。
そして、それから暫く、エイトとミーティアは時計塔に佇み、満天の銀河と、城下の灯りを見つめていた。
「トロデーンは、本当に、美しい国ですね……姫」
何故かしみじみとそんなことを呟くエイトに、ミーティアは小さな声で答えた。
「ありがとう、エイト。ミーティアも、本当にそう思うわ」