Act.0 / OVERTURE

「エイト」
 使いつけの山吹色のロングスプリングコートを肩に掛け、トレードマークとも言える朱のバンダナを頭に結びながら、一人ロビーへ続く階段へ向かい廊下を早足で進む青年を、すれ違い際にゼシカが呼び止めた。
 エイトは立ち止まり、肩に掛けたコートに腕を通す。そして、いそいそとバンダナの調子を確かめてから、いつものように媚びない微笑みを湛えながらゼシカに振り返る。
「乗り込むの、明日なのよ。これから、どこに行くつもり?」
 廊下には微かに階下の劇場を兼ねた酒場の喧噪が煩わしくなく聞こえてくる。エイトは、少しだけ無断外出を責めるような彼女の眼差しに、少しだけ狼狽える気持ちを必死に隠す。
「明日、決戦だから――――その……」
 戸惑うように瞳を泳がすエイトの表情に、ゼシカの胸の奥底が、何故かちくりとした。
「泉に、行くのね」
「あはは、わかっちゃうか、やっぱり」
 苦笑するエイト。
「もう。すぐに笑って誤魔化す」
 ほんのりと紅い小さな唇を尖らせて、ゼシカがぶすぶすと言う。
「ごめん、ゼシカ。一時間……いや、多分二時間くらいで戻ってくると思うから……。明日なのに……ごめん……」
 エイト、ゼシカ、ヤンガス、ククール、そして、エイトの主君トロデ王と、呪いによって駿馬の姿になってしまった、美姫ミーティア。
 それぞれの“思い”が交錯する宿敵との決戦を前夜に、ようやく馴染み始めた習慣を果たすことだけなのに、エイトは何故か謝った。
「…………」
 頭を下げるエイトを、ゼシカは半ば呆れたようにため息をつき、見つめていた。
 西サザンビークの奥深い渓谷にある、不思議な泉。その清澗たる甘い泉(みず)には、絶望と破滅に蝕む邪悪な呪(かしり)を刹那に打ち消す破邪の気があるという。
 ミーティアがこの苛酷な旅の途、ただひとつ自分を取り戻し、安らげる場所だった。父や仲間たち、そして、何よりも幼なじみで兄妹のように育ってきた、エイトと語らえる、ただ一つの場所。
 さながら、呪の劫火に破邪の符が燃え尽きるまでの僅かな時間だったが、故国トロデーンの“時”が止まって以来、初めて“人”として再会出来たエイトとミーティアの喜びは、ゼシカやヤンガス、ククール、そして何よりもトロデ王の想像をはるかに凌ぐものがあったのだろう。
 そう。それは“幼なじみ”として。或いは、“君臣の絆”としての喜び……。ゼシカも、初めは、ヤンガスやククールたちと共に、素直に喜べたのだ。
「ねえ、エイト」
 不意にゼシカが口を開いた。少し気が強く勝ち気、それでも一途で素直な彼女を、そのまま写すような澄んだ瞳を伏し目がちにし、忙しなく瞬きをしながら、前に合わせた両手の指を意味もなく絡ませている。
「?」
 呼び止めたはいいが、言葉が続かないゼシカの表情を、エイトは首を傾げながら見る。別に急ぐ訳じゃない。ゼシカの言葉を待つ余裕はあった。
「……今日は、もう遅いよ。後にしたら?」
 一〇秒足らずも一時間に感じたゼシカの脳裏に、語れぬ程に渦巻く思考。散乱する“想い”の絵から取り出した一枚、そのテーマの言葉がそうだった。
「う――――――――ん……。そんなに遅いかな」
 廊下に響いてくる喧噪は、この街独特のアトモスフィアなのかも知れない。でも、それを除いても、ゼシカが言う程、遅い時間とは思えなかった。湯に汗を流し、戦勝祈念と、ヤンガスが指したギャリング総帥監修の名物夕食に与り、その余韻も残っている。
「……わかった。それじゃ、一時間――――んんと、三〇分で戻ってくるから」
 そう言う意味じゃないと、ゼシカは一瞬思ったが言葉にはしなかった。
 エイトは基本的には温和で、トロデ王を良く支えている『忠臣』であったが、その一方で、ゼシカにも劣らぬ頑固な面もあった。こう言う時、ゼシカやククール、そしてトロデ王が駄目と言っても、「それじゃ、三〇分……二〇分……一〇分……」などと、結局押し問答の繰り返しになるのは確実だったからだ。
「あのねぇ、エイト……」
「あははは……」
 ゼシカは困ったように苦笑するエイトの瞳を見た。
 意志が強く、多くの魔物を斬ってきたにもかかわらず、決して穢れない澄んだ色。母からは〔はしたない〕と貶され、同じ仲間のククールはともかく、立ち寄る街々の男性の好色な視線、女性の羨望と嫉妬が絡まる眼差しに晒される胸襟の大きく開いた衣服。ゼシカ自身、抜群のスタイルをひけらかす自らの姿を意識してきたのは、エイトたちと出会ってからだった。
 しかし、ククールや他の男たちとは違って、エイトはゼシカを向く時、真っ先にトレードマークである抜群の豊胸には目をくれなかった。
 必ず、自分の瞳を真っ直ぐに向き話してくれる。そして終始、好き者のように身体を見廻すようなことはしなかった。
(こいつは……他の男とは違う……そう、まるで――――)
 それまで恋愛の頭文字は愚か、男性と言えばサーベルト以外は形無しとばかりのゼシカだったが、ポルトリンクを経ち三日くらいから、ゼシカはエイトをそう思うようになっていた。愛しい兄・サーベルトの姿が過ぎってから、ゼシカはエイトのことが気になり始めていたのかも知れない。
「わかったわ。それじゃあ、私も……、一緒に行くわ、良いよね」
 ゼシカの言葉に、エイトは目を瞠り驚く。
「私も……って、ゼシカ、お風呂から上がったばかりじゃないの?」
 エイトの突っ込み。
 普段は二本のテールに結ばれている、腰まで長い緋色の髪が、うっすらと湿り、芳香を漂わせている。
 今は閉じられているカジノや、地下劇場へ湯上がりそのまま楽しむことが出来るだろうカジュアルチックな浴衣。
 そして、白く細い手にはしっかりと原産の『美味しいミルク』の小瓶が握られていた。フロントから買ったばかり、良く冷えていて、瓶はうっすらと汗をかいている。
「あ、そ、そうだけど! ほら、やっぱりエイト一人だけだと何かと危ないじゃない? いくらすぐだって途中何かがあるかわからないし、呪文の使える私がいた方が……」
 大慌てだった。しかし何故か流暢に言葉が連なる。
「…………」
 きょとんとしながら、エイトはゼシカを見つめる。真っ直ぐ、その瞳を捉えていた。
 ゼシカは上気した顔が更に赤くなるのを隠すようにくるりと踵を返し、エイトに背中を向けると、小瓶の紙蓋をひっぺがえし、良く冷えたミルクをごくごくと喉に注ぎ込んだ。
「うっ……こほっ、こほっ、けほっ……」
 当然、噎せた。
「くすっ」
 エイトは柔らかく微笑むと、ゆっくりと手を伸ばし、前屈みになっているゼシカの背中をそっとさすった。
「!」
 エイトの掌の感触、その瞬間ゼシカはびくつき、身を離し思わず声を上げる。
「と、とにかく―――っく!?」
 ゼシカの吃逆。無理の代償は、滅多に見られない、美少女の愛らしい失態。とんとんと、拳で軽く胸元を叩く。
「わかったよ。じゃ、待ってるから。その代わり、風邪引かないように気をつけてよ」
 エイトはそう言いながら、背中を向けるゼシカの側らから手を前に差し出した。
「! な、何……っくっ」
 今、振り向けない。一瞬だけの昂奮が六感を過敏に反応させる。
「ついでだから」
「……あ、……ありがと――――っくっ」
 ゼシカはそっと、空になった小瓶を掌に当てた。

 夜の泉はいつになく幻想的で、月の光を受けて森の緑と、泉の蒼のコントラストが、文字通りこの刹那の奇蹟を生む神界の夜を思わせてくれる。
 エイトとミーティア。こんなに近くにいても呪の壁に遠く隔てられたふたり。今その壁を打ち壊す戦いを控えて、それでも、ふたりはありのままに冗談を言い合ったり、頬を膨らませたりしていた。こんな時でも、とても自然のように見えた。そして、奇蹟の最後に、ミーティアは自然に、エイトを励ました。『頑張って、エイト』
 元々、ゼシカが懸念する事態などあり得なかった。
「…………」
 そして、自分がいなくても、エイトとミーティアは、今のようなやり取りをしていたのだろう。
「どうしたの、ゼシカ?」
 駿馬の姿に戻ったミーティアの身体をいつものようにさすりながら、急に無口になったゼシカをエイトは気に掛ける。
「あの…………」
「うん」
「………………」
 逡巡するゼシカ。しかし、エイトは決して急かさない。じっと、彼女の言葉を待つ。
「エイトはもし…………」
「うん」
「…………」
 言葉が止まる。ゼシカは頻繁に、ミーティアに視線が移る。今は伯楽のみならず、行き交う人皆からその気品を称賛され、古代船を海に還す奇蹟に、神人イシュマウリにその聲を求められた程の麗質の駿馬。その姿になり、それでも美姫は、父トロデ王、エイトやゼシカたちと共に歩み、その声を聞き、共に語り合っていた。
「あははっ、ごめん。何でもないわ」
 笑い飛ばす。
「ゼシカ?」
「もう、さあ。馬姫さまもお腹がいっぱい。夜も更けてきたから、もう戻ろう、ね?」
「あ、ああ……うん、そうだね――――」
 ゼシカに促されるままに、エイトはルーラの詠唱準備に掛かった。言葉に表せない呪を呟き、宿に戻るまでの間、二人は当然ながら、無言だった。
「あの……ゼシカ?」
 エイトはミーティアを門前脇に繋ぎ、宿の前で何げにエイトを待っていたゼシカに声を掛ける。
「な、何? エイト」
 まるで何かを見透かされたかのような感覚に、ドキリとするゼシカ。動揺を隠し、微笑みを繕いながら振り返る。すると、エイトの穏やかで深い色の瞳が、案ずるかのように真っ直ぐにゼシカの瞳を捉えていた。エイトの視線を直撃したゼシカの心臓がどくんと高く唸った。
「何か、悩み事でもあるの?」
「え、な、悩み事って?」
「気のせいだったら、ごめん。……何となく、いつもの君らしくないかなあと思ったから……。もしかすると、明日の……」
「……もう。そ、そんなことないわよッ。勘繰らないで、エイト」
 いつものように、突っぱねるゼシカ。エイトは恥ずかしそうに頬を人差し指で掻くと、はにかむ。
「そう。だったら、良いんだけど――――」
 そして、二人言葉少なげに宿に戻る。エイトは着替えを手に、一番最後の湯を浴びにゆく。浴室のドアノブに手を掛けたエイトが、一度振り返り、ソファに肩を凭れているゼシカに声を掛けた。
「ねえ、ゼシカ」
「ん? なに、エイト」
「力になれるか、わからないけど……。辛いことがあったら、最低愚痴くらいは、聞いてあげられるからさ」
「…………」
 思わず、ゼシカがエイトの方を向くと、エイトは小さく微笑み、浴室へ入っていった。
 しばらく、ゼシカは茫然としていた。多分きっと、エイトもゼシカ自身も、その言葉、互いのその想いの意味が深いことに気がついているとは思えなかった。
「そんな優しいこと……言わなくていいのに…………。人の気も、知らないで…………ばか……」
 得も言われぬ、小さな苛立ちがゼシカの心にわき起こってくるのを感じる。

 もはや慣れたヤンガスの大鼾。よくよく寝ずば戦は出来ぬと持論を展開し、食事後に早々と爆睡モードに入ったククール。エイトも疲れたのか、風呂上がりにすぐベットに入って間もなく寝付いた。
「…………」
 隣の寝台にエイトの寝顔がある。なかなか寝付けず、ゼシカはふと瞳を横に向けた。それはいつものエイトの、いつもの見慣れた寝顔。
「ふぅ……」
 意味もないため息。体を変えても、瞳を閉じても、睡魔は今日に限って襲ってきてくれない。決戦が近づく緊張感からか。或いは、もっと別の感情なのだろうか。

(私…………最低なこと…………思ってた…………)

 いつ襲来したかわからない睡魔に呑み込まれる直前の意識の中で、ゼシカはそう心の中で呵責していた。

『朕(われ)が憎いか』
(憎い……憎いわ。私の大切な兄さんを殺した男――――殺してやる、兄さんを殺したように、お前をこの手で殺してやる……)
『それだけではあるまい、ゼシカ・アルバートよ』
(なに――――どういうこと)
『憎しみもよい――――しかし、“嫉み”もまた、朕の大いなる力となる……』
(嫉み……嫉妬? バカ言わないで。私が誰に嫉妬しているって言うの)
『ふっふっふっふ……』
 真っ暗だった世界が急に開け、無機質な白の世界に変わる。戸惑うゼシカが恐々と歩を踏み出すと、白の光芒の彼方から、うっすらと人の姿が見えてきた。
(あ……エイト――――!)
 糸の切れた風船のように、寄り道好きが玉に瑕の、どこか頼りなげな青年。ゼシカが小走りに、エイトの元に駆け出す。
 エイトは穏やかで優しい微笑みをゼシカに向けていた。両腕を広げて、唇を動かす。

《ずっと、待っていたよ……おいで――――》

(や、やだエイト……こ、こんな時に――――)
 しかし、その直後――――。ゼシカの側らを、一条の白き光芒が駆け抜けていった。白の世界より、より眩しい、痛くなる程の眩しい光芒。
(…………!)
 ゼシカは愕然となった。
 それは馬姫。白馬のミーティア。まるでスローモーションのように、懸命に駆けるゼシカの側らを、悠然と追い越してゆくのだ。
 そして、馬姫の身体から黄金の光粒が舞い上がる。それは激しく痛み、ゼシカの肌に突き刺さる鋭い金粉のように、絶え間なく馬姫は放った。
 そして、駿馬は次の瞬間、見目麗しき美姫の姿に還っていた。
(――――――――!)
 ゼシカは息が出来ないくらい、胸が締めつけられるようだった。叫びたいのに、声が出ない。喉がからからで、唾液すら呑み込むのが辛い。
 そして、ゼシカを受けとめるはずの青年の腕は、しっかりと美姫の背中に廻されていた。
(や…………やだ…………)
 それは穏やかだが、至福の表情だった。エイトとミーティアは、優しくも蔑みの色を滲ませた瞳で、微笑みも冷たく、どんなに駆けても決してその距離が縮まらないゼシカを見ていた。
(エイト……エイトッ!)
 必至に呼びかけるゼシカ。これは幻。呪の鎖は断ち切れてはいない。
 しかし、言葉は続かなかった。いや、ゼシカの叫びはエイトには届かない。
《君の敵討ちは終わったんだ……。もう、僕たちの旅につきあわなくても良いんだよ》
《ありがとう、ゼシカさん……これでようやく、ミーティアはエイトと幸せになれます。それもみな、あなたのおかげね――――さようなら》
(うそ……こんなの……うそ!)
〈ゼシカ……〉
(え……に、兄さんっ!? そ、そんな……)
〈ゼシカ、よく頑張った。お前のおかげで、私はやっと、お前のもとに還ることが出来る〉
(還る……? うそ。兄さんは……兄さんは殺されたの)
〈――――“神”はどの様な奇蹟をも起こして下さる。お前が強く“願え”ば、私はいつでも、お前の傍に還ることが出来る〉
(…………ほんと? ほんとうに、兄さんは――――)
〈ああ。可愛いゼシカのためなら、私はどこからでも、還ってくるさ〉
(――――兄さん――――)
〈そのためには…………お前の心を踏みにじった奴ら……お前の心を傷つけた奴らを、滅せばいい〉
(…………!?)
〈ほら……見てご覧ゼシカ。奴らは、お前の目の前で……〉
(…………!)
 ゼシカは兄の指す方を見た。瞬間、愕然となった。すぐに、瞳を逸らし、頭を抱え唇を噛む。それは、ゼシカにとって耐え難い光景。
〈私を奪われ……その上また、お前の大切な人間を奪われる……お前はそれで良いのか〉
(……めて……)
〈奪い返せ、ゼシカ。憎しみと、嫉みの力を破壊の魔力に変えて、お前の大切な人間を奪ってゆく奴らを、この世界から塵ひとつ残すな――――〉
(やめて……兄さん…………私…………)
〈どうした、ゼシカ。そうしなければ、私はお前のもとに還れなくなる……。全てを無に帰さなければ……私は…………〉
〈私…………私は――――〉
(何を惑うゼシカ。お前はもう私のことが……嫌いになったのか)
(違うっ……違うの――――)
〈ならば……ならば滅せよゼシカ。そうすれば私とお前……二人きりで幸せになれるのだぞ……〉
(やめて……やめて……)
〈ゼシカ――――――――!〉
 兄の瞳に、きらりと光る物が浮かんだ瞬間――――。

 やめて――――――――!!

 疳高く、烈しい叫喚が白の空間を切り裂いた。偽りの色が粉々に砕け散り、一瞬にして、無限の奈落の色に堕ちる。冷たく、どこまでも暗く孤独な世界。
 泣きたかった。しかし、泣いても決して響かない。叫んでも、喉を切り裂き、血しぶきを上げても、虚しい暗黒。
(いや……こんな…………こんなのいや……)
 藻掻いても、藻掻いても身体が動かない。いっそう、ひと思いに命を絶って欲しかった。そんな願いすらも、決して叶わぬ、絶望の果て。

 ……お願い…………助けて………
 私は…………私はまだ居たい――――!
 私はまだ、エイトと一緒に居たいの!
 兄さん……ごめん…………。
 私――――私……兄さんのこと、絶対に忘れないから――――だから……だからこれからは、彼のこと……エイトのこと、許してくれるよね……

 ばいばい、兄さん――――

 その時、ゼシカの身が一瞬、軽くなった。
 ゼシカはそれを見逃さなかった。

 ……助けて…………助けて――――

 ――――エイト――――――――!

 渾身の想いを込めて、ゼシカは暗黒に叫んだ。
 その直後――――。

 ゼシカ――――――――ッッッ!

 その叫びは確実に、紛れもない親しみの肉声。同時に、偽らざる暖かな眩しい青白い晄が、少女を捕らえていた暗黒地獄を突き破る。
 そして、一瞬取り戻した本物の色の世界。すぐに失われていった意識の狭間で、ゼシカは自分を見上げている無数の人だかりの中に、朱のバンダナと山吹色のコートの姿を真っ先に見つけていた。

「ん……んん……」
 カーテンの隙間から差し込む旭が瞼を貫き、ゼシカは形の良い睫をゆっくりと上げる。
 朦朧とした意識の中で、目に入ったのは、質素な石造りの天井だった。
「…………?」
 次第に焦点が定まってゆく。掌に伝わる温かさに、僅かに痛む、細い首筋を傾けると、ゼシカは反射的に身を竦めようとした。しかし
「あいたっ!」
 激痛に素頓狂な声を上げてしまうゼシカ。全身、中度の打撲。身を動かすたびに、鈍い痛みが電気のように駆け抜けてゆく。
「んん……」
 その声に反応し、ゼシカの掌を握りしめながらベッドの縁に頭を落として寝入っていたエイトが寝惚け眼で顔を上げる。
「ん……あ。ああ、ゼシカ――――目が覚めたんだ……おはよう」
 それでも優しい微笑みは忘れない。
「お……おはよう……エ……エイト?」
 一つ一つの言葉を確かめるかのように、ゼシカはエイトの名を呼ぶ。
「五日間、眠りつづけていたんだね。もう、死んじゃったかと思ったよ、ははは」
 エイトが軽く笑うと、ゼシカは少しうち沈んだ様子で睫を伏せる。
「ごめん……あの後……私――――」
 ゼシカの言葉を、エイトはそっと掌を、その愛らしい唇の上に翳して止める。
「細かい話は後でいいさ。……それよりも、君が目覚めたら、真っ先に言いたかった言葉があるんだ」
 エイトの言葉に、ゼシカはきょとんとしてエイトを見つめる。
 エイトは、気遣うように握っていたゼシカの掌に、もう片方の掌を合わせ、包み込むようにそっと握りしめると、言った。

(お帰り――――ゼシカ――――)

「あ…………」
 その瞬間、ゼシカの双眸から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出す。
「え、え、え、あの、あの……な、何かまずいこと言ったかな――――そ、その……ご、ごめん……」
 激しく狼狽えるエイト。その様子に、ゼシカは激しく嗚咽しながらも笑ってしまった。
「もう……ばか」
(せっかく格好良かったのに……もう台無し……でも、嬉しい……嬉しいよ……)
「うん……ただいま……エイト。ありがとう……」

「あ――――――――ッッと、ゼシカ起きない方がよし」
「え……どうして――――って、あ…………」
 毛布一枚、それは決してエイトの前では剥がしてはならない。喩え世界を押し流す大洪水が襲っても、それは絶対に死守すべき代物。
 ゼシカの顔色が変わる。
「医者が――――――――」
 事情説明も烏滸がましい。
「エイト――――ヘンなこと……した?」
「そんなはずないだろう」
「…………」
 エイトは身を守った。いつもならば雷霆の一つでも打ち落とすかの如きゼシカの剣幕。たとえ身が不自由でも、その攻撃力は充分だ。
 しかし、ゼシカは何故か、ふうと吐くため息にフルチャージされた気を全て込め、矛を収めてしまった。
「うん……信じる……。エイトは、そんな人じゃ、ないしね」
 ククールだったら絶対信じないけどと付け加えてから、代わりにゼシカは、可愛いらしい微笑みをエイトに向けた。
「え……と、うん……」
 その表情に、エイトは一瞬、胸の高鳴りを感じた。
(……でも……エイトだったら……)
「な、なに?」
「ううん、何でもないわ。それより、少しお腹が空いたな」
 タイミング良く、ゼシカのお腹の虫が、愛らしく鳴く。
「そうだね。五日間も食べてなかったし……何か、繕ってくるよ。お粥は欠かせないよね」
「うん……ごめんねエイト。お願いします」
 首を少しだけ傾けるゼシカにエイトは親指を突き立てた拳を見せて笑顔を返すと、ゼシカの食事を見繕うために部屋を出た。
「ふぅ……まさかエイト、ずっと私の傍に……?」
 五日も昏睡していた。生死の境を彷徨ったことよりも、ゼシカはその事を思っていた。
「優しいよ……エイト……あまり優しくしないで…………じゃないと私……」
 胸が甘く切なく苦しくなる。再び、ゼシカの瞳から、すっと一条の涙が伝った。


2005年3月15日